暴行事件勃発
「はぁ、はっ、はっ、あっ……」
息を必死に整える。路地から路地へ、曲がり角を利用して相手をまく。
「はぁっはっ……にゃ!?」
足がもつれて、ずっこける。後ろの方で、ばたばたと足音が聞こえてくる。
「うぅ……にゃあ!」
起き上がっている時間はない。四足歩行で全力ダッシュする。大丈夫。アタシはケモノ。全開で走れば、追いつかれない。ケモノの全開で走れば……。
塀を駆け上がり、角を何度も曲がり、息の切れるのも構わずに走り続ける。
夜の世界になびく金髪は光を放ち、その姿は魔界には存在しない精霊のようだった。
大魔王城、訓練場。
結構な朝早くであるが、木と木のせめぎ合う鈍い音が訓練場に響いている。
「踏み込み甘い! そんなんじゃ、一振りの威力が足りないよ!」
そう言って、僕をはじき飛ばすのはオーガの女性。名をキスカと言う。
肌の色は赤。オーガの女性の中でもかなり小さい体躯を持つが、しなやかなでいて強靱な筋肉とそれに伴ったパワーは、オーガと呼ぶにふさわしいものだ。
オーガの女性は、男性に比べて体が小さい物が多い。だが、それでも他の種族の男の魔物くらいの身長は持っているはずなのだ。なのだが、キスカさんはやけに小さい。僕と同じくらいの身長ではあるが、僕だって背は高くない。
キスカさんもそれを気にしているらしいが、彼女にとっては体を鍛える原動力にしかならないらしい。それって気にしてるって言うのだろうか?
「動きが甘いよ!」
どっ、と鈍い音がして、僕は軽く吹き飛ばされる。余計なことを考えているうちにやられてしまっていたようだ。
「いってて……」
「訓練中に考え事するとか、言語道断! あんまりウチをなめたら怪我するからね!」
元気いっぱいなその姿はどうしても少女のようにしか見えないのだが、彼女は23000歳。れっきとした大人だ。
「もう怪我してますよ。身にしみました」
木剣を支えにして起き上がる。しかし案の定痛くない。あんなに吹き飛ばされたら普通どこか痛めるものなのだが。
「馬鹿、あの程度で怪我させるわけないだろ。それこそウチをなめてるってもんよ。ほら、体動くんならもう一回いくよ!」
「……流石キスカさんですね」
「当たり前よ! ウチのこと誰だと思ってんの? ほら構えて!」
キスカさんは力の調節や狙いの付け方が上手い。どうすれば大きなダメージを与えられるのか。逆に、どうすればなるべく相手にダメージを与えずに戦えるのかを熟知している。
だからこそ、彼女は最高の訓練相手と言える。武器の扱いが大魔王軍で一番上手いこともあって、この大魔王軍で武器を使う近接戦が得意な物は、誰しもが1度は彼女に訓練を付けてもらって、心を折られるという。
心を折られるのも当然だろう。キスカさんはその魔物が1番得意な武器と同じ物を使って、圧倒して勝てしまうというのだから。
そのうわさを聞き付けた僕は、キスカさんらしき魔物を見つけるとすぐに訓練を申し込んだ。そのうわさが本当なのか、確かめたかったのだ。結果は惨敗。めっためたにされてしまった。キスカさんの評価としては、『筋はいいけど、まだまだウチが認めてやれるレベルじゃないな。出直してきな』だそうだ。
ほとんどの魔物は、そのあと実力の近い魔物との訓練を優先してしまって、キスカさんとの訓練を続ける魔物は数匹もいないらしい。その数匹もいつかは完全に心が折れて、キスカさんから離れてしまうそうだ。
だが、僕は彼女に訓練を付けてもらうことにした。この魔物に訓練を付けてもらえば、間違いなく強くなれるという確証があったから。
大魔王城を出て、単身人界に突っ込み復讐を成すために。僕は、なるべく早く強くならなければいけないのだ。
訓練が再開し、また鈍い木の音が響き合う。
誰にも水を差されなければ、こうやってこのまま何時間も訓練が続く。ぶっちゃけお昼を忘れるくらいは没頭する。のだが……
「やあやあ、やっているかい青年、そしてキスカたん!」
ここに吸血鬼が現れた。僕とキスカさんの訓練を邪魔する1番の邪魔物であり、1番面倒くさい障害物だ。やめてほしい。
「な!?ま、また来たのカミラ! というか、たんって付けるのやめろ! 気色悪い!」
「そう言うなよキスカたん! 私は、今朝の癒やしを求めて君を探していただけなんだ!」
そう言って、カミラさんはなりふり構わずキスカさんに抱きつきにいく。その素早い動きは、まるでゴキブリのよう。……本当にゴキブリのようだからどん引きだ。
「やめろ!離せ!離し……ひぃやぁぁ!?ちょ、どこ触ってんだこのセクハラヴァンパイア!」
「君の弱点は熟知している。さあ、君を快楽の世界へ誘おう……」
「や、やめろ!やめてくれ!いやぁぁぁぁぁぁぁ!」
説明無しで会話だけ聞いていると完全に18禁の世界だが、説明してしまうとそうでもない。単に、脇腹をくすぐっているだけである。
カミラさんの登場により笑いと恥じらいの声が木霊するここは、訓練場ではなく閉ざされた百合空間になってしまった。
ひい、ときゃあ、とうひひ、で構成される世界。……どっちがどの言葉を発しているかはご想像にお任せする。
「ていうか! そこの人型! 助けろ、ウチを助けろよ! たす、ひゃあ! 無理! そこ駄目! あっはははははは!」
「ああ、やはりうら若き乙女の柔肌は良いな青年! そう思わないか? 君も、そう思わないか!?」
「話を振らないでください。あと帰っていいですか?」
クールビューティーがまだ若い女子の服の中に手を入れて脇を執拗にくすぐって、イメージをぶち壊している光景など、僕はもう見たくなかった。
「っで! 何の用らよカミラ! ましゃか、何のりゆーも無しにウチと人型の訓練を邪魔しに来たわけじゃないんらろ!」
くすぐりから解放されたばかりで、呂律の回っていないキスカさんである。
「あー、えーと、うん。ヨージハ、アル!」
無さそう。ただキスカさんに会いに来ただけっぽい。あからさまに目が泳いでいるし、すごい棒読みだ。
「えー、あー……あれだ! 昨日の夜、ギーグの魔王街で暴行事件が起こったらしいのだ」
ギーグ。魔界の中枢都市。
南側の門からのみ入ることが出来る街。中心には魔王城があり、魔王城を北側に抜け、拒絶の森を突破すれば……魔界最後の砦。大魔王城がそびえ立つ。
そして、魔王街とは。魔王城を中心として、南側。魔王が直接治める街だ。
「魔王街での暴行や殺害は禁止……でも、魔王軍ならそんな輩、簡単に捕まえられるでしょう?」
「曲がりなりにも魔王街の統制を行っている軍だ。暴行犯くらい止められなきゃ何のためにいるんだって話だが」
僕とキスカさんがそう言うと、カミラさんは難しい顔をした。
「それが……暴行を受けたのは、その魔王軍の兵士でな」
「ちょっと待ってください、嘘でしょう!?彼らが……?」
魔王軍はそこらの魔物では太刀打ちできないほど強いはず。その魔王軍の兵士がやられた……?
「カミラ。そいつ、捕まったの?」
「いや。逃げられたらしい。すばしっこくて、見失ってしまったそうだ」
「あー……なぁにやってんだよぅ魔王軍は……」
キスカさんが呆れたようにつぶやく。
「この件、大魔王軍も協力することになった。捜索隊に選ばれるかも知れないから、そのつもりで」
「なぁんで魔王軍の仕事を手伝わなきゃならないんだか。ウチは選ばれても断るからなー」
キスカさんはそういうと、しっしっとカミラさんを手で払いのけた。
「ああうん。キスカはそうだと思ったよ。一応伝えに来ただけだ。訓練の邪魔してすまない。私はもう行くよ」
それではな。と言って、カミラさんは訓練場を出て行く。と、同時に。そとからどさっと音がした。
「なんだなんだぁ? なぁにやってんだよぅカミラー!」
キスカさんが外に向かって話しかける。すると、外から
「キスカ! 青年! 来てくれ!」
と声が上がる。
「……侵入者だ。」
と。カミラさんは、あり得ないことを口にした。