私の手には蓮の花があった。今は蓮の花の時期では無いので造花だが。それを持ってお目当ての人間を探す。連絡は入れていない。そう言えば、今日は玉狛第二のランク戦だったか。そう思って私はランク戦の会場へと足を向けた。遠征には興味が無く、記録を見ない彼がそこにいるとは思えないが。一応、応援するくらいはしてあげていいかと思った。奥の観覧スペースに入るとそこにはすでに唐沢さんがいた。
「おや、珍しいね。神崎さん。もう怪我は良いのかい?」
「えぇ、もう大丈夫です。」
「おめかしして、何処かにお出かけでもしてたのかい?」
「おめかし、に見えますか?」
「あぁ、何時も可愛いけど。今日は張り切っているように見えるよ。隊服じゃないしね。」
確かに私は今日は私服だ。真っ白なワンピースを着ている。それにジャケットを羽織る。私からしたらいつもの恰好なのだが。いつも、と言うか懐かしい恰好か。最近はずっと制服でいる事が多かったから。
「花。蓮の花かい?」
「えぇ、そうですよ。」
「玉狛第二に?」
「違います。彼らは今回の試合、勝つのは当然です。それだけの実力はあります。あの程度の団体を個人でどうにか出来るだけの実力が。」
唐沢さんは煙草を吸い、そして吐き出した。私は彼から離れた席に座った。
「どうしてそんな遠くに座ってるんだい?」
「煙草の匂いが移るからです。」
「その花、誰にあげるんだい?」
私はちらっと彼の方を見た。そして自分の持っている話し視線を落とした。
「これは、私を好きだって言ってきた人に。」
そう言うと唐沢さんは驚いた顔をした。
「へぇ、それはそれは。そんな勇者がいるとはね。」
「勇者、か。そうね、彼は勇者だわ。」
彼は根付さんを殴る位の勇者である。
「蓮の花には何か意味があるのかい?」
「『離れる愛』。」
「離れる、愛?」
「そう言う花言葉があるの。」
「君がやろうとすることの意味は何時も難しいね。それが、本命では無いんだろう?」
唐沢さんはそう尋ねてきた。私は彼の方を向いた。
「さぁ?それだけかもしれないわよ。」
「それだけじゃないだろう。だって、君はとても楽しそうじゃないか。」
「楽しそう?そう、私は今楽しんでいるのね。」
そう言って私は花に顔を近づけた。匂いがする訳では無い。でも、にやけそうな顔を隠す為にそうした。長らく『仮面』を被りすぎて私は自分を忘れてしまった。私は思いだせるだろうか。思い出して、人になれるだろうか。これは、恐らく不安。そう言う感情。揺れ動く心が嫌いで、弱い私が嫌いで私は『nameless』と言う設定をつくり上げた。師匠のあの言葉を利用して。演じるのは得意だ。だから私は『nameless』を演じる『仮面』を演じた。そうしているうちに私は自分を見失った。それに気付いていても私にはどうすることも出来なかった。それがあの場所で私を守るための術だったからだ。
私は席から立ちあがった。
「おや、もう行くのかい?」
「えぇ、どうせ勝つって分かってる試合だもの。」
「そうか。」
「そうよ。」
外に出て行った。仕方ない作戦室にでも行こうか。私は心臓の上に手を置いた。鼓動が早い。緊張でもしているのだろうか。大きく息を吸ってから吐き出した。作戦室の前で私は立ち止まった。もう一度大きく深呼吸をし、それから暗証番号を入力した。
「あれ、レナだ。」
「光ちゃん。」
「カゲなら今、村上先輩と個人戦しに行ったぞ?」
「みんなどうして私がここに来ると影浦君が目的だと思うのかしら。」
「カゲに連絡入れるか?」
「いえ、大丈夫よ。ランク戦の時期だし、お邪魔しちゃ悪いわ。じゃあね。」
「ほら、やっぱり。カゲが目的だったんじゃないか。」
★
屋上から眺める夕焼けは何処と無く寂しげだった。それに今日は風が強い。ジャケットを羽織っているとはいえ、少し寒い。強い風が吹く。靡く髪を押さえると髪を結っていたリボンが緩んだ。このままでは飛んで行ってしまうだろう。私はリボンを解いた。そしてヒラヒラと風に吹かれるそれを見た。屋上のドアが開く。
「光ちゃんの仕業かしら?」
「さあな。俺に用事あるんだろ?言えよ。」
私は屋上の縁に立った。そして影浦雅人の方を向いた。影浦雅人は眉を顰めた。
「私はね、いつだって演じていたわ。」
「いつだって演じていないと私は生きていなけなかった。だから私は、私を見失ったわ。」
「見失った?」
「そう、貴方の言葉を借りるなら『忘れてしまった』わ。」
「『nameless』と言う設定で『神崎蓮奈』と言う設定の人間を演じる。もう、疲れたわ。」
私はそう言って空を見上げた。
「いつからか、私を忘れてしまったわ。ねぇ、私は誰なの?今貴方と話しているのは、誰?神崎蓮奈?それとも、別な設定?私には、もうそれさえわからない。」
再び彼を見た。
「お前は、お前だろ。」
「私の中には何もない。あるのは設定だけ。空っぽな心で私はどうしたらいいのか、分からない。」
「空っぽ、良い事じゃねぇか。」
そう言った彼の言葉に私は驚いた。
「空っぽが良い事?」
「あぁ、良い事だろ?空っぽって事は何でも入れられるって事だ。お前の好きな物全部、お前の中にいれたらいいじゃねぇか。」
「それは、穢れているわ。」
「それはいけない事か?」
「いけない事かは、分からない。でも、汚い人間にはなりたくない。」
視線を下に下げた。強い風が吹く。
「でも、人になりたい。感情が欲しい。人らしくありたいの。人間らしくない人間なんて、私は人間として認められない。」
「我儘だな。」
「笑いたい時に笑ってみたいの。泣きたい時に泣いてみたいの。すべき時じゃなくて、したい時にしてみたいの。だから、思い出したいの。何が楽しくて、何が悔しくて、何が悲しいのか。私は知りたいの。折角、貴方が好きって言ってくれたの。それを返すのに反射的な物じゃなくて、私の私だけの心を返したい。私のも貴方みたいなサイドエフェクトならよかったのに。」
「俺のこれはそんなにいいものじゃない。」
「そうかしら?」
「そうだよ。」
私は屋上の縁から降りた。そして私は彼の方へ蓮の花を差し出した。
「何だこれ?花?」
「蓮の花。」
「蓮?」
「蓮の時期じゃないから造花だけど。」
影浦雅人は蓮の花を受け取った。
「どういう意味なんだ、これ?」
「蓮の花言葉は『清らかな心』、『神聖』、『雄弁』、『離れる愛』。」
「最後に不吉な言葉を言うなよ。」
「それから、『救って下さい』。」
そう言うと彼は驚いた顔で私を見下ろした。
「私は愛も、恋も、好きも全部知らない。貴方の気持ちに答えられないかもしれない。一生、貴方を待たせるかもしれない。『仮面』に『仮面』を通して湾曲した言葉を届けるしかできない。」
「それでも、お前の言葉だろ?どれだけ頭ん中で変換しても、最後にはお前の口から出たお前の言葉だろう。」
そう言って指を刺された。私は自分の口に手を当てた。最後には私の口から出た言葉。それが一番重要な事なのだろうか。
「いいか、俺は『お前』を好きになったんだ。俺が欲しいのは『仮面』を被った『
「全部なんて、傲慢ね。穢れた人間の考え方だわ。」
「お前も今からそれに染まるんだよ。」
「それは、なんとも恐ろしい事を聞いたわ。」
彼の手が私の頬を撫でる。武骨な男性を想像させるような手だ。その手は大きい。私の手なんかより大きい。どうして男と女はこんなに違うのだろうか。私は彼の手に自分の手を重ねた。外にいるせいだろうか。彼の手は少し冷たかった。
「ねぇ、貴方は私の子供が欲しいの?」
「ああ!?」
「だって、好きってそう言う事でしょう?生物の営み上そう言う事なんでしょう?」
「お前にはこう、ロマンとないのか!?」
「浪漫?生物にそんなのを求めてどうするの?」
そう言うと頬を引っ張られた。
「い、いひゃい。いひゃい。はひすふのお!」
「ムカついた。」
「り、りふしんりゃ!」
引っ張られた頬を私は摩った。顎に手を当てられた。私と彼の身長差は10センチほど。私はされる前に彼の口を塞いだ。
「私は貴方に救いを求めたけど、告白をokしてないからね。」
「お前なぁ…。」
「私は頑張って貴方を刺すわ。だから、教えて。私が今、なにを貴方に思っているのか。貴方にしか頼めない事だから。」
「ちっ、面倒くせ。」
「ダメ?」
そう言うと頭を撫でられた。とても乱暴に。元々風のせいで髪は乱れていたが、更に乱れた。それを手櫛で治す。
手を引かれて強く抱きしめられた。
「ちょっと。」
「暫く、こうさせてろ。」
人が人を抱きしめる事に何の意味があるんだろう。人が誰かにキスをするのに何の意味があるんだろう。どうして目に見えない愛やら友情やらを信じられるんだろう。
彼女には人間らしい感情は失われていた。生きる意志もあまりなかった。苦痛で仕方ない生を引き延ばして何があるのか、彼女にはわからなかった。それでも、やるべき事が出来たから、彼女は生きていた。そのやるべき事が一つ終わって、彼女は最後の一つを終えればその生を終える筈だった。それなのに、彼女は今だに自身の生を終える事が出来ていない。彼女のこれからにとっては感情とは余計なものかもしれない。でも、彼女は人間なりたかった。
namelessは人間になってみたかった。彼女にとって、人間の世界は額縁の絵の中の話だった。いつも絵を見詰めている。現実味のない唯の絵。笑いながら動いているのに彼女の中では額縁の中の世界。だからこそ、彼女は人を殺すことに戸惑いがなかった。絵を引き裂くことに何故戸惑うのか。それでもそんな彼女を額縁に引きずりこもうとする絵が現れた。いつも絵に触れるだけだった彼女の手を掴んで引きずりこもうとする。最初は彼女も抵抗していた。しかし、絵の中の世界は彼女にとってあこがれの様な場所だった。入りたい。入りたいのに、心のどこかでそれを望まない彼女がいた。人間になるのを望まない彼女がいた。人間になってしまえば、終わる事が出来なくなってしまうから。絵と一緒に自分も引き裂かれてしまうのではないかと、不安だったから。
矛盾している。彼女はここに来て矛盾してしまった。自分が分からなくなってしまった。感情を知ると言うこれからの作業が彼女にとって必要な事なのだろうか。
「どうして、どうしてって。私の中で疑問がグルグルするの。でもね、それも結局答えが出なくて消えてしまう。」
「何がわかんねぇんだ?」
「目に見えないものを信じられるところとか。」
「なんだそりゃ?」
「愛とか、友情とか。一方通行かもしれないじゃない。それがこれから生きて行くために必要な繁殖行為に気持ちなんていう目に見えないモノを求めたりするところとか。」
「何だそりゃ。」
「効率的じゃない。」
「んな事に効率求めんなよ。」
そう言って頭を撫でられた。大きな手が心地よい。私は影浦雅人の肩に頭を預け、瞳を閉じた。少し肌寒いが、影浦雅人は温かかった。
「安心してるのか?」
「分からない、でも。温かい。」
「そうか。」
「うん。」
この温かさに浸っていたいとそう思うのは、今までが凍えてしまいそうなほど寒かったからだろうか。それとも、私が穢れてしまったからだろうか。
「何も理解できない事が穢れていないのなら、何かを手に入れると穢れてしまうのね。」
「そうかもな。」
「何かを手入れるという事は、偏るという事。偏った私には、何が見えるのかな。」
「安心しろよ。俺以外見えねぇようにしてやる。」
「本当、恐ろしい事を聞いたわ。」
お疲れ様でした。
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