「神崎先輩、大丈夫でしょうか?」
そう言っている声が遠くで聞こえて来る。私はその声に反応することなく机に項垂れている。
「ちょっとどうしちゃったのよ?」
「別に、何でもないわよ。」
隣でどら焼きを食べていた小南がそう尋ね来た。
事件だ。私の中ではあれは最早事件とかしていた。3日前の影浦事件以降、私はポンコツになり下がっている。
制服に着替えれば裏表が逆だし、朝食を食べれば零すし、支部の中を歩けば壁に体をぶつける。料理を作れば自分の血でまな板を真っ赤に染めた。掃除機をかければフィルターがつまり、洗濯機を回せば泡まみれになった。
その結果、私はこのポンコツが治るまで何もするなと林道支部長に言われてしまった。
「れな、俺のおやつをやるから元気を出せ。」
「ありがとう、陽太郎ちゃん。」
私は陽太郎からおやつを貰い、それを食べた。あ、舌噛んだ。うぅ、血の味がする。
「神崎先輩、何か悩み事ですか?俺でよければ聞きますよ。」
と、烏丸が私にそう言ってきた。私は烏丸の方を見た。烏丸は他人から見ればイケメンらしい。しかし、浮いた話は聞かない。それは私が彼とは違う学校だからだろうか。
「では、烏丸ちゃん。聞いて良いかしら?」
「ちょっと、どうしてとりまるには相談するのよ!」
「烏丸ちゃん、貴方…。」
「ちょっと聞いてるの!?」
そう横で暴れている小南を放って置いて私は烏丸を見詰めた。
「誰かに告白した事ある?」
そう言うと首を傾げられてしまった。
「いえ、ありませんが…。神崎先輩、誰かに告白するんですか?」
「しないわ。されたのよ。『好きだ。』って。」
そう言ってその時の事を思い出してしまった。思い出されるのは珍しく息の上がり、頬が紅潮した彼の顔。それを思い出して私は頭をガンッと机に打ち付けた。
「これは重傷ね。」
「それで神崎先輩はなんて返事したんですか?」
「分からない。」
「はぁ?」
「分からないって言ったの。」
私は机に頭を置いたままそう言った。
「分からないって、好きか嫌いかくらいわかるでしょ?」
「分からないわよ。私の心は伽藍堂だもの。感情なんて物を私は持ち合わせていないから、好きも嫌いも無いわ。」
「がらんどう…?」
「何も無い様な状態って事よ。」
「国語が苦手なのによく知ってますね、その伽藍堂って言葉。」
「唯の雑学よ。雑学。」
烏丸と木崎が何やらこそこそと話しているのが見える。しかし、その話を聞こうと思うほど心は落ち着いていなかった。
「でも、心が無いって事はそんな告白一つで揺れ動かないですよね。」
「心が無いって言うよりは空っぽって言った方が良いかしら。私の人間らしい感情は多分もう無いわ。」
私はポツポツと言った。それを木崎達は難しそうに私を見ていた。
「でも、嬉しいとかあるでしょう?悲しいとか、悔しいとか。」
「あぁあ、お師匠様の言っていた事がこんな所で分かるなんて。」
私がため息をついて突然そんな事を言うので小南は不機嫌な顔をした。
「師匠の言っていた事と言うのは?」
「『名前が無いが故に何者にもなれず、それが故に何者の仮面を被る事の出来る者。』それが『nameless。』」
「ねーむれす…?」
「nameless。名前が無い者。名前とは個人を作り上げる大切な最初の過程。
個人が無ければ、個性はない。
個性が無ければ、そこから生まれる差はない。
差が無ければ、違いが生まれない。
違いが無ければ、それは生物じゃない。
私にはそれが無かった。だから、『神崎蓮奈』と言う仮面を被る事が出来ても、本来の『nameless』が持ち合わせていない物を表現する事は出来ない。」
私は立ちあがった。そして窓まで歩き、窓から外を見た。
「私は唯、知識として知っているだけ。だから、仮面を被った『nameless』は知識を使ってそれを表現するだけ。そうすれば、貴方達は騙されてくれるから。『nameless』は笑いたい時に笑っていた訳じゃない。笑うべき時に笑っていたの。私達にはそう言う事しかできない。知識の中には『恋』や『愛』だってある。でも、私達にはそれを表現できない。」
「何故だ。」
私はそう尋ねてきた木崎の方を見た。木崎は私をギョッとした目で見た。私の頬には涙が流れていた。
「大切だから。」
「大切?」
「『nameless』にはトラウマがあるの。誰にも探してもらえなかった。誰も知らない場所で一人だった彼女には自分を探してくれる人は貴重なの。そして彼女はね、漸く手に入れた。探しに来てくれる人を。でも、『nameless』は知ってるの。『恋』や『愛』は表現して『偽る』と最後、破綻するって。傷つけてしまうって。『nameless』には願い事があるの。願いはあっても、希望はない。それを叶えようと思う、欲しいと思う感情は彼女の中には存在しない。彼女にとって彼は自分が『人間』らしくいられるための道具の一つでしかなかった。『道具』が何か感情を向けて来る事は無い。だから、彼女は安心して道具を使って『人間』らしく振舞っていた。『神崎蓮奈』と言う仮面を被り、『神崎蓮奈』と言う人形を人間に仕立て上げた。でも、『namaeless』には想定外の事が起きたわ。」
「それは、何だ?」
「想像以上に『namaelss』は人間になりたかった。彼女が思っている以上に私は人間で居たかった。『人間』の振りしかできなくても私は『人間』で居たかった。」
「どうして、もう人間で居られないような言い方をするんだ?」
「『人間』の振りは嫌なの。でも、私には感情が無いから、『人間』になれない。彼女の中で『人間』とは感情的な生き物だから。『人間』になるには感情が必要だけど、私達にはそれがない。」
木崎は眉を寄せる。そして私に指をさしてきた。
「お前は何故泣いてるんだ?」
「分からない。予想外の事に『namaelss』が真面に思考できていない。とても不安定で…、どうしていいのか、分からないわ。」
私は首を振ってそう答えた。
「私はあくまで『仮面』。『仮面』が思考する事は無い。『nameless』は何か知識の感情を自分の物だと勘違いしている?」
「神崎?」
「あぁ、そうか。分かったわ。私は、あの子が羨ましいんだ。」
愛される『神崎蓮奈』が羨ましい。いらない。いらない。もう、要らないわ。貴女なんて。
「いらない!」
行き成りそう叫んだ私に3人は驚いた顔をした。そして私は台所にずんずんと進んでいく。眉を顰めた木崎が私の後に着いてくる。烏丸と小南はその場から動けなかった。彼らにはこれから起こることなど想像もつかなかった。
私は台所から包丁を取り出した。釣れない魚を捌くための包丁。
要らないのなら殺さなくては。私は『神崎蓮奈』と言う仮面を殺さなくては。
その心から包丁を首に宛がった。
「止めろ、神崎!」
そんな言葉は聞こえなかった。両手でしっかりと包丁を握る。それを首から離し、勢いよく首に刺そうとした。しかし、それは木崎に止められてしまった。私は掴まれた手を見上げた。焦った表情を浮かべる木崎に掴まれている腕を引き放そうとした。しかし、彼は見た目通り力が強い。私の腕力だけでどうにかなるような人間では無かった。手首を捻られそのまま包丁を落としてしまった。
「離せ、人間!私に触るな!」
もう片方の腕で彼から引きなそうとするがそれは叶わない。
「ちょっと、何やってるのよ!」
私の異常な行動を見て小南がそう声を上げる。
「お前が『nameless』か。」
「そう、私は『nameless』。『名前が無いが故に何者にもなれず、それ故に何者の仮面を被る事が出来る者』。」
「多重人格?」
「違う。私は『nameless』だし、『神崎蓮奈』よ。設定を作ってその通りに言葉を話す『仮面』を被るのが『nameless』。今までは『神崎蓮奈』と言う『仮面』に与えた設定を忠実に守っていただけ。それだけの事だ、人間。」
「つまり、今は『仮面』を取ったから俺の事を人間と呼ぶのか?」
「そうだ、人間。いい加減、手を離せ。痛い。」
「なんか、一気に小生意気になったわね。」
私は木崎を睨みあげるが、木崎は手を離さない。私は不快感を全面に押し出した顔をしている事だろう。
「『拒絶』は立派な感情だ。お前は何処からどう見ても人間だろう。お前は一体何をしたいんだ?」
「言っただろ、知識はあると。適切な時に適切な感情を表現するのは得意だ。でも痛いのは本当だ。痛覚がないわけじゃない。」
木崎は私の手を離した。私は手を振った。しっかりと握られた跡がついてしまった。木崎は私が持つ前に包丁を拾い上げた。私はスタスタと歩いてその場所から出て行こうとした。
「何処にいくんだ、神崎。」
「少し、散歩に行ってくるだけ。」
私はドアノブを掴んでそう答えた。
「そうか、遅くなる前に帰って来いよ。」
「わかってるわ、木崎ちゃん。」
★
「どうしたの?そんな暗い顔をして?」
病室のベッドの上から私を心配そうに見上げてくる母親。私は何も言わず彼女のに抱き着いた。母親は私の頭に手を乗せた。
「何か、嫌なことがあったの?」
「嫌なこと…。私は私が嫌い。」
「ねぇ、蓮奈。貴方は自分の名前の由来を知ってる?」
「知らないわ。」
私は首を横に振った。母親の顔を見上げた。彼女は穏やかな笑みを浮かべている。
「レナっていうのはね、『平和』とか『喜び』っていう意味があるですって。貴女のお母さんがそう話してくれたわ。」
私の人生に平和や喜びがあっただろうか。母は真っ白な紙を取り出して鉛筆で私の名前である『蓮奈』と書いた。
「どうして私たちが貴女の名前をカタカナにしなかったわかる?」
「わからないわ。」
「蓮奈の『蓮』はね、ハスの花に使われる漢字なの。『蓮』の花言葉はね、清らかな心とか神聖、雄弁。そういった花言葉があるのよ。蓮の花はね、きれいな水だと小さな花しか咲かせられないの。泥水が濃ければ濃いほど、大きな花を咲かせるんだって。最初は両親を失った貴女がそれに負けないようにって思って付けたんだけどね。その後の方が辛かったわね。泥水という苦境や困難を乗り越えて咲く蓮の花は、気高くて清らかなのよ。」
「『奈』はね、古い字だと『柰』って書くの。『
紙の上には私の名前の解説のためにいろいろな文字が書かれている。
「どんな苦境も困難だって貴女の糧にして優雅に豊麗に清らかな心で人を救える人になってほしい。そんな願いが込められた名前なのよ。」
「私は、優雅でもないし、豊麗でもないし、清らかでもないわ。」
そういうと母親は私の頬を両手で包んだ。
「いいえ、あなたは優雅で豊麗で清らかよ。蓮奈、貴女はもう少し自分に自信を持ちなさい。貴女は貴女が思っている以上に優しい子よ。自分を自分で貶めてはだめ。」
包まれた手が暖かかった。
「私には感情がないの。笑うべき時に笑ってる。私は人にはなれない。」
「なら、あなたが今泣いているのは泣くべき時だから?」
そう言われて私は初めて自分が涙を流しているのに気づいた。
「わからない。」
「わからないのは、貴女の感情だからでしょう?大丈夫、貴女にはちゃんと感情があるわ。それで何があったの?」
「好きって、言われたの。」
消えてしまいそうな声でそう言った。
「そう、それで驚いてしまったのね。だから、混乱してしまってどうしていいのかわからなくなったのね。貴女はその人のこと好きなの?」
「わからない。」
「そう、じゃあ。別な方向で考えてみましょう。」
「別な方向?」
「そう。貴女はまず彼のことを知っているの?」
「えぇ、知ってる。私がここに帰ってきた時、会ったの。だから、4年くらいの付き合いになる。」
「そう、随分長い付き合いなのね。それで?その子はどんな子なの?」
「どうしてそんなにワクワクしてるの?」
「あら、だってうちの娘は浮いた話の一つも持ってこないんだもの。少し心配になってたのよ。もう22歳なのに。」
そう楽しそうに話す母を見て私は笑みを浮かべた。
「楽しい?」
「これが楽しいなのか、私にはわからないわ。でも、これが楽しいならいいと思う。」
「そう。これがいつかわかるようになるといいわね。」
「うん。」
「それで?その子と付き合うの?」
「わからない。でも。」
「でも?」
「一緒にいたいって思う。」
そう言うと母親は優しい笑みを浮かべた。
お疲れ様でした。
感想お待ちしております。