それは、呪いのような物だった。心に巣食った呪いが私の中で根を張り、その内体中に絡まった。それは体を突き抜け、地面にまだ根を張った。私はとうとう、そこから動く事は叶わなくなった。でも、私にはもう動く気力が無かった。だから、呪いをどうこうしようとは思わなかった。
上を見上げれば真っ暗な空があった。下を見れば私は裸足で立っている。私は水の上に立っている。
「お姉ちゃん。」
「なぁに?」
後ろから声が聞こえた。それは声だったのか。ただ、聞こえたと思っていたいだけだったのかもしれない。後ろを振り返ってもあの子はいない。でも、確かに私をお姉ちゃんと言う声が聞こえた気がした。私の事をお姉ちゃんと呼ぶのは呼ぶのは、彼女だけだ。
「ありがとう、お姉ちゃん。」
「私は、貴女を守れなかった。」
「でも、お姉ちゃんはちゃんと私のお願い、叶えたてくれたよ。私をパパとママの所に連れて行ってくれた。」
彼女の声音は嬉しそうだった。その声を聞いて私は安堵の笑みを浮かべた。彼女が嬉しいなら、私も嬉しい。
「そう、それは良かったわ。」
「だから、お姉ちゃん。私は幸せだよ。確かに、辛かった。家に帰れないのも。パパとママに会えないのも。でも、お姉ちゃんがいたから、私、家に帰れるかもって思った。家に帰りたいって思ったの。」
そう言って私の腰に抱き付いて来た。真っ白で細い腕に触れた。弱弱しく細い腕。この子はあの頃から変わっていない。
「お姉ちゃんと過ごした3年間。とっても楽しかった。嬉しかった。一人じゃないんだって。私は幸せだった。今のお姉ちゃんの隣には素敵な人たちが沢山いる。ずっと手を引いてくれている人達が。」
「私は…。」
「お姉ちゃん、大丈夫。私はずっとお姉ちゃんと一緒に居るよ。お姉ちゃんが迷わない様に。ずっとお姉ちゃんの中にいるよ。」
優しく諭す様に彼女はそう言った。私の腰に顔を押してつけて。
「お姉ちゃん、後ろ向きで後退する事は前を歩いてることにならないんだよ。前を向いてちゃんと歩かなきゃ。後ろは私に任せて。お姉ちゃんのこと守ってあげるから。」
「貴女は生きたいって思わないの?」
「私は死んだの。死人に口なしだよ、お姉ちゃん。死んだら何を願ってもどうしようもないんだよ。」
「それ、意味違わない?」
「私より、生きているお姉ちゃんが幸せじゃない方がいや。私は十分、お姉ちゃんから幸せを貰ったもん。」
「それは、私がそう思いたいだけでは無いの?私が、貴女に許されたのだと思いたいだけでは無いの?」
私は彼女に触れながらそう尋ねた。そこにある筈なのに温もりが感じられない腕に触れた。
「それじゃあ、いけないの?」
「え?」
「私は死んだ。死んだ人間の気持ちなんて誰にも分らない。私にだってわからないんだから。お姉ちゃんに分かる訳ないよ。お姉ちゃんは許された。それでいいじゃない。……泣いてるの?」
ポロポロと涙が溢れる。自分ではどうしようもない。
赦されたいと思っていた。でも、償う人がいないのにどうやって赦されればいいのか、私にはわからないかった。許しを乞うても、一人ではどうしようもない。
「お姉ちゃん、こっち向いて。」
私は涙を流しながら、後ろを振り返った。
「しゃがんで、お姉ちゃん。」
私は久しぶりに彼女の顔を見た。黒い髪に黒い瞳の彼女が私を見ている。その子は小さな手で私の頬を包んだ。そして私の額にキスをした。
「私が泣いた時、お姉ちゃんがこうしてくれたから。」
そして彼女は私に手を差し出してきた。わたしはそれを受け取った。真っ黒な十字架。渡した彼女はもう私の前にはいなかった。私は十字架を抱きしめた。
★
眼が覚めるとそこは病院だった。ああ、腹を刺されたんだと思い出して納得した。そして、また生き残ったのか、と自身の悪運の強さに呆れて溜息をついた。眩しい光がレースの向こうから溢れている。頬が濡れている。それを拭い、私は体を起こした。
「イタタッ。」
取り敢えず、ナースコールか。看護師が来て色々と説明された。トリオン切れの所為もあったのか、5日間ほど寝てたらしい。暫くは絶対安静と言われてしまった。これから暇な生活が始まるのだろうか。あ、でも。トリオン体になれば本体は絶対安静なのでは無いだろうか。こう言う生活を昔した事がある。あの時はいつも話し相手がいてくれた。
「蓮奈。」
「お母さん。」
窓から空を見ていた私に話しかけて来たのはこの病院で入院している母親の神崎葉子だった。
「看護師さんから、貴女が目を覚ましたって聞いてね。いつもは貴女がベッドに寝ている私を見ているのに。逆になると何だか不思議だわ。」
「私も、不思議な気分。ねぇ、お母さん。」
神崎葉子は近くに置いてあったソファに座った。
「なぁに?」
「心配かけて、ごめんね。」
「貴女がまた、あの白いのに連れさられるんじゃ無いかって。本当に不安だった。貴女が重傷だって聞いて、倒れるかと思ったわ。でも、生きてくれていたから。…次は、こう言うの無しにしてね。お母さん、持ちそうに無いわ。」
「ええ、わかってるわ。」
「そうだ、貴女と同じ様に大怪我した子がいるんだって。まだ、目を覚ましていないらしいの。玉狛支部の子だって。確か、三雲君だったかしら。貴女と同じ様にお腹に穴が開いたって。」
その言葉を聞いて私は少しだけ驚いた。
「それはまたお気の毒に。」
「貴方が言える事じゃないでしょう。」
「お母さん、そろそろ昼食の時間だよ。自分の部屋に戻った方が良いんじゃない?」
「そうね、また来るわ。」
「うん。」
母はそう言って自分の病室に戻って行った。あの眼鏡と同じ怪我なんてまっぴらごめんだが、怪我をしてからどうこう言うのは不可能だ。昼食を食べ、それからやる事が無くなってしまった。この暇の時間を持て余した私は探検に向かった。探検と言ってもこの病院にはもう何回も来ている。探す物など殆どないのだが。点滴をうたれながら私は病院内を歩き回った。
絶対安静?
そんな言葉、私の辞書にはない。
「神崎?」
「あぁ、風間ちゃん。」
「歩いて大丈夫なのか?目が覚めたのは数時間前と聞いていたが。」
「大丈夫よ。医者には絶対安静って言われてるから。」
そう言うと無表情な風間は眉を寄せた。
「神崎、絶対安静の意味は知ってるか?」
「知ってるよ。寝たままで居ろって事でしょ?」
「それが分かってて何故ベッドから出ているんだ。」
「暇だったから。」
そう言うと額に手を当て、彼は大きな溜息を付いた。
「いいから病室に戻れ。傷が開いても知らんぞ。」
「別に大丈夫よ。腹に穴が開くのは二回目だもの。」
「お前のその根拠の無い自信は一体どこから来るんだ…。」
「風間ちゃんは何処に行こうとしてたの?眼鏡のお見舞い?」
「それとお前のもな。」
「私の?あら、ありがとう。風間ちゃん。私も眼鏡のお見舞い行こうかしら。」
私はそう言って適当に歩き始めた。そして後ろでまた大きな溜息が聞こえた。
「そっちじゃない。」
「あら、案内してくれるの?ありがとう。」
「お前の病室にな。」
「えぇ…。」
私は諦めるように風間の後を付いて言った。昔からよくしゃべる人では無かった。最初は三輪と同じくらいの年だと思っていた。三輪も昔は彼くらい小さかった。今は成長期なのか身長は追い抜かされてしまったが。風間に入った何時になったら成長期と言うのが訪れるのだろうか。
「神崎さん!何処に行ってたんですか?絶対安静って言ったじゃありませんか!」
「はぁい。」
私は軽い返事をしてベッドの中に戻って行った。溜息を付くと、溜息を付きたいのはこちらだと、風間に怒られた。看護師から一通りのお説教を食らい、自分がどれ程危険だったかという事を事細かに説明された。こんな事を言われなくとも自分は良く知っている。自分が置かれていた状況がどれ程危なかったのか。これが二度目だからだ。
「では、俺はもう行く。絶対にベッドから出るなよ。」
「分かった、分かった。ベッドから出ちゃダメなんでしょ。」
「そうだ。」
「じゃあね。眼鏡によろしく。」
私が手を振るのを一瞥すると、病室から出て行った。静かになってしまった病室の中で私は溜息を付いた。今日は水曜日。平日だから高校だってある。私の話し相手はいない。やる事が無いのなら、寝るしかない。私はまだ明るい内から瞳を閉じた。
★
―――コンコン。
ノックの音がする。その音で目が覚めた。窓を見るとすっかり暗くなっている。どうやら夜になってしまったらしい。
「どうぞ。」
と言うと入ってきたのは、刈谷裕子だった。恐らく中から返事が返ってきた事に驚いたのだろう。裕子は病院の扉を勢いよく開けた。そしてベッドから起きている私の姿を見て涙を浮かべた。
「蓮奈ぁ~。」
そして私に抱き付いて来た。いつもの様にお腹辺りでは無く、首に腕を回している。彼女のなりの気遣いだろうか。刈谷裕子は涙を流して私をきつく抱きしめた。
「ううぅ…。」
「心配かけてごめんね、裕子。」
「本当よ、心配したのよ!バカ、バカぁ。」
私は刈谷裕子の頭に手を乗せた。ゆっくりとその頭を撫でた。そして私は夢の中の事を思い出した。黒い髪の少女を見下ろして、私は静かに微笑んだ。
「ねぇ、裕子。顔を上げて。」
刈谷裕子は涙をポロポロ流しながら、顔を上げた。私は両手で刈谷裕子の頬を包んだ。そして彼女の額に唇を触れた。
「へっ?」
刈谷裕子はそんな素っ頓狂な声を出した。ゆっくりと唇を離すと彼女は未だに何が起こったのかわからないと言う顔をしていた。そしてゆっくりとキスをした額に触れた。私は優しく頬を撫でた。
「泣いてる顔も可愛いけど、泣いてない方が私は嬉しいわね。」
笑みを浮かべてそう言うと刈谷裕子は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「裕子?」
「つ、次は口にしてくれても良いんだよ!」
なんて言って来た。それからうわぁっと言いながら頭を左右に振っている。私は選択を間違ったのだろうか。でも、泣いてる子を泣き止ます時は相手を驚かせたらいいが、私の中の定説だ。現に刈谷裕子は泣き止んだ。ちょっと思っていた反応とは違うが。
「落ち着いた?」
「うん、ごめんね。取り乱して。」
「良いのよ。取り乱してしまう原因を作ったのは私だもの。」
裕子は私の胸に顔を埋めた。そして数日前の屋上の時の様に顔をこすりつけた。上からではその顔を良く見ることは出来ないが、先程のように泣いている訳では無いようだ。私が頭の上に手を置くと
「はぁ。」
と、少し高めの声で息を吐き出した。そして手に頭を擦る。甘える時の猫の様だ。しばらく頭を撫でているともう良いのか顔を上げた。私の顔を見て刈谷裕子は笑みを浮かべた。そして彼女の視線は私より奥の方にあった窓へと向かった。蛍光灯が付いているのが残念だが、そこから見える月はとても綺麗だった。
「『月が綺麗ですね。』」
刈谷裕子がそう言った。
「そうね。」
私も月を見てそう言った。
「月が綺麗なのは、裕子といるからね。」
「え?」
「私は俯いてばかりで、空を見上げて月を見ることなんてないもの。裕子がいなくちゃ、私は月さえ見つけられない。だから、次は一緒に月を探してくれる?」
思わず息を飲んだ。ベッドの手すりを掴んでいた私の手の上に彼女の手が乗った。
国語の苦手な彼女が知っている筈が無い。
でも、期待していいのだろうか。
期待したくなってしまう。
目の前の大好きな人からの言葉は、私にとっての最適解となった。
湧き上がる止めどないこの気持ちが口から出てしまう前に。
「勿論!」
私は笑みを浮かべて、そう言うのだった。
お疲れ様でした。
感想お待ちしております。