私は大好きな人を見下ろしていた。まるで風景が額縁に飾られた絵の様に現実味を帯びていない。私が見ているのは現実では無いのではないか。そんな事を思ってしまう。それでも大好きな人の肌に触れるとその温かみから現実なのだと、そう教えられる。
「嘘つき。」
私はそう呟かずには、居られなかった。決して嘘をついている訳では無い。彼女は生きて帰ってきたのだから。でも、私の心の中はずっと真っ暗なままだった。大好きな人は一度目を覚ましたそうだ。でも、直ぐに眠ってしまった。私はただこうして彼女が目を覚ますのを待ってるしかできない。
「おい。」
「出た、役立たず。」
私はもう4年近い付き合いになる同い年の少年にそう罵った。その少年は酷く顔を歪めたが何か言い返してくることはなかった。
「カゲ、何か酷い言われようだね。」
「こいつの言葉は一々反応してたらきりがねぇんだよ。」
役立たずと罵った少年の後ろに同じ制服を着た体格の良い少年と人当たりが他のよりよさそうな少年が立っていた。それに荒船。
「刈谷、お前毎日来てるのか?」
「そうよ。別にいいでしょ?ボーダーの本部に行ってるわけじゃないんだから。」
あんなことがあった後なのに、学校は何事も無かったかのようにある。それは恐らく、一般市民の被害者がいなかったことが大きいのだろう。先程役立たずと罵った少年だって、本当は何かしていたのかもしれない。私は何も出来なかった。悔しくて、涙が溢れて来る。ポロポロと溢れる涙を見て男性陣はゲッとした顔をした。
「っ。」
「だ、大丈夫だよ。直ぐに目を覚ますって。ほら、皆も何か言ってよ。」
そう言ってきたのは体格の良い少年だった。
「そうだって。大丈夫だ、刈谷。神崎の事だ。直ぐに目を覚ます。」
泣き出した私を慰めようと必死に皆が何かを言う。それでも私には響かない。
神崎蓮奈は私にとって神様みたいなものだった。兄さんを殺した近界民を殺せる私の大切な人。でも、その力は決して望んで手に入れたわけでは無かった。手にしたくなくとも、手にしなければならない。そんな場所で生きてきたこの人。大切な人を亡くしたこの人を支えたいと思った。私を助けてくれたこの人を。
最初は一緒に居たかった。それはきっと自分が安心したかったから。兄さんみたいに死なないんだと安心していたかった。でも、この人と一緒に居て私は知った。この人が高い建物が苦手で、大きな窓が苦手で、人混みが苦手で。色んな事を知らなくて。単純な愛という感情さえ知らない。それが凄く寂しくて、私が愛を教えてあげたくなった。高い建物は怖くないんだよって、大きな窓は怖くないんだよって、人混みは怖くないんだよって。私がこの人を守ってあげられる事が出来るんだって。思っていたかった。
でも、やっぱり私はこの人を守れないのだろうか。支えられないのだろうか。
羨ましい。近界民と戦える強さを持った人たちが。私にもそれが出来れば、絶対、怪我なんてさせなかったのに。どうして、影浦に出来て私には出来ないのか。『才能』なんて言葉一つで片付けられた私には、どうすることも出来ない。『才能』さえあれば、私にも扱えたと言うのか。
悔しい。悔しい。悔しい。
何度も袖口で目を擦る。それでも涙が止まる事はなった。影浦が私の横を通ってあの人を見降ろした。穏やかな呼吸を浮かべているあの人を見て、一つ溜息を付いた。そして面倒くさそうに頭を掻いた。
「刈谷、お前が何をそんなに羨ましがっているのか、大体想像がつく。お前は確かに、近界民を倒せねぇ。その『才能』が無かった。でも、お前はいつだってこいつを救ってたじゃねぇか。」
「ぇっ?」
「こいつの、高い所を怖がるのは誰が治した?大きな窓を怖がるのを誰が治した?人ごみを怖がるのを誰が治した?全部、お前だろ。何時も隣にいて、色んな所に引っ張って行って。いつもお前が手を引いていたから、コイツはそう言うのを治せたんだろ。コイツは楽しそうに笑って高校に通えているんだろ?」
影浦は私を真っ直ぐ見てそう言ってきた。
いつも、外を見ている理由を聞いた。そして私はそれを聞いてこの人のトラウマを知った。私はこの人のトラウマを治してあげたくて色々な場所に行った。公園だって、映画館だって、お買い物だって。沢山の場所を連れまわした。私は何時も彼女の手を握っていた。そうしたら分かるのだ。彼女が緊張した瞬間が。ピクッと一瞬手を握る力が強くなる。私は影浦の様な特別な物は持っていない。だから、私は私の全てで、この人を感じていたかった。
「それは、俺には出来なかった事だ。何時もビクビクしながら外を歩いていたコイツの警戒心を無くさせたのはお前だ。お前はきちんと、コイツを守れてるし、救えてる。たくっ、コイツと同じ様な事で悩んでんじゃねぇよ。」
「ムカつく!」
私は影浦にそう言った。涙は未だにポロポロと流れ出ている。
「ああ!?」
「どうしてアンタには相談して私には相談してくれないのよ!」
「ボーダーの事だったからだろ。」
私はビシッと影浦に指さした。
「見てなさい!絶対、ボーダーの研究員になって蓮奈の悩み相談だって私がしてあげるんだから。貴方の出る幕なんて一瞬さえ無くしてやるんだから。」
「やれるもんならやってみろよ。」
「二人とも、ここ病院だから。もう少し静かにして。お願いだから。」
そう、私達をなだめようとする体格の良い少年。
「えっと、刈谷さんでいいのかな。北添尋です。宜しくね。」
私が少し落ち着てきたように見えたのか、体格の良い少年がそう挨拶してきた。
「北添、君。どうも。」
「こっちは村上鋼。カゲの同級生。」
「どうも、村上だ。」
「どうも。刈谷裕子です。」
「刈谷さんとカゲって仲良いんだね。」
「よくありません。」
北添君の言葉に私は即答した。これと仲がいいなんて思われるのは心外だ。
「ただの恋敵です。」
「おい!」
そう言うと場の空気が固まった。そして視線が影浦へと向く。
「それって、あれだよね。刈谷さんと神崎さんが恋敵って事だよね。」
「違います。私と、あそこの役立たずが恋敵って事です。」
北添の問いに私はそう答えた。同級生である荒船は頬を引きつらせている。
「えっと、カゲの事は置いておくが。お前もしかして神崎の事好きなのか?」
「好きじゃないわ。」
私がそう言うと何故か周りはホッとした様に息を飲んだ。
「世界で一番愛してるのよ。」
私は腰に手を当ててそう得意げに言った。そしてやっぱり?と言った顔をされた。解せぬ。
「お前たちの距離が近かったのは、そう言う事か。」
荒船は額に手を当ててそう言ってきた。
「近かったって?」
「何をするにも刈谷は神崎の隣にいるし、何処に行くにも手を繋いでいるし、すぐ抱きつくしで。学校じゃ付き合ってるんじゃないかとか色々噂があんだよ。こいつら。」
「まだ付き合ってないわ。私の片思い中よ、荒船。」
「あれで付き合ってないのか。お前達、今時のカップルでも恥ずかしくてやらないようなことやってるだろ?お弁当を食べさせ合うとか。」
「まさに、愛のなせる技ね。」
「お前ら、学校で何してんだよ。」
そう影浦が呆れたようにいう。後ろの二人も苦笑いをしていた。
「刈谷は神崎の何処が好きなんだ?」
そう、村上くんが尋ねてきた。
「綺麗な金色の髪が好き。深い海の様な瞳が好き。私の名前を呼んでくれる口が好き。私の言葉を聞いてくれる耳が好き。私の心配をして頬に触れる手が好き。顔を埋めると柔らかくて気持ちいい胸が好き。抱きつくのにちょうど良い細さの腰が好き。私を探して歩く足が好き。私の事を信頼してくれる心が好き。ちょっと羨ましいけど、影浦と話していて楽しそうに笑っている表情が好き。私は、神崎蓮奈の全てが好きよ。」
「熱烈だな。」
「でも少し意外だね。」
「なにが?」
「カゲと楽しそうに笑ってるって神崎さんが好きって。嫉妬しないの?」
北添君はそう尋ねてきた。私は頷いた。
「勿論、嫉妬するよ。羨ましいとも思うし、妬ましいとも思うけど。それ以上に、私は蓮奈が楽しいなら、私も楽しいし嬉しいから。」
「これ、カゲに勝ち目あるのかな?」
「さあ、結局選ぶのは神崎だろ?」
「でも、すっごい良い子だよ。」
「カゲだって、良い奴だよ。」
「おい、そこ。勝手なこと言ってんじゃねぇよ。」
そう北添君と荒船が言う。影浦は面倒そうに舌打ちをする。私はこの人の手を握った。大丈夫。この手はまだ温かい。
「私には、蓮奈を守れるだけの力はないから。だから、それまでは影浦に蓮奈を守らせてあげる。でも、それは私が大学を卒業するまでよ。大学を卒業したら絶対ボーダーに就職するんだから。そうなったら、貴方なんて必要ないんだからね。」
「さっきから聞いてりゃ、随分好き勝手ぬかしやがって。」
「ふん、好きな人の事を好きって言えない意気地無しには用は無いわ。」
影浦は拳を握り、こちらを見てくる。これはやばいと思ったのか北添君が影浦を抑える。そして村上君が影浦を宥める。
「流石に女の子に暴力はダメだよ!」
「落ち着け、カゲ。ここは病院だぞ?」
「この女は昔からムカつくんだよ!」
「何事も暴力で解決しようとする。バッカみたい。」
ふっと鼻で笑うと北添君の腕の中でさらに暴れ出した。しかし、彼はよくあれだけ暴れている影浦を抑えていられるな。ただのぽっちゃりでは無いわけか。
「そうだ、荒船。北添君と村上君はボーダーなの?」
「あ?まあ、そうだな。北添はカゲのチームメイトだ。鋼は違うがな。」
「荒船は?」
「俺も違げーよ。」
「ふぅん、北添君はよくあんなのに付き合ってられるわね。」
私は腕を組みながら感心した様に言った。
「何か8回くらい喧嘩して仲良くなったらしいぞ。」
「えっ?北添君、どうしてつぶしてくれなかったのかな。」
「お前、時々恐ろしい事言うよな。」
荒船は大きく溜息をついた。
「ねえ。」
「あ?」
「ボーダーにいる時の蓮奈は楽しそう?」
「俺はお前より神崎を見て入るわけじゃ無いが、まあ、楽しそうだな。」
その言葉を聞いて私は安心した。自然と顔に笑みが溢れる。
「そう、良かった。」
「まるで母親みたいなだな。」
「まあ、蓮奈はあんまり親と一緒にいた事ないみたいだし。蓮奈のお母さん、ここに入院してるのよ。知らないの?」
「知らねぇよ。そこまで仲良くねぇしなぁ。」
私は荒船を見上げた。
「蓮奈のお母さん、14年前に近界民に会ったんだって。」
「良く生きてたな。」
「そうだね。それでね、娘が白くて大きな怪物に連れさらわれたって言いまくったみたいなんだ。それで、誰にも信じてもらえなくて今は精神科の方に入院してるらしいわ。」
「14年前か…。はっ?攫われた?」
「?うん、攫われた。」
「おい、お前それ言うなって言っただろ!」
私達の会話が聞こえていたのだろう。影浦がそう叫ぶ。
「マジか…。」
「本当に知らないの?みんな知ってると思ってたのに、ボーダーの人たちは。」
「まあ、あんまり言う事じゃないか。だから、神崎は読み書きが苦手なのか。」
「うん、蓮奈は日本語を話せるけど読み書き出来なかったんだ。読めたのは平仮名位かな。」
「こいつ、良く進学校なんて通えてるな。」
「私の教育のおかげです。」
そう言うと荒船は呆れた様な目で見下ろしてくる。
「愛されてんなぁ…。」
「ふふ、でしょう?」
そう言いながら笑みを浮かべる彼女は恋する女の子そのものだった。手を後ろで組み、笑みを浮かべる。
お疲れ様でした。
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