週の始まり、それは憂鬱な日々が日本に再び訪れたことを意味する。
日本人の多くが平日と休日とで全く異なる世界を暮らしている。
平日が職場で上司、同僚と仕事をしたり学校で同学と教師から勉学を学んだりしているのに対して休日は完全なる自由だ。部活動や土日出勤などの例外はあれど自分の時間を過ごすのが多数派だろう。
そしてだからこそ毎週、午前0時にソレは真後ろからやってくる。安寧でゆるりとした時間からタイトなスケジュールに身を投じられることにより生じるギャップ、内なる感覚に生じる齟齬。
果たして、名付けるならば月曜ハザードとでも言うべきか―――あまりカッコつかなかったがともかく、それは確実に日本の数多くの人の心に来訪している。
まあ本日はそんな感じの、大変月曜日なわけで。
既に授業が終わり月曜も消化試合に突入した放課後、俺と雪ノ下はいつもの教室で平塚先生と対面していた。その瞳はどんよりと、それはもう泥水もまだ綺麗なのではないかと言いたくなるほどに混濁している。
……いつも疲れた表情はしているが、ここまで覇気がない平塚先生というのも珍しい。何かあったのだろうか。
「平塚先生、どうされたんですか?」
そんな頽廃的な空気を纏う平塚先生にさしもの雪ノ下雪乃でも異変に気付いたのだろう。―――普段がアレなところがあるので空気なんて読めるわけがない思っていたのだが、さしもの雪ノ下でも最低限は出来るらしい。正直意外だ。
いつもよりも幾分か真摯な面持ちの雪ノ下はいつもより穏やかな口調で告げた。
「先生が直接来るなんて珍しい……もしかして奉仕部に結婚についてのご相談でしょうか?申し訳ないですがでしたらまず結婚相談所の方を挟んで頂いてその後に―――」
うん。雪ノ下に1mmでもそんな期待を抱いた俺が馬鹿だった。
「そんなの高校生に相談するわけないだろ……!」
平塚先生は心底疲れたような表情で溜息を吐き、右手を少し皺の浮き出た白衣のポケットに杜撰に突っ込み、そしてすぐにその右手を元の位置に戻した。……一瞬だけちらりと見えたのだが、その手は確かに煙草の箱を握っていた。平塚先生、頼むから休んでくれ……。
そして再度、疲れを隠さずに溜息を吐くと今度は俺の方をじんわりと眺めてくる。
「……私が今日言いたいのは比企谷についてだ」
え。俺?
思わず首を傾げ、記憶を精査してみるが特に何かやらかした記憶は全く脳裏には過らない。
しかし雪ノ下は諦観した表情で、それはまるで再犯を犯した痴漢魔を見るような視線で俺を一瞥すると。
「比企谷君なにやったのかしら?痴漢?セクハラ?ラッキースケベ?」
「何で性犯罪オンリーなんだよ」
しかも最後のは別に犯罪じゃないだろ。漫画やラノベで主人公に起きる現象だろ、寧ろ俺とは対義の位置に存在する現象なまである。
平塚先生は先程とは別のポッケから気怠げにエナジードリンクを取り出すと、それを一気に煽って、「あ゛ーっ」という大人の女性にあるまじき蛙が潰れたような濁声を上げた。
そして飲み終えた缶を親指と人差し指で掴むと、プラプラと揺らしてまだ微量に残っている液体で遊び始めた。
「―――風の噂だと最近、君たち奉仕部は部活動をさぼっているそうじゃないか?」
「そんな事は無いです!」
やべえ、心当たりがありすぎる。あれ以来なし崩し的に続いているバイトとかバイトとか偶にやるボードゲームとか。
「雪ノ下、君にはその辺りは期待していなかったのだが……まさか比企谷まで雪ノ下に付き添うとは恐れ入ったよ。比企谷ならある程度の良識はあるからブレーキ役になると思ったんだがなぁ」
「先生、さも俺の良心が欠片ほどしかないかのように言わないでください」
「リア充砕け散れとか言ってる人物に対する評価としては最上級だと思うが?ん?」
「……いや、ほんと、すんませんした」
平塚先生が無言で物凄い睨みをきかせてきたので思わず脊髄反射で謝罪してしまった。特に目元に隈があったりするのが余計に怖いし恐いから。本当に休んでくれ。
平塚先生はコホンと一息付くと、空き缶の原材料の表記されているリストを見つめながら口を開く。
「君たちは知らないだろうがな、実は先週私は奉仕部に一人クライアントを斡旋した。金曜日の事だ」
あ、その日の放課後は校門で待ち合わせしてそのままバイト行ったな。雪ノ下もそのことを思い出したのか珍しく空気を読んで素知らぬ顔で目を閉じている。
「そのクライアントの名前は由比ヶ浜結衣、2年F組の女子生徒だ。比企谷、君は同じクラスだし知ってるだろう?」
いや知らんけど。誰だよそのビッチ臭のするギャル感満載の名前は。しまいにゃ赤点連発して留年でもしてそうだ。
しかし意外なことに、雪ノ下はその由比ヶ浜と言う名前に対してうんうんと頷いている。クラス違うのに何で知ってんだコイツ。
「そうか、雪ノ下は知ってるのか。ともかく、手短に言えば金曜に君たちがいなかったから今日再度来る手はずになっている。今日は掃除の当番で少し遅めに来るらしいがちゃんと応対するように」
うわぁめんどくせ、それなら帰って小町と会話してた方がよっぽど有意義なまである。sweet little sisterである小町と原宿系のビッチ、比較するのもおこがましい。
「しかし平塚先生、そのビッ……じゃなくて由比ヶ浜結衣の依頼内容って何ですか?あんまり個人的だったり抽象的なものだとめんど……じゃなくて難しいと思うんですけど」
「比企谷。私は君が雪ノ下のポンコツ病に感染してないか少し不安になったんだが」
え。雪ノ下ってウイルスの発生源なの?なにそれ恐い。饅頭恐い。
「まあ心配するな、聞いた限りだとそこまで難しい内容ではない。後言っておくが由比ヶ浜は君の懸念しているような淫乱な人柄ではないから安心したまえ」
「は、はぁ」
正直、その言葉が安心材料になるかどうかと言えば微妙なところだが……まあいいか。
平塚先生は伝えることは伝えたぞとばかりに空き缶を無造作にポケットに仕舞い込むと、手を挙げて「後は頼むからな」と言い放ち教室から出て行った。
そしていつものように俺と雪ノ下、二人だけが中途半端に大きい一室に取り残される。そこに存在するのは窓から流れ込む風邪の息吹、桜の樹に留まりケキョケキョと繰り返し鳴くウグイス、そして雪ノ下の掠れるような微音な鼻息のみ……鼻息?
雪ノ下の顔をじっくり見ると目は軽く閉ざされ、口元は今に開いて何かを物申しそうな程緩く結ばれている。そして時期船を漕ぐように、上下にコクリと首振り人形の動きをしている。
「くぅ……くぅ……」
―――間違いない、こいつ、寝てやがる……!
「おい雪ノ下、起きろ」
取り敢えず軽く声を掛けてみるが全く反応が無かったので、次は大きく声を張りながら肩を揺すってみる。
すると雪ノ下は寝ぼけ眼で。
「……あれ、人参のお化けとカボチャのヒーローはどこに行ったのかしら……?」
こいつ、高校生になってまでなんの夢見てるんだよ……。
「……あ、比企谷君じゃない。30過ぎても独身とか、いつ結婚するのかしら…って痛っ!」
「俺と平塚先生を混同するな」
思わず雪ノ下の頭に斜め45度でチョップを叩き込む。するとどうやら脳内回路の接触不良が直った様で、雪ノ下は目を見開いた。
「あれ、平塚先生は……?」
「もう帰ったよ。それでこの後依頼人が来るらしいぞ」
「そう。じゃあそれまでダーツでもやりましょう!」
そう呆れた言葉を放つとバッグをガサゴソ探る雪ノ下。……いやいや、おかしいだろうが!
「色々とツッコみどころはあるが雪ノ下、まず学校でダーツなんてできないしそもそも校則違反だろ」
子供に物事を諭すような口調で俺は雪ノ下に注意する。
ダーツを遊ぶ方法と言うのは一般的に二つある。一つはアミューズメント施設やダーツバーなどに設置されているダーツマシーンを利用することだが、当然校内にそんなものがある訳も持ち込めるわけもないのでこの場では置いておく。
そしてもう一つが家庭用ダーツボードを持ち込むという手段である―――だがしかし、ダーツボードをある高さに固定するには壁にネジを入れなくてはならない。須らくそれは学校側としても容認できないことだ。
だからダーツなんてできる訳ないだろ、そう馬鹿らしく思いながら見ていると雪ノ下は教室の端から妙にデカいバッグを持ってきて、そのチャックをたどたどしく開ける。
雪ノ下はバッグの中に入ったものを一つずつ赤子をあやすかの如く慎重に取り出して床に並べると、その全貌が明らかになった。
「お前、学校になんてもん持ち込んでるんだよ……!」
それは簡易式のダーツスタンドの組み立てキッドとでもいうのだろうか。メインのダーツボードと板材に同じ長さの柱が6本、そして突っ張り棒と見られるものが2本ほどそこにはあった。恐らくは柱を組み立てそれらにネジで板材を止めた後、床と天井にめいっぱいその出来た柱を立てて突っ張り棒で隙間なくガッチリ固定したところで最後にダーツボードを板材にネジで止めるのだろう。
「比企谷君もぬぼーっとしてないで手伝ってくれるかしら」
「お、おう」
黙々と柱同士をくっつけて伸ばす雪ノ下に叱責されて、当然のように落ちていたドライバーを手に取りその作業に取り掛かり始める俺。……あれ、俺何でこんなことやってるんだろうか。
20分程過ぎると、既にその完成形は教室奥に鎮座していた。
窓近くの掃除用ロッカーの隣、そこにダーツボードは昔からそこに存在しているかのように威風堂々と佇んでいた。しかしながら当然教師に見つかれば没収案件である。
「……なあ、これ片付けるんだよな?」
「当たり前じゃない、平塚先生に見つかったら厄介だもの」
そう言いながらバッグからダーツケースを取り出すと、ダーツの矢を組み立て始める。なんか手慣れている感じがするのは気のせいだろうか。
「もしかして雪ノ下、お前趣味ダーツなの?」
「そんな訳ないじゃない、この美しい容姿を見てそう思うなんて脳味噌醗酵してるんじゃないかしらアホ企谷君は」
黙れ馬鹿ノ下。
雪ノ下は4つの部品を組み合わせてダーツの矢を6本ほど作ると、額の汗をハンカチで拭った。……良く分からんところで育ちの良さを見せるなこのアホは。
「まあいいわ。それより比企谷君、ダーツのルールは分かるかしら?」
「いや知らんが」
「困ったわね。実は私も知らないのよ」
……はあ?
「お前、家でダーツ持ってるんじゃねえのかよ」
「持ってるとやったは別物だわ」
と、そんなちぐはぐな事を宣うので仕方なくスマホでググると、どうやらダーツと言うのは3つほど遊び方があるらしい。それぞれにカウントアップ、ゼロワン、クリケットと呼ぶらしく、取り敢えず今回は初心者でも楽しみやすいカウントアップを行うことにした。
カウントアップのルールは簡単で、刺さった場所の点数を加算していき、1ラウンド3本ずつ投げるのを交互に8回繰り返して最終的な得点を競うというものである。
「じゃあ比企谷君、最初良いわよ?」
「へいへい」
何で俺、月曜から高校でこんなことしてるんだろうか……そんな余念が投擲する時に混ざってしまったのだろう、矢は思い切り逸れて先っぽから地面に当たり床に少し傷跡がついてしまった。それが尾を引いてしまい、残りの三本も枠外へと刺さる。
「プッ0点……今度からゼロ企谷君って呼ぼうかしら」
何それ、ロックマンみたいで少しかっこいい……。
そう思っていると雪ノ下は人差し指、中指、薬指と親指でダーツのバレル部分を握ってまるで空気に流すように矢を手放した。矢はシャープにボードへ向かって飛んでいき―――そして教室後方に設置された掲示板へと突き刺さった。雪ノ下は更に真ん中を狙って投げるが、残り2本も1本目を踏襲するかのように教室の壁に掲示される。当然0点である。
「……流石壁ノ下さん、見事なお手前ですわー」
ほんと、ダーツの刺さる場所も胸の高さも壁だし、ぬりかべもかくやといったところじゃないだろうか。
「今から逆転するから覚えてなさいよ?」
逆転も何もまだイーブンイーブンなんだけどな。
その後は3ラウンドを過ぎたあたりから互いにダーツボードにちゃんと刺さるようになり、最終的には俺が5点ほどリードして勝利した。
「くっ…比企谷君に負けるなんて」
「いやー壁ノ下マジ強かったわー、ほんと壁の称号に相応しいくらい強かったわー」
「もう一度よ、これじゃ納得いかないわ……!」
「あ、あのぉ~……」
「ん?」
唐突に聞き慣れない、控え目に絞られた女の声が教室に響き反射的にそちらを見る。
教室のドア、丁度廊下との境目、そこに一人の女が立っていた。ぱっちりとした瞳にピンク色の髪の毛のトップを団子に纏めている。ピンク色のカーディガンをラフに羽織り、制服の第二ボタンまで開けその胸元には高校指定のリボンが緩く垂れていている。スカートは比較的高目に上げられており、黒のタイツはぴっちりと履いている。
その女は人から好かれそうな顔に困惑の表情を浮かべながら、人差し指をクルクルと回した。
「ここって奉仕部……だよね?」
そんな問いに間を置かず俺と雪ノ下は互いに目線を合わせる。
『おいどうすんだ』
『ここで奉仕部と答えても印象は悪いわね』
『まあ確かにそれはそうだが、他にどうすんだ?』
『私に任せなさい』
と、ここまでアイコンタクト。所要時間は0.5秒である。
雪ノ下はコホンと、水面下での会話を誤魔化すかのように一拍置くとダーツの矢を手に掲げた。
「―――ようこそ、私たちは総武高校ダーツ部よ」
……え。
来週試験なのにどうしよう。