千字弱ほど内容を書いてから、列車は目的の駅へ着いた。
眠ってもあっという間、書いていてもあっという間の時間だった。
慌ただしく片付けを始め、駆け足気味に列車を出る。
衆の小さな波に飲まれながら、階段を登り、改札とホームを抜けた。
外へ飛び出す。注ぐ太陽光は、あまり暑くない。
じりじりと地面を焦がすあの光が、早くも懐かしくなってくる。
炎暑の全てを語る眩しい光に比べてみれば、こんな陽光なんて、とも思えた。
水平思考の上で成り立つ都会へ、戻ってきた。
自意識は完全に、日常へと回帰する。
もう少しで俺の夏休みも、終わってしまう。
そう考えた時にはもう既に、俺の足は前へと進んでいた。
あれから数日して、再び俺の仕事を繰り返す日々が戻ってくる。
通勤に車を使うことに、若干の躊躇いを持つようにもなった。
せめて、せめて事故には気をつけようと、以前よりも安全運転を一層心がけるようになったのは、成長と言えるだろうか。
夏の暑さは駆け抜け、さらには秋の紅葉も遠くへ吹き抜けた。
冬の雪も直ぐ様溶けて、春の桜も散ってゆく。
季節の巡りが、異様に速く感じるようになった。特に、この一年は。
けれども、あの駅員に言われた通り、思い出の品として、真っ白の切符は財布の中に大切に入れている。折り目さえついていない。
新作も筆が乗って、七月に出版する予定になるまでこぎつけた。
気のせいか、その影響によって仕事の調子も上々。
殆ど全てが、あの村から帰って右肩上がりの結果を収めている。
夢見村の御蔭だと考えると、感謝してもしきれないくらいだ。
執筆に取り掛かる時間、仕事に力を入れる時間。
色々な方面に力を注ぐようになった。
公正世界信念とは、よく言ったものだ。
頑張れば、頑張った分だけ報いがきちんと帰ってきた。
勿論、そうでない場合もあった。
たった一年の短期間でさえも成功しない場面があるのだから、度重なる失敗に文句なんて言えるものじゃない。
文句や後悔を口にする暇があったら、別のことに取り組む方が合理的であることにも気付いた。
今までの人生、一体俺はどれだけのことを学ばずにのうのうと生きてきたのだろう。
不思議で、おかしくて、つい笑いも出てきてしまう程に思ってしまう。
そう思える今の内は、まだ楽な方なのだろう。
気付くのが遅すぎて取り返しのつかない事態にならなくて、よかったと安堵するばかりだ。
――ただ。
「貴方のことが、好きです」
「…………」
まだ雪解けが訪れる前の、寒々しい冬の路傍でのことだ。
俺はその時には、呆然とする一方だった。
辺り一帯が闇に包まれる時間帯で、どれだけ灯りに照らされようとも、自分の心は見える気がしない。
呆然とは、少し違うのかもしれない。明らかな迷いが、自分の中で生じていた。
俺には、その事実の提示が唐突過ぎた。
何もかもが突然で、思考が現実に追いつかない。
ただただ、眼前の光景においていかれるだけ。
会社の同期の女性から、交際を、申し込まれた。
それも真摯に、正直に、きっぱりと、包み隠さず、真っ直ぐに、本気で。
まさか、女性から告白をされるとは思ってもみなかった。
そんな言い訳こそ、口から嫌というほど溢れ出てくるものだ。
「……ごめん。俺は今、仕事とか他のことに集中したいんだ」
「……わかり、ました。ですが、これだけは正直に答えて頂きたいのです。
「断ることが、か?」
「いいえ。断ることは、私としては残念ながら、本当だと思います。私が言っているのは、貴方がその後に言った
俺自身、戸惑いが思考を錯乱させていることに気付いていなかった。
嘘偽りなく話したつもりが、無意識の『黒』で色付かせていることに。
女性の同期にも使う丁寧な口調は、どこか『彼女』を思い出させる。
こんな時にでも。いや、こんな時だからこそ、思い出したのだろうか。
「どうして、そう思う?」
「だって貴方、ここ一年私含めた女性に、見向きもしないじゃないですか」
俺はやはり、黙り込む他ない。
実際、振り返ってみると、本当にその通りなのだから。
図星、だったわけだ。何とも情けないばかりだ。
「……ごめん」
俺は意識せずに、謝罪の言葉を零した。
それは一体、誰に向けたものなのだろうか。
それとも、誰という人にも向けてない、ただの独り言の範疇の言の葉なのだろうか。
「どうして、謝るんですか。私が、貴方の描く女性像とは離れていたんですから――」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ……嘘を吐いたことに対する、弁明だよ」
「私は別に、どうも。気にしていませんよ。やっぱり、私は貴方を振り向かせるほどじゃなかった。それが一番の理由なんですから」
同期の女性の一言一句を聞くほどに、耳と心が痛む。
真っ向から告白した彼女に対して、対局した態度をとった俺が、どれだけ醜いことか。
けれども、どれだけ理由を偽ったとしても、結果だけは、偽ることができるとは思えなかった。
その場限りでなら、その場しのぎでならいくらでも手のうちようはある。
しかし、恋愛ともなるとそうもいかない。
互いの恋を、何よりも信じる必要がある。
相手の自分に対する愛も、自分が本当に相手に愛を向けているのかも。
自覚のない愛、中途半端な愛は、相手を困らせるに過ぎない。
俺は、ずっと大嘘吐きになれるような器や仮面の持ち主でもないことは、重々承知している。
「ただ、貴方の想う相手にだけは、嘘を吐いてほしくないです。それだけが、今の私の願いです」
「ありがとう。気持ちは本当に嬉しい。けど、このまま交際をしても、先が見えている気がしたんだ」
「その言葉だけでも、嬉しいです。これからも職場では、変わらず接していただけるともっと嬉しいです。突然、すみませんでした」
目の前の女性がそう告げて、暗い夜道を一人で駆けていく。
止めることもできず、立ち尽くすことしかできなかった。
唯一、俺にできたことは。
「……はぁっ」
宵闇に、白く曇った溜め息を吐くことだった。
あの時、何か加えて言葉をかけられたのではないか。
必要な言葉は何か、考えることくらいはできたのではないか。
未だに後悔の念が残るが、過去の出来事は、どう足掻いても変えることはできない。
俺が学んだ、苦い経験と知識の一つでもあった。
そんな経緯を僅か一年で持って、今ここに佇んでいる。
駆け出してちょうど一年が経った、夏の時期。
家族には悪いが、彼女との約束だ。守らねばならないし、俺も守りたい。
事前に母さんにも父さんにも連絡を入れたが、何ともありがたいことに、快い了承をもらった。
一種の興奮状態で、駅のホームに入る。
心臓が高鳴る中、ビターな教訓を胸に刻みつつ、切符を買うために駅員のところへ。
前回はたまたま切符の確認が行われなかったが、今回もそう上手くいくとは限らない。
確認をしっかりしてから、夢見村前行きの切符を買うべきだろう。
「え~っと、すみません。夢見村前の駅って、どの切符でいいんですかね?」
「ん? 夢見村、前……?」
駅員さんが、不思議そうに復唱した。
――思えば、この時から、妙な胸騒ぎがしていたのかもしれない。
心拍数の上がる心臓が、別の意味で速く鼓動を刻み始める。
暑い中、得も言われぬ寒気がして、汗が滲む。
この汗は、果たして暑さによるものだろうか。それとも、緊張状態による冷や汗なのか。
まさか、そんなはずはない。どれだけ自己暗示的に胸の中で唱えても、心臓は暴れることを止めない。
「――
――僅かな疑念が、確信に変わった瞬間だった。
そして、記憶はまるで走馬灯のように流れ出して、ある地点で止まる。
そう、彼女のあの言葉を聞いたときだ。
『貴方は、夢見村の言伝えを知っていますか?』
『この夢見村の出来事が、全て夢になる、と』
『言葉の通りですよ。この夢見村は夢の中の存在で、現実じゃない。幻想のような世界だ、と』
夢が
――これは一つのエンディングだ。
ある意味で、最終話にもなりえる。
夢見村は、夢の存在だった、と。
けれども、納得がいかない。どこか心残りだ。胸の中で引っかかる。本来の物語をなぞっている気がしない
そう思う方へ。
もう一つのエンディングを、次回、お楽しみください。