朝の訪れは、既に察知していた。
けれども、どうしても目が開けられない。
開けることを、後悔しているのだろう。
この村を去る日の来訪を、拒んでいるというのか。
俺だって、できることなら去りたくはない。
しかしながら、夢とはいずれ覚めてしまうものだ。
覚めない、冷めない夢なんてものは紛い物であり、それはとうに夢を逸脱してしまっている。
本物の夢と比較して秀逸なようで、実際には幻想的という意味でひどく劣っている。
見ていた夢を幻想から外さないために、布団から抜け出した。
やがて重い瞼も開くようになり、ふらついていた足取りも普段通りに。
朝食の匂いにつられながら、リビングへと向かう。
「おはようございます」
「えぇ、おはよう。今日、帰ってしまうんでしょう?」
「あっ……すみません、言い忘れてしまいました」
「いいってことよ。しっかし、俺としても寂しいものだな」
この家族は皆、温厚で溢れる方ばかりだ。
自分の虚ろな心さえも、浄化される気がする。
席に座って、朝食を取る。
彼女も既に席についているのだが、どこかそわそわとしている。
それを横目で一瞥してから、口に食べ物を運んだ。
彼女の落ち着かない様子は、食事を終えるまで続くことに。
そのせいか、彼女の食べる速さも若干速くなってた。
予定よりも速く部屋に戻り、出発の準備。
まだ午前の九時くらいだが、速く準備することに。
「え~っと、服に携帯、カメラに……あっ、そうだったか」
持ち物の確認を一つずつ丁寧にしていて、思い出す。あの切符のことを。
結局、あれから何がわかったわけではない。
今更考えたところで、謎は解けるどころか複雑に絡まるだけだろう。
携帯も、この村だと圏外だろうと思って、今日まで全く使っていなかった。
案の定と言うべきか、確認しても圏外のマークが浮かんでいる。
「ちょっと、いいですか?」
「うん? どうした?」
「いえ、その……外に、一緒に来てほしいのです。少し、話をしたいんですよ」
彼女の要求にわかった、と言って、手を引いて玄関へ。
戸を開けると、だるくなりそうな快晴が広がっていた。
思わず手で光を遮りながら、風通しのよい道へ。
迫力ある入道雲が縦に巻き上がりながら、空で踊っている。
「もう、あと数時間ですね」
「そう、だな。なんだ、寂しくて泣きそうなのか?」
ふざけて、からかう。
「別れは何度も経験しましたが、泣いたことはないですよ。でも、今は泣きそうなくらい辛いです。胸だって、苦しいくらいなんですから」
「だったら、今ここで泣いても――」
「ですけど別れのときくらいは、泣いちゃだめってことは、わかりますから」
彼女は、俺が思っているよりもしっかりとした女性だった。
空に揺蕩う眩しい太陽に目を細めながら、切に願う。
これが、彼女のこれが、これからも続きますように、と。
「あと、手術……受けてみる、かもです」
「本当か? 大丈夫なのか? 無理しているのか?」
「いいえ、無理もしてないです。その代わりと言ってはなんですが、交換条件です。私は、貴方の姿が見たい。なので、来年も来てください」
ひと夏の出来事は、未来へと。
空に霧散することはなく、ゆったりと流れることを彼女から条件として出された。
だったら、俺の答えは一つだ。
「勿論、君がそう言うなら。よければ、来年もお世話になるよ」
「えぇ、私もお世話になりますね。ただ、私は心が弱いので、手術できないかもしれませんが」
「その時は、その時だ。俺がまた、君の『目』になるよ」
彼女の『目』となって、この村を
最高の夢を、また味わう。
甘蜜の体験の予約は、さほど悪くなかった。
「貴方が訪れた日には、花火大会でも開いて歓迎しますよ」
「できるのか?」
「さぁ? どうでしょうね。もう、戻りましょうか。暑くて倒れてしまわれては、困ったことになりますから」
再び彼女の手を取って、家の中へと戻る。
準備を再開しつつ、一つの言葉を思い出した。
彼女の告げた、この村の噂。
『この夢見村の出来事が、全て夢になる、と』
そして俺は、ふっと笑ってしまった。
なるほど、確かにこの村は夢のように楽しかった、と。
昼になるまで、切符を無気力に眺めていた。
考えても一緒なことはわかっているが、どうしても気になっている自分がいる。
逆に眺めるだけで何かわかるかと言われると、そうでもなし。
時々に彼女と会話していたら、もう昼の時間はやってきた。
今この瞬間さえも例外なく、時間は過ぎゆくものだった。
重い荷物を持って、彼女と一緒に駅へ行く。
ご両親は家事に畑仕事と、忙しいらしい。見送りの言葉だけ、ありがたく頂いた。
俺と彼女二人共が、終始無言で駅へと歩んでいった。
荷物を持って、交差する畦道の中、一つを選んで進む。
気がついたら既に、駅の前へと到着していた。
時刻は一時。電車が来るまで、あと数分もない。
先に切符を買おうと、ホームに入る。
そして、驚いた。
何故なら、この間はいなかったはずの駅員が、いるのだから。
「この村を、出られるのですね?」
「え? あ、えぇ、はい」
「切符の、料金を」
言われて、小銭を数枚財布から出して、手渡す。
白髭を携えた、無口な五十代後半から六十代前半の、スーツ姿が映える男性。
料金分の切符を受け取って、疑問が浮かぶ。
「あれ、切符が二枚も? それに、一枚は……真っ白?」
文字も、数字も、何もかもが印刷されていない。
形こそ切符のそれだが、表面も裏面も真っ白な紙切れだ。
もう一枚は、俺が買おうとした切符で間違いない。ちゃんと印刷もされている。
「あの、これは――」
「降りた駅で、印刷された切符をお渡しください。白の切符は、貴方が望むのなら、これから肌身離さず持っていてください」
「望むの、なら? はあ、わかりました」
意味がわからずに腑に落ちないながらも、彼のもとを離れる。
そして間もなくして、踏切の警鐘が高鳴り始める。
もう、あと数十秒で列車はこの駅を訪れ、去っていく。
「あ、あの! 待ってください!」
彼女が大きな声で呼び止め、こちらへ駆け寄る。
思い切り走っていて、かなり危ない。
俺からも全速力で彼女へと走り、抱き止める。
「危ないじゃないか。そんなに急いで、どうしたんだ?」
「これを、受け取ってください」
そう告げられながら、彼女にある物を手渡される。
白い洋封筒で包まれた、何か。これは、恐らく。
「手紙……? で、でも君は――」
「はい。慣れないながらも、わからない漢字は母に感覚だけ教わって、頑張って私が書きました。よろしければ、列車の中でお読みください」
「……ありがとう。じゃあ、また来年。会おうな」
「えぇ。ありがとう、ございました!」
彼女の目から、一筋だけ、涙がこぼれ落ちる。
様子からして、彼女自身も気付いていないのだろう。
その健気な姿を見て、俺も涙を誘われたが、昼の彼女の言葉を思い出し、決心する。
泣くのなら、列車に乗り込んだ後にしよう、と。
列車に入って、足がコンクリートから無機質な鉄へと降りる。
扉を向いて、彼女へとできる限りで大きく手を振った。
そして、彼女からも、大きく手を振られる。
見えないはずなのに、俺の姿が見えて、反応しているようで嬉しかった。
扉は、煙の音を立てながら閉まってゆく。
完全に隔絶された後、ゆっくりと列車は加速する。
彼女が見えなくなるその時まで、ずっと手を振り続けた。
手を左右に動かした彼女が見えなくなって、無感動に手を降ろす。
心が虚無で塗りつぶされながらも、席へとつく。
行きの列車と同じく、乗客は誰一人としていなかった。
はぁっと溜め息を吐きながら、手元の封をされた手紙を見る。
涙が流れ落ちる前に封を開いて、手紙を開いた。
ばいばい、彼女(´;ω;`)
まだ最終回ではないですが、かなり近づいて参りましたぁ!(`・ω・´)ゞ