私は、目が見えない。
私は、目が見えていた。
私は、彼を見る。
私は、彼を見たい。
けれども、それは実現することのない願いだった。
彼をどれだけ見たとしても、見えない。認識できない。分からない。
どんな姿なのか、どんな表情なのか、どんな反応をしているのか。
音を聞き取っても、見えることは一向になし。
それを思い描く光景はあくまでも、私の想像の範疇を超えることがない。
彼は、大きく喜んでいた。
表情は見えなくとも、声が弾んでいたのですぐにわかる。
そんな純粋な少年のような無邪気さを含む歓喜の声が、また可愛らしい。
聞いているだけでも、私まではしゃぎたくなってくる。
「あ、あの!」
「ん? どうした?」
私は口を開こうとして、躊躇した。
ここで、自分の想いを伝えるべきなのだろうかと、迷ったのだ。
中途半端な好意は、口にしない方がずっといい。
でも、この機会を逃すときっと、明日には伝えられない。
会って間もない盲目者から好意をどれだけ懸命に伝えても、相手が困る一方な上に結果は目に見えている。
成否はどうあれ、想いは口にすることが大切だ。どんなに後悔しても、過ぎた後からでは遅いのだから。
頭の中で、様々な考えが横行する。
それらが交錯する中、私が出した答えは。
「……いえ、何でもありません」
――懐抱、だった。
―*―*―*―*―*―*―
どうしてだろうか、突然に彼女が萎れた。それも、はっきりと目に見えるほどに。
自分のせいかとも一瞬だけ考えるが、全くもって身に覚えがない。
さっきまで、あんなにも笑顔で写真を撮っていたのに。
急にしおらしくされると、心配になってくる。
「湖も、川も、蛍も、それに満天の星空も。全部が最高だった。ありがとうな」
「いえ……どういたしまして!」
「それじゃあ、これ以上夜が更けるのもまずい。帰ろうか」
俺がお礼を言うと、彼女の元気は少しだけ息を吹き返した。
一安心して、彼女の柔らかな色白の小さい手を握って、家まで戻る。
草木を揺らしながら、その度に灯りで照らすことを繰り返す。
何度か彼女が躓きそうになりながらも、余裕を持って受け止めた。
かくいう俺も、数度ほどだが躓きかけたのは内緒だ。
無事に二人共怪我なく、家まで辿り着いた。
着替えの間も、瞼を閉じればあの光景がすぐに目に浮かぶ。
相当に、目にも頭にも焼き付いた。
炎天下の夏の思い出は、十分だろうか。
それの続きに別れを告げることが惜しいが、やむを得ない。
彼女の着替えも終わって部屋に入り、布団を敷き始める。
残念ながら、もうそろそろ深更と呼ばれる時間だ。
「さぁ、もうそろそろ寝ようか。今日は……というか、今までありがとうな。今までって言えるほど長くはなかったけど、すごく嬉しかったよ」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。どうしても、寂しくはなるのですけれどね」
布団の中で、互いの手を伸ばして握り合う。
今夜はどうやら、別々の布団で寝るようだ。
昨夜限りの甘美な夢、というところだろうか。
「……ごめんなさい、失礼します」
――と、思っていたのだが。
彼女が断りを一つ入れながら、俺の布団へと静かに侵入。
一人分の熱が加わって、掛け布団の中で優しく溶け込んでゆく。
「昨日に加えて申し訳ないですが、最後ですから、甘えさせてください」
「俺でよければ、いくらでも」
徐に彼女を受け止めて、手を繋ぎ直す。
暖かみをより敏感に感じられて、手が震えそうになる。
この感覚も、恋故のものなのだろうか。
自問したはいいものの、それ以外には考えられまい。
恋の悦楽に思い切り浸っているにも関わらず、眠気はしっかりと手招きを始める。
微睡みを憶え始めた思考が、徐々にだが呆けていくのがわかった。
少しずつ、睡魔の囁きがぼやけていく。
「あ~……ごめん。すっごく眠いよ」
「ふふっ、いいんですよ、私も一緒に寝ますから。おやすみなさい」
自分の睡眠欲に完全に身を委ねて、瞼を閉じてゆく。
ふわりと自分の身体が浮かんでいく感覚が、どうしようもなく気持ちがいい。
帰宅するまでに今日使った体力と集中力は、思ったよりも疲弊となって積まれていたようだ。
ほんのりと暖かくなった全身が、さらに胸の中で静かな高揚感を誘う。
既に細々となっている意識が途切れる直前に、手が温もりを失った。
何でだろうか。どうしてだ。そう考える暇すらなく、俺の自我は闇へと飲み込まれる。
唯一、漆黒へと放り込まれなかった感情は、寂寥だった。
―*―*―*―*―*―*―
彼が声を発しなくなる。気のせいか、呼吸音も静かかつ規則的になりつつもあった。
それを確認してから、名残惜しくも繋がれた手を離して、布団を出る。
熱を逃がさないようにしてから、彼に布団をかけなおす。
彼の寝顔は、見てみたかった。
そんな自分の願望はどうしても叶わないので、諦める他ない。
思いの外、彼の寝顔は可愛いのかもしれない。
材料さえもない想像は、悲しいながらもしてしまう。
誰しもが、叶わないと知ってから、潔く諦めきれるわけではないのだ。
靄のかかった思考を振り切って、部屋を出る。
恐らく今の時間は、十時を軽く回っている頃合いだろう。
廊下を歩くことで、木材がほんの少しだけ軋む。
聞き慣れているとはいえ、僅かな恐怖をそそられる。
向かう先は、お母さんの部屋。
明日も農作業で朝が早いお父さんは、もう既に眠りについているだろう。
そんなお父さんを、無下に起こすなんて行為は、私にはできそうにもない。
歩く度に響く
見えないが、慣れた手つきで戸を開いた。
光の眩しさが感じられるので、まだお母さんは起きているはずだ。
「お母さん、少し、いいかな?」
「え? い、いいけど……もうこんな時間よ? 大丈夫なの?」
「うん。私は大丈夫だよ。どうしても、手伝ってもらいたいことがあるんだ」
彼との夢のような劇場の幕は、今現在降りている真っ最中だ。
しかし、まだ舞台上でお客さんの方々に礼をしている。
まだまだ、登場人物としてのパフォーマンスは続いている。
観客と舞台人を仕切る幕が、完全に降りきってしまう、その時まで。ずっとずっと。