八月の夢見村   作:狼々

26 / 31
湖畔

 家に着いても、まだ夜は目覚めていなかった。

 ほんのりと濡れた薄紅に彩られた西の空。

 まだ鳴りを潜めている鈴虫の声が聴こえるのは、いつになるのだろうか。

 

 夕食の時間が終わって、ようやく夜の帳が下りた。

 暗がりに入り浸った外の空気は、見た目とは裏腹に昼と同じく澄んだままだった。

 昼間の猛暑が嘘とも感じてしまえるほどに、肌に触れる風が涼しい。

 

 家の懐中電灯を借りて、彼女と共に出発。

 彼女曰く、「見せたい光景がある」、とのこと。

 しっかりと忘れずに、首にかけておいたデジタルカメラを確認した。

 手元足元のみを閉鎖的に照らす灯りをかざしていると、どこか肝試し中のようにも感じられる。

 

「どうですか? 暗くて危ないなら、無理して行かなくてもいいんですよ?」

「少し不安だが、大丈夫だ。少なくとも、平坦な道が続く限りは、な」

「結構近いので、迷うことはないと思いますが……」

 

 しかし、ここに傾斜が加わるとなると、やはり不安は募る。

 夢見村は小さいとはいえ、自然が極端に多い地域だ。

 勿論木の数は想像を遥かに凌駕していて、気がついたら足元に根が張ってあった、なんてこともある。

 

 前を照らしていたなら、足元への注意は疎かになる。

 慎重かつ確実に、周囲の安全には気を配る必要があるのだ。

 

 さらに、彼女だって俺と手を繋いでいる。

 片方が躓いたならば、片方もそちらに引き寄せられる。

 彼女の『目』となるべく、二人分の注意を払いながら、彼女の指示に従う。

 

「この辺りの二つ目の角を、左です」

「了解。……あっ、すぐそこ。足元に木の根があるよ。気を付けて」

「わ、わかりましたが、見えなくて――あっ!」

 

 彼女が足を引っ掛けて、前に倒れ込む。

 特に彼女の安全には気を遣っていたので、機知ともならずに先回りして難なく受け止める。

 予想はしていたが、これ以上進むのは厳しいだろうか。

 

 彼女は……言い方が悪いが、昼でも夜でも視野の広さは関係ない。

 ただ、俺が道を自由に選ぶことができるかできないかの違いだ。

 昼なら障害物も見やすいが、今のような時間ともなると、そうともいかないのが現実。

 怪我をする可能性も十二分にあるので、最善の選択は間違いなく、ここで引き返すことだろう。

 

「なぁ、まだそこまで遠くには来ていない。今からでも帰って――」

「いえ。貴方に、どうしても見てもらいたいんです。それに……こうやって、貴方が受け止めてくれますから」

 

 互いの存在を確認するかのように、抱擁に近い抱き止め。

 体温は分かたれて、冷ややかな空気が二人の間でのみ遮断される。

 辺りは静寂に包まれて、この距離を一層と意識させられた。

 

「受け止める分には、いくらでも受け止めるさ」

「では、決まりですね。私の安全、全部任せましたよ?」

「そ、そう言われると緊張するなぁ」

「大丈夫ですよ。何となく、そんな感じがしますから」

 

 案外、彼女は直感的な人物なのだろうか。

 明確な根拠なしに、俺に身を託すなど少しくらいは焦ったり、不安になるだろうに。

 一向にその様子を見せない笑顔は、暗闇の中でもしっかりと視認できた。

 

 懐中電灯をきゅっと握りしめ、彼女の足元を照らす。

 暗くてもある程度は見える俺よりも、手を引かれる側の彼女の足元を照らす方が得策だ。

 時々こちらの地面も明るみの傘下に入れながら、着々と進んでゆく。

 ゆっくりと、しかし、確実に。

 

 そして、彼女の声がかかった。

 

「もうすぐのはずですよ。着いたら、すぐに貴方もわかります」

「へぇ、それは楽しみだな……あぁ、なるほど。ここか」

「どうですか、感想は?」

「そうだなぁ。幻想的で、神秘的で、夏の風物詩って感じがする。俺も今まで、こんな光景は見たことがない」

 

 眼前に広がっているのは、少し大きめの湖と、それに向かって流れる川。

 控えめな水音が空気を揺らし、水面には波紋が広がった。

 鬱蒼と茂る草木が、湖を囲んでいる。

 そして今、俺は懐中電灯は湖に向けていない。

 では何故、そんなにも目の前の風景がわかるのか。

 

 それは――()()()()()()()()がいたからだった。

 鮮やかではないが、厳かな黄色が、俺の目の前から湖の奥、さらには川の上まで。

 水辺に響く夜の合唱は、今回ばかりはいつもの鈴虫ではなく、蛙達へとバトンタッチ。

 

 蛙の鳴き声と聞くとあまり良いイメージがないが、大多数の響きともなると、それは瞬時に瓦解された。

 酔ったように各々が好き勝手に鳴き出す様は、迫力が想像よりもある。

 時々に訪れる、一弾指の鳴き声が収まった瞬間さえも、味があった。

 

 蛍はと言うと、湖に添えられた緑草から緑草へと飛び回ったり、その場を浮遊している。

 間隔の開いた光の明滅が、不規則的な花火のようにも見えていた。

 これほど数多の蛍の集団は、見たことがない。

 それもそのはず。それは紛れもなく、この夢見村の溢れる自然あってのものだろう。

 

 自然環境をそのまま残しやすいこの村は、人の手が加えられることも少ない。

 蛍や鈴虫も、住処を奪われることなく雄大に過ごすことができる、というわけだ。

 

「どうです? 私にも、光は感じ取れますよ」

「ほ、本当か!? 綺麗だよな!」

「ふふっ、はいはい、綺麗ですね。そんなにはしゃぐとは思ってませんでしたよ。私としても、喜んでもらえたようで嬉しいです」

 

 彼女が、過去最大の呆れ顔で笑う。

 俺としても、この光景を一部とはいえ彼女と共有できていることに、無類の喜びを感じていた。

 

 ふと首に残る重さに気がついた。

 慌てるように湖と川にレンズを向け、シャッターを切る。

 

 撮った写真を見ると、いくつもの黄色の点が黒の中に埋め込まれていた。

 単色の黄色ではなく、もっともっと深みのある黄色が焼き付けられている。

 

「よし、じゃあモデルさん、お願いします!」

「わかりました、カメラマンさん。ご希望のポーズは?」

「そうだな~、ちゃんと目を開いて、帽子でも隠さないなら何でも。君に任せるよ」

 

 俺がカメラを向けて、彼女に合図を送る。

 ポーズを取り終わった彼女を確認してから、恒例の挨拶を口にして湖畔の背景と彼女を一枚の写真に封じ込めた。

 収まっていた彼女のポーズは、確認した通り、帽子を片手で上げ、片手はピース。

 表情は、目をしっかり開けた眩い笑顔だった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。