八月の夢見村   作:狼々

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 まさか、本当に抱きしめてもらえるとは、思ってもみなかった。

 心臓は高鳴っているはずなのに、この上ない安らぎを感じられる。

 充足感が湧き上がっているのが、簡単にわかってしまう。

 

 ただ、それと同時に胸に穴が空いてしまったような虚無感に駆られる。

 自分でさえも、その矛盾した感情が不思議でならなかった。

 

 けれども、そのすぐ後に腑に落ちる答えが出る。

 きっと……いや、この気持ちには以前から察しがついていた。

 なので、きっとなんて言葉よりも確実なのだ。

 

 私は彼に、恋をしているんだ。

 満たされても満たされても、次の段階を渇望してしまう。

 こんな症状は、恋に他ならない。

 

 恋とは、本当に困ったものだ。

 彼が眠っている今、寝息が耳や髪にかかる度にゾクゾクしてしまう。

 気付かれないという状況が、私の心を大きく揺らした。

 しかしながら、いつ起きてしまってもおかしくはない。

 

 結局、自分の湧昇する欲に勝てなかった。

 欲に忠実に、自分から彼に寄って抱きしめる。

 より密着して、背中に伸ばした腕も、震えてしまう。

 

 少し細いながらも、やはり女性とは違って屈強な体つきだ。

 彼の胸に顔を埋めると、それがもっとわかって更にドキドキしてしまう。

 

 正直、顔の端麗さなどの容姿に関するところは、どうでもよかった。

 目が見えない私は、彼の見た目ではなく、正真正銘の中身に惚れたんだと知って、嬉しくなる。

 自分が外見に騙されていないとわかって、安心した。

 

 優しさに、惚れたのだろう。

 いつだって優しく、さっきだって支えてくれた。

 辛辣な声色は一切見せず、変わらずに接してくれる彼を好きになったことに、妙に納得がいく。

 

「君の目に、かぁ」

 

 彼との、明日限りの約束。

 明後日の昼に、必然的な別れが待っているのだから。

 それを思うと、胸がきゅっと締め付けられる。

 

 その上で彼は、この約束を取り付けてくれたのだ。

 だったら、私は彼の想いに答える必要があるだろう。

 揺るがない事実は、彼は私のために動いていること。

 それが、心から嬉しい、変わらない事実だ。

 

 ふとした眠気に襲われて、瞼が重くなる。

 彼の腕の中で、暖かさに包まれながらゆっくりとシャッターを下ろす。

 彼に抱きついたまま、ゆっくりと。

 

 

 

 朝、小鳥の囀りが遠くで聞こえるのを感じながら、目を開く。

 何も見えないことに変わりはないが、これからは目を開けることを意識しようと思ったのだ。

 それで、今までの自分と何か変わりそうな気がしたから。

 

 彼はまだ、寝顔を私の前で晒しているようだ。

 小鳥ではない囀りが、すぐ近くで小さく聞こえている。

 

 少しだけ抱きついて、後ろ髪を引かれる思いで部屋から出る。

 台所から料理の音が聞こえきた。

 

「あら、おはよう。今日は早いのね」

「そうかな? それでね……あの人に、目のことを話したの」

 

 そう告げると、お母さんの声が止まった。

 顔が見えなくてもわかる、険悪な雰囲気の流れ。

 

「それで……どうだったの?」

「うん。あの人は、優しかった。御蔭で、泣いちゃった」

「そう……よかったわ」

 

 本当に嬉しそうに言ってくれる。

 そこには、どこか安堵のようなものも感じた。

 

 朝のはずなのに、目が冴えている。

 勿論、景色が見えているわけではない。

 のだが、目が軽いような変とも言える感覚に浸っていた。

 

「ねぇ、お母さん」

「どうしたの?」

「私ね、あの人のことが……好き。好き、なの」

 

 自分でも、何で言ったのかわからない。

 何の意味もなく、ただ誰かに言いたかっただけなのかもしれない。

 彼に言う勇気がなく、他の誰かに言うことを代わりに立てたのかもしれない。

 

 でも、言わなければならないとは思った。

 ここできちんと自分の想いを形にしないと、崩れてしまうような気がしたのだ。

 

 伝わる・伝わらないという問題ではない。

 相手が合っている・間違っているという問題ではない。

 口に出すことで、自分に対する決意表明にも似たことをしたかった。

 

 実質、彼とゆっくり交流できるのは、今日でお終いだ。

 明日は彼も、色々と帰りの準備で忙しくなるはず。

 中途半端な想いでも、中途半端なままで形にしておくべきだと思った。

 

 きっと私は、この想いが伝えられない。

 それを、心のどこかで理解していたのだろう。

 

「……そう。よかったわね」

「何も、言わないの? まだ数日しか経ってないし、私だって目が見えないのに?」

「私から言わせてみれば、恋愛には関係ないさね。想いがあれば、それでいいんだよ」

 

 お母さんは柔らかく、どこか懐かしむように言う。

 自分の経験を思い出すかのように、懐かしんで。

 

「期間が長い方がいいとは言うけど、結局は想いの強さよ。あらやだ、お父さんのことを思い出しちゃうわね」

「ん? どうした? 俺がどうかしたのか、母さん?」

 

 お父さんの声が、廊下から聞こえた。

 眠そうな声が、農作業の疲労具合を顕著に表わしている。

 いつも大変そうで、娘の私としてはちょっと心配だったり。

 

「あのね、この子が恋をしたんだって。あの旅の人に」

「おおっ!? お父さんとしては複雑だが、あの兄ちゃんは礼儀もいい好青年だし、推したいところだぞ」

「お、お父さん!」

「ごめんごめん。でも、中々いい男を好きになったじゃないの。やっぱり恋愛の一つや二つ、してみるもんだぞ?」

 

 私も、以前とは変わった気がする。

 目に見える大きな変化はないかもしれないが、精神面では大きく影響はあっただろう。

 恋愛に慣れていないせいで、この気持ちの制御に困っていることもまた事実なのだが。

 

「おはようございます」

「おっ、噂をすればってやつだな」

 

 話の途中で、彼が起きてここへやってきた。

 急に彼の声が聞こえるだけでも、私の心臓は跳ねてしまう。

 変な緊張感が、全身をくまなく駆け抜ける。

 

 そして、昨日の夜を思い出してしまった。

 決して他人に言えることではない、恥ずかしさに塗れた昨日の夜。

 

「え、ええっと……僕が、どうかしましたか?」

「いいや、何にもないさ。強いて言うなら、ありがとうってな。こいつを支えてくれて」

「あぁ、そのことですか。いえいえ、僕にできることなら何でもしますよ」

「やっぱりお父さん、推したいぞ」

「もう、お父さんったら。もうすぐ朝ごはんができ上がるわ。座って頂戴」

 

 お母さんの呼びかけで、歩く音と椅子を引く音が重なる。

 そして、さらに驚いた。

 

 誰かが、私の手を引いたのだ。

 少し引かれるがままに歩いて、止まったところから椅子を引く音。

 もう、大体予想ができた。

 

「あの、テーブルくらいは座れるので、嬉しいのですが大丈夫ですよ?」

「そういうわけにもいかないさ。昨日、約束したじゃないか」

 

 ……そうだ。

 この数日しか関わっていないが、彼の性格はこうだった。

 正直者で、お世辞も嫌いなほどの真っ直ぐで、素敵な人。

 自分から言いだした約束を、早速破るようなことはしないわけだ。

 

 今日は、彼の優しさに甘えてしまおうか。

 せっかく今日が最後なのだから、存分に。

 昨日甘えてもらったばかりだが、彼なら許してくれそうな気がした。


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