まさか、本当に抱きしめてもらえるとは、思ってもみなかった。
心臓は高鳴っているはずなのに、この上ない安らぎを感じられる。
充足感が湧き上がっているのが、簡単にわかってしまう。
ただ、それと同時に胸に穴が空いてしまったような虚無感に駆られる。
自分でさえも、その矛盾した感情が不思議でならなかった。
けれども、そのすぐ後に腑に落ちる答えが出る。
きっと……いや、この気持ちには以前から察しがついていた。
なので、きっとなんて言葉よりも確実なのだ。
私は彼に、恋をしているんだ。
満たされても満たされても、次の段階を渇望してしまう。
こんな症状は、恋に他ならない。
恋とは、本当に困ったものだ。
彼が眠っている今、寝息が耳や髪にかかる度にゾクゾクしてしまう。
気付かれないという状況が、私の心を大きく揺らした。
しかしながら、いつ起きてしまってもおかしくはない。
結局、自分の湧昇する欲に勝てなかった。
欲に忠実に、自分から彼に寄って抱きしめる。
より密着して、背中に伸ばした腕も、震えてしまう。
少し細いながらも、やはり女性とは違って屈強な体つきだ。
彼の胸に顔を埋めると、それがもっとわかって更にドキドキしてしまう。
正直、顔の端麗さなどの容姿に関するところは、どうでもよかった。
目が見えない私は、彼の見た目ではなく、正真正銘の中身に惚れたんだと知って、嬉しくなる。
自分が外見に騙されていないとわかって、安心した。
優しさに、惚れたのだろう。
いつだって優しく、さっきだって支えてくれた。
辛辣な声色は一切見せず、変わらずに接してくれる彼を好きになったことに、妙に納得がいく。
「君の目に、かぁ」
彼との、明日限りの約束。
明後日の昼に、必然的な別れが待っているのだから。
それを思うと、胸がきゅっと締め付けられる。
その上で彼は、この約束を取り付けてくれたのだ。
だったら、私は彼の想いに答える必要があるだろう。
揺るがない事実は、彼は私のために動いていること。
それが、心から嬉しい、変わらない事実だ。
ふとした眠気に襲われて、瞼が重くなる。
彼の腕の中で、暖かさに包まれながらゆっくりとシャッターを下ろす。
彼に抱きついたまま、ゆっくりと。
朝、小鳥の囀りが遠くで聞こえるのを感じながら、目を開く。
何も見えないことに変わりはないが、これからは目を開けることを意識しようと思ったのだ。
それで、今までの自分と何か変わりそうな気がしたから。
彼はまだ、寝顔を私の前で晒しているようだ。
小鳥ではない囀りが、すぐ近くで小さく聞こえている。
少しだけ抱きついて、後ろ髪を引かれる思いで部屋から出る。
台所から料理の音が聞こえきた。
「あら、おはよう。今日は早いのね」
「そうかな? それでね……あの人に、目のことを話したの」
そう告げると、お母さんの声が止まった。
顔が見えなくてもわかる、険悪な雰囲気の流れ。
「それで……どうだったの?」
「うん。あの人は、優しかった。御蔭で、泣いちゃった」
「そう……よかったわ」
本当に嬉しそうに言ってくれる。
そこには、どこか安堵のようなものも感じた。
朝のはずなのに、目が冴えている。
勿論、景色が見えているわけではない。
のだが、目が軽いような変とも言える感覚に浸っていた。
「ねぇ、お母さん」
「どうしたの?」
「私ね、あの人のことが……好き。好き、なの」
自分でも、何で言ったのかわからない。
何の意味もなく、ただ誰かに言いたかっただけなのかもしれない。
彼に言う勇気がなく、他の誰かに言うことを代わりに立てたのかもしれない。
でも、言わなければならないとは思った。
ここできちんと自分の想いを形にしないと、崩れてしまうような気がしたのだ。
伝わる・伝わらないという問題ではない。
相手が合っている・間違っているという問題ではない。
口に出すことで、自分に対する決意表明にも似たことをしたかった。
実質、彼とゆっくり交流できるのは、今日でお終いだ。
明日は彼も、色々と帰りの準備で忙しくなるはず。
中途半端な想いでも、中途半端なままで形にしておくべきだと思った。
きっと私は、この想いが伝えられない。
それを、心のどこかで理解していたのだろう。
「……そう。よかったわね」
「何も、言わないの? まだ数日しか経ってないし、私だって目が見えないのに?」
「私から言わせてみれば、恋愛には関係ないさね。想いがあれば、それでいいんだよ」
お母さんは柔らかく、どこか懐かしむように言う。
自分の経験を思い出すかのように、懐かしんで。
「期間が長い方がいいとは言うけど、結局は想いの強さよ。あらやだ、お父さんのことを思い出しちゃうわね」
「ん? どうした? 俺がどうかしたのか、母さん?」
お父さんの声が、廊下から聞こえた。
眠そうな声が、農作業の疲労具合を顕著に表わしている。
いつも大変そうで、娘の私としてはちょっと心配だったり。
「あのね、この子が恋をしたんだって。あの旅の人に」
「おおっ!? お父さんとしては複雑だが、あの兄ちゃんは礼儀もいい好青年だし、推したいところだぞ」
「お、お父さん!」
「ごめんごめん。でも、中々いい男を好きになったじゃないの。やっぱり恋愛の一つや二つ、してみるもんだぞ?」
私も、以前とは変わった気がする。
目に見える大きな変化はないかもしれないが、精神面では大きく影響はあっただろう。
恋愛に慣れていないせいで、この気持ちの制御に困っていることもまた事実なのだが。
「おはようございます」
「おっ、噂をすればってやつだな」
話の途中で、彼が起きてここへやってきた。
急に彼の声が聞こえるだけでも、私の心臓は跳ねてしまう。
変な緊張感が、全身をくまなく駆け抜ける。
そして、昨日の夜を思い出してしまった。
決して他人に言えることではない、恥ずかしさに塗れた昨日の夜。
「え、ええっと……僕が、どうかしましたか?」
「いいや、何にもないさ。強いて言うなら、ありがとうってな。こいつを支えてくれて」
「あぁ、そのことですか。いえいえ、僕にできることなら何でもしますよ」
「やっぱりお父さん、推したいぞ」
「もう、お父さんったら。もうすぐ朝ごはんができ上がるわ。座って頂戴」
お母さんの呼びかけで、歩く音と椅子を引く音が重なる。
そして、さらに驚いた。
誰かが、私の手を引いたのだ。
少し引かれるがままに歩いて、止まったところから椅子を引く音。
もう、大体予想ができた。
「あの、テーブルくらいは座れるので、嬉しいのですが大丈夫ですよ?」
「そういうわけにもいかないさ。昨日、約束したじゃないか」
……そうだ。
この数日しか関わっていないが、彼の性格はこうだった。
正直者で、お世辞も嫌いなほどの真っ直ぐで、素敵な人。
自分から言いだした約束を、早速破るようなことはしないわけだ。
今日は、彼の優しさに甘えてしまおうか。
せっかく今日が最後なのだから、存分に。
昨日甘えてもらったばかりだが、彼なら許してくれそうな気がした。