彼女は、俺の言葉に嬉しいと、そう言ったのだ。
それを聞いただけで、俺自身としても、救われた気がした。
「泣きたいなら、泣けばいいさ。感涙でも、悲泣でも」
「じゃあ、本当に泣いちゃいますよ。いいんですか?」
「ああ、好きなように。俺にできることなら」
「……じゃあ、ちょっとだけ、胸を貸してください」
俺の返事の前に、こちらに倒れ込む彼女。
突然のことに少々慌てながらも、拒む気は微塵も起きなかった。
そして再び聞こえる、彼女の泣き声。
すすり泣く彼女の方は、小刻みに上下する。
すぐ近くで聞こえる濡れた声に、ドキッとしてしまう自分もいた。
「私……ずっと辛かったん、ですよ」
「そうだな。辛かったな」
「痛かったんです。ずっと」
「痛かったな。わかるなんて軽はずみに言えるわけじゃないけれど、よく頑張ったな」
そうそう、人の苦難や努力を共感することはしてはいけない。
大事な場面であればあるほど、実際にはそうなのだ。
相手の立場に立って励ます。そこまでは問題はない。
ただ、相手になりすますように共感することは、論外だ。
それらを積み上げた者からしてみれば、何もしていない人間と同じだと言われていることに等しい。
きっと無責任な共感は、婉曲的な卑下と同等なのだろう。
称賛と共感は、必ずしも等式として結ばれるとは限らない。
「貴方のそういう優しいところ、私は……好きですよ」
囁かれるように、彼女の声は耳元で響き渡った。
急に心拍は落ち着かなくなり、音は大きくなる。
彼女に聞こえてしまうんじゃないかと、緊張もあった。
好きな人を軽く抱きしめているだけでも、相当な緊張感が全身に巡る。
その上に、告白紛いの言葉を言われると、嫌でも鼓動は加速を始めてしまう。
そして、俺は何を血迷ったのだろうか。
彼女の艶やかな黒髪を、撫で始めた。
自分でも無意識の内に、きめ細やかに輝く黒絹を。
俺が自分の成していることに気付いたのは、彼女の途切れ途切れの泣いた声が聞こえなくなったときだった。
「あ、あぁ、ごめん。嫌だったか」
「い、いえ! 違う、のです。落ち着くので、涙も止まってきたんです。えへへ」
繊細な髪を、流れに逆らわず、優しく撫でる。
俺の手が行き来する度に、彼女は気持ち良さ気に目を細めた。
面白くも、その可愛さに心が盛大に揺れている。
多少の好奇心に駆られ、手を止めたらどうなるのかという疑問も生じた。
好奇心と疑問の赴くまま、考える間もなくして手を止める。
すると、彼女は喪失感を前面に出して、物欲しそうな顔をした。
心がくすぐったくなり、再度手を動かすと、同じように目を細めて満足そうに。
可愛すぎて、心が本当にくすぐったい。
「なぁ。君は、手術は受けないのか? 角膜なんだろう?」
「……はい。現に、手術を事故のすぐ後に提案されました。ただ、怖かったのです。今でも、それは変わりそうにありません」
俺だって、突然目の手術と言われると怖い。
臓器の手術も怖いが、目となると別種の恐怖がある。
特に、事故で一度目に影響があったので、手術で更なる影響があったらと考えると、尚更だろう。
「その、今から話すのは勝手な俺の言葉だから、聞いてもらわなくても構わない。不快だったら、耳を塞いで無視してほしい」
一度だけ短い深呼吸をして、告げる。
これから言うことは、彼女にとってはどんな意味があるのだろうか。
想像できない辺り、俺は彼女を完全に理解しきっていないのだろう。
――だからこそ、彼女を少しでも理解したかった。
「いつかでいい。手術を……受けてみないか」
「…………」
わかっている。俺の出る幕ではないことくらいは。
わかっている。俺自身では、どうしようもないことくらいは。
――わかっている。彼女が、手術が怖いことは。
「本当に、俺の醜い自分勝手な願いなんだよ。君と目を合わせて話をしたい」
「私だって、できることならそうしたいです。貴方の姿が見たい。夢の中でしか見たことがない貴方が、今どんな表情で、どんな格好で話しているのか気になって仕方がありません」
俺の予想に反して、彼女の声は穏やかなままだった。
もう少し、声が荒くなるか、冷たく突き放されるかと思っていたのだが。
彼女は、どこまで温厚なのだろうか。
ある意味で、底知れない。
「やっぱり、怖いか?」
「はい、とっても。できれば、このままでいたいのです」
――なりすます共感はタブーだ。
相手を暗に見下す行為とほぼ同意であるから。
ただ俺は、同じ共感でも好まれるものもあると思っている。
彼女に、好まれたかった。
恋愛的にではなく、人間的に。
同じ人間として、好ましく思われたかったのだ。
自分が一番なことが情けない。
今の今まで、彼女の為と称して自分への責任と罪悪を忌避していたことが、恥ずかしくて仕方がない。
だから、俺は償いたいのだ。
小さかろうと、大きかろうと、それは俺にとって立派な罪だった。
ただの罪滅ぼしという甘い考えではなく、彼女の為を第一に考えた結果だった。
「俺は、明後日には帰らないといけない。それまででいいんだ。その間だけ――
「……え、えっと、それはどういう――」
「君の目の代わりになりたい。君の手を引いて、色を見せて、側にいたいんだ」
今の俺にできることは、彼女の『目』となることだ。
視覚情報が共有されるはずもなく、彼女の目は見えないことに変わりはない。
けれども、不束ながらに彼女の『目』になりたい。
彼女の隣に、立ちたい。
彼女にとっての、『特別』になりたいことの暗示だった。
「私の、ですか? ふふっ、おかしなことを言う人ですね」
「な、何だよ。俺だって、言うのは結構恥ずかしかったんだぞ?」
側にいたいと言うと、本当に告白しているような気分になった。
体が一瞬で火照り、羞恥で顔まで赤くなっていないか心配だったのだ。
彼女に俺の表情が見えていたなら、さぞいじられていたことだろう。
「いえいえ、そうではないのです。貴方が言っている内容だと、もう貴方は私の目になってるぁ、と」
「は……? いや、どうして?」
「そのままですよ。私の手を引いてくれて、今までにない鮮やかな色を見せてもらってくれたんですから」
俺は一体、彼女にとっての何なのだろうか。
手を繋ぎたいと思ったことはあったが、彼女から手を差し出したことが殆どだ。
色だって、まだ彩られるくらいに楽しませることができなかったはず。
「実は私、貴方といるだけで鮮やかな色が見えるんです。それはもう、幸せな色ですよ」
「……そうか。それなら、よかったよ」
「むう、納得してませんね? もう寝ましょう。明日、ゆっくりともう一度話しましょう」
一旦時間を置くためにも、明日のためにも、この時間に布団を用意する。
二人分の布団を敷いて、電気を消した後に、互いに各々の布団へと入る。
夜空で微睡む月光は、弱々しい。
しかしながら、その光は部屋全体を微弱ながらに照らしあげている。
穏やかな明るみに包まれながら、目を閉じようとしたその時。
「あれ? 布団の中では抱きしめてくれないのですか?」
「え、えぇ!? い、いやでも……」
「あ~あ、残念です。胸を貸してくれたり、目になりたいとか言ってくれましたが、嘘だったんですね。私は悲しいですよ~」
とはいえ、前言撤回はできない。
かといって、こうして横たわっている中で抱きしめるのは、如何せん密着度が……
自分の中で葛藤しつつも、欲に負けながら彼女を優しめに抱き寄せる。
一つの布団で、二人が入っている状態。
「ありがとう、ございます。暖かいですね。それに、吐息が少しくすぐったいです」
「し、仕方ないだろ、近いんだから」
そう言うと、彼女が布団の中で手を動かし始めた。
首やら頭やらを、手探りに伝っていく。
吐息よりもくすぐったいのは、こっちに違いない。
妙にそわそわとしていると、彼女に後頭部を引き寄せられる。
そのまま動きは、相互の額と鼻がくっつくまで続くことになった。
「ふふっ、おやすみなさい」
「あ、あぁ、おやすみ」
もう少し近付けば、キスだってできそうな距離だ。
自分の中で、必死に煩悩を抑えつける。
俺にとって過酷な状況下で、実際にできたのは、顔をずらすくらいだった。
彼女の吐息も、俺の吐息も、髪やら耳やらにかかって背筋に電流が走る。
悪寒ではない、一種の快感に身を蝕まれる前に、無理矢理に目を閉じた。
意識を引きずり下ろす直前に、彼女の声が聞こえた。
小さいな、囁きが。
「本当に、ありがとうございます」