彼女の過去を詳しく書きます。
天にまで届きそうな、窓ガラスが沢山張り付けられた建物。
灰色ばかりが並んでいる、直方体の集まり。
今でも、その光景は鮮烈に思い出すことができる。
秋とも冬とも言い難い、涼しい季節だったと思う。
滅多に見ない高層ビルの連なりにはしゃぎながら、おじいちゃんとおばあちゃんと歩道を歩いている光景。
今から始まる、私のそれから人生を大きく左右する出来事。
ふと、轟音がこちらへと向かってきているのがわかった。
けたたましいそれは、一向に収まる気配がない。
私に近付くにつれて、当然ではあるが、元の咆哮をさらに反響させた。
耳を塞ぎたくなるような、急ブレーキの音は――
エンジン音は、目の前を通過。
誰しも子供のときには、車に轢かれるな、気をつけろ、と強い親からの忠告があったはずだ。
私もそれに漏れることはなかったので、車が物凄い速度で眼前を駆けたときは、死んでしまうんじゃないかと怖くなった。
音量がピークに達したとき、別の嫌な音も聞こえる。
硝子が、思い切り弾けた音。
食器が割れた音と似ているが、規模は格段な差があった。
その瞬間、私の目に激痛が走った。
死の恐怖は消え去り、その場所で感じたことのない痛みへの恐怖が押し寄せる。
目を擦る余裕すらなかった。今考えると、それは正解だったのだろう。
もし実行していたならば、私の傷は、果たして角膜で済んだだろうか。考えるだけでも、恐ろしい。
痛みが走った後は、鮮明には覚えていない。
唯一 覚えていることが、車の衝突による爆音と、周囲の人達の慌てた悲鳴。
そして暫くの後、初めて聞いた救急車の音。
それだけしか、覚えていなかった。
記憶がはっきりとしたのは、心電図の電子音が聞こえたときからだった。
目に見えたものは、白一色。
天井が見えなかった。それもそうだ、目を覆っていたものがあったのだから。
ただ、それが眼帯だったのか、ガーゼだったのかはわからない。
しかし、何もかもが見えないことに、変わりはなかった。
数日も経たずに、私は当時、どんな状況に立たされているのかを知った。
目が見えなくなったことも、当然知った。
不思議と、私は悲しくなかった。涙も流れなかったのだ。
お母さんもお父さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも泣いていた。泣き声が聞こえた。
私が言葉にできたのは、確かこうだったはず。
「おじいちゃんとおばあちゃんが、こうならなくてよかった」
その言葉を告げたときに、嗚咽が強く聞こえる。
目に見えるものは変わらず白のままなのに、泣いていることはすごくわかった。
それでも、私は悲しくなんてない。
涙も、一筋さえも流れることはなかった。
間もなくして、目の手術の話をされた。
子供の私にはよくわからなかったが、今なら両親に聞いた話だがわかる。
角膜を
亡くなった方の角膜を凍結保存したものを、私の傷の付いた角膜と交換するというものだった。
全員が、施術を私に勧めた。
けれども、私は頑なに拒んだ。
怖かったのだ。これ以上、自分の目に何かがあることに。
手術は、初めて。今まで受けたことがない。
そんな私の初手術が、角膜ともなると、レベルが高すぎた。
手術自体怖いものなのに、目となるとその恐怖は膨張する。
私の意志は、思ったよりも薄弱だったのだ。
子供の私は、恐怖に従順だった。残念なことだが。
結局、私本人の強い拒絶によって、手術は行われないままとなる。
皆に怖かったことを伝えると、無理をする必要はないと慰めてくれていた。
気が変わったら、いつでも言うようにとも言われた。
ただ、私は今でも手術は受けていない。
怖いのも、勿論大きな理由だ。
もう一つの理由は、手術費だった。
決して足りないわけではない……と思う。
ただ、夢見村に住んでいる以上、必要以上にお金はなくてもいい。
娯楽なども、殆どないのだから。
そして、私は都会から夢見村へと引っ越した。
この村が、目が見えなくても村の中ならどこへでも行けるほどの規模だから。
村の皆は、今でも優しく接してくれる。
八百屋の店員さんなんて、私を見ただけで買う物とその量まで思い出してくれるのだ。
時々、買い物帰りに荷物を持ってもらえたこともあった。
それを思うと、例え目が見えなくとも幸せだ。
旅の方を泊めて、話をしてもらっては、私が盲目であることに気付かれた。
その全員が気にしていない様子だったが、その後の行動が、全て他人行儀な感じがした。
それを繰り返していると、いつからだろうか。私は、自分の目が嫌いになっていた。
目を瞑り、帽子を深く被りと、本当に色々なことをして、瞳が見られないように隠していた。
そんなことを、淡白に反復していた中で、特別な夢を見ることになる。
初めて、夢の中に男の人が浮かんだ。
そのとき、顔が見えた。この人に限らず、全員に言えることだった。
現実では盲目だけれど、夢の中では一回限りで容貌が見えていたことだけが頼りだった。
優しそうな彼の風貌は、暖かかった。
思えば、そのときから私は彼に好印象を抱いていたのかもしれない。
夢から覚めた後、昼がとても待ち遠しかったのは覚えている。
たった一日一本の電車の運行ダイヤを、これほど憎んだことはない。
少しどころではなく早めに到着して、その時が来るのを今か今かと待った。
そして、列車が到着し、発車する音まで聞こえた。
異常なほどに、私の心臓が高なった。
初めて男の人を泊めることになるのだから、当たり前と言えば当たり前か。
彼の声が聞こえたとき、正直少し意外だった。
優しい顔が夢で見えたが、声の方は想像よりも男らしい。
震えそうになる声を抑えながら、飲み込む。
閑静とした駅のホームで、声が震えないように気をつけながら、彼に言ったのだ。
あんなに緊張したのは、もしかしたら初めてなんじゃないだろうか。
ひと一人に話しかけることが、こんなにも難しいとは思えなかった。
「……こんにちは。貴方は、旅のお方でしょうか?」