彼女が泣き止むのに、そう時間はかからなかった。
悲壮による涙だったのが、唯一の救いだっただろうか。
女性の哀愁の泣きも、感動の泣きも、俺にとっては区別が中々に付け難い。
だが、だからこそ彼女のそれが感動によるものだとわかって、嬉しくもあった。
「……先程は、突然すみませんでした」
「いいんだって。そんなに喜ぶとは思わなくて、驚いただけだよ」
今でもその驚きは収まることを知らない。
目の前で広げられた光景は、まだ自分の頭に焼き付いたままだ。
「で、でも……そんなことを、よりにもよって貴方に言われたら……」
そう彼女は、小さな声をさらに隠すように、両手でハットを目深に被る。
せっかくなので、もっと目を見せてほしいものではあるのだが。
少々残念だと感じたその時、弱々しい声を遮るように、扉が開く。
そこには、外出の格好をしている彼女のお母さんがいた。
「じゃあ、今から買い物に行ってくるわね」
「あっ、その、え~っと……悪い、今日は君と約束したんだけどな」
「ふふっ、いいんですよ。私は貴方のそういうところ、素敵だと思います」
驚愕と羞恥と幸甚が、同時に体を支配するとは思わなかった。
まず、今の言葉で察することに驚き。
次に、素敵だと言われたことによる恥ずかしさと、嬉しさ。
同じくして、罪悪感にも襲われた。
彼女と交わした約束を、破ってしまうことに対して。
それほど大きなことではない、と思えばそれまでだ。
しかし、ここに滞在できるのは、今日を入れて二日であるという事実が重くのしかかる。
僅かに軋む土台には、重荷が過ぎる。
支えるには、少し大変そうだ。
「あの、よければですが、自分が代わりに買い物に行ってきますよ」
「い、いやでも――」
「さすがに泊めてもらう一方では、申し訳ないので」
このままお金も出さず何日も泊めてもらって、はいさようなら、と帰るわけにはいかない。
かといって、現金を手渡すのも、何だか忍びない。
代替策としては、こうやって何かを手伝うことだろう。
約束を破ってまですることではないかもしれない。
が、残りの日数で彼女の家族に何かに尽くせるとも限らない。
機会があるときに、やっておくべきだろう。
「お願いしたいところだけど、場所がわからないでしょう?」
「じゃあ、私も一緒に行くよ、お母さん」
彼女がそう言いながら、席を立った。
すると、彼女のお母さんは怪訝そうに言う。
その表情に、何か深い意味があるのだろうか。
普通は、あんな顔をしない。
それだけに、俺が感じる違和感には棘があった。
突き刺さるほど鋭利ではないが、ずっと残り続ける鉤のような、そんなもどかしい違和感が。
「貴方……大丈夫なの?」
「うん。大丈夫」
彼女はいつもの笑顔を、お母さんに向ける。
しかし俺には、その笑いがニヒルに見えていくのがわかった。
最初は明るい、いつもの笑顔に見えていたのだ。
けれども、徐々に徐々に、笑って顔の色が薄れて、無くなっていった。
俺の錯覚かもしれないが、どうにも胸の中で引っかかる。
「……じゃあ、お願いしちゃおうかな。ごめんなさいね」
「いえいえ、僕が言い出したことなので」
今の服装自体、ここに来たときのために着る外出用。着替える必要もない。
そのままバッグとお金を受け取って、彼女と一緒に外に出ようとした。
そこをお母さんに呼び止められる。メモを手渡されてから、今度こそ出発。
当然であるかのように、互いに無言ながらも彼女と片手を繋ぐ。
何度か経験したこの柔らかな手の感触に、慣れることはなかったらしい。
しかし、この小さな関係性を楽しんでいるのも、また事実だった。
「すまないね。俺が言い出したことに、付き合ってもらっちゃって」
「いいんですよ。こうすれば、話しながら向かえますからね。とは言っても、向日葵畑よりもずっと近いんですけどね」
それでも、彼女の笑い方には一切の影が降りていない。
ささやかに通りゆく風も、頬を優しく撫でて、ハットを微弱ながらに揺らす。
いつもと変わらない光景に、俺は不信感を感じずにはいられなかった。
「えっと……夢の話の続きを、いいですか?」
「ああ。お願いするよ」
彼女の驚異的予知夢。到底説明ができないような、一言で片付けるならば、あり得ない。そんな夢。
内容こそ限られているものの、その制限を物ともしない。
そんな夢のある『夢』に、俺は少しどころではなく興味をそそられていた。
「夢に出てくる方以外にも、この村にやってくる方はいらっしゃるのです」
「ってことは、その予知夢も漏れがある、と?」
「言ってしまえばそうなのですが、大抵夢に出てこない方は、他の夢見村の住人が泊めているんです」
彼女の言葉を言い換えるならば、自分が泊める必要のある相手が予知夢に出てくる、ということだ。
何とも不思議で、限定的だろうか。
ただ、現実性はないにしろ、面白いとは思える。
ここまで条件があるとすると、尚のこと嘘だとも疑いにくい。
最初から疑うつもりはないのだが、どこか突飛だという印象が剥がれなかったのだ。
「運命か何かはわからないんです。ただ、夢に出てきた人と話すことは、とっても楽しかったですよ」
懐かしむように、深い笑みを彫り込んだ彼女。
ただ、それも一瞬だった。
明色に暗色を混ぜて、色が薄暗くなるように。
「……だからこそ、その分別れるときは、辛かったのです」
悲しげな笑みを、貼り付けた。
俺も心が痛いが、どうしても別れは避けられない、確定的未来だ。特に、この村では。
恐らく、ここに移り住む人間は少ない。
仮定が正解だとするならば、夢見村を訪れる人の大半は、いずれ帰ってしまうということ。
つまるところ、最後には別れがある。
彼女の辛さは、俺には少ししかわからなかった。全ては、知り得なかった。
来訪者が現れることの喜びは、どれほどのものか計り知れない。
テレビなどの娯楽はあるにしろ、限界はある。
そんな中の唯一と言っていい飽きの来ない楽しみは、旅人の話なのだろう。
「特に貴方との別れを考えると、今までで一番苦しいのです」
笑顔は完全に失せた顔で、彼女は胸の辺りのワンピースを強く握り締めていた。
本当に辛そうで、俺との別れを心の底から悲しんでくれる。
そんな夢のある現実は、俺の胸をも強く掴んでいた。
雨の兆候など全くない、カンカン照りの昼下り。
灼熱の印象を、さらに陽炎や蝉の叫び声が強く引き立てている。
炎天下の中、俺は暑さを感じない無二の箇所である右手を、強く握った。