「いい、つたえ?」
「えぇ、言伝え。嘘か本当かもわからない、噂のような言伝えです」
彼女の笑顔は、今まで見たものとは一風変わっていた。
単純な純粋さの他にも、少し大人びた要素を含んでいる。
今日の夜は、思いの外涼しいだろうか。
風が廊下を通り、この部屋の中へするりと入り込む。
掛け布団との間に吸い込まれたそれが、確かな冷感を齎している。
何か物言いたげな彼女は、そのまま俺の手を取った。
いや、逆に自分が手に取ったのだろう。他でもない、俺が。
多少驚いた顔をしたが、彼女の顔に美麗な微笑みが戻る。
それが、明確な許容だと感じて、心で喜んでしまう。
もしかしたら、俺と彼女の距離は、そう遠くないのかもしれない。
近いとまでは言えないのは明白だが、遠いわけでもないように思える。
そんな俺の夢見心地は、彼女の次の言葉へと紡がれる材料となった。
「……この夢見村の、名前の由来でもあるんです。夢見村から帰った人達が、言ったのが最初らしいんですよ」
一拍の、呼吸。
風の音は止まり、風鈴の音は最初からこの部屋に届かない。
包み込む、静寂の契り。
ほんの僅かな感覚を共有した、密かな契り。
「この夢見村の出来事が、
「……と、いうと?」
「言葉の通りですよ。この夢見村は夢の中の存在で、現実じゃない。幻想のような世界だ、と」
ありえない。
俺はそう言葉を継ごうとして、口を噤んだ。
襟首を優しく撫でられたかのような、僅かな熱と感覚。
背筋がゾクッとするような、そんな寒気にも似た電流が駆け巡る。
さざ波が揺れるような静けさが、それを増幅させて伝えた。
「悲しいような、嬉しいようだな。本当に『夢』なるのか?」
「本当ですよ。私達が会った今は……全部、夢になっちゃうんですかね」
哀しげな、慈悲深いとも感じる声。
儚く、脆そうな、しかし強く張りのある声。
矛盾に満ちているが、だからこそこうやって凛と暗がりの部屋に響くのだろう。
「そんなに、悲しいこと言うなよ」
「……私も、悲しいです」
俺の右手の温もりは、度を増した。
控えめな力が、さらに加わって交わる。
お互いに、それを本当に悲しいというように。
俺は言ってしまえば、所詮一目惚れ。
長い交流を経て、少しずつ実っていった気持ちではない。それに勝てるはずもない。
本当に一瞬の間に視界に入って、たまたまに運ばれてきたような気持ちだ。
所詮、と称するならばそれまでだ。
けれども、俺はそうは思いたくない。否定したい。
確かに、この恋の始まりは一目惚れだった。それは違いない。
いつしか、俺はその『一目惚れ』を膨らませ、成長させていたのだろう。
自分の与えられた果実を、水を、肥料を蒔いて育てたのだろう。
彼女の内面も、可愛らしいと思えた。
それは紛れもない、限られた排他的領域の『一目惚れ』を脱した証明となるだろう。
恋は、上書きされるときは十二分にある。
それはいい意味でも、悪い意味でも。
恋は、ひどく悪辣に言うのならば、ただの印象の良し悪しにすぎない。
恋する人にとって、良好な印象を持つ相手は違う。
モテる奴はいるが、全員の異性を落とせるわけではない。
それが、各々の感性というものの示唆だ。
外見的印象、内面的印象を揃えた場合、片方のみを知ったときの印象と、両方を知ったときの印象。
それら二つが、必ずしも同じとは限らない。
いや、むしろ同じ方が少ない気もする。
つまるところ、外見的印象を知った一目惚れの過去の俺。
その俺と、内面的印象を知った単純な恋をした今の俺。
確実に、着実に、ミリグラムほどにはいい意味で変わっているのだろう。そう信じたいものだ。
「……なぁ。今、君は交際している異性は……いるのか?」
我ながら、遅れて馬鹿な質問だと思う。
出会ってすぐ、こんな質問をされると相手も困るだろうに。
マナー違反にも限度を知れ、と自分自身の頬を叩きながら言いたい気分だ。
第一、それで「いる」、と返事をされたときには、どうするというのだろうか。
あぁ、そうか。そうなんだな。そんなに可愛いんだから、納得だよ。
そんな薄っぺらい感情とも言えない感情を、淡々と述べるのが関の山だろう。
「ふふっ、あはは!」
「どう、したんだ?」
「い、いえいえ、ふふふっ。ちょっと面白かっただけですよ」
彼女の軽々と跳ねるような笑いは、聞いていて気分がいい。
自らの心も、飛び跳ねてしまいそうだ。
今にも大空に羽ばたいていけそうな、そんな軽快な笑い。
それがどこか、乾いたようにも聞こえた。
たったそれだけが、俺の耳元で引っかかったんだ。
「いませんよ。ただ……好きな人は、いるんです」
俺の心臓は、止まりそうになった。
耳鳴りが止まず、聴覚が急速に衰えている感覚の訪れに、何もできない。
ただ、鉛になったかと錯覚しそうなほどに、体が重くなっていく。
止まりそうになった心臓も、再びはっきりと動き始める。
しかし、今度は打って変わって、激しく、暴走するように。
電気的な信号は、依然として閃く。
ただ、それの付与する感情とは、また別の問題が発生していた。
「一方的な片思いなんですよ。……もうすぐ、嫌われてしまいそうなんですがね」
「……そうか。嫌われることは、まあないとは思うがな?」
「ふふふ、貴方は本当にお世辞が上手なんですね」
「だから、さっきも言ったように世辞じゃないんだって」
まだ口が動くことが、自分でも驚きだ。
考えて口にしているのか、それとも思うがままに口にしているのか、わからない。
思考は止まっているくせに、口だけは達者に動いていくことに、不安さえも憶えた。
俺だって、一度や二度くらい、恋をしたことはある。
他人の恋の対象となったことも、あるにはある。
その度に、俺は深く深く思ってきたのだ。
――恋とは、複雑で残酷な割りに、自分にとっての結果の成否が、それに比例しないのだ、と。