デブリの岩場をかいくぐって一対の光線が飛翔する。
スラスターが吹き上げる仄青い軌跡が激しい剣戟に火花を散らす。ファンネルビットの挟撃をスラスターの急噴射でかわしてみせた青冥の動きはあくまでも直線的で、阿頼耶識は搭載されていないことがうかがえた。
パルチザンによる強烈な突きが繰り出され、ライドは重心制御のみでうまく逃れた――が、次なる挙動が襲いくる。
こっちが本番だとばかり横薙ぎに払われた打撃をどうにかスピアで受け止めた。
一撃の重みにスラスターが悲鳴をあげる。しかし鍔迫り合いになったら不利だと先ほど学んだばかりである。ぎりぎりと軋む操縦桿を力任せに押し戻して、左肩のレールガンの照準を合わせた。
ほとばしる銃火を逆噴射にして距離をとり、慣性を利用して身を翻す。上体を反らした慣性を使ってデブリの岩場をデコイに逃げこみ、疲労に鈍くなる思考をフル回転させる。
相手の回避動作は素早く、的確だ。誘い込まねば銃弾も打撃も当たらない。
どう誘って、どう仕留めればいい? 頬を冷たい汗が伝う。グローブの中が汗で滑る。
スペースデブリの影を渡る追いかけっこも長く続けばスラスターのガスが尽きてしまう。電子音の悲鳴は既に数あるモニタを赤く染め、推進剤がもういくらもないとわめいている。
重心制御によって消費を抑えているが、それもいつまで持つかどうか。
生身のような曲線の動きとスラスターによる直線の駆動を併用できることが宇宙ネズミの真骨頂だ。直感に優れる阿頼耶識使いは、グレイズくらいの機動力ならば直感と経験則で加速方向を読み切れる。同じ阿頼耶識使いでもガルム・ロディくらいの鈍重さがあればスラスターの噴射方向は予測可能である。
高出力のブースターは動きを読みやすくする。そんな定石はとうに対策済みだと言わんばかりに青冥は、脚部と双肩にそれぞれ搭載したスラスターを使い分け、緩急をつけて動きを読ませない。
百練の堅牢さ・百里の高機動をかいつまんだ無個性な辟邪……いや〈青冥〉を、こうも乗りこなすパイロットは一体どこの所属だ。
センサーに催促されてファンネルビットを差し向け、岩盤を蹴り飛ばして暗礁を泳ぐ。重力の抵抗に歯を食いしばる。
ゲリラ戦には慣れたライドでも、それは地上戦の話だ。デブリ帯はアウェーである。わずかでも加速を間違えば岩にぶつかって横転するような環境では注意力を飛翔と回避に持って行かれ、罠を張る準備も余裕も今はない。
ワイヤーでもあれば擬似的な蜘蛛の巣くらい作れたろうに、エリゴルの武装は近距離〜中距離の白兵戦に特化している。ファンネルビットの射程も数十メートルがせいぜいだ。
ガンダム・エリゴルのスピアが刺突武器であるのに対し、青冥のパルチザンは刺突・斬撃・打撃もこなす。……獅電で主に使っていた武器だ、特性なら熟知している。
対策だって覚えている。しかし急加速と不意の減速に翻弄され、戦術のストックも尽きていく。
息を吐く余裕もなく背にした大岩が砕け、殴りつけるような礫の暴発に巻き込まれる。濁流に流されないようペダルを踏み込み前傾に、操縦桿を強く引く。
力任せにスピアを振り上げ薙ぎ払うが、受け止めたのはパルチザンではなくマニピュレーター。
高硬度レアアロイの折れない槍に打ち付けられて手甲をかたどった装甲が歪むが、武器は取り落とされていない。一瞬にして血の気が引く。ハッと息を呑み込んで叩き付けた槍を振り抜き、パルチザンを持つ腕を殴りつけた。
強打によって青冥の手はパルチザンを手放すが、次の瞬間には手甲パーツがパージされて隠しブレードが顔を出す。
刺突、斬撃、打撃のどれが襲うか読めない短刀が肉薄し、間一髪で逃れられたが肩装甲を持って行かれた。残骸が跳ね飛ぶ。それでも致命傷に至らなかったのは阿頼耶識システムによる重心制御と、ガンダムフレームの持つ柔軟性の恩恵だろう。
わずかに開いた距離もスラスター出力差によって詰められ、お返しとばかりに鮮やかな蹴りを腹に食らった。
「がは……っ」
衝撃に頭蓋が揺れ、胸郭から押し出される呼気に血の味が混ざる。
遠のきそうな意識にすがりつき、ライドは思考する。こいつを倒さなければ仲間がやられる。剣になれるのも盾になってやれるのも、シラヌイにはライドひとりしかいない。
どうすればいい。
エリゴルの脚が動く時間はもう長くない。スラスターのガスは残りわずか。皮肉にもうるさく鳴り渡る警鐘がブラックアウトしそうな意識をつなぎとめてくれる。
どうすれば終わらせられる?
そんなのは簡単だ、相手の動きを止めればいい。推進部を潰して足を止めるか、両腕を落として武装を強制解除するか、メインカメラを破壊して視野を奪うか――パイロットを殺すかだ。
手の中に残っていた槍を投げ放つ。回避した青冥をファンネルビット二基で狙う。追う。なおも隙を見せないのなら捨て身で殴りかかるまでである。相打ちにできれば上等、エリゴルの拳に片腕を奪われながらも、もう一方の手が宙に浮いていたパルチザンを受け止める。
振り下ろされた斬撃を両腕のナックルガードで受けてしまったその瞬間、みずからの浅はかな判断に背筋が凍りついた。
「――……ッ!!」
スピアを手放し開いた両の手はどちらも防御に撤して動けない。次なる挙動に動け出せないエリゴルと、切り替えの早い青冥。
間に合わない――!
閃いた強烈な蹴りをまともに食らう。岩盤に叩き付けられた衝撃に操縦桿を握る指先がこわばる。制御の覚束なくなったファンネルビットが命令を求めて痙攣し、まなうらで火花の散る両の目を開けば、突きつけられたパルチザンの切っ先がコクピットを狙って振り上げられるさまをとらえた。
逃げ場はない。装甲の破損を訴えるモニタに砂嵐が混じり、アラートは燃料切れだと泣き叫ぶ。
ぐっと操縦桿を握り、食い締めた歯の根が合わない。目を閉じることもできずにライドは最後を覚悟した。
次の瞬間だった。
『もうおしまいかい?』
投げかけられた言葉がLCS通信によるものだと、一拍の間、気付けなかった。
パッとメインモニタに割り込んできたウィンドウが真正面の辟邪に重なる。見覚えのあるパイロットスーツ姿で挑戦的に微笑する銀髪。
『ずいぶんシケた
「アジーさん……!?」
驚きと困惑、声が半端に裏返る。かつての恩師が操っていたのであれば青冥の強さも頷けるが、なぜここに。
当惑するライドの意識はぐらついて、うまく思考がまとまらない。
アジーが苦笑するウィンドウの隣にシラヌイのブリッジが現れて、ウタが「よかった」と涙ぐんだ。
▼
「びっくりさせてごめんね!」
シラヌイのブリッジにふわり、ツインテールが揺れる。
強襲装甲艦〈スティングレー〉からランチで乗り付けたのだ。無重力に慣れたエーコが壁を蹴ると、ふたりのクルーがぱっと振り返った。
「エーコさん!」
「お久しぶりです、エーコさん」
左右の手をイーサンとウタがそれぞれとって、エーコが着地する。
「イーサン、ウタも。元気だった?」
「はい!」
「エーコさんも元気そうで」
少年たちの成長に満足げに微笑むと、エーコは手近なイーサンの金髪を不躾にかき混ぜた。
「うわ」と首をすくめるしぐさの幼さには毒気も抜かれてしまう。
加速してデブリ帯に飛び込むなんて危険な曲芸航行をやっておいてヘルメットどころかノーマルスーツも着用していないとはどういうことだと叱りつけてやろうと思ったのに。
どうせ自分のことを後回しにしたのだろう。ノーマルスーツ姿のウタが阿頼耶識をつないで操艦していたことからも切迫した状況だったことが知れる。
間に合ってよかったと、安堵のため息が落ちた。
ノブリスが火星を訪れるという情報が入ったとき、危機感を示したのは鉄華団の関係者ばかりではない。誰かが復讐に動き出してしまうのではないかと懸念したのはテイワズも同じだ。時期を同じくしてライドたちとの連絡が取れなくなったが行方を知らないかと個人的な連絡を受け、取るものもとりあえず火星行きの仕事を探した。
かつて鉄華団のスポンサーでもあったモンターク商会が存続していると知り、急ぎコンタクトを取って、足の早い船で合流したのだ。
スティングレーは、ハンマーヘッドほどではないが馬力があって足も早い。曲線的なフォルムはデブリ帯を突っ切ることにも長け、操縦するのはスペースデブリの密集地でさえ航行してきた旧タービンズの操艦手だ。限界ぎりぎりまで飛ばすことにも慣れている。
艦長であるアジーがわざわざ
試す意味もあったのかもしれない。MS乗りではないエーコにパイロットたちの機微はわからないけれど、かつての師弟関係を思えば妥当な判断であるとも思う。辟邪のセッティングをいじって偽装し、装備を換装して、何も言わずアジーを行かせた。
エーコだって艦橋クルーなりにブリッジに詰める子供たちが心配だった。かつては副団長の指揮のもとイサリビを操っていたイーサン、ウタが元気でいてくれて、何よりだ。
ん、と違和感にくちびるをとがらせたエーコは、両手でブロンドを雑ぜ返しながらイーサンに詰め寄った。
「ちょっと、石けんで髪洗ってるんじゃないでしょうね?」
「うわっ! 昔と同じの使ってますって……っ」
「うそでしょ、さらっさらだったのに! もったいない!」
鉄華団にシャンプーを使えだの何だのと世話を焼きはじめたのは他でもないタービンズの女たちである。
当時はクーデリアやアトラが同乗していたおかげでイサリビでもそれなりの対策がなされた。日用品の選別・支給にはまともな衛生観念を持つクーデリアやメリビットが携わっていたはずだ。
なのに細く指通りのよかった金髪がくすんでしまっているのは不本意以外のなにものでもない。
エーコの両手にぐしゃぐしゃにかきまぜられるイーサンはどうにか頭を降って、席を立って上へ逃れた。
「ガキ扱いはやめろってば!」
ぼさぼさにされたブロンドが遠ざかり、エーコはぱちくりと大きな目をまたたかせる。
そして、長身をふりあおいでいることに気付いた。
たどるように視線を下げてもイーサンの両脚はフロアから浮いていないし、むしろ浮いているのはエーコのほうだ。半ばイーサンに抱きとめられるような中途半端な格好になっていたエーコは、押しとどめるように伸ばされていた手を取って、地に足をつけた。
そっと苦笑する。
「……そりゃあ髪質だって変わるか」
色素の薄いイーサンは昔から他の子供たちよりコシの弱い髪をしていたし、今だって猫っ毛だ。ただ、子供特有の細い髪ではもうない。
エーコが飛び跳ねたって触れることはかなわないくらいに身長も伸びている。
眉尻を下げて見守るウタも立ち上がればヤマギを思わせるサイズだ。ヘルメットをとれば、中性的だった頬のラインが青年期のそれへと変化しているのがわかる。
面影はそのまま子供から大人へと成長しつつある過渡期の体躯。
思えば鉄華団と一緒に仕事をしていた当時から、重力環境下でコンテナを抱える少年たちの力強さには感嘆させられたものだった。どこか少女めいた風貌だったヤマギも例外ではなく、エーコの腕では抱えきれない重い荷物を平然と運んでみせたりする。
エドモントンの駅舎を拠点にしたあの攻防戦が、もう六年も昔のことなのだ。齢二桁にやっと足を乗せたばかりだった弟分たちの成長は、否が応でも時間の経過を感じさせる。
タービンズ解体後、テイワズ預かりとなった残党たちは別々の職場に振り分けられ、仕事の都合もあって全員が一堂に会することは難しい。
特にエーコらスティングレーの乗組員は、マクマード・バリストン直轄のテイワズ構成員だ。あくまでも運送会社だったタービンズとは違い、テイワズの実体はマフィアである。万が一にも抗争に巻き込んでしまわないようにと配慮すれば、名瀬・タービンの血を継ぐ子供たちと会う機会は限定されてしまう。
きっと今ごろ、エーコの与り知らぬ少年少女に育っているのだろう。
五年。もう五年だ。陥れられたタービンズが違法企業の汚名を着せられ、失われてから。
ひとりで降服して家族を逃がすつもりだった名瀬・タービンの自己犠牲も、最期の最後まで愛する男のために戦ったアミダ・アルカの生き様も、すべて禁止兵器でずたずたにしたギャラルホルン。何の罪もない子供たちまでダインスレイヴの餌食になって、暗く冷たい宇宙の塵になってしまった。血を分けたエーコの子もだ。操縦のできるクルーは優先的にランチに乗り込んで逃走の舵をとらなければならなかったから、振り返ることもできなかった。
どれほど時間が流れたところで憎しみが薄まることなどあるはずもなく、ただ鮮明に焼き付いた記憶が時間感覚を狂わせるばかりだ。
昨日のことのように思い出せるのだから、まだいくばくも経っていないように錯覚する。
悲しむだけ悲しんだら働かなくてはいけないし、仕事中は前向きに振る舞うこともまた責任である。情を持ち込むなというのが名瀬の信条だった。職場の空気を悪くさせるようなことは当然あってはならないし、それなら忙しく働いて、涙なんて忘れてしまおうと思った。
(あたしは子供のままでいたかったな)
背伸びをやめろと説教する気はないけれど、そんなに急いで大人にならなくたって年齢を重ねれば相応に振る舞わなくてはならなくなる。
責任感や立場に縛られ動けないのが大人ならばエーコだっていつまでも子供のようにだだをこねて、家族の仇を取りに行きたかった。
▼
さっきまで銃弾が飛び交っていた暗礁は、今は静まり返っている。
何の光もなく、音もない。大気のない宇宙に音など響くわけがないのだが、コクピットではスピーカーごしにさまざまな声を聞いているから、無音だなんてにわかには信じがたい。
小型船〈シラヌイ〉の廊下が面する宙域は火星の夜よりもなお黒く、ライドを失意に追い落とす。
中途半端に脱ぎ落としたパイロットスーツの両袖もまた、足元の疑似重力に引きずられてうなだれている。
無力を噛みしめるように拳を握る。ギャラルホルンのグレイズ隊と戦って退却に追い込めたはいいものの、アジーの駆る辟邪との連戦はあまりにも無様だった。
こんなざまで目的を遂げられるのだろうか。
鉄華団の名に恥じない戦いが、おれにできるのか――?
自問して、壁にごつんと頭をぶつける。罰が生ぬるく終わるのは、ライドが戦わなければ仲間を守れないせいだ。
責任の重みと、自らの無力。追いかける背中はただ遠い。
廊下に続く扉がふと開いて、かつり、聞き慣れない靴音だと横目に振り向くと、とがったつま先が目に入った。
仕立てのいいパンツスーツに包まれた長い脚が踏み出す。メンズ仕立てのスリーピース、ネクタイの複雑な結び目に遊び心がぴりっと利いている。
細身のジャケットはアジーの柳のようなしなやかさによく似合っていた。
上品なつやをまとって袖が持ち上がり、指先が中折れ帽のつばをいたずらっぽく押し上げる。袖口のカフスに『T』の紋章が彫り込まれているのが、ライドの目にもはっきりとうつった。
「あんたはブリッジに行かなくていいのかい?」
クルーたちがエーコと再会を喜び合うブリッジから抜けてきたらしかった。背後を親指で指し示したアジーは「エンビも立ち直ったみたいだよ」と付け加える。
戦力外通告をされたことがよほど堪えたらしく、エンビは無事ブリッジの実質的なリーダーに返り咲いたようだ。
立ち直った、というよりは、みずからを鼓舞して立ち上がったのだろう。同席してやらなくていいのかと問うアジーから目を逸らしたライドは、自嘲めいて肩をすくめた。
「おれは、ブリッジのシフトに入ってないし」
「他の連中は仮眠もあそこでとってるそうじゃないか」
「……まあ」
肯定とも嘆息ともとれない相槌で流したのは、ライドがブリッジでは眠らないせいだ。
にぎやかなほうが安心する反面で、きちんと眠っていないとエンビあたりに見咎められてちゃんと寝ておけと小言を言われてしまう。
イーサンにも適切な休養をとるのが仕事だろうと咎められてしまったばかりである。
今だって、顔を見せればいつまでパイロットスーツのままいるのだ、さっさとひと風呂浴びて飯食って寝ろと目くじらを立てられるに違いない。
アジーはぱりっとしたスーツに着替え、戦闘の名残などない凛とした姿でライドに歩み寄る。華奢なヒールが鳴る。名瀬の格好をただ真似ただけではない、アジーの持てる魅力をひきたてるスタイルがなおさらライドを逃げ出したい気持ちにさせた。
並べば目線はほとんど変わらない。踵の高いパンプスでなければライドのほうが高いくらいだ。昔は化粧っ気のなかった目元にはわずかに人工的な輝きが乗って、コーティングされたまつげが窓の外へ向く。
アジーはふっと穏やかに嘆息して、横目にライドを見遣った。
「いい男になった」
「あなたにぼろぼろにされちゃいましたけど」
「前より強くなってたんじゃないか?」
「師匠の教えがあったからでしょ」
「もう、何を拗ねてるんだ」
思わずアジーは吹き出して、やっぱりガキだね、と苦笑した。
ライドは露骨に居心地の悪そうな顔をして顔ごと背ける。
そりゃあアジーに比べればライドはまだまだ子供だろう。五年前だってタービンズの女たちは揃って鉄華団を弟扱いしていた。彼女たちだって二十歳そこそこだったろうに凛と潔く胸を張り、オルガや昭弘の長身をふりあおいでガキ扱いしたものだった。
背が伸びたくらいでもうガキじゃないと言いはれるほど、子供でいられたらよかった。
自制心は口数を少なくするものらしい。
おれだって本当はもっといいとこ見せたかったんですから――とは言えないままライドは沈黙を持て余す。
連戦の疲労を理由にあんな無様な戦いをしてしまいましたと打ち明けるのは格好悪い。師匠と仰いだアジーの前では、そんな言い訳をしたくなかった。
見守るようなアジーのひとみには、どうせ見透かされているのだろうけど。
「止めないんですね」
「止めてほしかったのかい?」
「……いえ」
目を逸らすライドの横顔に、にわかに影が落ちる。
意地悪な返し方をしてしまったかとアジーは眉尻を落として「あたしは止めないよ」と重ねた。
無謀な仇討ちに走り出すならアジーだって止めていた。だがライドの目的は安直な復讐ではない。無理に止めればライドは苦しみ続けることになるだろう。
ギャラルホルンは政治的な力を手に入れ、各経済圏から上納金を吸い上げて軍事力を拡大している。
厄祭戦以降、戦争らしい戦争も起きてはいないのに過剰な戦力を保持し、物量にものを言わせてタービンズを鉄華団を壊滅させた治安維持組織がだ。
武器商人を介して武器・弾薬を卸しては利益を独占し、地球に害をなさない海賊をのさばらせることで武器の需要を作り出していた。
敢えて兵器の必要な世界を維持し続けたギャラルホルンが、もしも法と秩序の番人としてあるべき責務を果たしていたのならば。家族の命が、尊厳が、失われることもなかったはずだ。
宇宙海賊が跋扈していなければ木星圏の女たちが囮のような輸送船に奴隷同然で詰め込まれる必要はない。少年兵だっていらなかった。昭弘と昌弘が離ればなれにされることも、ヒューマンデブリのまま死なせることだってなかったはずだ。
誘拐犯と奴隷商人が大手を振って歩いているのを敢えて見逃して後から利用し、邪魔になれば濡れ衣を着せて殲滅するような、歪んだ治安維持組織でなさえなければ。
間接的にも直接的にも家族を殺した組織が覇権を握る世界で、希望を抱いて歩き出すことは難しい。
名瀬を亡くし、アミダを失い、ラフタまでも殺されてなお動けなかったアジーは思う。あのとき何もできなかったのは立場があったからだ。
遺された家族がアジーひとりきりではなかったから、だから守るために苦渋を飲んで、戦うことを諦めた。復讐心には蓋をして、すべて受け入れるしかなかった。
欺瞞だとわかっていてもギャラルホルンが牛耳る世界に弓を引くことなどできそうになかったからだ。
強大な軍事力を相手に、抗うことはつらいだろう。孤独だろう。家族と一切のつながりを断って、わずかな手勢で一矢報いるにはギャラルホルンは大きすぎる。
長いものに巻かれることをよしとしない強さを持ち続けるのは容易ではない。
まぶしいものを見るように、アジーはそっと双眸を細めた。
「泣かないんだね」
「泣いてほしかったですか?」
鏡のように跳ね返されて、アジーはわずかに目をみはった。我知らず息を呑む。
アジーをとらえたエメラルドグリーンがもう子供ではないと訴えているようで、心臓にナイフを突き立てられたような痛みがあった。
「泣いたら、慰めてくれるんですか」
男の顔をしてライドはシニカルにくちびるを歪める。とがった顎に伝っていた汗の名残の一滴が、まるで涙のようだった。
輪郭のまろみは失われ、骨張った喉から胸元のラインは、必要な筋肉以外を削ぎ落としたようで痛々しい。いや、痩せていく肉体に戦うための力をつなぎ止めたのか。どちらにせよ悲愴な覚悟を物語る痩躯だ。
鮮やかな色をした双眸が青年期特有の闇を乗せて撓う。恋にも愛にも何の幻想も抱いていない、暗い目をして。
また自傷のような笑みを作ろうとするライドを見かねて、アジーは手を伸ばすとオレンジ色の前髪をぐしゃりと乱した。
「ばかだね」
わずかに見上げるほどになった癖っ毛をかき混ぜる。その手で、胸に引き寄せる。息を呑む音は聞かなかったふりをして、帽子を乗せるとぎゅうと両腕で抱き込んだ。
「あんたはあんたの道を生きな」
どこか遠くを見つめて、アジーは祈る。子供たちの行く先を。
そしてアジーの耳にだけ届いたか細い返事は、そのままずっとふたりきり、胸に秘めていくのだろう。
#056 戦友
エーコたちメカニックの手にかかれば、動かなかったガルム・ロディ三機も見事に息を吹き返した。
さすが本職は仕事がはやい。手元をのぞき込んでいたデルマには何が起こっているのかもわからない鮮やかな手つきで、ダンテにもできるのかと問えば「バイオス
どの階層が専門だとかはデルマにはわからないので、ハッカーにもいろいろな分野があるのかと納得するにとどめた。
ガルム・ロディのコクピットで、左腕はエーコに預けている格好だ。セッティングが更新されるパネルには見慣れない文字がまたたいている。
神経接続だと、エーコが解説した。
「義手からガルム・ロディに直接接続するシステム。デルマくんは背中の端子もあるから、実質的には阿頼耶識二本ぶんってことになるのかな」
「昭弘さんと、同じ……」
「そう。もしかしたら、それ以上かも」
技術は確実に進化している。鉄華団が背負ってきた非合法の阿頼耶識よりずっと低いリスクで、かつ高いパフォーマンスが望めるだろう。
主に圏外圏で施される適合手術は三百年前のロスト・テクノロジーの真似事にすぎない。
脊椎など、麻酔を打つための麻酔さえ必要な部位である。注射針が食い込むだけでもショック死しかねない痛みがともなうだろうに、無麻酔、無消毒、固定具もなしに金属芯を直接埋め込むなど、正気の沙汰ではない。
そんな手術から二度、三度と生還してみせた鉄華団のエースたち。
彼らの強さは年少の子供たちの指針となり、今も人格形成に色濃い影響を残しているようだった。
「……こんなことして、ラフタは怒るかな」
うつむけばツインテールが無重力にふわりと漂う。
顔を曇らせるエーコの意図を察しかねて、今度はデルマが首を傾げた。デルマの知るラフタ・フランクランドは練兵教官としてのイメージが強く、むしろよくやったと背中を叩いてくれそうな女傑だ。
昭弘のように強くなれば、どうして彼女は怒るのだろう。
「強くなれるのはいいことだろ?」
「そりゃそうだけど……。戦わないほうがずっといいもん」
「けど、それは誰かが代わりに戦うってことだ」
それなら、おれが戦う。
機械につながれた手と、生身の手のひらを同じに握る。
誰かを危険に晒して平和を謳歌しているなんて落ち着かない。だから鉄華団の家族はそれぞれに、生きるための戦場を生きている。政治も、福祉も、医療も。すべてそれぞれに宿された
さいわいにもデルマは戦う力を持っている。だから孤児院にいて子供たちを直接的に守っていく役目はダンテに押し付けて、平穏に過ごす権利を持つ子供たちを孤児院に送ることで、間接的に守っていく道を選んだ。
海賊船で培った戦闘経験も、孤児院で学んだ保育も医療も、もう何ひとつ取りこぼすつもりはない。アリアンロッドと戦った記憶だって今後の対策に生きるだろう。初見のときよりまともな戦いができるはずだと信じている。
今だって鉄華団の家族がどこかで生まれ変わっているかもしれないのだ。早く誰かが迎えに行ってやらなければ、また暗い宇宙でごみくずみたいに死んでしまうかもしれない。
デルマの志は、決意と呼ぶにはあまりにも芯に根差している。ヒューマンデブリとして生きてきた過程で培われた倫理観や死生観から導き出された、デルマにとって当たり前の行動なのだ。
(……この子たちが強いってことくらい、知ってたんだけどね)
ふうと嘆息して、エーコはブリッジのクルーたちを思い返す。
戦場でしか生きられないなら迷わず戦うことができる。大人しく自分を殺して長いものに巻かれることをよしとしない潔さは、オルガ・イツカの影響だろう。
少年が青年になり、強く鋭く、大人になっていく。
その過程を今、見守っている。
▼
ざあざあと赤毛に降り注ぐ水滴が雨のように耳元を通り過ぎていく。
シャワーを浴びたら飯を食って、ボイラー室にいるのだろうエンビやトロウと筋トレでもするかと、これからのことを考える。
少し眠ったせいか頭もいくぶんすっきりしていた。海賊船から保護した元ヒューマンデブリたちをシラヌイから降ろすことができて、肩の荷が降りたのも一因だろう。
エーコたちMS専門のメカニックがガルム・ロディを直してくれたから、今後はガンダムエリゴル一機で孤軍奮闘することもなくなる。
各コンテナは強襲装甲艦スティングレーが先導する輸送船団で火星へ向かい、モンターク商会へと届けられる手筈だ。子供たちは孤児院へ送られる。積み込みはエンビが中心になってやってくれた。
アジーらが作り置いた食事のタッパーを冷蔵庫に詰め込んでくれたというから、活用されていなかった食堂もにぎわうのだろうか。
……いや、どうせ食堂であたためてみんなでブリッジで食うのだろう。蛸部屋育ちのガキの集団なので、ひとりの時間というものには頓着がない。
タービンズの女たちは乗組員の背中を残らず押して、胸を張れと送り出してくれた。鉄華団の家族とよく似たあたたかみは、名瀬・タービンとオルガ・イツカが兄弟分であったことにも由来するのだろう。
遺された家族はみんな光に向かって進んでいる。
小型船〈シラヌイ〉はこれから旧タービンズの航路で目的地へ、約束の日へと向かう。
▼
上品なパンプスが廊下を急ぐ。つんのめりそうになりながらも華奢なヒールでフロアを蹴って、クーデリア・藍那・バーンスタイン初代議長は、火星連合議長執務室に駆け込んだ。
「ライドたちの足取りがわかったって、本当ですかっ!?」
オフィスで待つふたりのSPが振り返る。ユージンが「ああ」と応じた。
「タービンズが接触したそうだ。カッサパファクトリーに連絡があったって、こっちにも回ってきた」
「でも座標までは教えてくれなかった」
チャドが肩をすくめて、連絡が取れただけなのだと嘆息する。
「そうですか……」と肩を落とすクーデリアに、ずいとタブレットを差し出したのはユージンだった。
受け取れば、何やら画像データが開かれている。数十名の子供たちが溌剌と駆け回る、室内の写真らしい。
孤児院だろうか。パイプを張り巡らせた簡易ベッドで埋まりそうな一室は、いつか鉄華団の少年たちが寝起きしていた蛸部屋を思わせる。
しかし子供たちがまとうぶかぶかのノーマルスーツは、ヒューマンデブリたちが着せられているものだ。
「タービンズの船で
画像データは保護した元ヒューマンデブリの少年兵たちを送ってくる人員輸送コンテナだと、ユージンのため息で察しがついた。
ギャラルホルンは軍備増強を押し進め、月外縁軌道統合艦隊・地球外縁軌道統合艦隊は海賊の掃討作戦に動き出している。武器の需要は高まり、血税は圏外圏への武力介入のために注がれていく。
そんな中、ライドたちは両艦隊を先回りして海賊船のヒューマンデブリたちの約九十二%を無傷で保護したのだという。
このほど火星を訪れた定期輸送船が
ギャラルホルン火星支部は警察組織としての威光を失って久しいが、確保した海賊を突き出すことで、権威の存在を示してやった。ただクーデリアを見張るために置き去りにされたのではないと鼓舞する意味にもなっただろう。
小さくともこうして花を持たせれば、民衆はまだギャラルホルンに期待しているのだとプレッシャーをかけられたはずだ。
うまくやってくれた。連絡が途絶えたときは目の前が暗くなったが、信じていてよかったとクーデリアはほっと胸を撫で下ろした。
タブレットを抱くクーデリアの安堵に、ユージンとチャドも表情を穏やかにする。
ライドたち年少組の無事も知れたのだ。今夜こそうまい酒が飲めそうだと、顔を見合わせた。
「ココ見ろよ、お嬢」
手を伸ばしてタブレットをさらうと、画面をタップして明るさを変える。二段ベッドが幾重に組まれた向こう側を拡大すれば、壁には赤茶色の汚れのようなものがあった。
いや、汚れではない。壁いっぱいに描かれたグラフィティだ。花や草木、蝶、とうもろこしやトマトといった火星で実る作物の絵。
赤茶一色で描きだされた図画は、ペンキによるものではないとすぐにわかった。
「これは……」
「小石だよ、火星のな。そこらへんで拾える石でひっかいてんだ」
赤焼けた火星の大地からこぼれおちた破片だと懐かしそうにユージンが目を細める。
舗装されきったクリュセではさすがに
足の下は地面なのだ。そんな誰にでも手に入れられる、なのに当たり前すぎて誰も目に止めてこなかったものを画材に、ライドは壁画を描いてみせた。
無彩色のコンテナで旅するガキどもが寂しくないようにと年長者なりの気を遣ったのかもしれない。天井付近のいびつな太陽も、きっと肩車でもして子供に描かせたのだろう。ライドは昔から面倒見のいいところがあった。
のぞき込んだチャドが「こっちも」と指差すと、それにはユージンも気付いていなかったようだった。
大きく目をみはる。
ABCD……と並ぶ筆跡に、見覚えがあったからだ。
「これは、エンビの字ですね」
クーデリアもまた同じように、言葉にならない気持ちで胸をいっぱいにして、ああと嘆息した。
目頭が熱くなる。クーデリアを地球に送り届ける仕事に参加し、道中のイサリビで読み書きを覚えたいと申し出た子供たち。あのときはじめて文字を学んだエンビが、今度は保護した子供たちに文字を教えている。
クーデリアのやってきたことは間違っていなかったのだと、肯定してくれているようだった。
壁にはライドを真似て描いたのだろういびつなシクラメンがいくつも咲いている。
まるで鉄華団が受け継がれていくかのように。
「これじゃあ、水ブッかけてブラシで擦ったらすぐ落ちちまうのにな」
嘆くようにチャドが淡く苦笑した。
たった一色の濃淡でこれだけ多彩な絵を描き、子供たちに未来を与える才能がライドにはある。だからこそ絵を描き続けてほしいと誰もが願った。オルガ・イツカもそのひとりだ。
なのに敢えて残ってしまわない画材を選んだのは、きっと鉄華団の慰霊碑を忘れられなかったせいだろう。刻まれた紋章は、消すこともえぐり取ることもできなかった。鉄華団の存在がねじ曲げられても、赤いシクラメンの華が禍々しい印象をともなうことになっても消せなかった――そうした苦い悔恨がライドに消してしまえる絵を描かせたのだろう。
それでも鉄華団の魂はまだ潰えていないと、残党たちにだけわかる絵を。
感謝の言葉を投げかければきっと、空調の不安定なコンテナでペンキを使えば中毒になるからどうのと、照れ隠しじみた言い訳をするのだろうけど。
クーデリアはついにひとしずく、透明な涙をあふれさせた。
「はやく……早く彼らに会いたいです。どんな絵を、どんなふうに描いていたのかを、教えてほしい」
「ああ。おれも早くこの絵の全貌が見てえ」
オルガの後を継ぐのがライドであることが、ユージンにはひどくしっくりと心に馴染んだ。
鉄華団が発足したのは、オルガの言葉があったからだとユージンは今になって思う。オルガが『ここじゃないどこか』という存在があり、そこは俺たちの居場所なのだと声を張って信じてみせたのだ。
でなければ誰も、ここ以外に行く場所があるだなんて知らなかった。クズじゃない大人が実在するだなんて考えたこともなかった。おれはまともな大人になってやるだなんて言い出す馬鹿もいなかった。
だって、遅かれ早かれ死ぬのだろうから。
腹いっぱい飯が食いたいと考えることがあっても、具体案は出てこない。知識も教養もないガキなんて、そんなものだった。
そんな中で、おれたちにも家が存在していいのだとオルガは言った。
低く通る声は天啓のように人を惹きつけた。
指導者ではなく代弁者として叫び続けたオルガの声がどれほど前線の少年兵たちを勇気づけ、前へ進ませたのか。どうせオルガは知らなかったのだろう。戦って仲間を守りたいという気持ちが恐怖に竦んでしまうとき、生き残るために戦うのだと背中を押してくれる天性のカリスマを宿して生まれてきたことを、きっと最後まで。
誰にも見えていない
オルガが夢を語れば自然と耳を傾けたくなったものだ。おれたちの居場所へ行くんだとオルガが言えば、それはどこだと誰かが問うた。
あるときは三日月の純粋な疑問であり、あるときはユージンの反発であり、あるときは夢物語の続きをねだる子供たちの期待だった。
実在するかもしれない、けど実在してなくたっていい。ないならおれたちの手で作ってやろうぜ。――そうやって肩を寄せ合って、鉄華団は一丸となって前に進むことができた。
イマジネーションという力を持たないユージンには真似できない。鉄華団の未来をおれが見せてやるとライドが野蛮に笑ってみせたあのとき、オルガの面影を見たのは錯覚などではなかったのだ。
未来図を描きだす力を、ライドは持っていた。
そしてオルガはとうの昔に画力という才能を見出し、イサリビというカンバスを与え、伸ばし、育み、愛していた。
夢を語るオルガ。
絵を描くライド。
鉄華団を導くことができるのは、やはり彼らだけなのかもしれない。
ノブリス・ゴルドン暗殺の折りにはこのままラスタル・エリオンを狙うのではと懸念されたライドたちだったが、まさかクーデリアの政策に見合う格好で未来を見せてくれるとは、いい方向に予想を裏切ってくれた。
クーデリアはまだひとみをうるませながらも涙をはらい、別の光を目指して進む家族の無事を祈る。
火星連合は孤児たちを積極的に支援するかたわら、特定の層に理不尽に影響するシステムをひとつひとつ改めている。
女性の権利向上、労働者の待遇改善、人権意識や道徳観念の周知など、やることはいくらでもある。権利が独占されないように、豊かになる反面で弱者が搾取されないように、クーデリアは常に気を張ってきた。
報道を裏で操作していたノブリスがいなくなったことで番組制作予算の迷走はあったものの、混乱を経てジャーナリストたちの思想が息を吹き返しはじめた。
正義とは何か、権利とは何か、一人ひとりが向き合い、考えていく社会に変わりつつある。
情報統制の枷は解かれた。権力や利害に左右されない自由な報道が可能になっていく。配信された情報の真偽を読み解くリテラシーもますます重要になるだろう。束縛が失われることによって発生するトラブルは、社会福祉に手を尽くすクーデリアたちが解決すべき問題だ。
人々は少しずつ動き出している。進み続けている。誇れる選択のできる世界へ、希望となる未来へ。
離れていても家族みんなが、その道の上にいる。
ユージンは懐かしく、スタンドの中の集合写真に語りかけた。
「あいつらは立派に育ってるよ、オルガ……」
【次回予告】
生きたい道を行けばいい。あたしなんか、立場だのリスクだのって臆病風に吹かれて仇を討とうともしなかった腰抜けさ。間違ってたっていいじゃないか。目指す先には、あんたたちの本当の居場所があるんだろう?
次回、機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 雷光。第七話――『いつわりの夢』。
……いい男になったね。