鉄血のオルフェンズ 雷光《完結》   作:suz.

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完結編です。


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#66 畢生の華、生命の鎖 /完

 電子音で目を覚ます。ベッドから手を伸ばしてアラームを止める。寝起きのいいエンビは二段ベッドの下段から音もなく抜け出すと、洗面所で顔を洗って、お馴染みのニット帽をかぶるのだ。

 そしてリビングルームのフォトスタンドに「おはよう」と声をかける。

 在りし日のバルバトスの前に集合して撮った家族写真が、単身者用の1DKの彩りだ。元のデータは抹消させられてしまったが、クーデリアの手元に残っていた写真から復元されたものが希望者全員の手元に行き渡った。

 団長がいて三日月がいて、バルバトスがあった、あのころ。トロウもヒルメも一緒で、エンビの隣にはエルガーがいる。みんな笑っている。

 家族の面影とともに生きることを許される時代が訪れ、今はヒルメとふたりで暮らしている。居間と寝室の二部屋しかない手狭なアパートメントだが、今はここがエンビの()だ。連合議長SPという職業柄どうしても出張がちになるから、大学受験を控えて学生寮を出たがっていたヒルメとの同居は都合がよかった。

 明日からまた出張なので、タービンズ直伝の保存食を手際よく作り置いてはタッパーに詰めていく。細かい作業は好きだし、料理も得意だ。医学部進学を目指すヒルメをバックアップしていると思うとなおさら気が乗る。

 朝食がてらミルクのパック片手に鼻歌を歌っていると、寝室から起き出してきたヒルメがタブレットを確認しながら「明日、何時出発だっけ」と問う。手元のタッパーを積み上げながら、エンビは機嫌良く笑んだ。

 

「朝イチで発って、地球に出張」

 

 ギャラルホルン再興式典に参列するクーデリアの護衛任務だ。今回はじめてアフリカンユニオンに降りる。

 往路約二十六日、滞在は八日間、復路に約二十四日という決して短くはない旅だが、圏外圏の航路は安定しており、そうそうスケジュールが狂うこともない。

 

「出発前に宿題は全部終わらせとけって、クーデリア先生からメールが来てるんだけど」

 

「うげ……」

 

「おい、まさか溜め込んでんじゃないだろうな」

 

「あぁーうん、そんなには……」

 

 薮蛇だ。場都合が悪くなって目線を泳がせるエンビに、ヒルメは胡乱げに嘆息した。

 高校には行かずに就職したエンビは、通信教育を受けている。仕事に課題を持っていくわけにはいかないし、ヒルメに教えてもらえばいいんじゃねえの、とユージンにさも名案であるかのように進言されて、出立前日に有給休暇をねじこまれたのだ。

 

「ったく、ちゃんと終わらせろよな。わかんないとこは見てやるから」

 

「アリガトーゴザイマス……」

 

 昔はエンビのほうが成績優秀だったのに。今ではすっかり追い抜かれ、ヒルメに勉強を教わる側になった。

 ずいぶん差がついてしまったが、それも案外悪くないと思えるから不思議だ。

 エンビとヒルメは血縁上は他人で、鉄華団の家族で、一般的には幼馴染みだが、自認としては()()()()()が最もふさわしい。年齢的には数週間の差でヒルメが兄で、双子の弟がいたエンビも兄貴だから、どちらが兄だとか弟だとかを考えたことはない。それは誕生日が最も遅かったトロウも、双子の兄がいたエルガーだって同じだろう。

 兄弟同然に育った四人組は、鉄華団基準の 家族(ブラザー)という言葉が何よりしっくりと馴染む。

 エンビの手からミルクをさらってあおったヒルメが、遠い目をしてつぶやいた。

 

「おれたちさあ」

 

「うん?」

 

「こうやってメシ食って、仕事して、勉強とかして」

 

 懐かしさに目を細め、ヒルメは苦く笑んだ。嘆くようなため息をこぼす。鉄華団があったころの、もう戻らない日常が記憶の底からせりあがってくる。

 

「……帰る場所がほしかったんだよな」

 

 家族のいるところへ帰りたかった。鉄華団という名の故郷が、最初からなかったことになる世界ではうまく呼吸ができなかった。だからライドは蜂起したのだ。

 

「そうだな」とエンビが同意する。

 

 死ねば生ゴミになるのだと、昔はぼんやり思っていた。そう遠くないうちに死んで、放置したら腐るからと袋に詰め込まれて廃棄処分されるのだろうと。CGSの参番組は弾避けになって死ぬまでが仕事で、役目を終えた死体はゴミだった。

 だけど鉄華団は違った。死後も生ゴミにはならない。生き残った仲間たちが葬式をあげ、慰霊碑に名前を刻んで、未来の糧にしてくれる。

 漠然とした不安が拭われる感覚があった。

 鉄華団は故郷であり、居場所であり、そしていつか死ぬ場所でもある。エンビが育った故郷で、エルガーが眠る墓標。鉄華団とはエンビたちにとって、揺りかごから墓場まで地続きの、天国に一番近い場所だった。

 エンビはだから、鉄華団が風化させられていく世界に耐えかねたのだ。赤いシクラメンの団章の下には家族みんなの魂が眠っているから、更地に戻さないでほしかった。

 記憶を勝ち取るための戦いは身を結んで、語り継ぐ権利は全宇宙にもたらされた。いつか命を終えるときには鉄華団の一員として、家族とともに眠れるのだろう。

 地球へ出張しても兄弟ふたりで暮らすこの家に帰ってくる。そして在りし日の家族が笑うフォトスタンドに「ただいま」と声をかけるのだ。

 魂が還る場所を得た今、ゴミのように死んでいくのだという不安はもうない。肉体が滅んでも流れる血は鉄のように固まって、未来に続く礎になる。

 

 

 

 

 

 

 出立の朝は快晴だ。キャリーケースひとつで旅立つクーデリアをアトラが送り出す。豊かなブロンドを天使の輪のように編み込んだ本日のヘアスタイルは、アトラの力作である。

 民間宇宙港【方舟】で会見し、クーデリアは地球へと出発する。十年も昔なら遠く遠い未知の惑星だったのに、【革命の乙女】が地球経済圏との交渉の切符を手に入れ、アーブラウを目指したことをきっかけに、仕事で出張する距離へと変化した。

 火星から地球への道は、クーデリアと鉄華団が切り開いた航路と言っていいはずだ。

 

「今日もとってもきれいだよ、クーデリア」

 

「ありがとう、アトラ」

 

 他意のない称賛に、クーデリアはやわらかく微笑した。華のあるブロンドに光がきらめく。

 きれいだとアトラが褒めるのは、化粧がうまくいかなかったころからの習慣だ。

 鉄華団が潰え、地球亡命に手を貸してID改竄の段取りをつけたあと、クーデリアはひとりで火星に帰ってきた。アドモス商会の社員たち、孤児院や小学校の安否確認のためだ。無政府状態に陥ったクリュセ市街を目の当たりにし、救済手段を探して駆けずり回ったあのころのクーデリアは、それはもうひどい顔だった。

 火星の人々をしあわせにすると誓ったのに、ギャラルホルン火星支部の撤退を幇助し、市民の安全を奪うどころか生きる糧さえ奪い合わせたのだ。

 つやを失った金髪はみっともないからと切りおとした。疲れきった顔色をごまかすようにファンデーションで塗り固めた。

 いくらか遅れて鉄華団の仲間たちが火星に戻ってきても、みなクリュセの惨状に言葉を失っていた。

 そんなとき、街並みには目もくれずクーデリアの手をとったのがアトラだった。

 最短を選んだしっぺ返しに胸を痛めていたクーデリアの心を察したわけではないだろう。ノブリス・ゴルドンに頭を下げたことも、マクマード・バリストンに渡りをつけたことも、そのときは誰にも告げていなかった。今でさえ、アリアンロッドの武力介入があっただろう事実を誰にも告げていない。(圏外圏で自由に動ける部隊が他に考えられないだけで、実際に動いたのがアリアンロッドであったという確証はないままだ)

 片腕に赤子を抱いたアトラは、もう一方の手を迷いなく伸ばして、クーデリアの手をつかんだ。

 小さな手があまりにもあたたかくて、ただ涙がこぼれた。

 ほろほろと涙を流すクーデリアにびっくりしたアトラは、おろおろと言葉を探すと、勢いこんでまくしたてた。

 

 ――くっ……くちべに! 口紅をつけてみたらどうかな? うん、それがいいよ!

 

 突拍子もない提案だった。脈絡はなく、きっとクーデリアの肌を見て、化粧をしていると察したに違いない。それでもなお青白く疲れた顔をしていたから、口紅という発想が飛び出してきた。

 思い立ったら一直線に、アトラは精一杯の元気を分けてくれる。

 

 ――クーデリアさんは美人だから、きっとすっごくきれいだよ!

 

 一生懸命な心遣いが、そのときはストレートに胸を打った。

 その後、ひとつ屋根の下で暮らすようになってやっとわかってきたのが、アトラの持つ劣等感だ。娼館で下働きをしていたころの名残なのか、アトラは女性の価値はうつくしさにあると思っているふしがあった。男性に見出され、指名され、対価を支払われてこそ「いい女」だという前提でものを考えるのだ。

 クーデリアは、図らずも【革命の乙女】の名で担ぎ上げられるだけの美貌を持っている。

 自身が持って生まれた容姿に『美』という価値が見出されることは、フミタンの教授で理解している。長い髪は豊かさの象徴であり、うつくしく保ってこそ自身を教養ある女性に見せられるのだと。

 裕福な家庭に生まれたクーデリアにとって()()()()()()()()()()()行為は糾すべき社会秩序の暗部でしかない。

 だから気付かなかった。家族であり親友であり、ともに鉄華団に寄り添ってきたと思ってきたアトラは実は、()という商品価値を夢見るあまり、恋心をうまく制御できなかった。

 自身の価値も知らないまま、彼女は三日月・オーガスの忘れ形見を抱いていた。

 

「かあさん、クーデリアまだいるっ?」

 

 二階からばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきて、アトラは「もう」と頰をふくらませた。

 ランドセルの金具をガチャガチャ鳴らしながら、二段飛ばしに駆け下りてくる。やんちゃ盛りの息子は、もう小学生だ。

 

「クーデリア!」

 

 奥から走り出てきた暁は玄関で急ブレーキをかけると、一度立ち止まってから改めて、クーデリアに両手を伸ばした。

 六歳になった暁のそれは『抱っこ』ではなく『ハグ』だ。クーデリアが膝をかがめると、ぎゅうと抱き合う。父親譲りの大きな手が、クーデリアの髪を乱さないようにそっと撫でた。

 暁はすっかり大きくなって、抱き上げるにはもう重いのだ。男の子のプライドなのか、リビングや孤児院で眠りこんでしまったとき、ユージンやダンテに運ばれるのもひどく嫌がる。

 抱っこではなくいってらっしゃいのハグをして、頬にはキスをひとつ。一人前のような顔をして、暁は愛しい女を送り出すのだ。

 

「お仕事がんばって。気をつけてね」

 

「ええ。暁も、留守をお願いね」

 

「まかせて」

 

 地球出張から戻るころには、またひと回り大きくなっているのだろう。赤子は幼児になり、少年へと育っていく。

「わたしも」とアトラが手を伸ばすので、ハグをして頬を寄せる。

 子育てが一段落し、暁が小学校に行っている時間を使って、アトラは看護学校に通っている。これまでは鉄華団の炊事係であった経歴を生かし、孤児院や貧民街の炊き出しへの参加に積極的だったアトラだが、調理だけでなく農業、手芸など多くのスキルを持っていたことを遅蒔きに自覚した。

 料理上手は当たり前ではないと、手先の器用さは称賛に値するものだと、アトラを肯定したのが暁の存在だ。

 良妻賢母としての価値をようやく自覚しはじめたアトラは、よりしなやかで、折れない強さを持っている。料理を作って帰りを待っていてくれる。手先が器用で、袖のほつれもまたたく間に直してみせる。アトラが「おかみさん」と呼び慕ってきたハバ譲りの強さには、金銭では買えない価値がある。

 身の回りのことはメイド任せで育ったクーデリアは手先がひどく不器用で、子供に注ぐ愛情のかたちもわからなかった。手探りで失敗してしまうのが怖くて、暁の首が据わってもまだ抱きあげる手がふるえたくらいだ。

 そんなとき、アトラはいつも「大丈夫だよ」と穏やかに微笑んで、クーデリアを支えた。母の顔をしていた。家族のぬくもりにクーデリアは何度でも救われた。

 小さくてやわらかくても、子供という生き物はクーデリアが思うよりもよほど強くて、自分自身の手でしっかりとしがみついてくれる。だからそっと寄り添ってやるだけでいいのだと学んだ。

 ひとつ知ればそれだけで、無限の選択肢が見えてくる。

 暁はいつか、三日月のように農園を経営したいと願うかもしれない。クーデリアのような政治家になりたいと思うかもしれない。アトラ譲りの料理上手になるかもしれないし、看護や医療の道を目指すのかもしれない。カッサパファクトリーの整備士たちに憧れるかもしれないし、営業マンに倣うかもしれない。

 来年にもギャラルホルンの士官学校がクリュセで開校する見通しで、 MS(モビルスーツ)パイロット、通信オペレーター、幹部候補など道は開かれつつある。

 政治家でありたいクーデリア、良き母でありたいアトラ、それぞれに夢は異なる。

 暁はどんな未来にも生きていけるだろう。戦うしか選択肢を持たない少年兵は、歴史上の存在になった。

 でももし、家族を守る力が欲しいと望むなら、MSパイロットになる道を選んだっていい。

 そのときは改めて、ふたりの母親が愛した男の話をしよう。

 

 

 

 

 

 

 レギンレイズ五機が隊列を組んで空を舞う。

 復興式典で披露するアクロバット飛行の最終リハーサルだ。火星ハーフメタルの流通により、市街地でもMSの運用が可能になった。旧ヨーロッパ共同体〈REU〉という観光産業で栄える土地柄もあってか、病院から順次配備されたエイハブ・ウェーブ遮断素材の普及がことさら早かったらしい。

 ギャラルホルンの再出発に会場を提供すれば、エイハブ・リアクターを安全に持ち込める、ひいてはMSの介入を受けても安全であることを全宇宙に向けて発信できる。それぞれの皮算用があり、歯車は噛み合って、世界は着実に前に進んでいる。

 青空を旋回したレギンレイズは、そしてうやうやしく大地へと降り立つ。脚部ホバーユニットが地面を傷つけないよう細心の注意がはらわれていることが、ジュリエッタには手に取るようにわかった。

 曲技飛行隊だけあって、コクピットユニットを上昇させるタイミングもきっちりと揃っている。

 ぴしりと姿勢をただし、装甲の上で敬礼する五名は地球外縁軌道統制統合艦隊所属のパイロットたちだ。

 ヘルメットをとれば、うち三人はブロンドだが、ひとりは黒髪の青年で、ひとりは褐色肌の女性らしい。

 その向こう側にアイン・ダルトン、アミダ・アルカの面影があるようで、ジュリエッタは胸の疼痛を抱きしめる。

 出自を問わず、性別を問わず、実力で立場を勝ち取る実力主義の組織。――おそらくはマクギリス・ファリドが目指した、本来あるべきギャラルホルンがここにある。

 厄祭戦で MA(モビルアーマー)を討ち取ったパイロットに七星勲章が授与され、そしてセブンスターズが発足したのが、ギャラルホルンの起こりだ。MS操縦の腕こそが、発足当初のギャラルホルンにおける価値だった。

 そんな組織の新代表に、MSの操縦技術ひとつで成り上がったジュリエッタが選ばれるのは、原点回帰をも意味する。

 副官にはヒレル・ファルクが就任し、古い慣習について諌言し、また新たな秩序について意見することもある。

 

「……あなたはてっきり、パイロットに出戻るものと思っていました」

 

「おや、お邪魔でしたか」

 

「そこまで言っていません」

 

 ロングコートの裾がふたりぶん、七月の風にはためく。ヒレルは相変わらず人のいい笑みを浮かべると、地球外縁軌道統制統合艦隊のレギンレイズをふりあおいだ。

 月外縁軌道統合艦隊【アリアンロッド】も、地球外縁軌道統合艦隊【グウィディオン】も解体され、統制局に吸収された。月外縁軌道()()統合艦隊、地球外縁軌道()()統合艦隊は本来あるべき姿に戻り、みな揃いのギャラルホルン・ブルーをまとう。

 制服のカラーリングが統一され、グレーもレッドもグリーンも、みな等しく高潔な青になった。

 出身地如何によって出世の道が閉ざされていた、かつての悪習は撤回された。地球出身者ばかりだったギャラルホルンも今後は火星、木星、コロニーの出身者が栄誉栄達を手にしていくのだろう。

 父の代までは世襲によって当然のように得られた地位をみずからの力で勝ち得なければならなくなったのだから、一部の地球出身者から理不尽だ、不平等だ――という声もあがっている。これまで頑なに信じてきた価値基準が覆ることに抵抗感を覚えるのは、致し方ないことだ。

 ギャラルホルンは圏外圏出身者を()()と定義してこなかった。人間、という言葉はイコール地球人であることを意味し、圏外圏への遠征中に生まれた我が子を現地に置き去りにすることも珍しくなかった。現地の娼婦との間に作った子供など、それが当然であるかのように認知されてこなかった。

 長く続いた断絶から価値観の溝が生まれ、いまだ圏外圏出身者が()()()()であると信じようとしない将兵は存在し続けている。圏外圏の連中は野蛮であるはずだ、能力は劣り、愚かであるはずだという、視野の狭い非難はついてまわる。

 教育機関が整備されていなかった圏外圏において、就学経験者は稀少であるから、火星やコロニーには無教養な貧民が多い。木星圏も、女性は奴隷同然の扱いを受けてきたため知識も教養もない情婦が多い。

 そうした下賎な連中に下駄を履かせて出世させるのは愚行だ、逆差別だ――と、組織改革を非難する声は絶えずあがってくる。

 だが、彼ら彼女らは秩序の被害者であって、長い差別の時代に耐えてきた生存者だ。火星連合の教育改革は実を結び、テイワズにも強く影響を与えて、圏外圏出身者は次々と平等なスタートラインまで追いついてきている。既得権の撤廃により、権利は万人に分配された。

 根強くはびこる偏見の数々も、結果とともに是正されていくだろう。

 先入観なしに出会って、差し向かって話をしてみれば、地球人も火星人も、経済圏出身者も圏外圏出身者も等しく人間なのだとわかりあえるはずだ。ギャラルホルンの歴史とともに水底へと沈んだ悲運の英雄、ガエリオ・ボードウィンが火星人の従者に惜しみない敬意と愛情を注いだように。

 一朝一夕で成し遂げられる改革ではなくとも、話し合いの機会をもうけて、ひとつひとつ、対処していく。

 ジュリエッタは独裁者ではないし、組織は正常な作用を取り戻した。権力が一点に集中することはもうないだろう。職務に不始末がないかどうかは監査局が統制局が、それぞれに目を光らせている。

 橋を渡す者として、ジュリエッタ・エリオン・ジュリスは求められた。

 セブンスターズの価値観、そしてセブンスターズに支えてきた従者の価値観、経済圏出身者の価値観――そのすべてに歩み寄れる人材が、アフリカンユニオンの片田舎に生まれ、ラスタル・エリオン公に育てられた私兵ひとりしかいなかったというのは、なんとも皮肉な話だ。

 人材不足のしわ寄せであると目にも明らかな人選のせいか、不満の声は大きくない。……大きな責任を負う立場だ、誰もやりたくないのだろう。

 これまでギャラルホルンは富を抱え込み、分配しようとしてこなかった。我が世の春を謳歌しながら、あらゆる犠牲に見てみぬふりをしてきた。

 手段を選ばないギャラルホルンの悪習によって踏みにじられてきた民衆は声をあげ、世界のあり方を問うた。

 法と秩序の番人が謳う【大義】とは何なのか、答えてみろと。

 そのこたえを今日、復興式典でジュリエッタが世界に向けて発信する。お披露目するレギンレイズの連隊も、ギャラルホルンの存在意義のひとつだ。

 

「わたしはあなたについていきますよ。我らが旗、ジュリエッタ」

 

 二十三歳の若さでギャラルホルンの代表になる横顔には、いまだ少女のあどけなさが残る。『考えること』が仕事であり課題だ。人が人らしく、愛する者を愛せる世界のためにギャラルホルンはある。秩序を体現し続けるために、ジュリエッタは凛と気高く前を向く。

 我が身を守ってくれない秩序に対して、人は従順であろうとは思わないだろう。過去の過ちを糾すこともない世界に希望を見出すことはできない。

 平等な天秤が必要だ。だからジュリエッタ・エリオン・ジュリスが、角笛の音に耳を澄ませる番人になる。

 

 

 

 

 

 #066 ジュリア・リバース

 

 

 

 

 

 アフリカンユニオンの北西に位置する都市、ルーアン。ギャラルホルンの再出発に選ばれたのは、セーヌの流れのかたわらに建つ、実に芸術的な建造物だった。

【ルーアン大聖堂】という。

 火星ではまずお目にかかれない、巨大かつ精密な建築だ。絵画をもとに復元された大聖堂の威風堂々たるたたずまいに気後れしきりのエンビを見守って、チャドは穏やかに苦笑した。

 ゴシック・アーキテクチャというのだと解説する。

 

「本物は厄祭戦の最中に焼け落ちたって話だから、どこまでリアルかわからないレプリカだけどな」

 

「MSもなかった時代にこんなデカくて細かい建物が作れたってだけでびっくりっすよ……」

 

 建造にどれほどの予算と日数、人員、それから技術が必要だったのか、まるで想像がつかない。歳星にも華美な建築はたくさんあったが、これまでに見たどれとも違う。

 圧倒されっぱなしのエンビに、チャドは「そうだな」と同意してやる。

 ギャラルホルン再興式典を午後に控え、ルーアン大聖堂は関係者以外立ち入り禁止となっている。クーデリアの護衛にはユージンひとりがつき、今はインカムから静かなやりとりを傍受しながら待機しているところだ。正午にはマスコミの三脚が陣取りはじめて自由に見て回れなくなってしまうから、避難経路の最終確認という名目で今のうちに探検してこいとのお達しである。(エンビはオペレーターとしての経験の賜物か耳がよく、通信を傍受しながら器用にしゃべるので、こうした後方での待機に適している)

 いつもならマイクロチップのおかげで語学の堪能なチャドがクーデリアのそばにつくのだが、ここREUは観光産業で栄えているだけあってどこへ行っても言葉が通じる。会談や取材は昨日までに終えており、側近にはユージンを連れて行くので、チャドはエンビの解説員になってやれということらしい。

 厄祭戦以前のデータはまだ大学などの専門研究機関が独占し、ネットで検索してもヒットしない。こういうとき、チャドのマイクロチップが役に立つのだ。

 エンビらの世代は【鉄華団】の名に傷をつけたくない一心でことさらお行儀よく大人しくしていた経緯があり(皮肉ではあるが)どこに出しても恥ずかしくない好青年に育っている。

 社会見学は重要ですよ、と笑んだクーデリアの思惑を察して、チャドは突き抜けるように高い天井をあおいだ。

 

(しっかしまあ、百聞は一見に如かずとはよく言ったもんだなぁ……)

 

 蒔苗氏との縁もあってアーブラウには何度か降りていたが、アフリカンユニオンを訪ねるのはチャドも今回が初めてなので、目にうつるものが何かと目新しい。特に北部、この旧ヨーロッパ共同体〈REU〉では厄祭戦によって失われた文化財の再現に力を注いでいるそうで、町並みのうつくしさが段違いだ。

 かつてこの地がフランスの名で呼ばれていた時代の文化財で、芸術的価値を見出されたことで再建されたという、ルーアン大聖堂。……データでは知っていても、胸に迫ってくるものがある。

 商品そのものだろう町並みが全宇宙に報道されれば、観光収入にも大きく寄与されるに違いない。ギャラルホルンの再興式典の会場提供もまた、そうした戦略によるものだろう。

 ドルトコロニーにおける暴徒鎮圧作戦によってアフリカンユニオンは甚大な経済的打撃をこうむったが、北部ヨーロッパ、中部アラビア、南部アフリカともに化石燃料や天然石、鉱石類の採掘・流通が不可欠である。軍需産業にかかわるコロニーも多く、ギャラルホルンとの取り引きを断たれれば経済基盤が揺らぎかねない。

 経済のために『親ギャラルホルン』派であり続けたアフリカンユニオンが、その経済発展のために再出発の宣言地となるだなんてなかなか皮肉が効いている。

 中道を保ってきたオセアニア連邦は民衆の反発こそないものの、イズナリオ・ファリド公による内政干渉により、蒔苗氏に貸与していた太平洋沖の孤島をひとつ焼き払われている。カルタ・イシュー率いる地球外縁軌道統制統合艦隊によるミレニアム島襲撃以降、アーブラウとの関係維持、ギャラルホルンとの交渉――、オセアニア政府は相当気を揉んできただろう。

 アーブラウやSAUの世論は今も、七年前にバルフォー平原で起こった国境紛争から変わらず『反ギャラルホルン』派だ。今日こうして再出発を迎えることについても、全面的に肯定する姿勢ではない。

 二年前、ヒューマンデブリ廃止条約式典がアーブラウの首都で催されたのはクーデリアの安全を保証し、またギャラルホルンが市民を威圧するという両陣営の思惑があった。

 だが今は、民衆にも自由な発言権がある。ライド・マッスの奮戦によって犠牲を悲しみ、悼む権利は勝ち取られた。抑圧から解放され、強権に萎縮する必要はもうない。

 ギャラルホルンの再興を歓迎しない風向きであればこそ、ラスカー・アレジ代表も式典会場をアーブラウ領内から提供するような決断はしなかった。

 そんなとき、到着した黒いセダンからダークスーツ姿の青年が降り立った。目ざといエンビがインカムのみが拾える音量で『タカキの到着だ』と独り言ちる。

 エンビの視線の先、タカキ・ウノはかつての家族をみとめると、ぱあっと空気を華やがせた。

 

「エンビ……に、チャドさん! もう着いてたんですね!」

 

 SPたちにことわりを入れてから走り寄ってくるタカキは、世渡りもすっかり上手くなったらしい。慈善事業団体に顔が利き、旧蒔苗派の中でも強い支持を受けている。アーブラウ代表第一秘書、そしてラスカー・アレジ代表の後継者候補として、この式典への参加も打診されて然るべき人間だろう。

 関係者の入場は認められているといっても式典自体は午後なので、到着が早いというのはもっともな指摘である。

 エンビが手元のタブレットを傾け、館内の地図を指差していたずらっぽく笑んだ。

 

「クーデリア先生が見学の許可くれたから、チャドさんにいろいろ教えてもらってるんだ」

 

「いいなぁ。チャドさん、おれにも教えてください!」

 

「いや、おれもデータでしか知らなかったから、実際に見て驚いてるよ」

 

 すごいな、地球は。――チャドはそっと、遠くを見るように目を細める。

 タカキもまた、地球を好きだと言っていた戦友を思い起こして懐かしく微笑した。その左頬には、少年めいた美貌にそぐわない傷痕がはっきりと残されている。

 二年前、バルフォー平原で負った傷だ。報道陣とともにガンダムエリゴルの奮戦を見守っていたタカキは、レギンレイズ・ジュリエッタとの剣戟によって折れ、吹っ飛んだハルバードの爆風によって頬に擦過傷を負った。

 エンビの視線が注がれていることを察して「ああ」と苦笑する。「治すタイミングがつかめなくて」と肩をすくめた。

 

「時間が経つのって本当に早いよね」

 

 ライドとの最後の邂逅を、タカキは昨日のことのように思い出せる。

 あのとき確かに目が合ったと、タカキは確信している。エドモントンの自宅に匿ったとき既にライドは視力を失っていたから、エメラルドグリーンの光と向き合えたのはエリゴルのツインアイごしの一瞬が最後だった。

 ガンダムフレームが寄越す膨大なフィードバックに視神経を冒され、光を失った盟友。彼の戦いは、紛争の爪痕が残るアーブラウにとっても意義あるものだった。

 

「元気でいますか、火星のみんなは」

 

 ヤマギとは連絡をとりあっているが、タカキは二年ばかり前にクリュセを訪問したきり、火星を訪れていない。ノブリス・ゴルドン暗殺事件より前のことだ。この二年でずいぶん様変わりしただろう。

 

「元気すぎるくらいだよ。お嬢とユージンには、もう会ったんだろう?」

 

「でも、個人的には話せないじゃないですか」

 

 拗ねたように肩をすくめてみせるタカキは、大人になってもこうしたしぐさがよく似合う。少年兵集団を抜けて背伸びをしなくなったことが、タカキの今を形作ったのだろう。

 

「そういえば、あの子は元気? デルマが連れてた、元ヒューマンデブリだっていう……」

 

「エヴァンなら、来期で中学生だってさ。なかなかデルマ離れしてくれなくて困ってるみたいだけど」

 

「そっか。あのときも、デルマにしがみついて寝てたよね」

 

 思い出して苦笑する。当時で八〜九歳くらいに見えたが、鉄華団の少年兵に比べ、何かとあどけない印象を与える子供だった。

 アストンやデルマが保護されたとき、骨の成長度合いから十二歳前後と推測される――とメリビットが分析したと聞いているから、幼くて当然なのかもしれない。八〜九歳といえば、あの当時のエンビやヒルメくらいだ。……いや、それにしてもエヴァンは幼い。兄貴分の背中を我先に追いかけようと成長していた年少組に、ああいった甘えん坊はいなかった。

 鉄華団はみんな家族を守りたい一心で戦っていたが、ヒューマンデブリあがりの子供たちは、少し特殊だった。

 読み書きを学びたい、MSに乗りたい、もっと強くなりたい、など個々に向上心を持ち、どういった分野で働きたいかを自分自身で判断することが、鉄華団では()()()だった。タカキは当たり前にそうしていたし、ライドやエンビもそうだった。

 ところがアストンやデルマは、自分自身の()()に疎い。何がしたいとか、何が欲しいとか、願望を持つことそのものを知らないのだ。なのに優れた戦闘技能を持っているから、戦えば仲間の役に立てるという事実を当たり前に呑み込んでしまう。

 三日月さんのような強いパイロットになりたい――という夢を持っていたタカキにとって、戦闘技能を評価されてMS隊を率いていたアストンはいつも頼もしく、まぶしくうつった。冷静で、判断力に長けた地球支部のエース。鉄華団の家族で、自慢の友達。そんなふうに見ていたから、願うことを知らないアストンの脆さに気付くことができなかった。

 ヒューマンデブリという悲惨な境遇にあったぶんだけ、あたたかくてやさしい日々を知ってほしいと独りよがりに願ってしまった。

 そんな()()の押し売りが、アストンの早すぎる死につながってしまったのだと思うと、今でも後悔が芽を出しては心臓を突き破ろうとする。

 

 ――ヒューマンデブリは、感情なんて持ってたら生きていけない。

 

 ――おれたちは、自分の心を殺して生きてきたんだ。

 

 生きるために感情を捨て、心を殺してきたアストンにとって、あたたかい日常を知ることは死と同義だったのだと、タカキは戦場で彼を失うまで気付かなかった。仲間を大切に思う気持ちは冷静さを削ぎ落とし、仲間を失った悲しみが判断力を奪う。

 心を殺すことで()にすがりついていたアストンに、タカキは()を押し付け続けた。フウカと三人で暮らすやさしい日常、三人で囲むあたたかい食事――そのすべてが、アストンから生きる術を奪っていることに気付きもしないで。

 

 ――本当に、お前らに出会わなければよかった……。

 

 無自覚な死神と出会いさえしなければ、あんなつまらない死に方をすることはなかっただろう。アストンは強かったし、判断力も戦術にも長けていた。死にたくないという願いを最期の最後でつかみとり、それでもタカキを否定しなかった戦友を思うと、やりきれない。

 

(おれが、殺したんだ。アストン・アルトランドはおれが殺した)

 

 うっそりと目を伏せたタカキの肩に、チャドが気遣わしく手を乗せた。

 

「……タカキ。自分を責めても、弔いにはならないぞ」

 

「チャドさん……」

 

「そうだよ。エヴァンは甘えん坊だし、あいつは誰とも似てない」

 

 エンビは眉尻をさげると、エルガーそっくりのため息をついてみせた。境界をなくした一卵性双生児ではなく、エルガーを真似たエンビの姿に、タカキが目をまたたかせる。

 してやったりと、エンビが白い歯を見せて笑った。

 仕事でスーツを着るたびニット帽をとり、茶髪を晒すようになったエンビは、もうエルガーには見えない。そこにいるのはSPの仕事が板についてきた、休日にはまた帽子をかぶるようになった十八歳のエンビだ。

 双子の兄弟ふたり、ずっと一緒に生きてきた記憶を持つエンビにとって、エヴァンの言葉には共感する部分が多い。だが同じ()()()()だろうにエヴァンは、エルガーにはこれっぽっちも似ていない。曖昧だった片割れとの境界線を明確に自覚する過程で、エンビがエヴァンに寄せる共感はあくまでも『戦場に片割れを奪われた喪失感』の投影なのだとわかった。

 

「まあ、元デブリってだけじゃ似てるも似てないもないしなぁ」

 

 苦笑するチャドだって、ダンテやデルマとの符合を見出すほうが難しい。昭弘ともアストンとも、違う人間だ。

 双子にせよ、ヒューマンデブリにせよ、アイデンティティに根を張る要素は個々に異なる。

「そうですよね」とタカキが自傷の刃をおさめるように目を伏せる。

 穏やかに瞑目する。戦友の面影を探しては罪悪感で自分の首を絞めようとするのはタカキの悪い癖だ。生き残った命の使い方ではなく『将来』を見なくては、明日は今日よりよくならない。

 

「タカキがエドモントンにいてくれたおかげで、おれたちは戦えたんだ。ライドもきっと」

 

 言ってなかったな、とエンビは小さく独り言ちる。姿勢のいい長身、ブルーグレイの双眸で、まっすぐタカキに向き直った。

 

「ライドのこと、看取ってくれてありがとう」

 

「……エンビ……」

 

 完全に停止したエリゴルからライドを降ろしたのは、報道陣とともにアーブラウ防衛軍に帯同していたタカキだ。

 処理にあたったSAU正規軍の衛生班には阿頼耶識搭載型コクピットについての知識がなかった。禁忌に触れないよう情報が操作されていたから、彼らは誰も、接続されたパイロットをとりあげる方法を知らなかった。居合わせたタカキが名乗り出て、戦友に最後の別れを告げた。

 ガンダムエリゴルがバルフォー平原のモニュメントとして残されたのも、赤いシクラメンを 孤児救済(セーブ・ザ・オルフェンズ)のシンボルにしてはどうかという提案が取り下げられたのも、タカキの言葉が届いたからだった。

 鉄華団団長オルガ・イツカは、一度だって弱者救済を謳わなかった。鉄華団は何も世界じゅうの孤児を救うためにあったのではない。

 あたたかい食べ物と安全な寝床、必要としてくれる仲間があればいいという、ささやかな願いを寄せ集めて作った、ひとつの家族のかたちだった。家族を意味する言葉が【鉄華団】だった。

 あれは決して散らない鉄の華を象った、家の()()なのだ。

 

 ――それを上書きするのは、家族を失った人々から居場所を取り上げる行為です。

 

 議会において発言の機会を与えられたタカキは、先輩秘書や愛妹フウカの知恵を借りて原稿を考え、イメージの改竄が与えうる影響について訴えた。悪意がなくとも別の印象で上書きするのは、忘却の歴史が綴られてきたこれまでと何も変わらない。

 そうしたタカキの戦いは、結果的に『家族』という言葉の解釈に苦しめられたエンビの救済にもなった。

 タカキはラスカー・アレジ代表の第一秘書として、政治家として今後も『筋』を通していきたいと思っている。

 国境紛争でアーブラウ防衛軍とともに戦った元少年兵タカキ・ウノが代表秘書として支持されてきたのは、世論によるギャラルホルンへのささやかな反発だ。頭脳でも人望でも、公約でもなく、タカキはギャラルホルンに家族を奪われた『記憶』を失わないために、そこにいることを望まれた。

 ギャラルホルンが【忘却の番人】であるならタカキは【記憶の門番】として。戦争に奪われた命を、戦争で失われた四肢や視界を、忘れたくない民衆の支持を集めたのだ。

 反撃の旗頭という資質のみで成り上がり、ライドが勝ち取った『悲しむ権利』に上書きされれば不要になる程度の象徴だった。

 

「もういらないって言われないように、おれはこれから頑張らなきゃな」

 

 かつてはライバルとして張り合っていたライドに負けないように。

 与えられたチャンスを無駄にする気はない。望む望まぬにかかわらず、貼付けられたレッテルでタカキは成り上がったのだ。剥がされて捨てられないように、前に進む。

 たとえ偽物でも、復元された大聖堂は今なお厳然と人々を見守っている。

 

 

 

 

 

 

 

 見慣れない黒い衣装は、アジー・グルミンのまとう『黒留袖』だ。木星圏の正装で、テイワズ式の晴れ着である。

 男尊女卑の歴史を持つテイワズの、その伝統的な正装を晴れ晴れとまとって、アジーは銀髪を結い上げた。

 テイワズ初の女頭領として式典に臨むことは、歴史に残る第一歩だ。

 アジーやジュリエッタが組織にトップに立つための前座としての仕事を終えたクーデリア・藍那・バーンスタインは、ワインレッドのロングドレスで凛然と立つ。パンツスーツ姿も似合っていたが、赤いドレスは彼女本来の魅力がありありとあふれて見違えるようだ。

 フォーマルな軍服姿のジュリエッタの頬に手を添えて、クーデリアはそっと紅筆を滑らせる。

 これから演説をするくちびるにかける、おまじないのようなものだ。

 口紅をととのえると、「できました」と満足げに微笑んだ。側近から手鏡を受け取り、ジュリエッタに手渡す。

 まだ化粧になれないジュリエッタには、淡く色づく薔薇色は浮いて見える。それでいて、ジュリエッタを彩るために選ばれた色彩が顔立ちを晴れやかに見せてもいる。

 

「時間だよ」とアジーがうながす。

 

「いきましょう」とクーデリアがジュリエッタの手を取った。

 

 頼りなくふるえそうな指先を強く握る。

 

「立ち止まって、本当にそれでいいのか考えて、言葉にする――、それはとても大変な仕事だわ」

 

 ギャラルホルン旧来の価値観に、疑問を抱けるのはあなただけ。これからはジュリエッタの『言葉』が価値を持つ。

 プレッシャーをかけるクーデリアの耳元では、養父ラスタル・エリオンを失脚させた鉄華団のピアスが光る。彼女のそばに控える金髪のSPだってジュリエッタにとっては仇そのものだ。

 それでもすべて受け止める。

 戦いが必要だったのはなぜなのか、原因を問い、背景を議論し、言葉を尽くしていく。

 この世界は平和で、戦争なんて必要なかった。ただ、地球圏の人々が圏外圏の犠牲を顧みなかっただけだ。

 真に家族を思うのならば、人々は武器など持つべきではなかった。武器を持たなくても、人々は守られるべきだったのだ。

 安全なシェルターがあり、日々の糧があったならば、鉄華団は生まれなかった。学校に通う権利があれば戦って日銭を稼ぐ必要はなかった。

 木星圏の女たちに人権が認められていれば、名瀬・タービンに救われることはなかった。社会秩序に守られていれば救済など必要なかった。

 ギャラルホルンの白色テロがなければジュリエッタは傭兵と出会うこともなく、恩人に出会うこともなかった。田園風景と工業地帯が隣り合わせの故郷で、両親と兄たちとともに暮らしていたのだろう。

 出会いはすべて数奇な運命の巡り合わせで、秩序が乱した歯車が不思議に噛み合って、現在を形づくっている。

 この世界が真に平和であったなら、ジュリエッタは今ここにいなかったのだろう。

 これから平和になるこの世界に、愛した男たちがふたたび生まれてくることはないのだろう。

 少年兵が命を賭けない世界に三日月・オーガスはいない。女たちが自由平等に生きられる社会に、名瀬・タービンは必要ない。彼らが生まれてこない世界のために、女たちは一生をかけて戦う。

 家族の生の否定ではなく、戦いの果ての死を悼むために。悲しみの先に未来を勝ち取れるように。

 

「胸を張んな。世界が見てるんだ」

 

 あんたの父親もね、とアジーが付け加える。

 これから背負うだろう膨大な責任の前に、女たちの双肩は細く頼りない。四大経済圏の代表らに比べればあまりにも若く、青い。

 時代を作るのは若者だと、女にも国政を任せて大丈夫だと、世界に納得してもらえるかどうかが今後の仕事にかかっている。

 ジュリエッタは凛とくちびるを引き結んで、双眸に強く光を宿した。

 ギャラルホルンの統率者がまとう銀灰色の正装、その襟元を飾るヨルムンガンド・レッドのスカーフを首輪だと笑う者はもうどこにもいない。

 

「すべて覚悟の上です」

 

 信頼を勝ち得るために。フラッシュが焚かれるただ中へ、華奢なヒールで一歩を踏み出す。大聖堂の厳かな空気が作り出す緊張感の中で、少女はそして、羽化のときを迎える。




ありがとうございました。

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