生前の夫は、謎めいた方でありました。
幼きころ、彼はパンを食べるのが早い子供であったと、アルバムには書き添えられておりました。火星に生まれ、モンターク商会という人身売買業者を経由し、イズナリオ様によって引き取られてきた名もなき少年のうちのひとりであったそうです。
そのころの夫を、わたくしは存じ上げません。なにせ、十八も年が離れているのです。彼の十八年間は、兄の成長を記録したアルバムからのぞき見る以外に、わたくしには知りようもありませんでした。
彼との婚約が決まったのが、わたくしが八つのときです。彼は二十六歳でございました。
彼は、兄の親しい友人でありました。ボードウィン家は父と兄のためにありましたので、また、わたくしの母は慎み深い後妻でありましたので、わたくしたち異母兄妹が交流を持てたのは、婚約者という架け橋のおかげであったでしょう。
彼は、わたくしの大切な友人を謀殺いたしました。いとおしい友人は、最後まで高潔にあったと聞き及んでおります。
同じ戦場で亡くなった兄のことも、わたくしのしあわせを心から願っていたと夫より伝え聞いておりました。
その実、わたくしの兄を手にかけたのは夫でした。
しかし兄は生きておりました。そして、わたくしの夫を殺しました。
心から願われたというしあわせは、どんなものであったのでしょう。幸福を願うのならばなぜ兄は、わたくしたち家族のもとへ帰っていらしてくださらなかったのでしょう。なぜ兄は、わたくしの愛する夫を、わたくしから永遠に奪ったのでしょう。
わたくしは夫の多くを知ることなく、すべてを失ってしまいました。
わたくしが存じます夫の姿は、ほんの一部でありますが、彼には愛読書がございました。【アグニカ・カイエルの生涯】という、厄祭戦の終結からギャラルホルンの興りまでを描いた、伝説めいた記録書でした。
記述によれば、ギャラルホルンが目指したものは生まれも身分も関係なく、誰もが等しく競い合う世界であったといいます。人が人らしく、愛する者を愛せる世界であったそうです。
夫は、かつてのギャラルホルンを取り戻したいと語っておりました。今から約三百年の昔に設立されたままのギャラルホルンであれば、わたくしの愛した友人も、わたくしたち夫婦も、誰にはばかることもなく幸福でいられたかもしれないのです。
しかしながら、革命の志は、現在のギャラルホルンという大きな力の前には、風前の灯火にすぎませんでした。世界が変わる日は遠く、組織が原点へ帰る日は訪れませんでした。わたくしたち夫婦がしあわせを手に入れることはできなかったようなのです。
わたくしは、ここに革命の徒らの気高き名をしたため、わたくしもまた彼らが目指した世界の礎となることを決めました。
それでは、わたくしはギャラルホルンの忌まわしき歴史とともに、夫の待つ冥府へと旅立ちます。
明日の世界がどうか今日より自由でありますよう。
愛をこめて、アルミリア・ファリド
May 1, 331
メーデー。