「こうした清貧な生活というものが、わたしは案外、嫌いではありません」
実にお行儀よくパンをちぎりながら、御曹司は穏やかに微笑んでみせた。
今年で十八歳になるヒレル・ファルクは、ギャラルホルンの青い軍服に身を包み、パンとシチューだけの粗末な食事を気に入っているのだとはにかむ。
天井から吊り下がる電球が隙間風に揺れるようなあばら屋で、石のように硬いバゲットと根菜だけのシチューに文句をつけないのは彼くらいだ。散歩に出かけては路傍に咲く野花を一輪つみとってきて食卓に活けようとするのも、ヒレルくらいのものだろう。
差し向かうジュリエッタは呆れて物も言えず、苦言をため息にすり替えた。スプーンを置く。ヒレルと向き合うと、食欲がまるで湧かなかった。
ヴィーンゴールヴ沈没以来、各地上部隊駐屯地のそばで仮住まいをしているギャラルホルン兵士たちはみな、ヒレルの唐変木ぶりに閉口している。無味乾燥な食事、地域住民からの冷遇、――いつ終わるかもわからない地球滞在にともなう諸問題について、彼に期待していた兵士は多いというのに。
「西の空き地で遊んでいた子供たちに、近くにベーカリーがあると教えてもらったんです。楓の樹液を使ったパンが、地元でとても贔屓にされているのだとか! 週末にでも訪ねてみようと思います」
この
分家筋とはいえファルク家の血を継ぐセブンスターズの生き残りだろうに、部下たちから上がってくる待遇改善要求にまるで答えようとしない。
ジャムについての言及が出てくるあたり、どうにかしたいと考えてはいるのだろうが。
「……ああも豊かだったギャラルホルンにおいて、あなたのその奇特な感性はいかに培われてきたのでしょうね」
嫌味をひとつ吐き出してから、ジュリエッタは味のしないパンをちぎって、口に放り込んだ。……本当に味がしない。工場で量産された食品でも、コンバットレーションのほうがいくぶんマシな味わいだろう。
パッキングされた糧食は
グラズヘイムには監査局員が入り、統制局とテイワズの混成治安維持部隊の庇護のもとで今も仕事を続けている。彼らの食事がより充実している必要があるのは確かだ。
だとしても、これまで通りの生活が送れなくなった兵士たちからは、不満の声が続々と湧きあがってくる。
監査局・統制局の一部部隊は変わらず仕事をしているのだから、不平等に思えるのだろう。統制局を外れ、独自の艦隊として動いていたアリアンロッドとグウィディオンは戦艦の運用すら差し止められてしまったし、シミュレーターやトレーニング施設もない古い宿舎をあてがわれ、地球経済圏に匿われているのが現状だ。
ヴィーンゴールヴが沈没し、帰る家を奪われた『難民』として扱われている。
これまでならギャラルホルン兵士を『客人』として丁重にもてなしてきただろう経済圏の市民にも、歓迎どころか邪険にされる始末だ。
暫定的にギャラルホルン代表代行をつとめるジュリエッタ・エリオン・ジュリスは、目下の部下であるヒレル・ファルクらをともなって各経済圏の宿舎を点々としているが、ここアーブラウでは特に、誰かが街へ買い物に出るたび『不当な扱いを受けた』と憤りの報告書が上がってくる。
何の文句も言わないのはヒレルくらいのものだ。ヒレルだけは買い物をするでもなく街を訪れては子供と戯れたり、老人の話し相手になったり、他愛ない時間を過ごしてくる。
「アーブラウは自然豊かで景観がとても素晴らしい。道行く人々もよくしてくれます。いいところだと、わたしは思います」
ギャラルホルンの軍服を着ているだけで遠巻きにされ、ひどいときは鼻つまみ者扱いされる、――という報告がたびたび上がってくる地域で、なぜこうも無防備でいられるのか。理解しかねて、ジュリエッタは気うつになって嘆息する。
「……ヒレル」
呼びかければ、好青年よろしく「はい」と素直に言葉をおさめ、「なんでしょうか、ジュリエッタ」と悪意なく微笑する。
「あなただって報告書には目を通しているでしょう。現実を見るべきです」
「報告書ならもちろんすべて見ています。本日は『濁った水を出された』と多数報告のあった飲食店を訪ねましたが、話によれば天然水が売り物なのだそうですよ。なんでもカナディアンロッキーの雪解け水で、ミネラルが入っているのだとか」
こぢんまりとしてあたたかい、とても雰囲気のいい店でした、とヒレルはしめくくる。
地元の住民によれば、飲料水に不純物が混じることは、こうした山麓地域では珍しいことでもなんでもないという。そんな日常的な瑣末ごとに、潔癖なギャラルホルン兵士は憤った。当然だ、ヴィーンゴールヴでは海水を蒸留した精製水が主流であったから、混ざり物などありえない。
「世界には、わたしの知らないことがたくさんあります」
……などと、誰彼構わず敬意を払うところが「誇りを忘れている」「矜持はないのか」と非難されるいわれなのだろう。先日まで滞在していたオセアニア連邦では、彼のような気質を『陽の気が強い』と表現するらしいが、それにしても度を超えている。
アーブラウは経済圏の中でもアンチ・ギャラルホルン寄りで、軍服のまま出歩けば、いつ何どき報復の凶刃に襲われてもおかしくないのだ。(ギャラルホルンは先日まで、意に沿わない振る舞いをする者と見れば報いを与えていたのだから身から出た錆ではあるが……)
というのに、ヒレルはてらいなくギャラルホルン・ブルーをまとって、報告書に記された店を訪ね歩く。
もはや呆れるどころの話ではない。自殺志願者のような無防備に嫌悪すら覚えてジュリエッタは柳眉を歪めた。
「……そのうち霊験あらたかな壺でも買わされてこないかと、わたしは不安でなりません」
「そうですね、花瓶があればと思わないこともないですが……今回は短期滞在ですし、荷物も多くは持てませんから――」
「もういいです」
ぴしゃりとはねつけ、ジュリエッタは水のグラスをつかみあげると、乾いたパンを喉に流し込んだ。
味のしないパンに不満があるわけではないが、貧相な食卓は幼かったころ、まだ肉親と暮らしていた幼少期を思い起こさせる。
やさしい傭兵に拾ってもらって、強い戦士に育ててもらったのに。せっかく教育を受けさせてもらえたのに。MSの操縦技術を認められたジュリエッタは、パイロットとしての腕を生かして恩人たちの役に立ちたい。なのに思いをいくら募らせても、訓練すらままならない。
養父ラスタル・エリオンは民衆からの報復から守るためにと経済圏のどこかに幽閉されていて、面会もかなわない。どこにいるのかも教えてもらえない。今後ともギャラルホルンの政治に携わっていくジュリエッタが彼の傀儡となることを懸念されているのだろう。娘として、後継者として、声すら聞かせてもらえない。
トン、とグラスがテーブルの木目を打つ。逃げるように席を立つジュリエッタを、ヒレルは穏やかに細めた目で見送る。
ドアの向こうへ消えた背中にかけられる言葉もなく、物憂いまつげをそっと伏せた。
ギャラルホルンが綴った勝者の歴史を信じ続けてきたヒレルは、ジュリエッタよりもよほどおろかだ。
(あなたと食事を囲めるのなら、わたしはなんだっていいのですよ。ジュリエッタ……)
ファルク家の嫡男ではないヒレルでは、『エリオン』という強大な威光を持つジュリエッタを食事に誘うことなど、できようもなかったのだから。
ギャラルホルンの伝統において、セブンスターズの席次は何より大きな意味を持つ。血統を重んじ、席次が婚姻の是非を決めるのだ。形式上は女系当主を認めているものの、事実上、第一席であるイシュー家には言外に兄妹、父娘による近親婚を強いていた。
長女として生まれたカルタ・イシューがイシュー家最後の姫となる運命を受け入れた心のうちには、ヒレルには慮りきれない葛藤があったのだろう。イシュー公が病に臥せ、夫人が早世した背景にはセブンスターズのしがらみがあった。
ラスタル・エリオン公によって合議制が廃止され、世襲制にこだわってきた三百年来の悪習が事実上なくなっても、固着の観念が今日明日消え失せるわけではない。
セブンスターズの一家門、ファルク家当主エレク・ファルク公の
ボードウィン家後継者としての立場を捨ててなお彼女と親しげに談笑するガエリオ・ボードウィンには嫉妬しきりだった。ヒレルなんて武官見習いの立場を利用してMSの戦闘指南を乞うだけで精一杯だったのに。
ジュリエッタ。
凛々しき女騎士に憧れて、ヒレルはいつかギャラルホルンの騎士になりたいと誓った。胸を躍らせたあの日、ヒレルはわずか十一歳の子供だった。
悪魔の首級を掲げるレギンレイズ・ジュリアの勇姿を何度だって繰り返し見た。
ところが彼女が倒したガンダムバルバトスは無人機などではなく【阿頼耶識システム】という厄祭戦時代のマン・マシーン・インターフェイスを用いた少年兵が搭乗していた。レギンレイズ・ジュリアとの死闘はなく、アリアンロッド艦隊による【ダインスレイヴ】の一斉掃射によって、致命傷を負わされていた。
暴かれたふたつの禁忌が、ギャラルホルンの社会的信用を地に落とした。
プロパガンダを盲目的に信じきっていたヒレルにとって、現実はあまりに衝撃的で、残酷なものだ。
夢にまで見た指揮官の任についた地球外縁軌道統合艦隊グウィディオンは、腐敗の象徴などではなかった。そこにあったカルタ・イシューの誇りを、マクギリス・ファリドの願いを、貼付けられた『腐敗』というレッテルによって見えなくされていただけだった。
カルタ・イシューの戦死によって統制幕僚長の首が飛び、その椅子にはイズナリオ・ファリド公が座る目論見だったのだろう。しかしマクギリス・ファリドが内政干渉を暴いて養父を失脚させ、イズナリオは亡命。宙に浮いた力を手に入れたのが、ラスタル・エリオン公だった。
統制局・監査局の枠組みを越えて部隊を再編したのは、マクギリスの思想に傾倒した革命の徒が二度と集わないよう隔離するためだった。グウィディオンという名の墓場でヒレルは、出世街道を断たれた亡者たちの呪詛を聞いた。
歪められた『真実』を、ヒレルはずっと信じてきた。知らず目隠しをされていたヒレルは、それらが『事実』ではない可能性を疑わなかった。ギャラルホルンの老人たちに都合のいい情報統制を鵜呑みにして、ヒレルは生きてきた。
だが、それによって『過去』が揺らぐことはない。
ヒレルを奮い立たせたのは女騎士への憧憬だ。幼い日のヒレルが抱いた理想も志もすべて、エリオン公の政治と、女騎士ジュリエッタの勇姿に与えられたものだ。
エリオン公がクーデターを鎮圧し、迅速に終息していく戦いの名残には、政治とはこういうものかとわくわくした。ジュリエッタの栄達は、嫡男でないヒレルにとって希望だった。それがたとえマクギリス・ファリドの思想を上辺だけ拝借した、かりそめであったとしても。
希望の源は変わらずヒレルの胸にあり続ける。
当時のヒレルがたった十一歳の子供ではなかったなら、きっとマクギリス・ファリドに与しただろう。心底よりギャラルホルンが『生まれや身分に関係なく、等しく競い合える』組織になることを願い、そしてエリオン公の威光のもとに排除されていたに違いない。
だから、今はこれでよかったと思っている。何の後悔もしていない。
ギャラルホルンの再起に向けて世界は既に動き出し、やがてジュリエッタは新代表となるだろう。晴れの日にはどうか気高き騎士として、彼女の隣にあることを許されたい。
どのような『過去』が暴かれようとも女騎士への初恋は『真実』のまま、ヒレルの心を支えている。
(残り3話です。来週金曜18時完結予定)