別名『エピソードオブジュリエッタ』。後日談『遠郷』では尺の都合で削ってしまったジュリエッタ、タカキ、アジーのエピソードを拾って、仮想3期『雷光』シリーズは完全完結予定です。
01 終わりなき悪夢
操縦桿を握る手は、まだ緊張にふるえている。揃わない呼吸、背中をびっしょりと濡らす汗が冷たい。
だが眼前の悪魔は完全に沈黙し、レギンレイズ・ジュリアの剣は確かに、ガンダムバルバトスの首級をあげた。この右手の、五本の指で握りしめたハンドルの向こう側で、革命の
耳の奥では鼓動がどくどくと鳴り、イオク・クジャンの断末魔がこだまする。戦いが終わったという実感はない。だが、かたちこそ少し違ってしまってもジュリエッタは恩人の望む【愚かなる獣の終焉】を描くことができた。
終わった。終えられたのだ、これで。
『今ここに、アリアンロッド艦隊司令ラスタル・エリオンの威光のもとに! 悪魔は討ち取られた!!』
絞りだした宣言は、凛と高らかに響けたろうか。スピーカーからは割れんばかりの勝鬨が届き、生き残れたグレイズシルトのパイロットたちがどれほどの安堵に包まれているかが伝わってくる。
不運な死者たちと、幸運な生者たち。天から降り注いだダインスレイヴの雨が二機の『無人機』を鎮めてくれなければ、今ごろどうなっていたかわからない。
だが、まだ終わったような気がしなくて、ジュリエッタは細く息を吐いた。浅くなる呼吸を肩でたぐり寄せた、その瞬間だった。
ぞっと怖気が這い上がる。コクピットの温度が一瞬にして十度以上も下がったような、おぞましい感覚がジュリエッタを襲った。悪寒の正体を突き止めようとこわばる視線を動かして、振り返る。右を、左を、そしてメインモニタを。
「ひっ……」
目が、合った。
赤い目が、ジュリエッタを見ている。
ひゅっと引き攣った咽喉が、みずからの呼吸を締め上げた。首だけになった悪魔がジュリエッタを見つめて、にたにたと不穏に嘲り笑っているのだ。停止を確認したはずのバルバトスが――!
あまりの禍々しさに言葉を失う。手がふるえる。氷の舌に背中を舐めあげられたような寒気が、汗ばんだパイロットスーツの中を這い回る。歯の根が合わない。
操縦桿をきつく握りしめたままの手は恐怖にこわばり、革命の剣を手放せない。何もかも放り出して逃げてしまいたい衝動を、自制心と恐怖が両側から封じてくる。
「あ……あ あ……」
ガンダムバルバトスの首が笑う。嘲笑う。そして、折れたアンテナがどろりと赤く溶け落ちた。カメラアイに混ざるようにどろどろと、ジュリエッタが掲げた剣を流れ落ちてくる。粘性の高い赤が、質量を持った恐怖が迫りくる光景から目を逸らすこともできない。
コクピットシートに背中がぶつかって、びくりと肩が跳ねあがった。ジュリエッタは無意識に後ずさって、逃げようとしていたことに気付く。同時に、どこにも逃げ場がないことにも。口内はからからに渇いて、声が出ない。
レギンレイズ・ジュリアの片足が一歩、後方へよろめく。
しかし追い打ちをかけるように、倒れていたはずの
ずるり、ゆらりと、片腕のない白いガンダムがジュリエッタの前に立つ。胸に赤い華の紋章を抱いた悪魔が、スピアを振り翳すのだ。
胸部装甲を取り払い、剥き出しになったコクピットで赤いスカーフの男が野蛮に笑う。ストロベリーブロンドはみずからの血で赤く黒く汚れている。
死んだはずのくちびるが緩慢にうごめく。
――三日月・オーガスを覚えているか。
そして忘れるはずもない、ガンダムバルバトスのパイロットの名を問うのだ。
「――――ッ!!」
スピアの強襲を間一髪でかわすと、ジュリエッタは革命の剣を強く振り抜く。この男を倒せば、この戦いさえ終われば、世界はふたたび平和になる。ラスタル・エリオンの治世は今後百年、二百年と守られていくべきなのだ。
剣戟に火花が散って、黄色い花びらが無数に舞う。赤が混じり、砕け散る。苛烈なエメラルドグリーンの目をした男は、ギャラルホルンの女騎士ジュリエッタ・エリオン・ジュリスを軽蔑の色彩で睨め据えると、左肩のレールガンを引き下ろした。照準はレギンレイズ・ジュリエッタのコクピット。
見覚えのある弾頭が、レールガンからせり出してくる。
ぞっと全身が総毛立った。とっさに撤退しようとしたジュリエッタだが、頭部をわしづかみにされてつんのめる。
野蛮な右腕が、逃がすものかと装甲にぎりぎり食い込んで、ついにジュリエッタのつま先が宙に浮いた。操縦桿をどう動かしても振りほどけない。
「ぐ、ううう……っ」
真っ赤に染まった計器類が甲高く悲鳴をあげている。砂嵐で途切れ途切れになるエラーメッセージが鼓膜を手ひどく引っ掻く。メインカメラをつかんだマニピュレーターの隙間からは、ライド・マッスが笑う口許だけが見えた。
いや、それだけではない。左肩のレールガンから覗く、ナノラミネートアーマーすら貫く高硬度レアアロイの特殊弾頭がジュリエッタの目を釘付けにする。恐怖に凍りついた視線は、弾頭の尖りから目を反らせない。
操縦桿を動かしてもエラーメッセージの赤い悲鳴が飛び散るだけで、追い詰められたジュリエッタは一進一退も許されない。
目と鼻の先でレールガンがプラズマをまとう気配が伝わる。弓を引くのはツインリアクターのガンダムフレーム。テロリストが笑う。嗤う。
そしてコクピットに直接突き立てるかのように、禁止兵器【ダインスレイヴ】は零距離から射出される。
「 きゃ ――ぁあああぁああああああ……!!」
絹を裂くような悲鳴がみずからの喉からほとばしったことを、そしてジュリエッタは自覚した。
部屋は暗い。暗闇でも淡く発光するように清潔なシーツ、スイートルームの大きなベッド。壁にはジュリエッタには価値のわからない絵画が架けられている。重厚なカーテンが引かれた窓の外から、差し込む朝の光はまだないらしい。
またあの日の夢を見たのかと、肺腑の奥から息を吐いた。
ここはホテルの一室だ。ジュリエッタたちは今、アフリカンユニオン北部の旧ヨーロッパ共同体〈REU〉に滞在している。戦前はフランスの名で呼ばれていたというエリアだ。厄祭戦の中、建物の多くがビーム兵器に焼かれて失われたが、今はデータをもとに復元した建造物のうつくしさを目玉に観光都市として栄えている。
エリオン家の養女として迎えられたとき何度かショッピングに連れ回されたから、ジュリエッタにはいくらか馴染みのある土地でもあった。なんでもここは、ファッションの中心地なのだという。服だの靴だの、夜会用のドレスだのと買い物に連れ回された日々が懐かしい。正装などアリアンロッドの軍服があればいいと可愛げなく突っぱねてきたけれど、車いすを押して華やぐ街を歩くのは、存外きらいではなかった。
父親ぶって「娘はやらんぞ」と睥睨する恩人は、やさしい目をしていた。内緒話をするように「世の父親の常套句だ、気にするなよ」と軽薄にジュリエッタをふりあおいだ男も。
エリオン家の一人娘として相応に振る舞わなければと、所作ひとつひとつに気を張る生活は重圧だったのに、今はすべてがいとおしい。
楽しかった日々はもう戻らない。
明日は記念すべき、ギャラルホルンの復興式典だ。
セブンスターズの合議制が廃止された新たなギャラルホルン、その二代目代表として養父の後任を任されたのは、皮肉にも初代代表ラスタル・エリオンと血縁のない一人娘、ジュリエッタだった。
大事な演説を控えているというのに、どうしてまた忌まわしい夢を見るのだろう。
ガンダムバルバトスのパイロット、三日月・オーガス。
ガンダムエリゴルのパイロット、ライド・マッス。
旧時代のマン・マシーン・インターフェイス【阿頼耶識システム】を用いた少年兵との戦いは、今もジュリエッタのまなうらに貼り付いて消えない傷痕だ。
夢に現れるたび、これまでどうやって呼吸をしていたのか思い出せなくなる。
(……忘れられる、わけが、)
かわいたくちびるが引きつって、ふるえる。仲間をひとりでも多く生かすため、逆境にあってなお戦い続けた少年兵の最期は、それは壮絶なものだった。
ガンダムフレームの演算システムと飽くなき闘志によって突き動かされ、最期の最後まで仲間のためにあがき続けた、三日月・オーガス。彼は機械の補助で惰性の稼働を続けた臓器がすべて停止するまで、抗うことをやめなかった。呼吸が絶え、心臓が停止するまで。
悪鬼のように強く、最後は群れを守るための囮となった狼の王――バルバトスルプスレクス。その忌まわしき首を晒せというラスタル・エリオンの命令は、きっと仲間を逃がしてやりたいというオルガ・イツカの懇願を汲んだものだった。
PD三二六年、鉄華団は火星の荒野で滅び、そして消えた。
しかし牙を抜かれた獣たちは、乳歯を失っただけだと言わんばかりに再起を遂げた。残党が少数精鋭の群れを形成し、ふたたびギャラルホルンに牙を剥いたのだ。思い出せば、今も胸が締め付けられる。
二度と蘇らぬよう風化させた鉄華団の英雄伝説を引っさげるかのように、ふたたびジュリエッタの前にあらわれた白い悪魔――鉄華団実働二番隊副隊長と名乗ったライド・マッス。
五年ごしの亡霊は、記録には残されていないはずのダインスレイヴの軌道を読み、用意周到にヴィーンゴールヴへの誤射を誘導した。バルフォー平原に現れ、国境紛争の記憶を呼び覚ました。一対一の決闘を挑み、ジュリエッタを燻り出した。
その戦いぶりは明らかに三日月・オーガスをなぞっていた。
今にして思えば、あれは【鉄華団の悪魔】と対峙した恐怖を蘇らせるための戦略だったのだろう。出力も装備も、パイロットの技量すらバルバトスには劣っていた。
三日月・オーガスの強さは、襲いくる天災のように理不尽だった。圧倒的なスピード、パワーでもってギャラルホルンの兵士を殺戮するのだ。それも通行の邪魔になる石を路肩に避けるほどに、無感動に。理解も共感もできなかった。
対象的に、ライド・マッスには明確な『真意』が見て取れた。大義も意味もなく、仲間を生き残らせるためだけに戦い続けたバルバトスとは違う。勝利ではなく報復でもない、目的のために戦っていた。
おそらく彼は、ガンダムは有人機であると叫ぶために血を流した。
――覚えて……っ覚えていてくれ! 鉄華団をッ、団長のことを!!
忘れるなと、彼は言わなかった。
――オルガ・イツカを覚えていてくれ!!
『忘却』の番人ギャラルホルンに狙いを定めて、ガンダムエリゴルは『記憶』という旗を掲げた。
貧しくあるべき星のもとに生まれた獣どもは、運命に逆らい、天に唾を吐いた――マクギリス・ファリド事件は逆賊の反乱として処理されたが、すべてはギャラルホルンが綴った、いつわりの歴史だ。
火星人は出がらしの惑星で大人しく搾取されているべきだなんて不平等な時代が三百年も続いたのは、ギャラルホルンという暴力装置があったからに他ならない。武力を振り翳し、見せ付けて、逆らったらこうなるのだと見せしめを繰り返した。圏外圏が貧しいほど、強権に楯突こうとする勢力から戦力を削ぐことができる。
手を噛まれることのないよう追い落としていただけだ。ギャラルホルンという絶対安全圏を守ろうとする、利己的な保身にすぎなかった。
ギャラルホルンが意図して失伝させ、恣意によって『非人道的で危険な手術』に仕立て上げた有機デバイスシステムですら、宇宙ネズミと蔑まれてきた少年兵は、みずからの武器としてみせた。成功率の低い手術から生還し、非合法のインターフェイスでMSとつながり、ギャラルホルンの喉笛に食らいついた。
PD三三一年、鉄華団は地球の平原に蘇った。
あのとき既に、ギャラルホルンは敗北していたのだろう。鉄華団にではなく、世界に。ギャラルホルンが綴る筋書きに、地球経済圏は不満を抱えていた。
ドルトコロニーで、暴動を起こした労働者を
ミレニアム島に元国家元首を匿っていたオセアニア連邦もまた、地球外縁軌道統制統合艦隊による介入により、アーブラウとの関係を冷え込ませた。亡命者の取り扱いに関しても、セブンスターズは『特例』という名目でもって既存のルールを踏み越えてくる。しかし国防をギャラルホルンに委ねている経済圏は、ギャラルホルンへの制裁措置をとることができない。結果としてオセアニア連邦は、その社会的信用に大きすぎる傷を負った。
そうした白色テロを受けてアーブラウ、SAU両経済圏はギャラルホルンの介入を抑止するために正規軍を発足させた。自衛を目的とした軍備拡張に対して、ラスタル・エリオンが命じたのが要人暗殺、紛争幇助だ。
密偵の介入により当時のアーブラウ代表蒔苗氏は重傷。ようやく発足式典に漕ぎつけたばかりのアーブラウ防衛軍は、交戦したSAU軍ともども壊滅状態に陥った。
発足式典中に起こった爆発はSAUの内通者によるテロと報道されていたが、SAU側はこれを否定。密偵ガラン・モッサの自爆によって真実は闇に葬られ、情報が操作されていたという疑念と、アーブラウとSAUには反戦感情だけがよどみのように残った。
そうした緊張の糸が守る国境地帯を縫うようにして、鉄華団はふたたびバルフォー平原に現れた。
死闘を演じたガンダムエリゴルは、あたかもみずからが敗者であるかのように女騎士に首をとらせて、満足そうに死んだ。
ギャラルホルンが守ってきたはずの『平和な世界』に安寧はなかったと叫ぶ声が、抑圧を失ってはじけた。
民衆の糾弾は世界を塗り替える勢いで広がり、悲しみの矛先はギャラルホルンに向けられた。
ドルトコロニーでの鎮圧作戦に対し、改めて賠償を求めたアフリカンユニオン。暴徒鎮圧という名の虐殺しかできない暴力装置は、対話という手段を軽んじていると弾劾した。
白色テロの標的となったオセアニア連邦、アーブラウ。内政不干渉という前提を、秩序をも踏み越えたセブンスターズの特権に異論を唱えた。
そして火星連合が、違法兵器【ダインスレイヴ】の運用について声をあげた。
禁断の兵器は誰を守り、誰を害するためにあるのか。ギャラルホルンの法と秩序は、人を殺し、魂を踏みにじるためにあるのか? 傀儡政権という磔台を降りた魔女は、情報統制という呪いから醒めた世界に疑問を投げかけた。
ダインスレイヴ射出機構を持つ機体でありながら左肩のレールガンの残弾をすべて抜いた上でバルフォー平原の決闘に臨んだガンダムエリゴルの奮戦は、見事に【革命の乙女】の声を解放した。
――こんな世界の一体どこが平和なんだ!!
高く低く、獣がうなるような慟哭が、まだ耳の奥に残っている。
時計を見遣っても夜明けは遠く、もう一度眠る気にもなれなくて、ジュリエッタは膝を抱えた。相変わらず肉付きの薄い胸に、さらさらと冷たいシーツごと両膝を抱え込む。ため息をついた。
バルバトスの首級をあげたあの日、あの戦場の、あの一瞬から、ジュリエッタは逃れることができないのだろう。きっと、永遠に。鉄華団の白い悪魔が二機、入れ替わり立ち代わり夢に現れては癒えない傷をえぐるのだ。
三百年にも渡り『忘却』を守ってきたギャラルホルンが二度といつわりの歴史を綴らないよう、まるで地獄の底から悪魔が見張っているかのようなプレッシャーだった。
だが、とっくにわかっていたのかもしれない。見ないふりをしていただけだ。
ギャラルホルンが『歴史』を綴り続けようと、鉄華団が虚実を暴き『過去』を勝ち取ろうと、ジュリエッタの記憶はとうにまぶたの裏に焼き付いて剥がれない。記憶という名の悪夢に、これからもうなされ続ける。
朝が訪れても、夜が明けても。
" July 2, 333 "