すべては50話Bパートで「ライド、こっちは片付いたぞ」って呼びにきた彼が成長したエンビに違いないという思い込みからはじまりました。
高級なカーペットの赤に、革靴がそっと沈む。今朝ちゃんと磨いたはずのつま先はすっかりくすんでしまっていて、ライドはおもむろに足を止めた。さすがクリュセで一番いいホテルの廊下だけあって、ディープトーンの落ち着いた毛足の絨毯は、こんなにも赤いのに血液を連想させることがないから不思議だ。
火星を訪れているラスカー・アレジ代表の警護任務が終わりを迎え、我知らず詰めていた息を細く吐きだす。護衛だけなら慣れたものだが、秘書の旧友として過ぎる歓迎を受けることには、どうにも抵抗があった。
アレジさんはいい人だし、元鉄華団のよしみでよくしてもらっているのもありがたい。ただ、無作法なライドを叱りもしないタカキの目が何とも言えず居心地悪くて、せっかく飲めるようになった酒の味もわからなかった。
無事に送り届けたホテルの部屋から退室して、ひと心地つく。やっと帰れると思ったのに、今度は要人秘書である旧友が割り当てられた扉に手をかけながらライドを振り返った。
「ライドとお酒が飲める日がくるなんてなぁ。大丈夫? 酔ってない?」
さも寄っていくだろうと言わんばかりの顔である。タカキは昔からこういう、人をぐいぐい引っ張ろうとする強引さがあった。
大仰にため息をついてやれば、何かおかしなことでも言ったかと、相変わらずキャンディみたいな双眸がころりとまたたく。こいつのお節介には慣れっこだ。いいやと首を横に振って、ライドはカーペットが地続きの部屋に足を踏み入れた。
重たいドア、厳重なオートロックの鍵が落ちる。見渡せば天井は高く、大きな窓はクリュセの夜景の一等きれいな部分を広々と切り取っている。品のいい調度品といい、壁に架けられた大きな絵といい、代表の泊まる一室よりワンランク落としてなお格調高くうつくしい。
そんなスイートルームに馴染む男に、タカキは成長しつつある。
柱のように直立するカーテンをほどいて夜景を向こう側へ追いやると、ライドは上着を脱ぐタカキを振り返った。もともと上背だけはあったからスーツを着たってそれなりに見栄えはしたろうが、立ち振る舞いがもう少年のそれではないと見てわかる。無知無学な子供であった過去とは違う。ジャケットから袖を抜いてハンガーにかける手つきも、ネクタイをゆるめる指先も。
武ではなく智で戦う、大人の男になった。
ライドを見守るときはいまだに飴玉のような色をしているひとみも、盗み見る横顔はブランデーじみた鋭さと華やかさを混在させている。髪が短くなったから、真面目な印象にもなった。目線が近づいただけに見えてくる差異は大きい。
明日の朝には地球へ帰る手筈だからか、当たり前のような顔をしてライドを引き止めたタカキは、やはり自然なしぐさでソファをすすめた。ローテーブルにグラスを並べる。慣れた手つきで氷を砕く指先は、隔てた時間を表すように上品である。
そして注がれた酔い覚ましのミネラルウォーターは凛と透き通って、ぷかぷかと浮く透明を軽やかに揺らした。
繊細なカッティングが施されたグラスの底が光を集めて反射させ、隣り合わせてふたつ並んだグラス同士がきらきらと助け合うように輝くさまは、いつか打ち上げた氷の花に似ている。きれいだと、心底から思う。
なのにライドは不純物の沈殿がないことに違和感を覚えてしまう。風の強い火星では砂塵がどこかで混ざって、グラスの底にはいくばくかの砂が沈んでいるものだったからだ。
「ライドも身長伸びたけど。暁くんも、ずいぶん大きくなってたよ」
先日訪ねたのだという三日月の忘れ形見を思い返してか、タカキは甘い色彩の双眸を細めた。ライドとは向かい合うようにソファにかけて、ゆったりと長い足を組む。大きな双眸をやわらかく細める笑い方は、年少組をまとめていたころとはいくぶん違う色彩で、それを父性と呼ぶのだとライドは知らない。
会いに行けばいいのにとうそぶくけれど、ライドは横に振る。やんわりと、しかし強い拒絶を示すとタカキは長い睫毛をななめにして、写真を見せようとしていたのだろうタブレットの画面を黒くした。
暁・オーガス・ミクスタ・バーンスタイン。三日月の忘れ形見の話は、ユージンやチャドにも会うたび聞いている。しあわせになってほしいと思う。だから、だめなのだ。
部屋に監視カメラのたぐいがないことを確認してから、声のトーンを落とす。絞り出すように打ち明けた。
「おれは団長の仇を討ちいく」
ノブリス・ゴルドンが火星にやってくる。この仕事を終えたら、その足でエンビたちとともに蜂起する。クーデリアからは離れるつもりだ。鉄華団やタービンズにつながりそうな関係も全部断って、姿を消す。そのためにライドは雇用関係ではなくあくまでもフリーランスの護衛としてやってきた。
いつか仇を取りたくて、ライドは今日まで生きてきたのだ。三日月にもアトラにもよく似ているという子供に会ってはいけない気がした。やんちゃな少年と聞けば年少のチビたちの記憶と重ねてしまう。あのクーデリアが一心に愛する忘れ形見に復讐者の顔を見せるのも気が引ける。だから絶対に会わないと誓った。
「だめだ、ライド」
鋭く息を呑んだタカキがソファを立つ。長身のせいでライドをはるか高みから見下ろす目線になって、「だめだ」と諭すように繰り返した。
「団長は復讐なんか望んでない」
「何でそんなことがお前にわかるんだ」
「わかるよ! 団長は、おれたちみんなが平和に暮らしていける未来を目指してたはずだろ?」
「それなら、」
口角をいびつに歪めて、ライドは笑った。嘲笑だ。つり上がるくちびるが、自傷のようにふるえる。
「なおさら仇を討たなきゃ。やり返せずに生きてたら、おれはずっと苦しいまんまだ」
「ライド……!」
「団長は進み続けろって言ったんだ」
止まるなと、オルガは最期にそう言った。石造りの路面を染めた鮮血の赤がライドのまなうらには今も強く激しく焼き付いている。倒れてなおオルガは、その指先で未来を示した。追従するように血液が流れて、道を作った。
あんな鮮烈な絵をライドは知らない。オルガほど鮮やかな未来図を、今のライドは描けない。
タブレットに溜め込んだ落書きを見つけて、価値を見出してくれたのはオルガだった。鉄華団のシンボルをデザインするという大役を与えてくれたのも。自由に描けと、カンバスを与えてくれたのも。
絵を描くことは、夢の実現と同じなのだと教えてくれたのはオルガなのだ。
オルガ・イツカという男が語った夢があって、みんなで実現したくて動き出した。それが鉄華団だった。宇宙ネズミの寄せ集めでしかなかったCGSの参番組が、独立して、ひとつの家族になる。そんな夢をオルガが見てくれたから、みんなと共有してくれたから、明日の夢も見られなかった宇宙ネズミは未来のほうを見始めた。三日月が先頭を切って走り出したから、おれたちも続けと走って走って、夢を叶える夢を見た。家族という大きな夢の中で、みんな、オルガが語る言葉の中に未来を見た。
そんなオルガが、褒めてくれた。頭の中にある漠然としたものを出力できる力を。絵という表現を。文字の読めない子供にも、阿頼耶識を介さずとも伝えることのできるメッセージだと。
お前はスゲー能力を持ってんだぞ、好きなだけ描け――そう言ってオレンジ頭をわしわし撫でてくれた。筆もペンキも惜しみなく与えてくれた。
あの手のぬくもりでライドは生きている。シノに守られ、団長に庇われて、そうまでして生きながらえた命の意味を探している。
「おれは止まれない。おれが前に進むために、必要なことを果たしにいく」
これ以上ここにいても諌められるばかりだろうとライドは腰を浮かせた。
明日の朝、宇宙港【方舟】まで車を出すメンバーにライドは含まれていないから、タカキに会うのは今夜が本当に最後だろう。対峙を避けるように踵を返す。
最後の仕事でタカキと話せてよかったと思う。CGSに入ったころから仲間で、ライバルで、かけがえのない友人だった。
それももう終わりだ。明日にもライドはエンビたちとともに動き出す。
レジスタンスにしてはあまりに小さく、立派な理想も志もない、チンケな一団だ。ただ、五年前から生き方を決めていた連中がライドとエンビを中心にして砂鉄のようにひとつになった。
基地から脱出するための戦いで双子の兄弟を失ったというエンビは、いつの間にかライドよりもでかくなって、声だって大人の男になっていた。しかし、団長の仇がわかると示唆された瞬間、さっと目の色を変えたのだ。復讐鬼のそれだった。古戦場に置き去りのエルガーを今も忘れていない、手負いの獣の目をしていた。
そのときライドは、自身の賊心を肯定されたような気がした。家族を失った痛みを悲しみを、乗り越えて強く生きるばかりが救いじゃない。生き残った仲間だけが希望じゃない。
仇討ちがしたい。
天啓は矢のようにライドの胸に突き刺さった。ノブリスを殺したところで喪失を埋めることはできないだなんて、嫌というほど知っているけれど、それでも。
「……ねえ、ライド。落ち着こう? 今は頭に血がのぼって、周りが見えなくなってるだけだ。もっとたくさんのことを知って、たくさんの選択肢を見て、考えれば――」
「そのために!!」
吠える。犠牲を背負う苦しみを、乗り越えるためのきっかけが欲しいのだ。ローテーブルががたんと揺れて、ふたつ並んだグラスのひとつが倒れて転がった。繊細なガラスに稲妻が走る。細い亀裂を踏みつけるようにテーブルを広がる水面に、緑色の双眸がうつる。水鏡の中のライドは、どうしようもなく子供だ。
背が伸びても見た目がいくら大人になっても、年齢を重ねたってライドは大人の男になんかなれない。オルガを目の前で失った夕闇の中に取り残されて、前に進むことができないままいる。
「生きたい場所も、選びたい道も、仇を取らなきゃなんにもないんだ……!!」
血を吐くような慟哭が、大人になりきれない声帯を裂く。きつく握りしめられて白くなる拳をタカキがそっとほどくと、ライドは小さく、大声を出してしまったことを詫びた。
ごめん、と重ねる。タカキが「いいよ」と許して、まだいくらか小柄なライドを抱きしめた。仲間同士の抱擁だ。スーツを着てしまえばもう肩を組んで笑い合うことはできないけれど、心だけはずっと戦友でいたかった。
緑色の双眸を覆った涙が一滴あふれて、頬を伝って、タカキの白いシャツに染みをつくる。足元では真水が絨毯に染みて赤を濃くし、それも朝には何もなかったかのように乾くのだろう。最後の涙を流し終えるとライドは、なあ、とかつての友を呼んだ。
「おれ、絵がすきでよかったよ。団長の依頼で鉄華団のマークも、イサリビのにぎやかしだって描けた。文字も、勉強してよかったよ。死んだ仲間の名前、ちゃんと刻んでやれたから」
墓標に手向ける名前も花も、すべて学びがくれたものだ。やってきたことは何一つ無駄にはならなかった。それはみんなが無駄にしないための生き方を選んでいるからだ。
絵という未来図を描ける力をオルガが褒めてくれたから、ライドが絵筆を捨てることはないだろう。きっと一生。永遠に。頭の中の空想をアウトプットする力を持つライドを、オルガが愛してくれたから。
オルガ・イツカの未来図を、おれたちで形にしてやろうと動き出したのが鉄華団だった。団長が夢を見て、それを語って、はじめて夢を見ることができた。オルガは明日の夢を見せてくれた。家族という夢を見せてくれた。
だけど。ライドの中にある絵は、オルガの最期を越えられない。
あたたかい手が、冷たくなっていく指先が最期の最後に描いた赤く赤い血潮の流れ。あれを越えるイメージを、ライドは今も描けていない。心は今もあの夕暮れに置き去りのまま、倒れたオルガが差し示すひとすじの赤い絵の具をなぞるように、座り込んで涙を流し続けている。
今のままの世界では、後世に鉄華団の存在を残す絵を描く権利すらまともにないのだ。
前に進みたい。いつか光の当たる絵を描きたい。そのためにライドは鉄華団が遺した銃を取る。鉄華団が戦った日々を風化させないための力を求めて、無謀とわかってライドは危険な道を行く。
だからさよなら。どうかお前はしあわせに。