鉄血のオルフェンズ 雷光《完結》   作:suz.

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CASE-05 世界があなたを弔わずとも

 母は慎み深い女性だったので、私室を出ることは少なかった。

 アルミリアもまた、母とメイドたちだけで過ごす幼少期であったと記憶している。今になって思えば、後妻である母が大きな顔をして屋敷内を出歩くわけにもいかなかったのだろう。膝に広げたアルバムの中に、母の姿はどこにもない。

 ふとアルバムをめくる手を止めて、アルミリアは高い天井をあおいだ。

 ここは、兄が生まれた日からの記録を丁寧にたくわえた森の中だ。

 ボードウィン邸、地下書庫。本棚が壁一面にそびえ、この一角には長男ガエリオの成長をおさめたアルバムがずらり並んでいる。古い紙のにおいが満ちていて、書籍を守るための温度はアルミリアの肌には少しばかり冷ややかだ。

 だが日に焼けないじゅうたんはやわらかく、ひざまずくアルミリアを芝生のようなやわらかさで受け止めてくれる。

 アルバムの中の緑も、こんなふうであったのだろうか。

 膝の上に広げた遠く遠い思い出に、アルミリアはただ思いを馳せる。

 兄と、夫と、友人と。もう戻らない、夢のような過去だ。記録されたやさしい日々の中に、アルミリアはいないけれど。

 幼馴染みが三人いっしょに笑い合う日常風景は、きっとイシュー家の執事が撮影したのだろう。長らく病に伏していたイシュー公は、一人娘カルタのお転婆をそばで見守れないのが残念だと、最期まで悔いていたという。

 七家の合議制によって三百年間の平和と秩序を守ってきたギャラルホルン。その堅牢な壁は、革命の風が吹くことを許さなかった。

 もしも、もっと早くに『人が人らしく生きられる世界』が、『誰に反対されることもなく愛するひとを愛せる世界』が実現されていたなら、イシュー家が絶えることはなかったろうに。

 セブンスターズには長子相続の慣習があり、このボードウィン邸も、ここで働く使用人もすべて、当主ガルスと嫡男ガエリオのための家具だ。屋敷のいたるところに飾られた花瓶も、テラスから臨む庭園も、すべてガエリオの両親が愛した花々が飾られている。長女アルミリアにも相続権はあるが、それもいつかガエリオに子供が生まれ、彼が当主となるまでの中継ぎでしかない。

 女性当主の存在こそ認めていても、セブンスターズは女系の当主を認めていないのである。席次の低い夫を迎えることが許されないギャラルホルンにおいて、イシュー家は兄妹婚でしか存続できない。

 イシュー公の妻は、イシュー公の妹だ。夫人は第一子に長女を生んでしまったことから精神を病み、一人娘カルタが目も開けないうちに嘆きの海に飛び込んで、命を擲ったのだという。

 残された選択肢は、父娘の近親婚で永らえるか、滅びるかの二者択一だ。イシュー公は心労から床に臥せった。

 カルタ・イシューは最後の当主となる運命を受け入れ、それでも高潔にあろうと最期まで軍人として、イシュー家の誇り高き一人娘として戦い続けた。

 だけどもし、もしも『誰に反対されることもなく愛するひとを愛せる世界』だったなら?

 カルタは死なずに済んだかもしれない。すきな人に恋をして、愛するひとと子供をもうけて、笑っていてくれたかもしれない。地球外縁軌道統制統合艦隊のピーコックブルーを翻して凱旋する姿をまた見られたかもしれない。軍服姿のカルタの勇壮なうつくしさを、アルミリアは慕っていた。親友にも紅茶を淹れてあげたかった。

 なのにカルタは戦死し、愛娘を失ったイシュー公も先日ついに息を引き取った。

 マクギリス・ファリドが『逆賊』として処分され、イオク・クジャン公が戦場にて討ち死にした、その翌日のことだった。

 ボードウィン家次期当主――ガエリオ・ボードウィン――は無事に凱旋を果たしたものの、戦場で負った傷の治療のため、家を空けることが多い。

 やさしかった日々はもうどこにもない。

 マクギリスの裏切りを知らされ、戦死を告げられてもなおファリド邸を動こうとしなかったアルミリアを連れ戻すために、イズナリオ・ファリドが亡命先からヴィーンゴールヴに連れ戻されたのだ。あの家はもうアルミリアの暮らす場所ではないのだと見せ付けられて、胸が張り裂けそうだった。

 

(……マッキー、カルタお姉さま……どうしてなの、お兄様)

 

 古いアルバムの扉をようやく閉じて、アルミリアは十七歳年上の異母兄が過ごしたあたたかい日々を抱きしめる。

 伝説によれば、英雄アグニカ・カイエルは最も多くMA(モビルアーマー)を討ち取った戦友を称え、イシュー家を第一席としてセブンスターズを発足させたという。

 ならばどうして、カルタ・イシューは称えられなかった? マクギリス・ファリドは殺害されて、遺体を処分されてしまった? これが人が人らしく生きるということなのか。誰もが等しく競い合える、誰に反対されることもなく愛するひとを愛せる、そんな世界のためにギャラルホルンは生まれた――あの『伝説』は噓なのか。

 

(わたしの居場所は、やっぱりここにはないのだわ)

 

 愛する夫と親友を悼んでいられる時間すら、ここでは得られない。ここではないどこか遠いところ、ヴィーンゴールヴの外の世界へ逃げ出したいアルミリアは、火星への留学を決めた。春からは火星で最も大きな都市【クリュセ】にある寄宿制の私立学校に通う予定だ。

 父には猛反対され、母にもいい顔をされなかったが、兄だけは「いいんじゃないか」とアルミリアの味方をしてくれた。どこまでも旅路をともにしてくれるというメイドだけを連れて、今週末にもヴィーンゴールヴを出立する。

 アルミリアはおもむろに立ち上がって、アルバムを本棚に戻した。

 この書庫にはガエリオ・ボードウィンが生まれて、育まれ、健やかに成長する日々をおさめた写真の数々がずらりと収まっている。

 ここでは、アルミリアはガエリオに見守られる姿しか存在しない。嫡男とその妹。ガエリオの幼馴染みに手を引かれる妹。ガエリオの親友と婚約した妹。

 そんな『妹』が『アルミリア・ボードウィン』になったのは、マクギリスとの婚約がきっかけだった。親同士が決めた政略結婚にすぎなかったというのに、十八歳も年の離れた彼はアルミリアをひとりの人間として扱ってくれた。立派なレディになりたい、マッキーにふさわしいお嫁さんになりたいというアルミリアの願いをまっすぐなひとみで聞き届けてくれた。子供の婚約者がいると揶揄されても、子供と結婚したと嘲笑されても。セブンスターズの慣習と当主の意向に従っただけで本意ではないと言い訳してくれたってよかったのに。彼は決してそうしなかった。

 ボードウィン邸に連れ戻されてまた『妹』にされてしまったけれど、今後は自分自身の足で立って、『アルミリア・ファリド』として生きる道を探しにいく。

 火星はこのごろ独立し、教育と社会福祉の推進を掲げて圏外圏の識字率回復を目指しているという。男女の雇用均等、子供が搾取されない社会を謳う初代連合議長クーデリア・藍那・バーンスタインの声は凛と力強くて頼もしい。

 ギャラルホルンの目の届かない場所へ行きたいアルミリアには、うってつけの環境だ。火星はマクギリスが生まれた地だとも聞いている。愛する夫の故郷を見てみたいという強い気持ちが胸にはあった。現地にはトド・ミルコネンという男がいるはずで、面識はないながら、顔ならよく覚えている。特徴的なちょび髭の、遠目に見てもわかる風体だから探せばきっと会えるだろう。

 アルミリアは、親友カルタが大好きだった。夫マクギリスをこころから愛していた。ふたりは幼いアルミリアを対等なレディとして扱ってくれた。今はまだ背が低いけれど、今はまだ言葉数も多くないけれど、だから子供だと切り捨てるようなことは絶対にしなかった。

 だから今度はわたしが、愛したひとたちのために生きられる世界を探しにいく。

 親友が生まれながら奪われていた生き方が、今のアルミリアにはできる。そうある未来を、マクギリスが遺してくれた。

 

(今度はわたしがあなたに会いに行くわ)

 

 マクギリス・ファリドの足跡をたどるために遥か遠く、火星へ。

 失われたしあわせを探して。


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