鉄血のオルフェンズ 雷光《完結》   作:suz.

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どういう意図があったかなんて関係ない。どんな理由があったって、傷が消えるわけじゃない。
時間は二度と巻き戻らない。


#65 彼らの故郷 /完

 恵まれてないなんて考えたこともなかった。

 

 普通、いや、それ以上の水準に生きてきたとエンビはずっと思っていた。違法船で無償労働を強いられていた連中に比べれば、CGS時代からいる年少者は安逸と育っているはずだ。

 火星では食べ物と寝床を安定的に得られる仕事は傭兵くらいだし、それも両手両脚がちゃんと動いて、両目が見えて、男でないと雇ってもらえない。

 でもエンビとエルガーは男兄弟だったから引き離されることなく一緒に働けた。

 阿頼耶識の適合手術は、思い出すのもおそろしいほどの痛みがともなったけれど、何の仕事もできないよりはずっといい。施術後は手術台から払い落とされ、そのまま意識を失って、一週間近くうなされた高熱がひいたとき、誰かが「よく頑張ったな」と手を握ってくれた記憶がおぼろげに残っている。

 ああ、これで働けるのだという達成感があった。

 おれが成功したんならエルガーも無事だという確信があり、片割れを失う不安はなかった。幼いころは双子は同時に死ぬものだと漠然と考えていた。そっくりな容姿を目印にいつも隣に寝かせてもらえていたから、ふたりで生まれてきてよかった。

 もっと仕事ができるようになるならもう一本、生死の境をさまよってみるのも悪くないと考えたこともある。

 口に出せば、エルガーからあんなに痛いのはもう嫌だと非難がましい目を向けられたから、あれから誰にも言っていないけれど。

 鉄華団になってから手術は一切禁止されたから、考える機会も自然となくなった。

 阿頼耶識に頼らない強さを得られるようにと読み書きを学び、資格試験を受けることで、仕事の選択肢は大幅に増えた。

 学さえあれば、できる仕事はたくさんある。

 勉強させてもらえる金も環境もなかったから、学ぶことで視野が広がるのだというクーデリアの提言が机上の空論に終わっていただけで。

 それに、学習という手段では時間がかかりすぎるのだ。 MW(モビルワーカー)にせよ MS(モビルスーツ)にせよ、阿頼耶識のついていない機体はモニタに出てくるポップアップを逐一()()必要がある。戦闘中、この文字はどういう意味だっけ……なんて考えていたら死ぬ。メッセージの文意を取り違えても死ぬ。

 その点、阿頼耶識システムは文字を意味情報として処理できる。画面から得るはずのフィードバックを思考の回路に直接得られるのだ。画面を見、文字を認識し、読み取り、意味を理解し、次の挙動を考え、そして行動に移す――という中間過程をすべてすっ飛ばせる。

 勉強して()()()よりも、反射的に()()()阿頼耶識使いのほうが戦場からの生還率は高い。

 だってそうだろう、文字の読み書きを覚えたばっかりで、ポップアップを読み違えたら死ぬ機体に乗っていて、とっさの判断なんてとてもできない。せっかちな警告音はせっかく暗記したエラーメッセージパターンもやすやす吹っ飛ばしてしまう。どうにか動かさなければとガチャガチャやっているうちにドカンだ。

 ただし、阿頼耶識の適合手術は成功率五〇%以下。

 十人手術すれば五人は動けなくなって地べたを這いずってそのうち死ぬのだから、総合的に見て生存率が高いのは、やっぱり阿頼耶識がないほうだろう。

 学がないっていうのは、つまりそういうことだった。

 エンビは仲間内では要領のいいほうだったから、読み書きを教わりはじめて二年足らずでイサリビのブリッジクルーに抜擢された。

 子供のうちに文字を学んで、資格を取得させてもらって、家族の命を預かる戦艦のオペレーターに選ばれたのだ。

 貧困にあえぐ火星では恵まれた経歴だとずっと思っていた。

 しあわせに生きていたと、――思っていた。

 

 

 

 ▼

 

 

 

「……それで、逃げ出してきたんだ?」

 

 事の顛末を聞き終えたヤマギは、心底仕方がなさそうにため息をついた。

 エンビがうなずく。しょんぼりと肩を落とした長身はMWの陰に埋もれてしまいそうに頼りない。

 カッサパファクトリーのMWドックである。

 風通しのよい整備スペースは工場の裏手にあたり、四輪では直接乗り付けることができない。

 アポイントメントもなしに大型二輪が飛び込んできたときはヤマギも、エーコの意趣返しか横着か……と持ち前の冷静さで作業を続けていたというのに、後ろに乗っていたのが怪我をしたエンビだったことにはさすがに驚いた。(エーコとふたりで飲みに行くと「ヤマギくんじゃ虫除けになんなぁい!」と八つ当たりされることがままあるので、運転手がイーサンだったことに疑問はない)

 救急箱を持って来たデインの陰に隠れながら、ザックが口角をひきつらせた。

 

「や、やっぱ過激っすね、鉄華団って……」

 

 ドン引きである。

 整備士が行き交うドックに突然、バイクが猛スピードで突っ込んできたのだ。エンジンの爆音に驚いた従業員が何人かひっくり返って尻餅をつき、救護室がパンクしている。

 整備中のMWや作業用重機の隙間を縫って、ブレーキも踏まず作業スペースを突っ切りやがった運転手も運転手だが、真顔でスルーしていたヤマギもヤマギだろう。胆が据わっているとか、もはやそういう次元ではない。

 幼少期からドンパチやって生きてきたら撃ったり撃たれたりというのは日常なのかとザックは鳥肌まみれの腕をさする。

 いや、とイーサンが首を振って、露骨に眉根を寄せた。眉間を揉み解す。

 戦いを否定するわけじゃないけどライドたちを犠牲する必要はなかったんじゃないかと言われたので、カッとなって銃を抜きました、チャドさんに向けて二発撃って怪我をさせ、感情の制御がつかなかったので逃げだしました――なんて告白を聞くことになるとは、まさか思っていなかったのだ。

 

「エンビ……お前、陸だとキレやすいとかそういう……?」

 

「……おれだってわからない」

 

 むすりとくちびるを引き結んで、エンビはうつむく。エンビ自身、なぜあんなにも激昂したのかうまく説明できないのだ。

 メリビットやクーデリアならそれらしい理由を与えてくれるのかもしれないが、……ただ、本質に根を張る何か、魂みたいなものを踏みつけられたような心地だった。

 ライドの計画について言った言わないでイーサンと喧嘩になったのも地上だったから、確かにエンビは陸だと頭に血が上りやすい性質なのかもしれない。

 にしても宇宙にいるときは危険と隣り合わせの仕事中だし、艦内の空気を悪くしないよう気を張っているからみんな三割増くらい冷静だろう。エンビに限った話じゃない。

 エンビはCGS時代から今に至るまで問題児と呼ばれたことなど一度もないし、兄貴分たちを困らせたのだって今日がはじめてだ。

 ヤマギにため息をつかれたことだって、年上の新入りから遠巻きにされたことだって、一度もなかった。

 年齢的にも立場的にも最も近しいのはイーサンだが、鉄華団発足後すぐ地球行きメンバーと火星残留メンバーに分かれたし、その区分はやがて戦闘職と事務職になったから、主に兵站業務に就くエンビと専ら頭脳労働に従事するイーサンでは職場も業務も違っていた。

 憮然とする逃走者、逃走に手を貸して本当によかったのかと頭を抱えだす運転手、それから何とも居心地悪そうなザックを横目に、ヤマギはデインから救急箱を受け取った。

 ありがと、と短く礼を述べる。

 おもむろにエンビのそばにひざまずくと、血で貼り付いたダークグレイのスラックスの裾を切り裂き、生理食塩水のボトルを開けて傷を洗う。

 非致死性のゴム弾とはいえ近距離で食らったら威力はそれなりだ。本当はメリビットに診てもらったほうがいいのだろうが、救護室は大型二輪の闖入に驚いた従業員で満員なのでしょうがない。

 固まりかけた血をガーゼで拭う。消毒して、包帯を巻いてやる。

 

「今回の件は全面的にエンビが悪いと思うよ」

 

「でもっ……」

 

「議長閣下のSPが同僚を実弾で撃って、仕事放り出して逃げてきたんだろ? 正当性ゼロじゃないか」

 

 しかも仕事初日。目線を合わせもせずに釘を刺されて、エンビは大人しくうつむいた。

 

「それは……ごめんなさい……」

 

 心の底からしょぼくれているのが伝わるからヤマギもすんなりと舌鋒をおさめる。

 怒ってみせはするけれど、気持ちはわかるのだ。

 

「謝る相手はおれじゃないでしょ」と言い含めれば素直に首肯する。

 

「……手当て、ありがとう」

 

「どういたしまして。繁忙期だったら見捨ててたけどね」

 

 ふうと嘆息して、ヤマギは仕方ないなと眉尻を下げた。

 今ある平穏は鉄華団が体を張って、命をかけて勝ち取ってくれた世界だという実感がエンビにはあるのだろう。

 オルガが夢を語り、三日月が先陣を切って『おれたちの居場所』は作られた。鉄華団という名の居場所だ。ライドが蜂起し、語り継ぐ権利を勝ち取ったから誰にはばかることもなく思い出話ができる。昼間から大手を振って墓参りに行ける。

 死んでいった家族の名前を呼ぶことを、ためらわなくてよくなった。

 生き残ったエンビは、だからこそ強く前を向いて、死ぬまで生きて生きて生き抜かなければならないという責任感で呼吸をしている。

 

(真面目ないい子なんだけど……、それも良し悪しってことか)

 

 日ごろ聞き分けのいい()()()だからこそ、溜め込んでいたものが暴発し、制御がきかなくなったのだろう。

 聡明なのも考えものだと、ヤマギはひっそりとため息をつく。

 オルガが語った夢は踏みにじられ、先陣を切った三日月の遺体は戻らなかった。居場所のために蜂起したライドの戦いも、日常にまでは影響してこない。

 ノブリス・ゴルドン殺害によるジャーナリズム解放の恩恵を受けたのは、火星よりもむしろ地球だ。アーブラウとSAU、それから革命軍。さすがにモンターク夫人が裏で手を引いていただけあって、マクギリス・ファリド事件の戦犯と誹られた青年将校たちの名誉はきれいに回復されている。

 情報統制、傀儡政権、そうした『現実』を知らされることなくギャラルホルン製の『真実』を与えられてきた一般市民には、リテラシーがまだ足りない。

 識字率の低い火星では仕方のないことだが、民衆の多くは、ラスタル・エリオン失脚によって火星連合を操っていた繰り糸が断たれ、教権による支配から解き放たれたことなど気付かないまま生きている。

 

 六年前――〈マクギリス・ファリド事件〉後、ギャラルホルンは第五の勢力として四大経済圏に並んだ。

 正式に政治への参加権を手に入れ、地球経済圏の植民地だった火星はラスタル・エリオンの目が光る傀儡政権となった。

 ギャラルホルン火星支部の縮小により強制的に脱植民地化された火星は、それはひどいものだった。

 地球経済圏とのラインが断たれれば、人々は職を失う。収入を失う。食糧の新規輸入ももうない。市民は餓死し、あるいは食糧を奪い合い、明日を求めて殺し合った。

 放置された死体は衛生環境を悪化させ、貴重な水資源はまたたく間に汚染された。

 火星ハーフメタルは、地球経済圏と取り引きが成立してはじめて経済に寄与できる資源だ。採掘する人手もなく、加工を行なう工場を動かすだけの燃料もない。輸出入もままならない。地球圏に搾取し尽くされた出がらしのような惑星が経済的独立など不可能だと、現実を突きつけるかのように、故郷は見捨てられた。

 クーデリアは再三ノブリス・ゴルドンやマクマード・バリストンに頭を下げてまわって金を工面し、食糧の配給、遺体袋の用意、上下水道の復旧などに手を回して表向きの平和を手に入れたが、そのころには火星の総人口の約二十五%が失われていた。

 鉄華団がギャラルホルンに楯突いたせいでそうなったのだという、残党たちへの見せしめだったのだろう。

 さいわいにも鉄華団の名が忘れ去られていなくば、お前たちは今ごろ民衆の怨嗟に晒され、私刑の対象になっていたのだと嘲笑う声が聞こえてくるようだった。

 家族は虐殺され、故郷は人質にされ、強権によって享受させられるだけの希望。かりそめの平穏。団長は最期に死ぬな生きろと命令したけど、こんなんで生きてるって言えるのか。……そんな声は、特にエンビたちの世代から多く聞かれた。

 切り替えが利かなかったのだろう。齢一桁のころから鉄華団で過ごし、幼いながら重要な役職について鉄華団に貢献してきたエンビたちは、戦いたくて戦っていた。強くなって家族を守りたいという前向きなモチベーションとともに成長してきた年少の子供たちにとって、戦いは決して無駄な損耗ではないのだ。

 帰ってこいと諭したところで、そこはおれたちの『帰る場所』じゃない、心を殺して生きるよりも命を懸けて『居場所』のために戦いたい――! といった反発が出るのは、ヤマギとしても不本意ながら、当然だとしか言いようがない。

 ライドたちの蜂起を心のどこかで望んでいたのはヤマギだって同じだった。

 現に、使用者の許可なくデルマの義手をMSへの神経接続に対応させるなど、水面下でいろいろやらかしてしまっている。

 武力行使などしなくていい静穏な明日を望む一方で、なぜ鉄華団の復興を願ってしまうのか、ヤマギ自身うまく言葉にはできない。

 守りたいと思うように、復讐を望んでいる自分がいた。ただ、それだけだ。

 それが通すべき『筋』だと思った。決意の価値を軽んじられたら、気持ちの整理がつかなくなるのもわかる。

 

「こじれる前にごめんなさいして、ちゃんと話をしてきな。ユージンとも、お嬢さんともね」

 

 話せばきっと、みんなエンビは悪くないと言ってくれるだろう。同僚に発砲したことも仕事を放り出して逃走したことも正当性は皆無だし、手段は致命的に間違っていたが、情状酌量の余地は充分にある。

 膝をつき合わせて理由を話せば改めて歩み寄り、労ってくれるはずだ。

 うなずくかに思えたエンビはしかし、ふっと鼻の利く獣のように顔をあげた。

 一点を見つめたままじりじりと立ち上がったころ、カッサパファクトリーの正面玄関側がざわつきだす。乗用車が五台到着し、真っ先に降り立った金髪。

 ユージン、とヤマギが口にするより先に、エンビは転がるように逃げ出していた。

 とっさにザックが手を伸ばし、デインの巨体が確保を試みたが、するりと身軽にすり抜け届かない。

 

「エンビ!」

 

 遠ざかる背中はヤマギの声にも振り向かず、ぶんぶん首を振って突っぱねてしまう。

 ……謝らない、ということか。傷ついた脚を駆り立て、隠しホルスターから拳銃を抜く。三日月の銃はオルガからライドへ、そしてエンビに渡っていたのかとヤマギも思わず双眸をおおきく見開いた。

 整備を終えたMWが整然と並ぶ迷路を背にすると、警戒のためか一度だけこちらを振り返る。銃口と目が合わないのは、エンビが見つめているのがヤマギの背後から追いすがるユージンだからだろう。

 距離とタイミングを見計らって、紛れるように姿を消した。

 

「悪ィ、ヤマギ……」

 

「そーゆーのはおやっさんに言ってよ」

 

 追いついてきたユージンが疲れた顔で息を吐く。応じるヤマギは、なんとも投げやりだ。

 クリュセの交通規制とその復旧に奔走してきたことはおおよそ察せる。そう広くはない市街地を大型バイクが猛スピードで駆け抜け、どこへどう飛び出すか、通行人をはねやしないかとハラハラしていたことだろう。

 だがヤマギに言わせれば、ユージンは自分がやってきたことをもう少し振り返ったほうがいい。

 イーサンには土地勘もあるし、イサリビ艦長の操艦テクニックを間近で見て育ってきただけあって不意の障害物さえ曲芸のように避けてしまう。

 ブレーキも踏まずカッサパファクトリーに突っ込んできたとき、ちょっとやそっとで事故るものかとヤマギが高をくくっていられたのも元をたどればユージンが原因だ。

 あんたの後任はそんなに無能じゃないよ。……と、声はかけない。

 

「MW、乗らないの?」

 

 エンビが逃げ去った方角を、雑なしぐさで指差すだけだ。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 整然と並ぶMWの迷宮で迷子になりながら、エンビはやっと果てまでたどり着いた。

 迷路を抜ければそこは見慣れた光景だ。日射しの強い、赤焼けた岩場。遠い砂嵐が懐かしい。どこもかしこも舗装されているクリュセと違ってカッサパファクトリーは郊外にあるため、一般車両は正面玄関側からしか侵入できない。

 作業場の裏手には駐車スペースが広くとられ、整備を終えたMWが日光浴をしている。機械油のにおいがますます家族を思い出させる。呼吸に疲れた胸郭がつんと痛む。

 右手の銃を握り、祈るようにたぐりよせた。

 この銃口を自分自身に向けたりしたら、()()()にいる家族はきっと二度と会ってくれないだろう。

 たどり着きたいと願った戦友たちが、家族に明日を託して散っていった世界だ。

 生きなければと顔をあげる。

 追っ手の気配を感じ、エンビは意を決して手近なMWに飛び込んだ。

 起動させる。おそらく工業地帯か採掘場で使われているモデルなのだろう。岩場を崩すためか三〇ミリマシンガンが上部に二基搭載されている。だいぶ昔に乗っていた旧型のMWと同じ装備だ。

 単座式MWは取り回しの容易さから地球支部に送られ、火星本部では予備パーツが潤沢に手に入る複座式が主流だったから、久しぶりではあるが体が覚えている。

 阿頼耶識がなくともコンソールやモニタの文字が問題なく読めるおかげで感覚はするすると手の中に戻ってきた。

 推進剤は水素系、いつもと同じだ。

 アクセルペダルを強く踏めば、MWはコンクリートの足場から赤焼けた岩場へと躍り出た。

 

(おれはまだ止まれない……っ)

 

 逃れられるなら行き先はどこでもいい。ただ時間稼ぎがしたかったのだと、やっと自覚が追いついてきた。

 ユージンやチャドにとって鉄華団は戻らない過去で、懐かしい思い出なのかもしれない。でもエンビにとっては短い人生のうちのすべてなのだ。占める割合が違う。比重が違う。エンビを構成しているパーツはネジからシステムにいたるまで鉄華団製で、噛み合わないパーツと組み合わせるとひどく痛む。

 失った家族の名前も呼べない世界では生きた心地がしなかった。ともに生き延びた家族のことも『幼馴染み』と偽らなければならなくて、学校では勉強を頑張りたい気持ちも笑われてしまう。

 撃ってごめんなさい。仕事を放り出して逃げたこともごめんなさい。でも、差し伸べられる『家族』の手をとるためにはおれの心を折らなきゃいけないから、もう少しだけ待ってほしい。

 

 モニタに目を配りながら速度をあげる。MWの三本ローラーが勾配のきつい地形に振り回される。推進剤を効率よく使わないと、すぐに捕まってしまうだろう。

 追ってくるMWは五機。見慣れない大型砲塔を装備した中央二機に道を譲るように横に広く散開した。

 撃ってくるとしたら非致死性の何かだろう。……催涙弾のたぐいか。いや、風の強い荒野でガス類は有効ではない。カッサパファクトリーのほうへ流れて民間人を巻き込んでしまったら事だ。

 それなら、――捕縛用の何か。

 エンビの予測に正解を告げるように、四つの砲塔が断続的に火を噴いた。

 上空へ舞い上がり、展開したのはネットだ。ぶわり、巨大な網が空を埋め尽くさんばかりに広がり、上からネズミをつかもうとする手のひらのように降ってくる。

 くそ、と短く悪態をつくとエンビはコンソールパネルを叩いた。ペダルはランダムに踏み込んで減速する。風向きを計算し、一気に風上まで突っ切った。

 逃げ切ったか――と息を吐こうとした瞬間、機体はガクンとつんのめる。揺さぶられて呼吸が砕ける。

 岩場にローラーがはまったわけでもない不自然な揺れは、カメラが及ばない機尾にネットがひっかかったせいだろう。このまま巨大な地引き網で石やら岩ごと引きずって逃げるのはうまくない。無茶をやれば推進剤はすぐに尽きる。

 この先はとうもろこし畑だ。ただ前に進むだけでは追い詰められて捕まってしまう。焦りがエンビの首を絞め、ペダルを踏みつけるとぐるんと機体を振り向かせた。

 行き場をなくした指先は、トリガーにかかって逡巡する。

 扱い慣れた三〇ミリマシンガン。弾はフルに装填されている。……撃てる。

 だがエンビは、鉄華団の家族を傷つけてまで我を通したいわけではないのだ。衝動的にチャドを撃ってしまった一瞬がまなうらによみがえる。赤が怖い。後悔が苦い。

 意を決して射撃用のスコープを引き下ろすと、ふたたびコンソールに触れた。風向きを、より正確に算出する。ぎりぎり外れるところを狙って、威嚇に一発、逃げる隙を作るだけでいい。

 今はただ、ここではないどこかへ逃げて、落ち着いてよく考えたい。進路を決めるまでも絶えず考え続けていたのにまだ考えることがあったのかと思うと憂鬱だが、気持ちに整理をつけたら、今度こそ全部ちゃんと諦める。

 それまで、もう少しだけ猶予がほしい。

 万が一にも当たったらと考えると背筋が凍りつく感覚があったが、相手が下手な避け方をしなければ大丈夫だと、言い聞かせる。

 大丈夫、当たらないように計算したから、大丈夫だ。

 知らず浅くなる呼吸をうわずらせながら、トリガーを強く握った。

 ところがエンビを追っていたうちの一機が、急勾配に足をとられたのか不自然に機体を傾がせる。

 窪地に引きずられるように三本ローラーのうち一本が浮く。横転までのカウントダウンがスローモーションのようだった。

 当たらないようにしたのに。

 

(直撃する――!!)

 

 目を逸らすこともできない。発射された三〇ミリ弾頭が仲間の命を奪うまでの一瞬、取り戻せない。網膜に焼き付いた永遠のように長いコンマ数秒ののち、弾けたのは鮮やかなブルーインクだった。

 砂色のMWがべしゃりと汚れる。

 

「……ペ イント弾……? ――うわっ」

 

 横腹から衝撃が襲い、一拍遅れてアラートが大合唱をはじめる。ペイント弾を食らったのだ。

 目の前でもオレンジ色を浴びたMWがつんのめる。やけに俊敏な一機がぎゅんと加速し、砂煙とともにエンビ機に並んだ。さらに一機が続いてやってきて、後ろ髪をちょっと引っ張られたような衝撃とともに引っかかっていたネットが外れたことがわかった。

 おれらも混ぜろよ、と雑音混じりのLCSが届く。

 

『加勢するぜ、エンビ』

 

『デルマ……!?』

 

『おれもいるぜ!』

 

『ダンテさんっ?』

 

『はあ!? ダンテおまっ――、なにやってんだ!』

 

 ユージンの困惑がスピーカーを突き抜けてきて、その隙にも追いかけてきたMWにオレンジ色を浴びせるデルマがなんとも言えず無慈悲だ。元ブルワーズのMS乗りは入団当初から死神みたいに強かった。

 

『お前は誰の味方なんだよぉ!』とダンテの非難を浴びてデルマが喉で笑う。

 

 きっと、そこがデルマの帰る場所なのだろう。

 ペイント弾の撃ち合いになってカラフルなインクを弾けさせる戦場の全貌は、MWの捌けたカッサパファクトリーからよく見通せる。

 救護室での仕事を終えたメリビットが、生後十一ヶ月になる第二子を抱いて、穏やかに微笑んだ。すやすやと眠る赤子を雪之丞の大きな手が掬い上げる。

 

「いつまでもガキんちょだなあ」

 

「本当に」

 

 くすくすと笑うメリビットこそ、逃走者の追尾用にとペイント弾を常備していた立役者である。

 ユージンからの一報を受け、カッサパファクトリーが預かっている火星連合公用MW全機にペイント弾を装填してはどうかとクーデリアに提案していた。

 もともとは模擬戦用に広く普及している非致死性弾頭だが、ジャムを避けるためインクの乾きが非常に遅い。凝固しにくい性質から、滴る色彩を足跡として追跡に役立てることも可能だろうという采配である。ペイント弾は汎用品として出回っており、値段も手ごろだ。

 

「なるほどね」とエーコが感心してみせる。

 

 買い物中に運転手に置き去りにされ、ヤマギに連絡を入れて事の顛末を知らされたのだ。気まずそうに目を逸らすイーサンをふりあおぐ。

 

「あんたも混ざってきたら?」

 

 バイクで、と意地悪く付け加えるのも忘れない。

 次の仕事は木星までの長旅になる。鉄華団の連中は、腕はいいのに世渡りがさっぱりだから――というアジーの意向で決まったイーサンのスティングレー乗艦だが、女しかいない環境はきっと窮屈だ。

 エーコの言わんとすることを察して、イーサンは懐かしく目を細めた。

 

「やめときます。帰りたくなりそうなんで」

 

「せっかくだし、おれは行ってこようかなあ。すぐやられちゃうだろうけど」

 

「ウタ……? お前も来てたのかよ」

 

「学校の帰り。とりあえず、間に合ったみたいでよかった」

 

 苦笑する制服姿に、大型二輪はなかなかどうして不釣り合いだ。

 MWのコンテナ側から愛用のバイクを押してやってきたウタは最近復学して、今の学校は自由が利いていいと晴れ晴れしている。

 貧富の差が可視化されにくいようにと学校側がシンプルな白シャツと黒スラックスを支給しているというのに、通学用の足がいかついフォルムの大型バイクでは、教師も同級生もさぞ近寄りがたく感じていることだろう。

 

「ヘルメットひとつしかないから人払いされてなかったら退学だったかも」とウタは悪びれない。

 

 交通規制により一般車両や歩行者を退避させた通りを突っ切ってくるような、こういう図太さがエンビにもあればいいのだが……、根が生真面目だとそうもいかない。

 ウタは手にしていた白いシャツをするするとたたみながら、イーサンの胡乱げな視線を目ざとく察して肩をすくめた。

 

「ヒルメのだよ。当番のやつから『エンビが追われてる』って連絡が入ったらしくて、今すぐ乗せてけって、すごい剣幕で」

 

 バイクの二人乗りはしたことがないと断ろうとしたのだが、無言で凄まれてしまって断れなかった。

 ヘルメットを譲るのも何だか違う気がして結局ふたりしてノーヘルで飛ばし、カッサパファクトリーに到着したと思ったら停車してもいないのにヒルメは後ろを飛び降りてシャツをウタに押し付け、MWに飛び乗って、――今まさにエンビに食ってかかるところだ。

 阿頼耶識搭載型ではないから脱ぐ必要などないのに、いつもの癖が出たのだろう。

 黄色いインクがエンビ機を容赦なく殴りつけ、あまりの集中砲火からはフラストレーションがまざまざと感じ取れる。多少のことでは動じないウタの声のトーンが一段落ちた。

 

「……おれには何も言わなかったけど、ヒルメ、置いてったの相当怒ってるよ」

 

 真面目に学校に通い、医者になりたいと将来を見据えていたヒルメは当然のように雷電隊には加えられず、実質的には置き去りだったのだ。

 うへえ、とイーサンが嘆息する。奥二重のまぶたを重たく伏せる。ヒルメとウタは元操艦手同士、通じるところもあるのだろう。

 砲撃手の手のひらを見下ろして、拳に握る。

 気遣うようなエーコの視線には目礼で応じた。

 

 

 

 

 

 #065 彼らの故郷

 

 

 

 

 

 非致死性のペイント弾とはいえ着弾の衝撃はある。当たりどころが悪ければ機体は傾ぎ、運悪く窪地にはまって動けなくなることもある。

 よそ様のとうもろこし畑に着弾させれば弁償を求められるだろう。

 デルマがしがらみなく撃墜数を稼いでいる姿は、うらやましくもあり、後悔にとらわれて仲間を撃てないエンビには真似できないと改めて感じさせられる。

 デルマと分断されてしまい、やはり撃ってはこないユージンのMWから逃げ回っているのが現状だ。

 そこへ唐突に現れた一機のMWが、ユージンを通り越すようにエンビを狙う。反射神経がとっさの回避行動をとったものの、容赦のない連続射撃に黄色いインクがバケツのようにいくつも弾けた。

 なおも砲撃の手をゆるめることなく迫りくると、エンビ機にぶつかりそうに接近し、鼻先で急激なブレーキを踏んだ。

 跳ね上げられた赤土が砂嵐のように浴びせかけられる。

 そして晴れた土煙の向こう側で、コクピットハッチが開いた。

 

『っおい、誰だお前っ危ねえだろうが!』

 

 インカムの向こう側でユージンが怒鳴るが、上部ハッチから姿を現したのは、褐色肌の少年――ヒルメだ。

 身軽なしぐさで機体を滑り降りると、踏みつぶしてしまいそうで動けないエンビ機にとりつきよじ上る。

 次の瞬間には、外の空気がエンビに降り注いだ。

 とっさにふりあおげば目が合うより先に無遠慮な手が伸びてくる。シャツの胸ぐらを容赦なくつかみあげると、逆光に翳るハッチの向こう側まで一息にひきずりだした。

 

「こ、の、馬鹿野郎ッ!!」

 

 見るも見事な頭突きがエンビの脳天をガツンと揺さぶる。

 自身も涙目になりながらもヒルメは、コクピットから引き上げたエンビを真っ向からにらみ据えて弾劾する。

 

「おれが! どんだけ! 心配したと思ってんだ……ッ!」

 

 傷に塩を塗りこむようにもう一発、涙を隠すような第二撃が脳天に炸裂した。肩で息をして、胸ぐらをつかんだままの両手はいまだ、静かな怒りにふるえている。

 子供のころは、短い手足と軽い体重のせいでMWのコクピットでぐったりしている仲間を助けることができなかった。怪我をして動けなくなっている家族を見つけても、助けを呼びにいくために置き去りにしなければならなかったのだ。

 医療ポッドの数は限られているし、医療の知識を持っているのもメリビットだけで、忙しい彼女に診せに行くには怪我人をかついで拠点まで後退できなければならない。そうやって間接的に家族を見捨ててきた。

 成長した今は、体格の変わらないエンビを引きずりだすことができる。できた。コクピットハッチを外からこじ開ける腕力も、パイロットを引き上げる手足の長さも体重も、今のヒルメにはある。

 後悔を塗り替えきれない達成感があふれて、涙になってこぼれおちた。

 これだけの力が、ずっとずっと欲しかったのだ。

 

「勝手ばっかしやがって……ッ!」

 

 おれだって戦いたかったのに、と、自分勝手な八つ当たりでもってヒルメはエンビを詰る。

 傷ついた家族の命がなす術もなく手をすり抜け、こぼれていく苦い記憶に駆り立てられて、ヒルメは医者になると決意した。いつか復讐の道を選んでしまうかもしれないトロウやエンビのためにも、真面目に勉強していた。

 もしもライドが蜂起するなら船医として連れて行ってほしかったのに、無学なヒルメが医師免許を取得するには、通算十年以上の月日が必要になる。

 ウタやイーサンには戦艦を動かす資格が既にあって、なのにヒルメが医者になれる日はまだ遠い。

 間に合わなかった。ただ、間に合わなかっただけなのだ。それがあまりにも悔しくて、やるせないだけで。

 ヒルメの涙が降って、ぽたり、エンビの頰に落ちて伝う。

 

「頼むから、お前までいなくならないでくれよ……」

 

「……ヒルメ……」

 

 家族の名前を呼べない世界は孤独で冷たく、最初に学んだ家族の名前さえ書いてはいけない虚無感には何度だって打ちひしがれた。

『幼馴染み』だと噓をついて、家族についても育った場所についても口をつぐんで、嘆くことも泣くこともできず息苦しかった。

 だけど。うまく言葉にならない気持ちを噛み砕くように、強く奥歯を噛みしめる。

 置いていかれる側の気持ちは、家族を失う悲しみが、エンビにだってわかるはずだ。置いていかれたことが悲しい。権利を勝ち取ってくれてうれしい。エンビが生きていてよかった。全部ヒルメ自身の本音だ。

 

「みんな生きててほしかったッ……なあ、そうだろ……?」

 

 ライドに生きていてほしかった。トロウにも帰ってきてほしかった。ふたりが遂げた目的は、命よりも大事だったかもしれない。でも命だって大事だろう。本懐を遂げて、命までは持って帰ってきてくれなかったことを悲しみ、憤る気持ちに噓はつけない。

 生きていてほしかった。

 ただ生きて戻ってほしかったのだ。天秤にかける以前に、ヒルメ自身のエゴが家族みんなに生きていてほしいと願ってやまないのだ。

 

 

 

 

 とうもろこし畑が揺れる。

 少年ふたりの邂逅に、MWは動きを止めて、そっと見守るばかりだ。

 ヘッドセットを放り出したふたりの声はカッサパファクトリーにまでは届かないが、何を言っているのかはおおよそ察せる。

 

「……ヒルメが言うと、説得力が違うんだろうな」

 

 同じ目線でぶつかっていけるやつの言葉は、とチャドが自嘲する。

 エンビ、エルガー、ヒルメ、トロウはCGSのころから四人一緒で、鉄華団で育った兄弟だ。エンビとエルガーは見てわかる通り血縁以上のつながりがあったが、ヒルメともトロウとも同等の信頼関係を築いていた。

 彼ら四人にとってオルガは親代わりだったし、ライドは近しい兄貴のような存在だったのだろう。屈託のないエンビが「ライド兄ちゃん」と迎え入れていたのを思い出す。

 ライドやデルマを『子供』と感じるチャドたち年長者とは、別の場所から鉄華団を見つめてきた。

 

「そうですね」とクーデリアが感慨深く、理知的な双眸を細めた。

 

 白いワンピースの裾がはためき、まるで絵画のような姿だ。

 着替えやすいようにとアトラが持ってきたシンプルなロングワンピースは、オフィスに飾られた革命の乙女の図画を思わせる。

 その足元では、小さな騎士が強風によって白い脚が晒されないよう、スカートの裾をかき集めて抱きしめている。孤児院のヘルプに入ったアトラに「クーデリアをお願いね」と言い含められた役目をしっかり果たしているのだろう。

 暁は、もうすぐ五歳になる。

 三日月の死後六年が経とうとしているのだ。

 

「……わたしは、まだ考えている最中なんです」

 

 あなたたちが少年兵として育った過去を、どうやって愛せばいいのか。アメジストは揺らぎながら、前を向いている。考えながらクーデリアは前に進んでいる。

 

「戦うことで解決する現状を変えたい。……なのに、わたしはいつも、鉄華団の力に頼ってしまう」

 

「お嬢……?」

 

 チャドの当惑にクーデリアはやんわりと微笑んで、そっと膝をついた。

 子供特有のやわらかい髪を、白い指が梳かす。

 

「学びが力になり、努力が実を結ぶ……そんな世の中にしたいと、わたしは願い続けるつもりです。そのための行動は惜しみません」

 

 貧困を肯定してはならない。それは解決すべき社会問題だ。不当な搾取を看過してはならない。いかなる理由や背景があれ、一方的な人権侵害を是正しなければ貧富の差は拡大し続ける。

 しかしクーデリアは、貧しさに屈することなく、強くたくましく生きる鉄華団の姿に憧憬を抱いてしまった。

 この世界の歪みが作った家族を愛してしまった。

 彼ら少年兵は、保護者による養育放棄さえなければ、食べるものや眠る場所を得るために武器を取る必要などなかった。彼らに教育の機会が与えられなかったのは、これまで大人が社会的責任を果たしてこなかったせいだ。

 学がないから職業選択の余地がないなんて、体が小さいから雇ってもらえる業種職種は限られているだなんて、そんなことは常識だろうと十代前半の少年たちが平然と言ってのける。

 地球経済圏は、ギャラルホルンは、バーンスタイン家は、そんな現状を放置し助長させた。

 

 ――彼ら非正規の少年兵たちは、長く続く地球圏からの支配が生んだ、今の火星が抱える問題そのものなのよ。

 

 ――そんな彼らと触れあうことで、わたしは少しでもその痛みを分かち合えたらって思うの。

 

 あんなにも傲慢な考えを持って接したクーデリアを、鉄華団はクライアントとして受け入れた。

 彼らのように保護者の庇護下にあってしかるべき年齢の少年たちが二度と生まれないようにと願って行動を起こしたはずなのに。

 鉄華団の少年たちは過酷な環境に屈することなく、地に足をつけて立っている。潔く、ときに意地汚く、真面目で不器用で、まぶしいほどまっすぐだった。

 鉄華団の中に『家族』の尊さを見出し、守りたいと願ってしまったクーデリアの心は、矛盾している。

 クーデリアが理想とする『子供たちが不当に搾取されない世界』に鉄華団は芽吹かない。彼らの家族は育たない。いとおしい子供たちに向かって、あなたたちが生まれてこない世界のために戦っているだなんて、言えるわけがない。

 そんな自己矛盾について、クーデリアは考えることをやめられない。

 きっと一生、三日月・オーガスへの淡い恋心とともに正解のない問題を考え続けていく。

 

「彼らに認めてもらえなくても構いません。エンビもヒルメも、わたしにとっては大切な――、」

 

 かぞく、という言葉を、クーデリアはくちびるで押しとどめた。「いいえ」と言い聞かせるように首を振る。

 

「わたしが寄り添いたいと、ともに歩みたいと願う存在だから」

 

 晴れやかに顔をあげて、クーデリアは長く大きな悩みにひとつの答えを出した。

 クーデリアが『家族』という名で呼ぶことを、エンビは歓迎してくれなかった。傷ついたひとみはただ悲しそうで、クーデリアはまたひとつ、己の傲慢に気付かされたのだ。

 積極的に文字を学び、成長したエンビは海賊船から保護したというヒューマンデブリの子供たちにも文字を教えていた。火星の赤い小石で描かれた壁いっぱいのグラフィティ、丁寧に綴られた子供たちの名前を目にして、クーデリアは胸がいっぱいになった。

 エンビは今もクーデリアを『先生』と呼ぶ。変わらず慕ってくれている。

 そんな慢心が、彼の中の譲れない一線を蔑ろにしてしまった。

 

 クーデリアの声でつむいだとき、彼らが抱く『家族』のかたちは壊れてしまう。エンビたちを大切に思う気持ちを表明するとき、家族という言葉は不適切だ。

 不思議そうに見上げてくる暁を『愛する男』と呼んだユージンは、わかっていたのかもしれない。

 鉄華団の言う『家族』は、血縁上の続柄とも、書類上の約束とも違う、ひどく曖昧な概念だ。

 共同体として生きる彼らは血縁の有無にとらわれず兄弟の絆を結び、血縁があるという甘えがないから互いの心を尊重しあって生きている。

 流れた血が固まり、鉄のようにひとつになる――名状しがたい関係性に名前をつけるなら、きっと『鉄華団』以上にふさわしい名はない。

 しかし曖昧なままでは共有できない。だから名瀬・タービンは敢えて、それは家族をいとおしむ気持ちと同質の感傷だとオルガに教えたのだろう。多くの言葉を知らない年少の子供たちにも理解できる、シンプルでわかりやすい『家族』という名前を与えた。

 クーデリアが家族という言葉を使うのは、冒涜にあたるかもしれない。それでも三日月・オーガスに一生ぶんの恋をして、愛は火星じゅうの人々に分配したいと誓ったクーデリアにとって彼らはみんな、愛すべき家族のひとりなのだ。

 

「家族って、難しいんだな」

 

「ええ。血がつながっていたって難しいものだもの」

 

 苦い微笑は、クーデリアの両親のことだ。和解を考えたこともある。けれど実の父親に売られたクーデリアが一方的に歩み寄っても、首相官邸はもはやクーデリアの帰るべき家ではない。

 血のつながった父は事なかれ主義で、母は無関心。そんなだからクーデリアは鉄華団にことさら魅力を感じてしまったのかもしれないと、自分自身の浅はかさに嫌気がさすこともあった。

 

 

 ――叶えろよ、あんたの夢。

 

 

 残された約束を、クーデリアは胸に抱きしめる。

 鉄華団を愛し、オルガ・イツカに愛された子供たちだから。素直で、生真面目で不器用で、まっすぐで、いとおしい。特別な愛情を注ぎたい理由がそれ以上に必要だとは思えないのだ。

 守りたい。エンビも、ヒルメも。まだ何も知らない暁も。少年期を戦場で過ごしたユージンやチャドだって。

 鉄華団が壊滅して、いち早く状況に適応したのは元ヒューマンデブリたちだというのは実に皮肉だった。大人になって達観しているのだと早合点していたが、違う。暴力で支配されることに慣れた元ヒューマンデブリの思考回路が、誰の治世だろうが頓着しないようにできているだけだ。チャドもダンテも、デルマもまたヒューマンデブリ時代が長いせいで、現状を悲観することなく仕事を見つけ、新たな一歩を踏み出すことができただけだった。

 強くたくましく、真面目に仕事をこなす彼らがこんなにも生きることに不器用だなんて気付かなかった。

 今後どのような幸福を得ていけるか、真摯に向き合っていくつもりだ。

 暁だけではなくすべての子供たちにしあわせでいてほしい。まずは最も近しい暁をしあわせにできなくては、世界じゅうなんて大きな視野は持てない。

 心に一つひとつ名前をつけて、共有していくこともまた、託された使命だ。

 彼らはみんな、クーデリアが寄り添いたいと、ともに歩みたいと願う存在だから。

 

「お嬢にも、しあわせになってほしいって思ってますよ。おれたちはみんなあんたに感謝してます」

 

 チャドは困ったように眉尻を下げて、鉄華団の総意を代弁した。家族、という言葉の解釈が噛み合わないだけで、クーデリアだって恩人のひとりなのだ。

 ありがとうと微笑んだ才媛のひとみに、もう憂いはない。

 

 

 

 

 カラフルに染め変えられたMWたちを抱きしめるように夕闇が降りてくる。

 この場所には、かつて鉄華団の本部基地があった。逃走のため爆破されたのちギャラルホルンの捜索が入り、今はもう、跡形もなく撤去されている。

 とうもろこし畑に作り変えられ、火星の食糧事情を支えているという。

 上空から降り注いだダインスレイヴが穿った地表を取り繕うためにそうしたのだろう。地形の変動をかえりみず禁止兵器を撃ち込んだことが知れれば、火星市民はギャラルホルンを支持しなくなる。

 ここでは多くのギャラルホルン兵士も亡くなっているから、地鎮的な意味で畑にするのだと通達があったが、そんな勝手な都合で畑にされてしまっては、採れた作物を口にすることもためらわれた。

 情報統制に加担しているみたいで気が咎めた。

 いつか農場を経営したいからと、最後の戦いの直前にも野菜の本を読んでいた三日月・オーガスの夢が、横取りされてしまったみたいで、ただただ悲しかった。

 

 

 ――前にオルガが言ってた。たどりついた場所で、みんなで馬鹿笑いしたいって。

 

 

 ふと、そこにバルバトスがたたずんでいるような気配があって、エンビはぱっと顔をあげた。ヒルメも同じタイミングで何もない上空をふりあおいでいて、思わず顔を見合わせる。

 錯覚だと、同じ言葉を聞いたなんてありえないと理性ではわかるのに、不思議な感覚だった。

 

(ああ、そうか)

 

 たどり着く場所は、きっとここだったのだ。

 とっくにたどり着いていたのに、安住の地にはできなかった故郷。鉄華団という名の家がここにはあった。踏みにじられ、歴史に上書きされて、一度はなかったことにされたけれど、ライドが語り継ぐ権利を勝ち取ってくれた。

 この畑はもう、ギャラルホルンの所有物(モノ)ではないのだ。

 古戦場に置き去りにされていたバルバトスとグシオン、辟邪に獅電。基地とともに爆破したランドマン・ロディ、それから雷電号。ここには帰ってこられなかった四代目流星号。大切な思い出はどれも兵器のかたちをしている。思い出す家族は、みんな笑っている。

 

 もう戻らないけれど、ああ、思い出だけは、奪い返すことができた。

 

 郷愁があふれさせた涙がエンビの双眸からこぼれて、伝って落ちる。赤い大地に染みていく。

 やっと泣けたような心地だった。わけもわからず涙があふれて止まらないことはこれまでにもあったが、もやもやと不鮮明だった黒い感情が涙というかたちを帯びて、洗い流されていく。

 

「ああもう……っな に やってんだろ、おれたち っ」

 

 夕陽のまぶしさが目にしみる。涙が落ちて、なのに不思議と笑えてきて、エンビは茜色の空をあおいだ。

 結局、戦うことしかできなかった。当時の火星に、学のない子供でも自活可能な給料を得られる仕事は阿頼耶識使いの傭兵しかなかった。

 結局、戦場にしか居場所はなかった。戦場から出て行くために戦っていたはずなのに、戦場に閉じ込めるみたいに鉄華団はすり潰されてしまった。

 それでも。戦い続けることで、得られたものだって大きかった。

 失うだけじゃなかった。

 そうだろ、エルガー。トロウ。ライド。

 そうですよね……三日月さん。オルガ団長。

 

(遅くなったけど、おれたち、ちゃんとたどり着けました)

 

 格好よかった仲間たちへの餞のために、顔をあげて、乱暴な手つきで涙を拭う。もう子供じゃないのにいつまでも泣いてばかりいたら示しがつかない。

 笑いたい。いつか、心から。

 いつか向こうでまた会うときには、命令を果たしましたと胸を張って誇れるように、生きていくと決めたのだ。

 

 

 

【鉄血のオルフェンズ 遠郷 - 完】




ありがとうございました。



※51〜64話まで適宜修正を入れました。
(通信網やリアクター関連の誤謬、ファルク家嫡男らしき人物の見落とし、年表の計算ミス、などなど。この機に改行も増やしています)

これで本当に完結です。お付き合いありがとうございました。

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