鉄血のオルフェンズ 雷光《完結》   作:suz.

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前作エピローグから半年後。新人SPエンビ(17)が『家族』の解釈違いから先輩SPであるユージン(25)とチャド(25?)と衝突する鉄華団内部分裂編です。
(※あくまでも補完を目的とした後日談です。)



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後日談: 追憶のエンビ
#63 新たな一歩


 ネクタイをしめて、ハーネスに固定した拳銃を確認してからジャケットを羽織る。襟を正す。連合議長様のお供だからか真っ黒というわけにはいかないらしく、スーツは黒っぽいグレーだ。

 姿見にうつる自分自身を、エンビはまだ見慣れない。

 警護職にしては何だか派手だよね。――成長したエルガーが苦笑する鏡面に肩をすくめて応じると、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。振り返れば、がちゃりとドアが開かれる。

 

「お、なかなか似合ってんじゃねえか」

 

「副団ちょ……じゃない、ユージンさん」

 

「おいおい、早く慣れてくれよ。ここのリーダーはオルガじゃねえんだ」

 

 満更でもなさそうに嘆息してみせた元鉄華団副団長は、たれ目がちな眦を穏やかにさげて「お嬢の立場もあるしな」と続けた。

 今日から()()()()()になる彼、ユージン・セブンスタークはCGS時代からネクタイがトレードマークであったせいかダークスーツ姿が板についていて実に頼もしい。

 細いつま先の革靴でエンビに歩み寄ると、同じ高さになった双眸を感慨深く細めた。

 

「あのチビが、こんなにでっかくなってたなんてな」

 

 時間とともに背は伸び、エンビの体躯はもはや大人の男のそれになった。よくよく見れば成長期特有の未完成な骨格がうかがえるし、物言いやしぐさには子供っぽさが残るものの、黙って立っていればユージンやチャドにひけをとらない体格だ。

 淡い色合いの茶髪を整える程度に切っただけでぐっと大人びて見え、手足が長いから細身のスーツも見栄えがする。

 鉄華団が発足した当時は、齢一桁の子供だったというのに。

 背丈なんてユージンの腰くらいまでしかなくて、MW(モビルワーカー)のペダルに足が届かない、ほんの小さな子供だった。マシンガンどころか拳銃を発砲するだけで吹っ飛びそうな両脚でちょろちょろと足元を走り回っていたあのガキが、もう十七歳とは。

 

 幼少期からアトラの飯で育ってきたエンビたち若手は栄養状態がよく、栄養剤入りのコーンミールで腹をふくらませてきたユージンたちとは違って骨や筋肉が自然に発達している。

 戦場を離れてから成長期を迎えたおかげか、人相も穏やかだ。

 照れたように破顔するだけで、三つボタンのスーツに白いシャツ、青いネクタイといういでたちが途端に入学式っぽく見える。

 

「……本当によかったのか、学校に戻らなくて」

 

「おれには合ってなかったみたいだから……また退学するのもイヤだし」

 

 苦く微笑したエンビは逃げるように目を伏せて、うつむく。

 フロアをさまよった目線はすぐにユージンに戻ってきた。

 

「タカキも仕事しながら勉強したって言ってたんで。おれもそうします」

 

 つとめて明るく振る舞ってみせるエンビにかけられる言葉が見つからず、ユージンはただ「そうか」とだけ返した。

 

 鉄華団が玉砕してから、早いものでもう六年が過ぎようとしている。

 アリアンロッド艦隊との戦いに敗れ、本部基地を爆破して地球へ亡命、IDを書き換えて火星に戻ってきたのが五年前。新しい生活を見つけるために、それぞれの一歩を踏み出した。ギャラルホルンの監視のもとに享受するかりそめの平和ではあったが、日々は静穏に過ぎ、戦いの傷も徐々に癒えていた。

 

 そんな中、ライドを中心に集まった年少組が消息を絶ったのが、ちょうど一年前だ。

 

 クリュセを訪れていたノブリス・ゴルドンを殺害し、ギャラルホルンによるヒューマンデブリ掃討作戦を妨害。アリアンロッド艦隊にダインスレイヴを誤射させることでヴィーンゴールヴを沈没に追い込んだ。

 いつかこんな日が来るかもしれないって思ってた――とヒルメが顔色をなくして嘆いたのは、ライドがギャラルホルンに決闘を挑んだあの日のことだった。

 火星でもリアルタイムで中継されたバルフォー平原の決戦を目の当たりにして、ヒルメが「間に合わなかった」と泣き崩れた、そう古くない記憶がユージンの脳裏に蘇る。

 

「けどな、やっぱり学校行きたいと思ったときはいつでも言えよ」

 

 拳で胸を叩いても、心までは届かないのだろう。ヒルメのいる日常に帰ってやれと何度呼びかけてもエンビは曖昧に苦笑するばかり、肯定ととれる言葉もしぐさも見せることはなかった。

 外見ばかりスーツの似合う男に育ったエンビは、顔を背けるように窓を見つめて、青々と広がる秋空を見通す。

 昨日まで雨だったくせに、皮肉なほどに快晴だ。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 ギャラルホルンの『秩序』のありかたに一石を投じたライド・マッスの奮戦により、世界は少しずつ、しかし着実に変わりはじめている。

 鉄華団。――その名を口にすることを、もう躊躇する必要はない。

 貧しい火星の孤児たちに居場所と仕事与え、安住の地を作ろうと起業した青年実業家オルガ・イツカの名は、全宇宙に知れ渡ることとなった。

〈マクギリス・ファリド事件〉の陰で滅んだ新進気鋭のPMCは、革命の乙女を地球に送り届けることでフェアトレードを実現させ、火星にハーフメタル利権をもたらした。行き場のない孤児たちを積極的に雇用して衣食住を保障するだけでなく、孤児院にも多額の出資をしていた。

 MA(モビルアーマー)ハシュマルが起動したときには正規の治安維持部隊であるギャラルホルンよりも早く最前線に立ち、自前の戦力を投入して対処。エースパイロットが半身の機能をガンダムフレームに捧げてまで、MAの進撃からクリュセを守った。

 ガンダム・バルバトスルプスレクスは、しかしアリアンロッド艦隊が撃ち込んだ禁止兵器によって大破させられた。

 ギャラルホルンはダインスレイヴの存在を隠蔽し、世界を乱した()()の最期をレギンレイズ・ジュリアとの死闘によるものと喧伝した。

 ガンダムフレームの脅威を世に知らしめ、それを上回る軍事力を保有していると触れ回るためのプロパガンダだ。

 多くの『過去』が情報統制という目隠しから次々こぼれて明らかになり、勝者が綴った『歴史的事実』は虚偽と欺瞞に満ちていたことが白日のもとに晒された。

 体制側(ギャラルホルン)孤児たち(鉄華団)のテロリズムは公平、平等に批判されるようになり、その歴史や背景を踏まえた議論が交わされている。

 貧困に生まれ、劣悪な環境から立ち上がった孤児たちの戦いが注目されると同時に、既得権のただ中で鳥籠とともに滅んでいったギャラルホルンの子女たちにも、改めて目が向くようになった。

 彼らのような時代の被害者を二度と作らないようにと地球、火星、木星が手を取り合ってインフラの整備に努めていく。

 そういう風向きに、世論は少しずつ変わっている。

 

 生前のオルガ・イツカと親交の深かった火星連合初代議長クーデリア・藍那・バーンスタイン、テイワズのナンバーツーであるアジー・グルミンは互いに協力しあい、今後とも圏外圏の治安維持と元ヒューマンデブリたちの保護に力を注いでいく。

 暫定的にギャラルホルン代表代行をつとめるジュリエッタ・エリオン・ジュリスとも良好な関係を築き、生まれも身分も関係なく、誰もが等しく競い合える男女共同参画社会の実現につとめる方針だ。

 日常への影響は、これといってない。アリアンロッド艦隊の不在を埋めるためにテイワズがアリアドネの使用権限の一部を手に入れ、圏外圏の航路は守られている。

 相変わらず平和なままだ。地球も、火星も、木星も。

 ただ過去に置き去りにされた犠牲を悼む()()が万人にもたらされたくらいで、何かが劇的に変わったわけではない。

 デルマはもともと働いていた孤児院に戻り、ウタは復学、イーサンは惑星間輸送の仕事に就いた。

 そんな中、なかなか進路を決められずにいたエンビが連合議長SPの仕事を選んだのは、自分自身が戦場から遠くは離れられないという自覚のせいだった。

 

 新たに仕事の拠点となるオフィスはビルの高層階に位置し、執務室の壁にはクーデリアが建てた孤児院や学校の写真が飾られている。

 机上のフォトスタンドの中には鉄華団の集合写真もあり、オルガと三日月、バルバトス――そしてエンビの双子の弟・エルガーの姿を見ることができる。

 語り継ぐ権利を手に入れたとはいえデータは抹消させられてしまったし、紙は高級品だ。印刷技術も貴重なので、あのころを写し取った写真はクーデリアの執務室と、農園のそばに建つアトラたちの家との二ヶ所にしかない。

 孤児院の子供たちが笑うフォトスタンドを飾ったデスクごしに、〈革命の乙女〉は見守るように微笑する。

 

「わたしの護衛といっても、今の時期は細々とした仕事ばかりなの。確かエンビは運転免許があったわね」

 

「はい。取れるときに全部取っとけって、団長が言ってたから」

 

 背筋を伸ばして首肯する。

 四輪、戦艦、重機などは基本的に運用資格、いわゆる『免許』が必要だ。取得にあたって受験料がかかるのでCGS参番組はみんな無免許でMWや重機を乗り回していたが、郊外の基地近辺ならまだしも市街地には近づけなかった。

 見つかったら営業停止もあるんだからな――とマルバ・アーケイ社長が口を酸っぱくして言い聞かせるので、欲しいものがあるときは一軍の大人たちが買い出しに行くトラックの荷台に忍び込むか、雑貨屋のアトラに配達を頼むしかなかった。

 鉄華団が発足してから経費の使い方は一変し、オルガ・イツカ団長はそうした受験料を一切ケチらなかった。

 おれも車乗りたい、MS(モビルスーツ)乗りたいと挙手する年少組を「ペダルに足が届くようになったらな」とたしめることはあったが、オルガは身長さえ足りていれば希望者みんなに試験や認定を受けさせてくれた。

 免許の取得に前向きどころか資格給までつけてくれるし、合格したらよくやった、頑張ったなと惜しみなく褒めてくれるものだから、早くはやく背が伸びないかと、みんなで身長を比べあったものだった。

 

「あ……でも、MSは前のIDだから、」

 

 動かす資格はなかったのだと、エンビは今さら思い至った。

 免許はIDに紐づけられる。筆記試験のほかにMWは三ヶ月・MSは一年の実務経験がそれぞれ必要とされること、鉄華団壊滅後は火星におけるMS運用がすべてテイワズの管理下に収められてしまったことから、鉄華団残党のMS運用資格の再取得は封じられてしまっていた。

 

 

 ――おれたちはテロリストだ。

 

 

 ふとイーサンの糾弾が蘇って、エンビは表情が削げ落ちるのを感じた。

 鉄華団はPMCとして合法的に、業務用にMSを所有していた。流星号や雷電号といった団内の通称こそあったものの、ガンダムフレーム・バルバトス、グシオン、フラウロス、それからイオフレーム・獅電にテイワズフレーム・辟邪など、いずれも型式番号と保有台数を上部組織であるテイワズに届け出ていた。

 ……ということは、()()ガルム・ロディは違法に動かしていたことになる。

 おれたちは本当にただの『海賊』だったのだと、今さら思い知るようだった。

 

 押し黙ってしまったエンビを案じてクーデリアは理知的な双眸をゆるやかに細めると、丁寧に「エンビ」と呼びかけた。

 静かにプレジデントチェアを立つ。

 

「今はわたしの護衛をお願いするけれど……あなた自身がしたいこと、なりたいものについて考えるのをやめないで。あなたたちの将来を後押しする責任が、わたしたち大人にはあるの」

 

 穏やかに微笑む才媛は気遣わしげに歩み寄ってエンビを見上げた。手を取って、そっと重ねる。上背はあってもクッキーやクラッカより半年ばかり年下だからか、まったくの子供扱いだ。

 

「クーデリア先生……」と取りこぼした呼称はしかし、文字や勉強を教えてくれる『先生』から、国政を担う政治家に対する『先生』に意味を変えてしまっている。

 

 かつては見上げるほどの長身だったクーデリアを、今ではエンビが見下ろしている。

 クーデリアは昔から女性にしては長身の部類だし、決して小柄ではない。ただ、彼女が変わったわけじゃないと言いきれないのも現実だった。豊かなブロンドは短く切られてしまったし、ストイックなパンツスーツ姿は『お嬢様』だったあのころの印象を覆す。

 火星連合初代議長にまつりあげられたクーデリアは、鉄華団の初仕事に立ち会ったクライアントだ。

 イサリビに乗って地球へ行く道中をともに戦った盟友だと、クーデリア自身は思っている。

 鉄華団の少年たちのことを、あのころは傭兵としてしか生きられない()()()()()()()()()なのだと思っていた。どうにかして力になりたいと息巻いていた。

 そんな〈革命の乙女〉の傲慢は、三日月・オーガスとの出会いによって覆された。貧困の中にあっても力強く生きようとする少年たちの姿に胸を打たれた。

 行き場のない子供たちを受け入れ、居場所を与えたオルガ・イツカ。生きられなかった彼が現世に置き去りにしてしまった子供たちを立派に育て上げることは、残された者に託された使命のひとつだろう。

 火星の人々をしあわせにすると誓った覚悟に噓はない。約束を覆さないためにクーデリアは前に進むと決めた。これからの未来を生きる子供たちのために少しでも世界を整えるのが大人の役割であり、果たすべき責任だ。

 少なくともクーデリア自身はそのように考え、エンビの手を握った。

 

「わたしたちは、家族でしょう?」

 

「え……?」

 

「そうだぞ、エンビ。これからはくれぐれも馬鹿なこと考えんなよ」

 

 ユージンが言葉を引き継ぐ。家族の両腕が、戦場からやっと帰ってきたエンビをあたたかく迎え入れようとする。

 しあわせになるための道を、今日からやり直すために。――まるで手厚く庇護しようとするかのような詭弁の数々に、エンビは底の知れない黒い澱が足元から這い上がるのを感じた。

 鉄華団は家族だ。だけど、それは。

 ぐらぐらと足元が揺らぐ感覚、言葉が出ない。

 

「 ば かなこと、って……?」

 

 チャドに助け舟を出してもらおうとエンビは緩慢なしぐさで『家族』の面影をふりあおぐ。錆びついて軋む機械みたいにギギギと振り返ると、チャドは困ったように眉尻を下げた。

 

「生きるために鉄華団は戦ってたんだ。死なないために。形はどうあれ、家族みんなが笑って生きられる世界になっただろ?」

 

 ――違う、そうじゃない。強烈な違和感に喉がひりつく。そこにいるのはエンビのよく知るチャド本人なのに、まるで同じ姿の別人みたいに理解できないことを言う。

 家族みんなが笑って生きられる世界に()()()んじゃない。それはライドが作ってくれたものだ。戦って戦って、ぼろぼろになっても信念を捨てなかったライドが、体を張って、命をかけて作ってくれた。

 

「オルガの願いは、お前らが笑って生きててくれることだった。そのために犠牲を出すことは――」

 

「犠牲!?」

 

 感情が沸騰するようだった。噛み付くように遮られたチャドが、当惑げに目をまたたかせる。突如声を荒らげたエンビに驚くオフィスの中で、激情を御すことも忘れてチャドに向き直った。

 

「エンビ……?」

 

「おれたちの戦いは、犠牲だったっていうんですか」

 

「別にお前たちの戦いを否定するわけじゃ……」

 

「一緒じゃないか、だって……だってッ」

 

「あのな、エンビ。お前たちに生きてほしいと願って、帰りを待ってた家族がいること、」

 

「そんなことわかってる!」

 

 心配をかけたくてやったわけじゃない。待っていてくれる家族の存在はありがたいと思う。だけど……だけど。

 応援してくれてた家族もいると、手段は間違っていても『筋』はキッチリ通したと、誰かひとりくらい言ってくれたっていいじゃないか。

 ラスタル・エリオンの手のひらの上じゃ、いつ握りつぶされるかわからない平和じゃ、笑って暮らすなんてとてもできなかった。

 鉄華団の名前を呼ぶことも、書き残すこともできない世界だったのだ。記録からは消し去られ、記憶には残っているのに人前で呼ぶことも許されない。元団員だけで固まっていられる職場ならまだしも、学校はそうじゃない。

 エンビ、ヒルメ、トロウの三人が入学したのは孤児院とつながっている学校で、下は八〜九歳くらい・上は十五〜六歳ほどまでの幅広い年齢層が鉄華団とどこか似ていた。当時十二歳だったエンビたちは、すぐに馴染めそうだと思った。

 なのに現実は甘くなかった。同級生はみんな、まともな孤児院だとか、親のいる家庭で育った子供ばかりだったからだ。

 周りが当たり前のように施設や家族の話をする中で、エンビたちは思い出話ひとつできない。父親の顔なんて知らないし母親もいない、育った施設にあたるのだろう鉄華団は世界から、歴史から抹消させられた。

 保護者にあたるのだろう団長は死んでしまった。兄のように慕っていた三日月も、昭弘も、シノももういない。唯一の肉親だったエルガーも最後の戦場で死んだ。

 エンビにとってヒルメとトロウは大切な『家族』なのに、血がつながっていないから学校では『幼馴染み』だと噓をついて、鉄華団の一員として戦死した片割れのことを誰にも言えない。家族についても育った場所についても口をつぐまなければならない。

 勉強をさせてもらえるのは心底ありがたかった。だから環境には妥協した。我慢した。でも、だめだった。

 他の子供たちにとって、授業は退屈なのだという。宿題をもらえて嬉しいと感じる気持ちを笑われてしまう。与えられる情報を取りこぼさないよう先生の話に聞き入っているのに、その姿が()()の子供たちにとっては滑稽にうつるのだという。

 勉強熱心なヒルメが「真面目」と揶揄されたり、荒れがちだったトロウが「鉄華団なんて聞いたこともない」と笑われて喧嘩になって、怪我をさせてしまったことを一方的に怒られたり、――そうやって何度も何度も繰り返し孤独を体感させられた。

 記憶に残っていたって呼べないんじゃ意味がない。呼んじゃいけない名前なんてないのと一緒だ。文字を学んだのに書けないなんてあんまりだ。

 ライドはだから、語り継ぐ権利を勝ち取るために何かしなければと考えたのだろう。

 エンビたちが賛同して蜂起したのも、学校に入れられ、同世代の子供たちと交流を持たざるをえない孤独に疲れきっていたからだ。

 大人になれば写真をこっそり飾れる部屋だって持てるかもしれない。だけど学校の最寄りの宿舎に入って、大部屋で集団生活を送る年少組はどうすればいい? 嘆くことも泣くこともできない中で『幼馴染み』同士ひっそりと肩を寄せ合っていろというのか。

 こんな救いのない世界に取り残されるくらいなら、兄貴分たちと一緒に戦死していたほうがずっとずっと幸福だった。

 魂を抜かれて、心を殺して、命だけ残った空っぽの体で生き永らえるよりも、ずっと。

 だから――だから、戦いたいと思ったんだ。

 

「おれたちは犠牲になんかなってない、居場所のために戦ったんだ……!!」

 

 エンビは吠える。血を吐くような慟哭が議長執務室の静寂を割る。

 しかし、言っていることは単なる子供のわがままだ。

 確かにエンビたちは鉄華団を無意味なものとして葬り去ろうとしている世界に抗い、立ち上がった。モンターク商会からガンダムフレームと小型船を提供され、輸送船を救助し、海賊を摘発してヒューマンデブリを保護し、アリアンロッドと一戦交えた結果ギャラルホルン本部を壊滅にまで追い込んだ。

 その過程でギャラルホルンの非戦闘員を数多く死なせた。

 いくら由緒正しいセブンスターズの姫君であるアルミリア・ボードウィンが主導していたとはいえ、逆賊マクギリス・ファリドの革命思想を引き継ぎ、軍人たちの家族を虐殺させるというテロリズムの『実行犯』役を買っていたのだ。

 いつラスタル・エリオンの目こぼしが途切れ、やっとの思いでたどりついた平穏な日々を握りつぶされてしまうかと、火星に残った元団員は気が気ではなかった。

 失脚の危機に晒されたクーデリアはそれでもライドの奮戦に敬意を評し、テロリストの汚名をひとりで背負った覚悟を受け止めて、エンビたちが帰る場所を作ろうと手を尽くしている。

 庇護されている立場で頑是無く我を通そうとするエンビに、チャドは手厳しく釘をさす。

 

「……正直言って、ライドを犠牲にしてまで果たすべきことだったのか、おれにはわからない、 」

 

 チャドの言葉が結ばれるのを待たず、鳴り渡ったのは銃声だった。

 

「――――!!」

 

 かわいた破裂音は、しかし鼓膜を殴りつけるように暴力的な音量でもって議長執務室を強く揺さぶる。

 チャドの右頬にひとすじの赤。

 うすい皮膚だけを傷つけ、出血にまで至らないぎりぎりのラインを通り抜けた弾丸は、飾られた絵画を傷つけることなく白い壁を抉った。

 エンビの手に握られている拳銃が三日月・オーガスの形見であることに、気付かない者はこの場にいない。

 言葉を失うクーデリアを背後にかばうと、ユージンは「エンビ!」と鋭く呼びかけた。

 しかしエンビの視線は剣呑にチャドをとらえて剥がれず、内心で舌打ちする。

 ジャケットの袷に手を突っ込んでコンシールドキャリアから銃を引き抜く挙動には一切の無駄がなく、発砲までのタイムラグは限りなくゼロ。射撃も正確だ。……さすがに数ヶ月前まで前線で戦っていただけのことはある。

 完全に不意を突いた発砲は、威嚇にしてはあまりにも攻撃的な一撃だった。

 引き金にかかる指先がふるえ、それでも戦うための手は的をとらえて逸らさない。見開かれた双眸からあふれた涙が一滴、伝って落ちる。

 

「おれたちは……っ」

 

 ライドは。トロウは。命よりも大切な目的のために、すべてを懸けてみせたのだ。生きていてほしかったと願う気持ちに噓はつけないけれど、ふたりが遂げた目的が命よりも大事じゃなかったと言うなら、それは、とても失礼だ。

 生きてさえいれば何でもいいのか? 生きる場所も死に場所も自分自身の意思では選べないのに、命だけ残っていたら死ぬまで生きて命令を果たしたことになるのか。鉄華団を犯罪組織に仕立てあげてダインスレイヴでずたずたにして、存在ごと風化させようとするギャラルホルンの統治下じゃ、死んでいるのと同じだった。

 戦友への侮辱は許さない。

 次は当てると決意をこめて、チャドを睨み据えた。

 

「おれの『家族』はもうどこにもいない……!!」

 

 涙に焼けて掠れる喉で、エンビはかつての仲間の心変わりを詰る。

 大事な家族を『幼馴染み』と偽らなければならない孤独感に疲弊していたからエンビたちは蜂起した。復学という選択肢にも手を伸ばすことができなかった。

 ここでもやっぱり『家族』の定義があのころの鉄華団とはどうしようもなく違っている。

 きつく噛みしめたくちびるに涙が染みる。わけのわからないドス黒い感情が胸郭を満たし、そして。

 

 暴発する。

 

 

 

 

 #063 新たな一歩

 

 

 

 

 残響が消えるよりも早く身を翻し、駆け去ってしまったエンビを追いかけることはできなかった。

 二発目の射撃は的確に防弾インナーの隙間を抉り、かすめただけだろうに皮膚を削ぎ肉を裂いて、鮮血を吹き上げた。手のひらはふたたび赤く染まる。鉄錆のにおいがたちこめる。

 ああ、あの日と同じだと、チャドは力なくわらった。

 

「すぐにわたしの主治医が来ます。チャド、それまで……!」

 

「……すみません、お嬢」

 

 傷に清潔なハンカチをあてるクーデリアに手間をかけさせることを詫びながら、思い出すのはオルガを失った夕暮れだ。

 あの場にいたのはライドであってエンビではないのに、傷口を直接抉られたような気がした。

 

「……団長の願いは、家族みんなが笑って生きられるようにすることだった。どんな手を使ってでも死ぬな。生きろ。それが最後の命令だったはずだ」

 

 生きてさえいれば何とでもなる。命さえあれば活路は見出せる。オルガはそう伝えたかったのだとチャドは解釈した。だからわからない。どうしてオルガが慈しんだ子供たちは、命だけではダメだなんて喚いてしまうのかが。

 鉄華団の名誉なんて、あのオルガが気にするとは思えない。世界を変えるよりもお前たちが生きていてくれと、ここに生きていればきっと彼らを諌め、諭してくれただろう。

 前線に立てなくなったオルガは自分自身の立場を理解していてなお命に代えてライドを庇護した。未来図を描く手を、鉄華団が失われるかもしれない明日に残したのだ。

 そのライドを失ってまで成し遂げる目的なんて。

 

「どんな世界でも、ライドが生きててくれればオルガはきっとそれでよかったはずなんだ……戦いなんて、望んでなかった」

 

「わたしもそう思います。でも彼らには彼らなりの信念があったのでしょう」

 

「本当にわからない。……わからない。こんなこと、はじめてだ……」

 

 わからないことをわかろうとするのは、存外体力を使うらしい。遠のきそうな意識を痛覚でつなぎとめながら、チャドはどこでもない空間を見上げた。

 物心ついたころからヒューマンデブリであったチャドには、識字能力がある。今話している言葉だけでなく、木星圏、地球圏で使われているマイナーな文字だって読める。

 だが就学経験はない。学んだ記憶もない。

 阿頼耶識のピアスとともに『知識』を補助するチップを埋め込まれたから、チャド・チャダーンには身の丈にあわない膨大な知識があった。

 植え付けられたマイクロチップの中に厄祭戦当時の情報が記録されていたからチャドは強襲装甲艦を動かせたし、教養層しか知らないはずのビーム兵器のことも知っていた。

 気味が悪いだの、生意気だのと敬遠されてなかなか買い手がつかず、投げ売り同然で廃棄を待っていたころにチャドを買い付けたのがCGSだった。

 マルバ・アーケイ社長は学のあるガキが鉄くず同然の価格で手に入るのだから儲けもんだと豪快に笑って、もちろん値切れるだけ値切った上でチャドやダンテを買っていった。

 あのときのチャドが、計算に狂いがなければ八歳くらいだ。もう十七年ばかり昔の話になる。

 一軍の大人たちに「チップが破損したら困るから頭は殴るなよ」と言われて育った。商船団生まれの昭弘が殴られ役になっていたのは、そういう背景があってのことだった。

 当時の参番組を仕切っていたのはチャドよりいくつか年上の、たしか十三歳くらいの少年で――、そのあと三回ほど代替わりがあってユージンがリーダーになった。

 オルガが三日月を連れてCGSに入ってきたのはそのあとだ。

 そんなだから、物心ついたころに鉄華団が発足したエンビの気持ちがまったくもって理解できない。

 参番組の給金はすずめの涙ほどだったと聞いているが、ヒューマンデブリには一銭もなく、給料なるものを手にしたことはなかった。ただ食事と寝床だけを与えられ、死ぬまで無償で働かされる肉の壁だった。

 理不尽な大人に見張られているのなんて、昔からだ。

 管理者がマルバ・アーケイ社長だろうと、ラスタル・エリオン総帥だろうと、クーデリア・藍那・バーンスタイン議長だろうと大した違いは見出せない。

 静かにしていれば食事を囲んでもいい、寝床を襲撃されたりしない。体を張って命をかけて戦う必要もない。給料はもらえるし、家庭を持ちだす団員もいる。子供が生まれれば育てていける環境もある。多少いびつだろうとオルガが望んだ未来は実現されたのだから、ギャラルホルンのご機嫌を損ねないように楚々と生きていけばよかったはずだ。

 鉄華団残党として、残された家族が平穏に生きていける現状を維持することがすべてだと、その《現状》を平穏に保ってくれるクーデリアを守ることがつとめだと、チャドは本気で思っている。

 

 エンビだって覚えているだろう。IDを改竄して地球から戻ってきたときの、火星のありさまを。

 街には活気がないどころか、このクリュセが貧民街のように荒れていた。舗装の剥げた道、ガラスというガラスが割られた大通り。閉まらなくなった商店のドアがあえぐように軋んで、破壊されたシャッターには弾痕、血痕まで残されていた。

 四大経済圏が火星という植民地の経営を断念したせいだった。ギャラルホルンの代表に就任したラスタル・エリオン総帥は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()にギャラルホルン火星支部を縮小。

 管理・統治を任せて火星市民を労働力に使っていた各経済圏は手が回らなくなって、火星への干渉を諦めた。

 ただでさえ不安定だった治安は転がり落ちるように悪化したのに、曲がりなりにも統治者であったギャラルホルンは火星基地(アーレス)へと撤退し、自治区の政府が救助を要請しても突っぱねる。

 ラスタル・エリオン公は自身が直接手を下すことなく、地球経済圏が火星を見捨てざるをえない状況を作った。

 知識も教養もない労働用の火星市民は、ギャラルホルンではなく経済圏を恨んだ。

 

 政府はギャラルホルンがいなければ何もできないのか――! 人々は各火星植民地域の指導者たちを襲撃し、自らの力で今日の食べ物を奪い合った。

 

 そんな無政府状態の故郷を立ち直らせたのがクーデリアだ。

 ふたたびノブリスに頭を下げ、テイワズにも交渉を持ちかけ、テイワズとギャラルホルンが裏から手を回して、経済的にも倫理的にも破綻した火星を救った。

 フミタンの仇であるノブリスに借金をして、三日月を惨殺させたラスタルの傀儡になってでもクーデリアは、火星の人々をしあわせにするという誓いを果たすのだと前を向く。

 そうまでして作ってもらった日常に、命の危険はもうない。大人しくしていれば生活を脅かされることはないのだから、ギャラルホルンの手のひらの上だとしても存外悪くない条件だろう。

 ……そのように思ってしまうのは、魂にしみつき全身に根を張るヒューマンデブリの(サガ)なのか。

 

「すいませんお嬢……服が汚れる……」

 

「そんなことを気にしてる場合じゃないでしょう!」

 

 いつになく心細げに声を震わせるチャドを、クーデリアはせめて、力強く抱きしめる。赤く染まったハンカチを握りしめれば、白く褪せた指先から鮮血が滴る。

 壁にかけた絵の中では乙女のまなざしが凛と未来を見据えているのに、クーデリアは一刻も早い医者の到着を祈るしかできない。

 希望を描いた絵画のすぐそばを穿った弾痕は、血と鉄の轍の中で育った三日月の系譜だ。

 アメジストの双眸で希望と爪痕を同時に見つめて、クーデリアが振り返ったのは一枚の写真だった。

 

(フミタン……あなたなら、彼らにどんな言葉をかける……?)

 

 彼女に名前をもらった小学校は、ちゃんと世のため人のためになっているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 エレベーターを横目に睨んで、階段を三段飛ばしに駆け下りる。十四階――十一階。ビル内のアラートが四方八方から大音量でエンビを責めるが、追っ手は差し向けられていないようだった。――七階。まだ飛べない。三階。一息に二階までの階段を飛び降りると、手近なトイレの窓から身を躍らせた。

 裏路地に着地する。ビル同士の陰になっているせいか、陽の高い時間帯にもかかわらず薄暗く、水はけも悪い。昨日までの雨模様が災いして足場はひどく不安定だ。

 滑りそうだと舌打ちをして、エンビは細い路地が入り組むアスファルトの迷路へと水たまりを蹴った。

 その一挙一動を、監視カメラは逃がさない。

 今ではスラムの路地の裏まで防犯は行き届いている。

 こんな街中の、しかも連合議長様のオフィスが入っているビル周辺がカメラの死角であるわけがない。

 

 足早に廊下を抜けながら、ユージンはポケットに忍ばせていたインカムをひっつかむとヘッドセットを耳にかける。コードを襟にくぐらせ、腰のベルトに手早く固定した。

 一瞥した手元のタブレットにはエンビのハーネスに仕込んだ発信器が赤く点滅している。

 エレベーターに乗り込むと、怒鳴りつけるように声を張った。

 

「Dブロック、Eブロック! 出動だ、逃走者を追え!」

 

 叩き込んだ指示にこたえるように、地図上にグリーンのランプがちかちかと点灯をはじめる。

 友軍のサインだ。鉄華団の元団員はクーデリアの私兵団として日々連絡を取り合い、仕事が休みの日、学校を終えた放課後などを当番制として()()に備えている。

 といっても出動なんてひと月に一回あれば多いほうだ。

 それでも距離が近ければ、腰をあげるだけで現場に駆けつけられる。

 

「退路を塞げ! 相手はひとりだ!」

 

 ばたばたと足音をたてて路地裏に駆けつけてきた四人組に、エンビは今度こそ凶暴に舌打ちした。

 エンビ自身もかつては彼らと同じ私兵団に属して放課後を待機にあてていたから、編成も拠点も、武装だって把握している。

 基本的には何事もなく、持ち場に集まって駄弁るだけのあつまりだが、さすがに元鉄華団の面々だけあって行動は早い。八割以上は面識があり、手のうちは知れている。……お互いに。

 握りしめていた三日月の銃をおろし、銃口を地面に向ける。親指でマニュアルセーフティをかけるさまをことさらゆっくりと見せつけてから、スラックスの隠しホルスターに突っ込んだ。

 その挙動が合図になった。

 不意を突くつもりで突進した学生風の少年が素早い挙動でエンビの右腕をとらえる。一瞥、呼吸ひとつぶんの邂逅を逆手にとって、脇をしめると袖をつかみ返す。静かな反撃にぎょっと目を剥いた油断ごと、一挙動で投げ飛ばした。

 仲間にぶつかる方向へ吹っ飛ばして道を開けさせる。

 迷わずアスファルトを蹴ってエンビは鋭く駆け出した。

 

『こちらEブロック! 抜かれました……!』

 

『エン――目標は、Gブロック方面に向けて逃走中!』

 

 インカムの向こう側で叫ばれた報告は、ユージンの耳元へと届く。

 

『了解』と応じると、苛立つ手でブロンドをガシガシかきむしる。

 

 エレベーターの中、フロア番号のカウントダウンを睨みつけながら、ああと嘆息した。

 さすがに半年ばかり前まで戦場にいたエンビは俊敏で、機動力もある。……ああいう外面ばっかり快闊な茶髪野郎は白兵戦に強いという法則でもあるのか。長い手足を生かして大胆に踏み込み、一気にカタをつけにくるから、コンマ数秒の思考すら()になってしまう。軽薄を装う仮面の内側で、相手の挙動をつぶさに観察しているのだろう。有効な一撃を確実に決めてくる。

 いや、感心している場合ではない。似なくていいとこばっか真似しやがってと呪詛を吐いても今さら遅い。

 

『……お前らはよくやった。怪我人の対応、わかってんな?』

 

『はい!』――と跳ね返ってくる返事に、ふうと今度こそ肺腑の奥から息を吐きだす。

 

 地下駐車場に降りたつと、新しい愛機となった黒いセダンに乗り込んだ。

 腕時計を確認すればまだ午前中だ。平日、あと二時間もすれば昼休み。通勤時間帯を過ぎて市街地の交通量は落ち着いた頃合いである。

 ただ、この数年とうもろこしは豊作続きで、燃料であるバイオエタノールの価格は安定。経済的に豊かになって自家用車を維持・運用しやすくなったこともあり、車両の保有台数、交通量ともに増加傾向にある。

 消費が進めば経済は回る、いい傾向だ――と思っていたのに、こうなると一般車両は邪魔でしかない。

 シートベルトをつけると耳元のヘッドセットを指先で避け、車内のコンソールパネルから別の通信チャンネルを呼び出した。

 

『仕事だ、サーバールームの番人!』

 

『えっ、おれ今まさに仕事中なんだけど!?』

 

 首から提げた小型端末ごしに突如呼びつけられたダンテは、ぎょっとして声を裏返らせる。

 ダンテ・モグロは孤児院の職員だ。地下サーバールームを守るハッカーという裏の顔は子供たちですら知っているが、だからって表の仕事を放り出すわけにもいかないだろう。

 ユージンを真似て格好をつけだす子供たちをなだめる番人は、今ちょっと手が離せない。

 

『代わりの人員はすぐに手配する。そっちは一旦デルマに預けてカメラ追ってくれ、エンビが逃走中だ!』

 

『え、えっ、ちょっと待ってくれよ、エンビ? エンビを追うのか?』

 

『詳しいことはあとで話す!!』

 

 ただ、今は。

 

『黙っておれの指示に従ってくれ……ッ!』

 

 祈るようにステアリングを握りしめ、ユージンはアクセルを踏みこんだ。駐車場から地上へ、黒いセダンが滑り出す。道路脇の水たまりが割れて、うつくしく磨かれていた車体をべしゃりと汚した。

 鉄華団の家族であるはずのダンテにどう伝えていいかもわからないトラブルに見舞われるだなんて、思ってもみなかった。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 路地から路地へと足場の悪い細道をくぐって、小道から飛び出してくるクーデリアの私兵をかわして走る。

 長い脚が閃く。薙ぎ払うような蹴りが鮮やかに決まり、弾き飛ばした小柄な少年が尻餅をついた。

 そのさまを、エンビは振り返れない。

 彼らはみんな、鉄華団壊滅後の世界にどうにか適合してみせたのだ。戦場を離れてしまった元団員に機動力で劣ることはないが、ただ、新しい生活に馴染めなかったという劣等感にエンビはくちびるを噛みしめる。

 外壁にへばりつく街灯に仕込まれた監視カメラを横目に睨めば、焦点がキュルキュルと前後する。

 ダンテかヤマギか知らないが本格的に追尾がはじまったのだろう。

 

(くそ……っ)

 

 なぜ逃げているかももうわからないのに、追われるから立ち止まれない。今は少し、ひとりになりたいだけなのに。

 衝動的に飛び出してきてしまったのがいけなかったのだろうか。でも、ライドの戦いがいらなかったみたいに言われたら、感情の制御がうまくいかない。

 鉄華団が壊滅して、ギャラルホルンが民主的な組織になってクーデリアが火星の女王様になって、世界は確かに平和になった。

 実現されたその平和に、鉄華団の存在はなかったけれど。

 居場所のない孤独に耐えかねてエンビたちは蜂起した。ノブリスを殺害して報道の自由をもたらした。ライドがギャラルホルンに真っ向から喧嘩を売って、それをタカキが全世界に中継してくれて、暴虐は暴かれた。ラスタルが失脚したことでクーデリアを縛り、操っていた繰り糸は断たれた。

 それで世界は、確かに変わったはずなのに。

 

 なのに体感できる変化は何もない。

 

 待ってる家族を不安にさせて、勝ち取らなくてよかった権利のためにライドとトロウを犠牲にしただなんて、そんなこと考えたくないのに。

 頭を振ると呼吸が崩れ、どっと疲労感が襲ってきた。

 

「エンビ、見つけた!」

 

「…… っ、」

 

 ハッと顔をあげれば、見知った顔が息を切らしている。エンビよりも苦しそうな顔で見つめられ、名前を呼び返そうとしても、荒れた呼吸では声にならない。

 

「エンビ」と重ねて呼びかけられて、履き慣れない革靴の底を水たまりが侵蝕する。

 

「アラタ…………」

 

 今すぐここから逃げ出したいのに、仲間の声で呼び止められたら背を向けられない。

 鉄華団に急成長にともなって構成員が増えたから、顔と名前を確実に把握できているのは元CGS、元ブルワーズくらいまでだ。地球から凱旋したあとに火星のスラムから出てきた新兵たちは、配属先によって顔見知りとは限らない。

 かつての『幼馴染み』のひとりとは、今は会いたくはなかった。

 だが部隊は四人編成で、さいわい残り三人は面識がない。

 あのころのエンビたちは声変わりもまだだったから、当時あまり交流のなかった団員約二割にとって今のエンビはまったくの他人だろう。

 力ずくで突破するか、別の道を行くかと逡巡する。

 しかし仲間の声が後ろ髪を引く。

 

「何があったんだよ、なあ……っ!」

 

 心配されていることはこんなにもよく伝わるのに、話をしている余裕はない。

 そんなこと、おれが聞きたいよ――とエンビは喉奥でうめいた。

 すがるようなアラタの双眸は、どうにかしてエンビを説得しようと言葉を探しているのだろう。その姿は事情を何も知らされないまま追いかけてきたことを如実に物語っており、四人一組のチーム単位で行動する私兵団の和を乱す。

 次の瞬間だった。

 ひとりが膠着状態に焦れて腰のホルスターから拳銃を抜く。乱暴な手つきでスライドが引かれる。

 

「おい」と見咎める声を無視して、銃口はエンビをとらえた。

 

「ユージンさんに逃走者を捕まえろって言われてんだっ」

 

「待てッ撃つな、あいつは――!」

 

 味方だ、と叫んだ声が銃声に掻き消える。発砲音が鳴り渡り、どこかで鳥の羽音が慌てて逃げていく。

 とっさにかわして受け身を取ったが、さすがに距離が近かった。

 疲労した足、履き慣れない靴、不安定に滑る雨上がりの足場――、悪条件が重なったせいで弾丸が左脚をかすめていた。

 

「……っ、」

 

 出血。たたらを踏む。焼け付くような痛みが肉を抉られた感触とともに全身をめぐる。

 直撃こそ免れたものの、スラックスの裾が裂けてダークグレイの生地が赤く染まっていく。足場が崩れたように膝をついた。

 がくりと落ちた右膝から衝撃が伝わって、血液が噴き出すのがわかる。

 動かせないほどの損傷ではないが、動けるほど浅い銃槍でもない。どうか動かしてくれるなと傷ついた左脚が意識に背いて悲鳴をあげる。

 痛みには強いほうだと自負していたのに……! 思うように立ち上がれない脚を叱咤し、エンビは手近なゴミ箱を蹴ると手負いの獣のように身を翻した。

 痛覚の警鐘がずきずきと鳴り、傷ついたのは片足だけなのに全身が思うように動かない。わずかな勾配にも足をとられる。

 痛覚が判断力を奪って、T字路の突き当たりに額をぶつけた。肩で息をする。

 

「はぁっ、は、っ――」

 

 おれはどこへ行けばいい? どこまで逃げれば終われるんだろう。

 右折すれば、記憶違いがなければおそらく学校がある方角だ。今は授業中だから人気はない。地域柄、クーデリアの私兵団も攻撃的な手段をとれないだろう。

 左折すれば、数フィートの距離で大通りに出てしまう。

 引き返して投降するという選択肢もあるにはある。立ち止まるタイミングを完全に逃してしまっただけなのだ。

 このまま燻り出されるように大通りに出れば、ここでおしまいにできるだろうか。

 だが薄暗い路地から見上げる出口は巨大な光の塊のようで、向こう側がうかがえない。未知への躊躇に、走るには頼りない足はすくんでしまう。

 

「エンビ!」

 

「 えっ……?」

 

 逆光の向こう、大通り側から鋭く呼びつけられて顔をあげる。手持ち無沙汰な腕の中に投げ込まれた丸いものを、反射的にキャッチした。

 ヘルメットだと、すぐにわかった。

 ふたたび顔をあげれば、光に慣れてきた目が大型二輪車両をとらえる。フルフェイスのヘルメットをかぶった人影は名乗るようにバイザーを開く。

 こぼれる淡いブロンド、アイスブルーのひとみ。

 見知った戦友は念を押すようにエンビの名前を呼んだ。

 

「乗れ、エンビ!」

 

「イーサン……!?」

 

「捕まりたくないんだろ!」

 

 一瞬の当惑、エンビの耳には背後に迫る古い仲間の声が届く。振り向く。ひと呼吸ぶんの逡巡を経て、エンビは迷いを振り切るように傷ついた足を駆り立てた。

 エンジン音が轟く。

 点々と続いた血痕はそこで途切れ、遠ざかる二人乗りのバイクを追跡部隊はただ見送る。

 

『目標、見失いました――』




【次回予告】

 鉄華団は家族だ。団長たちはそう言ってたけど、クーデリア先生の家族に、おれたちは入るのか? 家族って一体なんなんだよ……。

 次回、鉄血のオルフェンズ遠郷、中編『鉄と血の轍』。

 帰る場所なんて、もうないのかもしれない……。

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