鉄血のオルフェンズ 雷光《完結》   作:suz.

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――そして約束は果たされる。


#60 アルミリア・ボードウィン

 ハッピーバースデートゥユー! ハッピーバースデートゥユー! ハッピーバースデー、ディア――

 

「クッキー、クラッカ! 誕生日おめでとう!」

 

 せぇの、とひそめた声は双子らしくぴったり揃って、同時に顔を寄せたふたりが十七本のろうそくをふーっと吹き消す。灯っていた小さな炎たちがぶわりと揺らされ、そして姿を消すと、クーデリアが部屋の照明をオンにした。

 パッと灯りが点る。

 すると明らかになるテーブルの上には、クッキーとクラッカふたりの誕生日を祝うためのごちそうがずらりと並ぶ。中でもバースデーケーキはホイップクリームで丁寧にコーティングされ、ろうそくが消えてもドレスのように華やかだ。

 真っ赤ないちごは、この日のためにとアトラが私室の窓辺で大切に育ててきたものである。

 

「ありがとうアトラ!」

 

「ありがとうクーデリア!」

 

 おっとりと微笑むクッキーと、はじけるような笑顔のクラッカ。ふたりは十七歳になった。今日は大好きな兄・ビスケットを越えてしまう日だ。

 そっくりな顔を見合わせ、額をこつりと突き合わせて、手をつなぐ。

 

「おめでとう、クラッカ」

 

「おめでとう、クッキー」

 

「一緒に生まれてきてくれて」

 

「今日まで元気でいてくれて」

 

 ありがとう。

 

 ふたりで生まれ、ふたりで誕生日を迎えられる奇跡に感謝を述べると、ぱっと顔をあげた。

 テーブルにはアトラの作った料理の数々が姉妹の生まれてきた日をこれでもかと祝福している。いつものトルティーヤは花を象って巻かれ、プチトマトの花が咲くアボカドの草原。斜めにスライスしたキュウリの葉が芽吹いて、大きさを揃えるように刻んだトマトととうもろこしが光のかけらのようにまぶしい。薄切りハムで作った花にも、アトラの手先の器用さは遺憾なく発揮されていた。

 中でもとくべつ目を引く白いケーキに釘付けになった愛息子をアトラが「あとでね」といさめる。

 暁の四歳の誕生会はカッサパファクトリーの駐車スペースを丸ごと使って行ったから、ケーキは小さいものをたくさん作ったのだ。甘味が得意でない参加者のことも考えてアソートにした。

「暁もホールケーキがよかった?」と聞くと、ふるふると首を振った。

「おれのときはみんなと食べるから。小さいのいっぱいのほうがいいでしょ」と言う。

 三日月・オーガスの忘れ形見は生き残った仲間たちに見守られ、めいっぱい可愛がられて健やかに成長している。

 

「ほんとうにわたしたちだけでよかったのですか? ユージンやチャドたちもお祝いをと……」

 

 気遣わしげな声を惑わせたクーデリアは、山のようなプレゼントを抱えて、さっき帰ってきたばかりである。多用であろうと家族の晴れの日には必ず休みをもぎとって駆けつけてくれる才媛に、クラッカは首をふってみせた。

 

「ううん、いいの!」

 

「わたしたちだけが、いいの」

 

 クッキーが言葉を引き継ぐ。いつもより豪華なアトラのごちそう、アトラが作ったいちごのケーキ。兄の戦友たちから寄せられたトランクいっぱいのプレゼント。健康でいてくれる祖母と、食欲旺盛な弟分。……こんな平和を享受するには、世界はちょっと、冷たすぎる。

 ドルトコロニーで生まれたクッキーとクラッカは、労働力として望まれた子だ。両親はきっと力の強い男の子であってほしかったに違いない。女の子の双子で、両親は落胆したかもしれない。ふたりも同時に育てなければならなかったから生活が苦しくなって体調を壊してしまったのかもしれない。

 生まれてきて本当によかったのかと悩む夜もあった。兄たちは就学経験があり、優秀なサヴァランがお金持ちの家の養子になったからドルトから火星への旅費を工面してもらえたのだ。だからこうして生きていられる。

 もしもあのまま兄妹四人で路頭に迷っていたら、家族でバースデーケーキをかこむだなんてしあわせにはありつけなかったに違いない。

 肉親がいないことは珍しくもなんともない。アトラだって暁を産むまでひとりだった。クーデリアだって、実のお父さんに殺されそうになった。

 双子に生まれて、双子のまま生きていることは、あまりにもしあわせだ。

 

「今日は、誰にも寂しい思いはしないでほしいの」

 

「それが一番のプレゼントだから」

 

「ねー!」と仲良く笑ってみせて、クッキーとクラッカはテーブルの下でぎゅうっと手を握り合った。

 

「でも、春休みが終わっちゃったらおばあちゃんのお手伝いできなくなっちゃう……」

 

「お祝いしてもらったぶん、いっぱいお仕事しなきゃなのに」

 

「いいんだよ。毎年こうやって孫の誕生日を祝えることがあたしのしあわせさ」

 

 ふたりともぐっと背が伸びて、桜にはもう見上げるほどになった。腰が伸びるねえ、と桜・プレッツェルは皺の刻まれた目を細める。

 痩せた火星の土地でも強く育てる野菜の品種はまだ少なく、それでなくとも樹木が安定しにくい地質だ。少雨、強風、乾燥といった条件では根こそぎ折れてしまうのである。害虫や農薬の対策に充分な予算が割けないことからも土壌の輸入はリスクが高く、それゆえ果物類はコロニーからの輸入に頼っているのが現状だった。

 だがクーデリアが地球からオリーブを持ち帰ってからは、農業プラントの増設にも前向きな農家は増加傾向にある。

 さいわい火星には広大な土地があるので、これから数十年、数百年の長期スパンを見込んで耕していけば、地球を模倣するのではない火星らしい豊かさを手に入れることができるだろう。

 生活は豊かになった。桜農園のとうもろこしも、今は食糧としての価値が見出されている。ギャラルホルン火星支部の縮小、それにともなう地球経済圏の撤退によって飢餓に貶められた火星は、生産の重要性に向き合うしかなかったせいだ。

 各自治区は農業プラントの経営を打ち切り、食糧受給率は大幅に低下。バイオ燃料の工場が稼働を停止したおかげで大量のとうもろこしを貯蔵することとなった桜農園は、何とも皮肉なかたちで飢えをしのぐことができた。

 大きな犠牲から学ぶかたちで火星は農業の重要性に向き合うこととなり、農家の待遇は一変した。

 バイオエタノールの原料として一山いくらで買いたたかれ、ビスケットの給金なしにやっていけなかった当時が噓のように、経済的な不安はもうない。

 労働力も、敷地内にある孤児院から『手伝い』としてやってくる。

 引率のダンテにはいまだ見分けのつかない野菜の蔓や芽も子供たちはすんなりと見分けてしまうし、年長の子供たちは弟分に仕事を教え、自然と効率化が図られていく。野菜の旬を知り、食卓にのぼる過程を学びながら成長する子供たちは総じて農業に関心が高く、もっとおいしい野菜を育ててみせると息巻いてくれる。この調子なら後継者の心配もいらないだろう。

 種まきを終えれば達成感に湧く。収穫した野菜に頬を寄せて笑う。――そんなあたたかい日々の裏側で、桜は葛藤した。

 行き場のない子供たちに無償奉仕をさせている。これは()()()()か、解釈の割れるところだろう。

 農場が子供たちの笑顔であふれていようとも、賃金を支払わずに働かせていることに違いはないのだ。孤児院に閉じこめるより外を走り回ったほうがいいという方針に異論はないものの、褒められたくて頑張っている子供たちの意欲をいいように使っていると糾弾されれば、返す言葉もない。

 火星経済がこうも豊かになったのは、クーデリアが人道的支援に力を尽くしているからだ。

 人を生かすためには食糧が要る、だが命を維持するエネルギーである以上に、食べることは心を豊かにしてくれる。そのことを子供たちにこそ知ってほしいとクーデリアは考え、アトラはちょくちょく孤児院の子供たちの前で料理をしてみせる。

 桜農園でとれた新鮮な野菜と、目を喜ばせるアトラのごはん。あたたかい家族と食卓をかこむよろこび。こうした団欒を()()()()から()()に変えていくことが、目下のクーデリアの目標だという。

 肉親との団欒なんて、ろくに経験したことはないだろうに。

 たったの十六歳で親に殺されかけ、十七歳で起業し、十八歳で孤児院と小学校を建ててみせた【革命の乙女】の願いは、あまりにもささやかだった。愛する男を亡くして、十九歳で血のつながらない忘れ形見を育て、子供たちが戦わなくていいインフラを整備しようと戦って。

 弱冠二十四歳の華奢な双肩に、惑星をひとつ背負っている。

 見守るしかできない自身を、桜は不甲斐なく思う。時代を作る若者の犠牲には胸が痛む。息子夫婦ばかりかサヴァランとビスケットにまで先立たれたときには、若くして死んでいった孫を思うと悔しくて、まだ生きている老いぼれが情けなくて、泣くに泣けずいたものだった。

 だが才女の投資によってクッキーとクラッカは変わらず学校に通い、すくすくと成長している。顔をあげ、前を向いて、ふたりの兄の死を無駄にしない道を歩んでいる。

 桜はただ、若者たちの安らぎになる家族でいてやれるよう、元気でいてやれるよう、心を尽くすばかりだ。

 時代を作るのは若者だ、老人ではない。まだ弱い苗木が倒されてしまわないためにクーデリアは日々奔走している。

 いつか当たり前になればいい。きょうだいが生きていることが、家族とともに暮らせることが『普通』である世界になればいい。親兄弟が健在で、血縁は必ずしも必要ではないが愛情というきずなでつながり、元気でいるような家庭が、この火星にも増えればいい。

 そうすれば、肉親が存命であるなんて贅沢だと十七歳の少女たちが心を痛めることもなくなるはずだ。

 子供たちが日銭のために戦わなくても暮らしていけるような、そんな世界に変わっていってくれればいい。

 できれば、革命の乙女ひとりが火星の人々をしあわせにすると啖呵を切って、人柱にならずとも。

 

 

 

 

 

 

 風のざわめき、街路樹が揺れる。ヴィーンゴールヴの遊歩道には小鳥たちのさえずりが絶えないというのに、今日に限ってやけに静かだ。

 天気予報によれば今日は薄曇りであったはずだが、不自然に風が騒いでいる。

 ガエリオが車いすを操る手を止めれば、ギャラルホルンの下士官服を着用した女が微笑みを向けた。

「お疲れですか」と声をかける。車いすを押してもいいかと許可を求める文言だと、五年に渡る生活で学んでいた。

 片手を挙げてやんわりことわると、ふと、見覚えのある薄すみれ色の髪がたなびくさまが目に入った。

 

「アルミリア……?」

 

 彼女は四年ほど前からアインの故郷に留学していたはずではなかったか。マクギリスの叛逆を知っても訃報を聞いても頑としてファリド邸を離れようとしなかった妹・アルミリアは、ボードウィン邸に連れ戻されるなり留学を決め、ヴィーンゴールヴにすら長らく戻っていなかった。

 まぼろしかと、深甚なアクアマリンの双眸をしばたたかせる。

 丈の長いワンピースは黒く、カチューシャから垂れるベールが仮面のように表情を覆う。まるで喪に服しているかのような姿は、亡霊のように静やかであった。

 潮風が翻すスカートの裾、長く伸びた髪が揺れる。どんなに離れようと血を分けた妹を見間違えるわけがない。

 

「アルミリア!」

 

 車いすを反転させ、ガエリオは不自由な足を駆り立てる。ひどく胸騒ぎがした。

 

 

 

 

 #060 アルミリア・ボードウィン

 

 

 

 

 海は凪だ。すべての経済圏から離れたヴィーンゴールヴは、いついかなるときも平穏無事に、のどかな遠洋に浮かんでいる。

 そんなだから船舶の発着時刻を除いて物見台もやることがない。渡り鳥が飛翔する季節であればまだ暇つぶしの種もあるだろうに、この時期はみな陸なのだろう。今日にいたっては海鳥の影も見当たらない。

 定時に見張りを交代する以外の仕事はなく、その退屈さは手慰みの紅茶が物語る。

 ティーポットを操る手つきは洗練され、高所から注ぎ入れるパフォーマンスが奇術師のようになめらかになってしまった。

「交代だ」と不意にドアが開き、室内で雑談していた兵士たちが「おお」と迎える。闖入者を迎えるようにティーカップがするするとテーブルをすべっていき、手品のようななめらかさを称えてソーサーを取り上げれば、中には何も入っていない。

「おいおい」と笑って顔をあげるより早く、他のティーカップたちが流星群のようにするすると後を追って、砕けた。

 床に飛び散る陶器のかけら。コンソールは不自然なまでに静まり返り、昼間だろうに室内が何だか薄暗い。かすかに体感できた揺れが漸進的に大げさになる。ただならぬ緊張感に胃の裏あたりがぞっとする。

 じゃり、とブーツの底が後ずさった。

 

「おい……」

 

 何をやっているんだと笑い合う余裕は消し飛び、窓の外を見て驚愕に言葉は失われた。

 高波だ。巨大なヴィーンゴールヴさえ飲み込もうとする大きな波が、巨人の手のひらのように襲いかかろうとしている。

 いや違う。

 ヴィーンゴールヴそのものが、尋常ではない波の斜面にいるのだ。傾いていると気付いた瞬間に鳴り渡ったアラートは、高速で落下してくる()()をとらえて絶叫する。

 遊歩道の木立が揺れる。倒れる。ベンチが転がる。強風に驚いた人々が空をあおげば、薄曇りの空を切り裂き、大気をふるわせて迫る不吉な気配。

 

 それが衝撃波であると気付いたころにはもうすべてが遅かった。

 

 赤く焼けた鉄杭が、大気圏を越えて降り注ぐ。熱によって細らされた凶弾は、それでも燃え尽きることなく地球の引力に呼ばれるがまま、世界で最も巨大なエイハブ・リアクター群に向けて加速する。

 しかしながら飛距離が長くなればなるほど弾道はずれ、誤差は大きくなる。地球には風の抵抗もある。

 ヴィーンゴールヴがダインスレイヴの直撃を免れたのは幸か、不幸か。

 着水という爆撃に、海面は激しく波打った。爆音とともに水の礫が砕け散る。波紋は半径数万キロメートルにもおよび、人工島のもろい地盤をあっさりと打ち砕いた。

 三百年もの長い時間を平穏でありつづけたメガ・フロートは大自然の驚異によって傾き、そしてシーソーのように元いた場所に戻ろうとする。こうなってはヴィーンゴールヴも、嵐に揉まれる小舟も同じだ。

 風がうなり、猛る。高波の斜面を時速数百キロというスピードで滑り落ちるさなかに、遊歩道にいた人影は落ち葉のように軽々吹き飛んでいく。

 窓という窓がシャボン玉のようにぱっと弾け、緑豊かな温室に狂乱をもたらした。透明な丸いドームの中を海水の塊が突き抜ける。色鮮やかな蝶をぱくりとひと呑みし、固定されていなかった重たいベンチを噛み砕く。植え付けられた木々の根が芝生をぎりぎりひっかき、爪痕は海水に蹂躙されて掻き消えた。

 津波は無作法な手のように温室を撫で回すと、人工的に持ち込まれた土やタイルをちぎり取りながら退室していく。引き上げる波は天井付近を逃げ惑っていた小鳥たちをもつかみとって舌舐めずりする。

 危うく第一波を逃れ、おののいて逃げ惑う人々もまた濁流のように転んだ女を踏みつけ、我先にと道を急ぐ。置き去りの幼子が泣き喚こうと構わず救助ボートやクルーザーを探し求めて走るばかりだ。行く手を阻むように防火用シャッターが降りてはギロチンのように人々を押しつぶし、あるいは閉じ込め、阿鼻叫喚にスプリンクラーの誤作動が冷や水を浴びせる。そこへ鉄砲水が押し寄せて、隔壁ごとすべて押し流した。

 病院を逃げ出そうとした看護師が水圧に潰され、壁に叩きつけられて白目を剥く。ぶちまけられた体液はざぶんと洗い流されて、横転した車いすの車輪だけがカラカラと虚しく主を捜していた。

 愚者の無力を嘲笑うかのように水の魔手はヴィーンゴールヴ全土を殴りつけ、拳はセブンスターズの会議室におよぶ。七つの紋章を引きちぎる。いつかは婚約披露パーティが催された豪奢なボールルームをも侵し、バルコニーへと突き抜けて爆ぜた。弾ける海水の塊は、あるいはファリド邸を直撃する。海中へと引きずり込まれてしまった大量の蔵書、そして金髪の美少年たちの安否は、もはや。

 

「一体何が起こってるんだ……?」

 

 地下へと急ぐガエリオは、びりびりと揺れる天井をふりあおぐ。置いていかれまいと両手で車輪を急かしてアルミリアの背を追いかける。螺旋のスロープをくだりながら、ガエリオはここが地下格納庫へと続く回廊だと気付いた。

(この先には――) ぞっと背筋が寒くなる。振り返ろうともしないアルミリアの足取りは凛然として、何らかの強い意志を持って進んでいるのだろう。

 華奢なパンプスの反響。残響がめまいのように重なりあって襲ってくる。

 

「アルミリア! 待ってくれアルミリア、お前なんだろうっ?」

 

 響くこだまを振り切るように、ガエリオは妹の名を叫ぶ。なおも立ち止まろうとしない靴音がようやっと歩みを止めたのは、やはりガンダムフレームが格納されたシャッターの前であった。

 ギャラルホルンの紋章がガエリオを睨み据える。そしてアルミリアが壁のパネルに触れたとき、すべては目を覚ました。

 厳かな地鳴りをまとってシャッターが開かれ、本来のキマリスが黄金色のひとみでもって、ガエリオをとらえた。

 格納庫にはボードウィン家のガンダムフレーム・キマリスのほかにもセブンスターズ各家のガンダムたちが安置され、イシュー家、ファリド家、エリオン家、ファルク家、クジャン家――そしてギャラルホルンそのものを象徴するガンダム・バエルの姿がある。

 バクラザン家の格納庫は空席ながら、五年前に回収されたガンダムフレーム、バルバトス、グシオン、フラウロスが新たに加えられているようだった。歴史から排除された三機の悪魔は今にも動き出しそうになまなましく、ガエリオを睥睨する。

 息を呑む兄を置き去りにアルミリアはバエルのもとへ歩みよると、黒いスカートの裾をはためかせた。振り返る。いつの間にかすらりと背は伸び、ロングドレスの似合う痩躯はもはや幼子とは呼べまい。カチューシャから垂れ下がる黒水玉のチュールレースが、かんばせを悲しみに沈ませている。

 細い両腕に抱かれているのは白い猫かと思えば、見覚えのある仮面だった。

 ガエリオを殺害しようとしたマクギリスがかぶっていた、あのマスクだ。血に汚れたシルクの手袋もまた、ずいぶん古いもののようにうつった。

 しかし、ガエリオの知る愛妹は、こんなふうに黒い衣装をまとったろうか。

 マクギリスと婚約してからは落ち着いた色彩を好むようになり、いきなりどうしたと笑っていたのが懐かしい。あのときもグレーのワンピースは似合わない、これまではもっと若草色だの薔薇色だのと愛くるしいものを着たがったろうとからかったのだ。

 アルミリアが九つのとき正式に婚約が決まったから、あれはもう、八年ばかり前のことになるのか。

 

「……アルミリア。帰ってきてたのなら挨拶くらい――」

 

 車いすを押すようにして近づくと、アルミリアは底知れぬ空気をまとって、長い睫毛を伏せた。

 

「お話をしましょう」

 

「 アル ミリア……?」

 

 いとけない少女の細腕が、忌まわしい仮面を抱きしめる。その光景がガエリオの胸に鋭いナイフを突き立てる。

 そしてアルミリアのか細い声は、何かに操られているかのように明朗に、ガエリオに問いかけた。

 

「ねえお兄様。お兄様は、カルタお姉さまのことを覚えてる?」

 

 背筋を冷たい汗が伝ったが、アルミリアはやはり妹のままだ。成長した面影に騙されそうになっても言葉は何も変わっていない。

 ガエリオは落ち着きはらって、妹のわがままに付き合うように快活に語りかけた。

 

「ああ、覚えているとも」

 

 ……カルタ。懐かしい幼馴染みを思い起こして、ガエリオはサンタマリアの双眸を曇らせた。

 マクギリスに片恋していた彼女は、ボードウィンとファリドの縁談がまとまっても決してアルミリアの前でだけは嫉心を見せようとしなかった。

 痛いほどわかっていたのだろう。セブンスターズ第一席であるイシュー家の誇り高き一人娘として、席次の低いファリド家と血を交わらせるなど許されない。そんな瑣末ごとが何だと振り払ってしまいそうなカルタでさえ、ギャラルホルンの慣習に背くほどおろかにはなれなかった。

 

「あいつ、意外に子供好きで……お前がまだ赤ん坊だったころよく遊んでやっていたな」

 

 ドレスを汚してしまってぐすぐす泣いているアルミリアの手を引いて、テーブルが高いせいだと執事に文句をつけたり。眠たがるアルミリアとこっそりパーティを抜け出したり。あれで子供っぽいところがあった。成人にもなって鬼ごっこだの、かくれんぼだの。

 よちよち歩きのアルミリアに合わせて遊んでやるカルタは、ひどく微笑ましく思えたものだ。

 遊び疲れて寝入ってしまったアルミリアを抱くカルタの横顔に、ああ、この苛烈で豪毅な幼馴染みもいつかは母になるのだと、まぶしさに目を細めた。あれはいつのことだったろう。

 

「 こども ずき……?」

 

「ああ。お転婆もそのうち落ち着くだろうと言われていた。イシュー家は、絶えてしまったが……」

 

 妹が誕生したとき、ガエリオは十七歳だった。今のアルミリアと同じ年だ。あまり真面目ではない学生で、愛想のいい優等生を演じるマクギリスの横顔ばかり見つめていた。

 あのころ既に仮面をかぶっていたマクギリスは、成績優秀で、スポーツも楽器も何でも万能にこなした。端麗な容姿をやっかまれる隙もないくらいに完璧なクラスの人気者だった。

 なのに、ふくふくと小さな手に指を握られたマクギリスの、鳩が豆鉄砲を食らったような横顔といったら。

 いつもは涼やかな碧眼をぱちくりとまたたかせて、世紀の美男子も赤子の前には形無しだなと笑い合った、やさしい記憶が蘇る。祝福されて生まれてきたアルミリアを見て、マクギリスは穏やかに破顔した。あのひとみが噓だったとは思えない。

 いとおしい過去の記憶の中で、アルミリアを抱いているのはカルタだ。ガエリオもマクギリスも抱っこが下手で、カルタにさんざん馬鹿にされたのだっけ。

「貸しなさい、こうするのよ!」と乱暴に奪い取るくせに、アルミリアはきゃっきゃと笑っていた。幼子をあやすカルタはいつもの激しい気性をどこかへ放り去って、絵本の中の聖母のようにうつった。

 カルタが赤ん坊を抱き、マクギリスがいつくしむように見守っていた。あんな日々が永遠に続いていればと今になって惜しまれる。なのにカルタはもういない。マクギリスも、死んでしまった。ガエリオが殺したのだ。

 マクギリスは庶子ではなくファリド家の血を持たぬ孤児だと全世界に知れ渡ったとき、バエルの威光はいとも呆気なくくすんだ。雑種ですらない下等な種族が錦の御旗を穢したのだと、手のひらを返した。分不相応な力を得ようとした愚か者だとマクギリスを蔑み、唾棄した。

 一方で、ガエリオ・ボードウィンは、その名のもとに他者を断罪することが許される。

 ギャラルホルンという組織の中では血統こそがすべてだ。三百年前に人類を絶滅から救った英雄たちの血筋のみが尊ばれる徹底した環境がガエリオ・ボードウィンを『英雄』にし、マクギリス・ファリドを『逆賊』にした。

 子供好きだったのだろうにマクギリスはみずから子を成すことはせず、世界のどこかで虐げられている顔も知らない弱者たちに戦え、立ち上がれとハーメルンの笛を吹いて、命を燃やし尽くしてしまった。

 どうしてマクギリスは、カルタを顧みてやらなかった? 見ず知らずの、うずくまっているかどうかもわからない孤児のために戦うなんて馬鹿げたことはやめて、アルミリアだけを愛してくれれば。

 ……そのように考えてしまうのはガエリオが誰の目にもうつらなかったせいだろう。アインだって、死んでしまった上官クランクのために肉体も命までも捨てる覚悟を、ああもすんなりと抱いてしまった。ガエリオは、寂しかった。寂しかったのだ。やっと懐いてくれたと思った部下は、ともに生きる未来を夢見てはくれなかったと。置いていかれた心地だった。

 カルタ。マクギリス。――アイン。

 ガエリオはいつも失うばかりで、手のひらをこぼれ落ちていった過去に思いを馳せることしかできない。

 

「お兄様には、そんなふうに見えていたのね……」

 

 アルミリアは憐れむように兄を見つめて、同じ色をした目を伏せた。長い睫毛の影には悲しみが宿る。十七歳という年の差を、改めて実感するようだった。

 だって、アルミリアはずっとカルタを対等な友人だと思っていた。

 カルタだってそのように接してくれていたはずだ。少なくともアルミリアの目にうつるカルタは憐憫でも同情でもなく、幼いアルミリアを友として扱ってくれたのだ。

 親しい友人のように呼んでくれた。まだ赤ん坊だとアルミリアを笑う者があれば、あなたはわたしの友人なんだから胸を張ってなさいと励ましてくれた。

 ガエリオの目にうつる世界は、そうではなかったのだろう。

 時間の流れは残酷に、年の離れた兄妹に記憶という名の溝を作る。

 

「……五年だ、アルミリア。まだ九つだったお前に政略結婚を強いたセブンスターズの力はもうない。血筋にこだわらず新しい恋をしていいんだ。今のお前にはその権利がある」

 

「その権利を遺してくれたマッキーは、もう、いないわ……」

 

 少女の声が頼りなくふるえる。ガエリオにとってはまだまだ子供で、大人と認められないアルミリアにとっては抑圧がただ疎ましい。

 親同士が勝手に決めた政略結婚だったかもしれない。セブンスターズの権力によって強いられた交配だったのかもしれない。婚約パーティでもそのように言われていた。イズナリオ様が妾の子をうまく使ってボードウィン家の権力を手に入れようとしたのだと下世話な噂が飛び交っていた。

 光彩脱目の美男子であったマクギリスは当時二十七歳で、彼に焦がれた女性は数知れない。極上の男をさらっていったと白眼視されることもあった。おしめのとれたばかりの子供のくせに。血筋ばかりのお人形のくせに。聞いたこともない冷たい棘がアルミリアに降り注いだ。

 アルミリア・ボードウィンが十八歳年上の夫と暮らす権利を手に入れられたのは、血統書だけでつがいを選ぶセブンスターズの悪習だったかもしれない。

 家畜の繁殖が目的だったのだとしても、それでも。

 

「すきなひとに恋をしていいのなら、愛するひとを愛せる世界ならっ……わたしはいつまでもマッキーを愛してるわ。恋をしたの! わたしはマッキーがだいすきなままなの……っ」

 

 許されるならふたりで暮らす穏やかな日々が永遠に続けばよかった。ともに年をとって、いつかは子供にも恵まれて、早々と家督を譲って老後はふたりで世界中を旅してもいい。マクギリスと一緒にいられるならどこだっていい。

 その世界は、妾の子だとマクギリスを笑ったりしない。子供を妻に娶ったマクギリスを悪く言ったりもしない。

 アルバムを抱きながらアルミリアは未来を夢見た。木登りの上手な子供を褒めてあげたかった。パンを食べるのが早い子供には、たくさんあるからそんなに急いで食べないでといさめられるような、そんなレディになりたかった。転んで泣いてしまったアルミリアを、カルタが励まして、そしてあたたかく抱きしめてくれたように。

 そんな日は二度と来ない。兄たちが笑い合うアルバムの中にアルミリアは入れない。あの陽だまりには兄と夫と友がいるのに。確かに笑っていたのに。

 マクギリスもアルミリアもひとりぼっちだ。

 

「お兄様がマッキーを……マクギリス・ファリドを理解した気にならないで……!!」

 

 わかるわけがないのだ、はじめから。持っている視点がこんなにも違う。アルミリアにマクギリスは理解できない。ガエリオにだってわからない。

 だけど彼を【理解したい】という強欲と、【理解者でありたい】という傲慢は似ているようで違っている。

 あなたは彼の理解者じゃない――。ほろりとこぼれた涙を追いかけるように、アルミリアの膝が崩れる。花がこぼれるような儚さとともに、黒いドレスの裾が場違いなほどうつくしく広がる。

 車いすで駆け寄ろうとしたガエリオを引き止めるように、轟音が鳴り渡った。

 地震のような強い衝撃に続いて、横殴りの雨が降きつける。

 とっさにアルミリアを抱き起こそうとするが届かず、ガエリオはすっかり筋力の落ちた両腕を恨んだ。小さかったアルミリアは成長してしまって、あのころのように軽々抱き上げられるサイズではない。

 

「アルミリア。逃げるぞ、ここは危険だ」

 

「いいえ、わたしは逃げません」

 

 静かな声でアルミリアはさえぎり、気丈に兄をふりあおいだ。

 

 

「バエルとともに沈むために、わたしはここへきたのです!」

 

 

 涙を浮かべた大きなひとみは強く鋭く決意を宿して、差し伸べられたガエリオの手を拒絶する。目をみはったガエリオに、アルミリアはそっと眦を下げて、花瓶に活けられた黒薔薇のようにほほえんだ。

 いとけない乙女のくちびるが、鈴の鳴るような声で紡ぐのは狂気だ。

 

「わたしがお願いしたのよ。このヴィーンゴールヴめがけて、ダインスレイヴを撃たせてほしいと」

 

「なんだって……?」

 

「エリオン公はいずれ沙汰を受けられるでしょう」

 

 禁止兵器であるダインスレイヴは、ギャラルホルン最大最強の艦隊・アリアンロッドのみが所有し、運用している。そのダインスレイヴが撃ち込まれたとあれば真っ先に糾弾されるのはアリアンロッド艦隊だろう。

 総司令官の任こそ養女ジュリエッタに委譲されたが、彼女はあくまで執行者にすぎない。作戦はすべてギャラルホルン総帥ラスタル・エリオンの権力のもと行なわれていることは周知の事実だ。

 ……まさか、とガエリオが声を詰まらせる。

 圏外圏でのヒューマンデブリ掃討作戦を指揮するジュリエッタとモニタごしに会話してから五〜六時間ほどが経過している。

 彼女は作戦を一部変更して地球外縁にまで戻り、因縁の相手【鉄華団】と交戦すると言っていなかったか。

 言葉をなくしたガエリオは、心中の焦りを自覚する。心やさしいアルミリアには戦場など見せたくないと遠ざけてきたはずだ。カルタだって、マクギリスだってそう望んだ。

 それでなくとも隠されてきたはずの禁忌を、一体なぜアルミリアが知っている?

 ガエリオの当惑を見透かすようにアルミリアは微笑する。生まれながらボードウィンの名を持つアルミリアは、知りたいと望めば知ることができる立場だ。合議制が廃止されてなおセブンスターズの権力は根強くギャラルホルンを支配している。

 蝶よ花よと育てられ、老人たちに都合のいい人形であるよう形作られたアルミリアに、マクギリスは一冊の本を遺してくれた。The Life of Agnika Kaieru——アグニカ・カイエルの生涯。幼い日のマクギリスを救ったという英雄の伝記だ。難しい本を理解したいと願ううちにアルミリアは、みずからが生きてきた楽園の下敷きになっていた犠牲の存在を知った。

 世界じゅうの孤児という孤児を踏みにじって幸福を享受しているのだと気付かされた。なのにどうしてギャラルホルンは、手の中にある富を分配しない? 立派なお屋敷があるのに恵まれない子供たちを迎え入れることがなぜできない?

 確かにそれでは、ほんの数百人しか保護できないかもしれない。付け焼き刃かもしれない。けれど、何もやらないよりはいいはずだ。

 孤児院を経営し、学校を建てるくらいの経済的余裕がボードウィン家にはある。ガンダム・キマリスの改修費でささやかな家くらい買えた。この五年間で数百機ものレギンレイズをロールアウトさせたギャラルホルンの軍事予算をほんの一割でも人道的支援に使っていれば、幾千幾万の孤児たちにあたたかい食事を振る舞ってやれたはずだ。

 この三百年、ギャラルホルンは何をしてきた? 治安維持組織でありながら圏外圏に孤児をあふれさせ、誘拐された子供たちを売りさばく商人たちを黙認し、武力でもって排除してきた。

 そんな世界でアルミリアは何不自由なく育ってきたのだ。貧困も飢餓も、戦場も知ることなく、安逸と。

 偶然にも恵まれた環境に生まれたという、ただそれだけの理由で。

 

 そんないつわりのしあわせ、もういらない。

 

 ガエリオを見つめるひとみは空虚に、ひとすじの涙をこぼした。

 手を伸ばそうとしたその瞬間、ぐらりと傾いだ柱が嘲笑うように迫りくる。倒れてくる塊を直視し、呼吸が止まる思いで車輪を急かしたが、衝撃によってガエリオは車いすごと投げ出されてしまった。

 不意に打ち付けた額から血が滴る。手のひらに付着した鮮血にめまいを覚えながら、ガエリオは辺りを見回した。

 ほうぼうで崩落が起こり、跳ね回る水が濁りはじめている。海水が混入したのかもしれない。

 

「このままでは……アルミリア、頼むから馬鹿なことは考えないでくれ。お前には未来があるんだ」

 

 這いつくばるガエリオの眼前で、黒いスカートのレースが揺れる。繊細に彩られた喪服でもって、アルミリアは聖女のようにひざまずいた。

 兄の手をとる。やわらかく握る。

 

「お話をしましょう、お兄様。時間はたくさんあるのだから」

 

 晴れやかに微笑する妹のひとみはひどく静かに凪いで、もはや未来など望んでいないのだと知れた。ああ。脱出できる道は、みずから断ったということか。

 ダインスレイヴは運動エネルギー弾だ。たとえ宇宙から撃ったとしても高硬度レアアロイの弾頭は大気圏の熱くらいでは燃え尽きない。いくらか細ったせいで風の抵抗をうけにくくなり、あとは重力に呼ばれるがまま、十機ものガンダムフレームが眠るこの場所へ向かって落ちてくるだろう。

 アルミリアは宇宙からダインスレイヴを撃たせるよう仕向け、みずからは敢えて()であるヴィーンゴールヴへ帰ってきた。

 実行部隊は火星のPMCの生き残り、鉄華団。図らずも破滅の弓を引かせられたのはアリアンロッド艦隊の総司令官――ジュリエッタだ。

 どうしようもなく胸が詰まって、涙が喉を焼くようだった。

 

「……ああ、そうだな。おれたちはやっと話し合える」

 

 肯定してみせればアルミリアはやっと仮面をとりさるように、透明な涙をはらりとこぼした。起き上がれないガエリオを抱きしめる細腕はあたたかく、家族のぬくもりを感じさせる。

 

「いろんな話をしよう。アルミリア」

 

「ええ、お兄様」

 

「話がしたいな。カルタとも。マクギリスとも――アインとも」

 

 幼馴染み、友でありたかった男。そして誇り高き従者を、これでやっと悼むことができるのだと思えば心はひどく安らかだった。

 ヒューマンデブリ掃討作戦が完遂され、阿頼耶識システムが歴史から消し去られれば十機のガンダムが生体兵器として目覚めたのだろうが、その心配も不要になりそうだ。

 視界はかすみ、重たくなった両手からガエリオはようやく力を手放した。まなうらに蘇るのは悪魔バルバトスを討ち取った凛々しき女騎士の、実にかわいげのない仏頂面だ。

 ジュリエッタ。

 未来を作る彼女には、ラスタルの剣でも楯でもなく、娘となって家族のぬくもりを知ってほしい。どうかマクギリスのように身近な幸福を切り捨てることのないように。

 五年前、マクギリスがふりかざしてみせたバエルの威光は、しかしマクギリスがセブンスターズの血統ではないという事実によって退けられてしまった。イズナリオ・ファリドはマクギリスが妾の子ではなく養子であると公表し、元孤児であったと語った。

 イズナリオ・ファリド公がブロンドの小姓をとっかえひっかえ引き連れていることは周知の事実であり、多くの将校たちがマクギリスが受けていた性的虐待を察しただろう。イズナリオのそばに控えていた金髪の少年たち、地球外縁軌道統制統合艦隊でカルタにかしずいていたブロンドの美男子たち――数々の光景が脳裏をめぐったはずだ。

 そんな世間に()()()()()すればマクギリスに下世話な目が向けられることは必至だった。

 というのに、血を分けた息子ではないと切り捨てた父親を、誰も咎めない。

 マクギリスにとっての忌まわしい過去をばらまき、血縁の有無だけで人を判断する。ボードウィン家の正当な血筋を持つ嫡男であるガエリオ・ボードウィンが『逆賊』と呼ばわれば、極端な世襲制で成り立つギャラルホルンは率先してマクギリスを排斥した。

 虐待の事実を知っていたラスタルは、せめてもの罪滅ぼしとしてジュリエッタを正式な養女として迎えたのだろう。

 血縁のない娘を正当な後継者に据えることで、ギャラルホルンの血統主義はようやく否定される。

 悪しき慣習によって作られた人形は退場するのがふさわしいだろう。血統書つきの家畜は、このヴィーンゴールヴとともに沈むべき腐敗だ。

 目を閉じる兄を抱きしめて、アルミリアはバエルを見上げる。

 英雄アグニカ・カイエルの魂が宿る伝説の MS(モビルスーツ)。ギャラルホルンの()()。人を争いに駆り立てる力を悪魔と呼ぶのなら、ガンダム・バエルこそが悪魔だった。

 洗練されたフォルムも、無限の可能性を宿していそうな神秘も、うつくしく心惹かれる。ピジョンブラッドの双眸は力強さと魔性を秘めている。この力が弱者のためにあれば、権利を勝ち取る戦いもできるかもしれない。けれど強者が独占していては対等な競争などできようもない。生まれも身分も関係なく、誰もが等しく競い合う世界のために、この場所にあってはならないものだ。

 マクギリスはギャラルホルンを一度壊して、作りなおそうとしたのだろう。アグニカ・カイエルの高潔な精神が息づくかつてのギャラルホルンを再建したかったに違いない。

 けれどアルミリアにとっては、アグニカだって仇のひとりだ。だって、幼い日のマクギリスを救ってくれたアグニカの思想は、最後はマクギリスの命を焼き尽くしてしまった。

 だからギャラルホルン再興という悲願は遂げさせてあげないと決めたのだ。

 大切なものを奪うための力なんて、いらない。

 そのためなら愛する人を生け贄にした組織の人間がどれだけ犠牲になろうと構わない。もう決めたのだ。黙したまま何も語らないバエルを見つめて、アルミリアは夫の面影に恥じないように微笑んでみせる。

 愛しています、マッキー。

 うつくしい悪魔に亡き夫を重ねながらアルミリアは誓う。真珠のような涙がこぼれ、頬を伝って海になる。

 人びとが何と言おうと、記録上の名前がどうであろうと、わたしはアルミリア・ファリド。あなたにとってファリド家の名がどのような意味を持っていようと、マクギリス・ファリドという響きが世界にどのような影響をもたらそうとも。

 

「わたしは生涯、あなたの妻です……」

 

 乙女の祈りを聞き届けるように、バエルの上体がぐらりと傾いだ。そしてアルミリアを崩落からかばうように覆い被さったMSの姿が、アルミリアの胸をあつくする。ああ。碧眼がいつくしむように微笑んだのは、まぼろしなどではなかったはずだ。

 最後の願いを遂げたアルミリアは、口付けを受け入れるようにひとみを閉じる。

 柱は崩れ、轟音とともに海水が格納庫を覆う。ダインスレイヴという禁忌によって、ギャラルホルンはねじ曲げられた歴史と伝説にようやく幕を下ろすだろう。

 

 PD(ポスト・ディザスター)三三一年。ギャラルホルン本部、人工島ヴィーンゴールヴはアリアンロッド艦隊の誤射によって、厄祭戦後三百年続いた栄華を海底に沈ませた。




【次回予告】

 ふたたびガンダムと戦うなんて、何の因果でしょうか。またわたしが首級をあげればいいだけとみな言います。その声が、噓を暴こうとしているようで……。いいえ、今度こそ。ラスタル様のため、必ず打ち勝ってみせます。

 次回、機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 雷光! 第十一話『最後の兵隊』。

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