大嫌い。だから、知ろうともしない。
ふと、アスナは目を覚ます。辺りは暗く、視界はぼやける。
しかし気が付けば、そこは現在泊まっている宿だった。
体を起こし、右に顔を動かす。そこにはユイがアスナの服を掴んで眠っている。アスナはそんなユイに微笑みかけ、その黒髪を優しく撫でる。
昨日帰った時には、ユイはもう既に眠っていた。早めに帰ったつもりだったのだが、どうやら遅かったようだ。
下に居たのはエギルだけだったが、下りて話を聞くことにした。エギルに話を聞くと、ユイは泣き疲れて眠ってしまったという。
「無理、させちゃったんだ、私。ゴメンね、ユイちゃん。母親失格ね……」
そうだ。辛いのは自分だけじゃなかった。アスナとおなじくらい、ユイも苦しくて、辛くて、悲しくて、泣きたかったはずだ。
ユイも相当我慢してたはずだ。そんな事も考えず、自分だけの悲しみだと思っていた。
そんな事、あるはずないのに。
ユイが再びこの世界に帰ってきてくれた時、キリトの死を伝えなきゃいけないのが凄く嫌だった。伝えるのが怖かったし、自分の口からキリトは死んだなどと言いたくなかった。
認めたくなかったのだ。
キリトの死を理解した時のユイの顔を、アスナは今でも忘れない。そんなわけないと、嘘だと、そんな事を言い放ちながらも、その頬には段々と涙が流れていき。
そんなユイを見たくなくて、アスナは攻略に出た事もあった。娘から逃げるなんて、母親としてあるまじき行為だったと、今は後悔している。
アスナは再び横になり、ユイの体を抱き締める。ユイが起きるまで、この体を離しはしない。
その瞳にはやはり、涙が伝っていた。
●○●○
同時刻 午前5時
「…おっ…早いじゃねぇか。おはようさん」
「……ああ」
エギルのそんな挨拶に、アキトは目を丸くした。
いつもより早めに起きてしまったアキトは、部屋でする事もなく、取り敢えず下の階に行く事にした。エギルは眠っていても、NPCが居れば問題ないと思っていた為、エギルが起きていたのは予想外だった。
それに、昨日の事もあって気不味かったのも事実だ。しかし、見つかってしまったものは仕方ない。アキトは渋々カウンターに腰掛けた。
「……コーヒー」
「…あいよ」
エギルは、特にアキトに何かを言うわけでもなく、コーヒーの準備を始める。この世界で、料理の類は簡略化される為、コーヒー一杯分ならそれほど時間はかからない。
案の定、コーヒーはもう登場した。
「ほらよ」
「…ん」
カウンターに出されたコーヒーを、アキトは無言で啜った。
この世界のコーヒーを飲むようになったのは何故だっただろうか。
現実世界と同じ物を飲む事で、現実世界にいるかのように錯覚させる為だったかもしれない。
「…どうだ、味の方は」
「…普通」
「フッ…そうかい」
エギルは微笑を浮かべ、システムウィンドウを展開し始める。不可視モードになっている為、アキトには、エギルが空中に指でお絵描きしてるようにしか見えない。
エギルは鼻歌を交えながら、ウィンドウを動かしていた。
「……昨日の事、何も言わないんだな」
「何か言って欲しいのか?」
「い、や……そういうわけじゃないけど……」
それでも、キリトの仲間なら、何か言われるかと思ってた。だからこそ、さっきエギルと出会ってしまった事に動揺を感じたのだ。
アキトは、エギルから目を逸らす。エギルは、そんなアキトをチラッと見てから、またウィンドウに視線を移した。
「お前さん、キリトの知り合いだろ」
エギルの突拍子もない一言に、アキトは思わず体を震わせた。と、同時にしまった、と感じた。
今の反応は、正解だと言っているようなものだった。
エギルは、アキトのそんな反応に満足したのか、口元を緩ませる。
「……なんで」
「キリトの事を知らなきゃ、あんな言い方しねぇと思ってな」
「言い方……?」
── 俺は…『あんな奴』とは違う…──
「…っ……そ、か」
確かに、『あんな奴』なんて言い方、キリトの人となりを知らなきゃ出て来ない。
まあ、第一印象だけでそう口に出す輩がいないわけでもないだろうが、エギルには、アキトがそうとは感じなかったのだろう。
あの時、クラインやリズ達は、キリトをバカにされたように感じたんだ。
アキトはそういう意味で言ったわけでなかったのだが。
「別に言い触らそうなんて思っちゃいない。少し気になったからな。みんなに喋るかどうかはお前さんの自由だ」
「……そうかよ。…コーヒーご馳走さん」
これ以上何か言われる前に退散を決め込む。こんな早い時間だが、攻略に行くのもきっと悪くない。
アキトは立ち上がり、その場所を後にする。エギルに背を向け、宿の外に出る為に歩き出す。
しかし、その後すぐにエギルに声をかけられた。
「アキト」
そう呼ばれて、アキトは思わず振り向いた。
エギルの顔は、真面目なものだった。
「…嫌なら答えなくてもいいんだが…」
エギルは頭をかきながら、そんな風に口を開く。
アキトには、何を言いたいのか、なんとなく気付いていたかもしれない。
「お前さんにとって…キリトはどういう存在なんだ?」
エギルは、キリトと無関係には思えない姿をしたアキトに、ずっとこれが聞きたかった。
初めて会った時から、そう感じていたかもしれない。
キリトと何らかの繋がりがあると分かった今なら聞ける、と。
アキトはエギルを見つめたまま、何も言わない。エギルもアキトを同じように見つめていた。
アキトは目を細め、そして口を開く。
その顔は少しだが、エギルには悲しげに笑っているように見えた。
「俺の目指すものだ」
─── その影は、もう二度と掴めはしないけど。
●○●○
「分かったわ。ちょっと待ってなさい」
「…ありがとう」
時間は過ぎて、現在午前8時。
リズベットの店に来ていたアスナは、自身の武器のメンテナンスをしてもらっていた。
だがリズは、そのアスナの武器の耐久値を見て震えた。
(…一昨日、メンテしたばっかなのに…もう、こんなに…!)
リズの打った名剣 <ランベントライト>。その耐久値は、かなり減少していた。一日二日でこんなにしてしまうなんて、一体どんな攻略をしているのか。
リズは背筋が寒くなる思いだった。
この様子だと、ポーションの減りもかなりのものだろう。
アスナの強さだけいうなら心配いらないと思いたいが、アスナの今の精神状態も合わせて考えるなら、そうもいかなかった。
死に急いでるように見えるアスナに、こんな攻略を続けて欲しくなかった。今のアスナの心は、他人の意思を排除した思考を持っているのではと感じてしまう。
前回の会議の作戦もそうだ。効率だけを考えた、慈悲もない作戦。人の形をしたNPCの囮。周りのプレイヤーの心情を考えないその沙汰に、リズはアスナを別人だと思った。
アスナは今後も、こんな作戦を使うのではないかと思っても仕方なかった。
だから、アキトの介入によって作戦が変更になった時、アキトの事を見るアスナの表情が感情的だったのを見て、少し希望を持ってしまった。
口は悪いし、偉そうに見えるアキトだが、どことなくキリトを思わせる彼なら、アスナを変えてくれるのではないかと。
会って間もないその少年に、ここまで言うのは言い過ぎだろうか。事情を知らないアキトに、こんな事を頼むのは荷が重すぎるだろうか。
きっとアスナは、キリトに似たあの少年を誰よりも嫌悪している。けれどその一方で、アキトの事を誰よりも意識しているのもきっとアスナだ。
リズでさえキリトと重ねて見てしまうのだ。きっとアスナもそのはずだ。
「……アキト」
無意識に、その名を口にする。
キリトと重なる、その少年の名を。
そうして《ランベントライト》のメンテナンスを終え、工房の扉から表に出る。待っていたアスナに、それを差し出した。
「はいっ、完璧よ」
「……うん。ありがとう」
そのアスナの声音は冷たい。いつもアスナは、顔を見てお礼を言ってくれるのに、今は自身の武器しか見ていない。
けど、それでも。
「……じゃあ、もう行くね」
「っ────アスナ!」
店の扉から出て行こうとするアスナを、リズは声を上げて引き止める。その声の大きさにアスナも驚いたのか、その動きを止める。
ゆっくり、アスナはリズの方へと視線を向けた。
「……何?」
「っ…あ、いや…その…」
アスナの視線は、冷徹なものだった。リズは思わず言葉に詰まる。今のアスナは、確かに他人の事を寄せ付けない。
けど、それでも。
「……あたし、嬉しかった。あの時、アスナが誰よりも先にシノンを助けようとしてくれた事」
「……」
あの時、転移門上空から落下してきたシノンを助ける為に、いち早く走り出したアスナを見て、リズは少し安心したのだ。
アスナは、やっぱりアスナなんだと。
あの頃の優しいアスナが、本当のアスナなんだって。
「……リズ」
「…それだけっ! 行ってらっしゃい!気を付けなさいねっ!」
「……」
アスナは何かを言いたげだったが、すぐに扉の方へ向き直り、店を後にした。アスナに手を振っていたリズは、やがて力が抜けたかのようにその手を下ろした。
「ねぇ……アンタならどうする?キリト……」
今は亡き、想い人の名を、リズは口にした。
●○●○
「…っ…貴方…」
「……閃光」
76層の迷宮区にて、アスナは今一番会いたくらい存在であるアキトと出会ってしまった。迷宮区は広いし、他のプレイヤーとは会えない事も多いが、そんな中で、大嫌いな彼と。
「……アンタぐらいになると、護衛でも付けるのかと思ってたけど」
「……」
アスナは何も言わず、アキトの横を通り過ぎる。
ダメだ、違うと分かっているのに、どうしても彼とキリトを重ねてしまう。
見たくない。話したくない。声を聞きたくないと。そうしてアスナはスタスタと先へと進んでいく。
「……おい、ちょっと待て」
アキトは、どんどん進んでいくアスナに声をかける。アスナは、呼ばれてしまった事でその足を止める。本当なら、無視して進むべきなのに。想い人を想起させる彼からの声掛けが、自分の心を震わせた。
「……何よ」
「パーティ組もうぜ。攻略組の加入テストって事でよ。迷宮区は危険も多いし、テストにも無難だろうし」
「っ……!」
そのアキトの提案に、アスナは顔を顰める。
今さっき、彼とは関係を持ちたくないと思ったばかりだというのに。アスナは嫌だと言いたかった。
必死に、理由を作って断ろうとする。
「……貴方のような勝手な人は、攻略の時他のプレイヤーを混乱させる要因になるの」
「むしろ攻略組はどんな状況でも臨機応変にならんとダメだろ。状況が変わって慌てるようじゃ話になんねぇし。それに、混乱させるって点に関してはアンタと変わんねぇよ。なんだよあの作戦と攻略速度」
「っ……」
「今まで通りの攻略法で充分だろ。アインクラッドも上層になるに連れて狭くなるんだし」
「今の私達には、戦力が足りないの! 今までのスピードで攻略なんて出来るはずない!モンスターだって強くなっているし、私達には時間が無いの!」
焦りや苛立ちにも似た感情が、アスナの言葉に乗る。
嫌悪の対象であるアキトだからこそ、こんな感情が湧くのだろうか。
今はもうキリトもヒースクリフもいない。攻略組も減ってきている。
モンスターのアルゴリズムも変化しており、上層に進むに連れてそんなモンスターも強くなるに決まっている。戦力の不足が否めない今の状況、いつも通りの攻略スピードでは必ずどこかで止まってしまう。
現実世界の体にだって、タイムリミットは存在する。悠長な事は言ってられないのだ。
アキトはそんなアスナを見て、溜め息を吐いた。
「だったら尚更、戦力を補う時間はあった方がいいだろうが」
アスナは、アキトを見つめる。アキトも、またアスナに向き直った。
「アンタが俺を気に入らないんだろって事は見りゃあ分かる。けど私情挟んじゃいらんねぇだろ。時間がねぇってんなら尚のことだ」
「……」
正論で、アスナは何も言えない。
いや、彼は出会ってから正論しか言ってないような気がする。
間違っていたのは、自分ではないかとさえ思えてくる。
「アンタの言う『戦力』になってやる為のテストだっつんだよ。いいからパーティ申請受けろよ」
その言葉に、アスナは多少なりともイラついた。
アスナのいう『戦力』は、決して攻略の為に必要な事を指して言ったわけではない。
それは、かつての自分の英雄の事。
自分の愛した、生きた証。
「……貴方は、キリト君の代わりにはならない」
「……当然だろ」
アスナは、アキトのパーティ申請を受諾した。
迷宮区はその名の通り、迷路のようになっており、ボス部屋を見つけるのには苦労するものだ。
途中モンスターも出るし、最近は強くなってきている為にそれは尚更だった。
「──しっ!」
リザードマンの剣による攻撃を、アキトは紙一重で躱す。しゃがみこみ、足にソードスキルを放つ。
片手用直剣単発ソードスキル<ホリゾンタル>
リザードマンの攻撃を掻い潜って放ったソードスキルは、リザードマンを一撃で絶命させた。
リザードマンの一体は、ポリゴンになり弾け飛んだ。
二体目のリザードマンと距離を取りつつ、アスナの方へと視線を向ける。
アスナは、丁度対峙しているリザードマンにトドメを刺す所だった。
「──はぁ!」
細剣単発スキル <リニアー>
アスナの代名詞とも呼べるそのソードスキルは、まさに閃光。
その正確無比の突きと速度を見て、その二つ名は伊達じゃないと思い知らされる。
アスナと対峙していたリザードマンは、ポリゴンへと姿を変えた。
アキトは、アスナのその実力は、レベル以上のものだと理解した。
すぐに自身の目の前のリザードマンに意識を切り替える。
リザードマンの剣を弾き返し、そのまま体を回転させ、腹を斬りつける。
リザードマンの腹部から、血のようなエフェクトが発生した。
リザードマンがノックバックしている瞬間に距離を縮める。
片手用直剣突進技 <ヴォーパルストライク>
その強烈な突きが、リザードマンの胸を貫く。
リザードマンは、一瞬でポリゴンとなり、破片が空中に飛び散った。
アスナは、そのアキトの戦闘を、半ば食い気味に見ていた。
中層から来たというのもあり、アキトのレベルは現在89。攻略組の平均より少し高い程度のもの。
しかし、その実力はレベル以上のものだと認めざるを得ない。
リザードマンに与えるダメージ量を考えるに、かなりSTR値に振っていると見える。
AGIもかなりのものだろう。
まるで、どこかの黒い剣士のよう────
「…っ…」
アスナは、左手で顔を抑える。
── まただ。
また私は、彼をキリト君と──。
「…ふう…こんなもんだな。おい、閃光。どうだよ」
アスナは、アキトの一言で我に返る。アキトと一瞬目が合うが、すぐに逸らした。
「…っ。…見てませんでした」
「は、おいふざけんな」
アキトを無視し、迷宮区の奥へ進む。その足取りは、先程より僅かに速い。
嘘だ。ばっちり見てた。凄いと思った。強いと思ったし、キリト君みたいだと思った。
そして、そんな自分がさらに嫌になった。
「……ふぅ」
「……」
迷宮区も大分奥まで進んだ。
マップもかなり埋まってきただろう。
これも、アキトとアスナ、それぞれの実力によるものだ。
疲れを紛らわすかのように息を吐くアキトを、アスナは後ろから見た。
アキトは、ティルファングを背中の鞘に収め、ポーションを取り出していた。
パーティを組んで、アキトについて分かった事がある。
まあそれは、この前のフィールドボス戦の時に大体察しはついていた事ではあるが。
アキトという少年は、中々アスナの指示を聞かない。
スイッチの指示も無視して敵を倒してしまうし、連携も禄にとってくれない。
それでも、アキトはその個人の能力でモンスターを圧倒してみせた。
けど、正直危なっかしくて仕方がない。
話したくはないのだが、アスナは仕方なくといった表情でアキトに話しかける。
「…もう少し、連携を考えてくれないと、今後の攻略に支障が出るんだけど」
「…は?モンスターは倒せてるんだし、問題ないだろ」
「そんな事言ってるんじゃないの! 一人で戦うのは限界があるって話よ!他の人との連携や指示を考えて動かないと…」
「今の攻略組にそんな御大層な事が出来るとは思えねぇけど」
「……」
アキトは、さも面倒そうに頭をかいた。アスナはそんなアキトを睨み、拳を強く握り締めた。
だが、やがてその手の力も抜けた。
その顔には、諦念の表情が浮かんでいた。
そうだ。理解していた。最初から分かっていた。
彼はキリト君じゃないし、キリト君の代わりにもならない。
だから、こんな事を言うのも当たり前だ。
彼に分かるはずがない。
一人では限界があるから連携を取れ?
我ながら何を言っているのかと笑ってしまう。
そんな言葉、彼がキリト君に見えたからつい言ってしまっただけ。
また失いたくないから、そう思ってしまっただけ。
けど、彼は別人だ。キリト君じゃない。
── 貴方はただの、『偽物』よ──
「…一人で戦える事が強さだと思っているなら、それはとんだ勘違いよ」
「っ…」
「貴方は…キリト君とは違うもの」
アスナはそういうと、完全にアキトから視線を離す。
もうその目には、アキトの向こう側に続く道の先にある扉しか見えなかった。
おそらく、あの扉の先が76層のフロアボスの部屋。
アスナは、アキトとのパーティを解散した。
「今日は解散します。ボスの情報は2、3日で出回ると思うので、攻略会議はその日にあると思って下さい。…実力的には、攻略組の戦力になると思います。……では」
アスナは、動かないアキトの横を通りすぎる。
ボス部屋へと、その歩を進ませる。
道は暗い為、しばらくするとアスナは見えなくなっていた。
アキトは、その場に独り残された気分になっていた。
「……」
その拳を、強く、強く握り締める。
── 一人で戦う事が強さだと思っているなら、それはとんだ勘違いよ──
── 貴方は…キリト君とは違うもの──
「…そんなの…分かってるよ…!」
アキトは、唇を噛み締めた。
その言葉は小さな声だった。
けれど、それは魂の叫びに感じた。
キリトみたいになりたいわけじゃない。
けれど、アキトはこの苛立ちを抑えられなかった。
そして、そんな自分が嫌になる。
アキト自身、分からなくなってきていた。
アキトは一体、何を欲していて、何を望んで、何になりたかったのか。
そして、今孤独な自分は、一体何がしたかったのだろう。
そして…私は何を書きたかったのか。(いやマジで)
ここから先、書きたい話があるので、それまでは何しても良いかなーと思っている適当に書いたつもりが…どうしてこうなった(汗)