自分自身を信じてみるだけでいい。
きっと、生きる道が見えてくる。
── ゲーテ(1749〜1832) ──
やるべき事があってここに来た。
やらなければならない事の為に、この場所に来た。
けどそれはきっと、自分自身でやりたいと、そう感じたから。
誰かに頼まれた訳でも無い、『目的』があって。
誰かと交わした、果たすとそう決めた『約束』があって。
かつての英雄に宣言した、『誓い』があって。
自分自身の、『願い』があった。
他人にどうこう言われる筋合いは無い。誰かの言葉なんて関係無いと、そう思っていた。
だけど、それでも時々思う事がある。
別に自分がいてもいなくても関係無いのかもしれないと。自分がいなくても時は進み、その歴史は刻まれていく。
それを眺めている自分は、いつだって輪の外でだった。
だからこそ、『お前は必要無い』と、そう言われているみたいで。
世界が自分を、拒絶しているかのようで。
急にそれが切なくなる。
違う。
俺にだって、かつて必要とされる世界があった。お前らにそんな目で見られる道理は無い。
俺にだって、必要だった、大切だった世界があった。あの時だけは、輪の中に、世界に組み込まれた歴史の一つだった。
自分がいる事で初めてその世界は変わり、世界が自身を認めてくれた。
あの場所を守りたかったのはきっと、そんな世界を手放したくないと思ったからかもしれない。自分にとって心地良い場所が欲しかったという、理由だけだったのかもしれない。
だけど本当は────
そんな自分を受け入れてくれた彼らを、きっと、大切に思っていたから。
●○●○
76層《アークソフィア》の転移門から、転移の光が溢れる。丸みを帯びたその光からは、徐々に人の形が現れる。
やがて、そこから黒いコートを来た一人のプレイヤーが目に見えて映る。
その少年、アキトは転移した事を確認すると、辺りを見渡した。
転移門を中心にして広がる広場、周りにバランス良く設置された橋の下に流れる川に、フィールドの出口の近くに立てられているクエストボード。
何を取っても、知っている場所である事は明らかだった。
「…帰って…来た、のか」
馴染みある場所を見た瞬間から、帰って来たのだと実感する。嬉しさ、というものは無いが、酷く久しぶりに感じた。
転移門の周りの道には、何人かのプレイヤーとNPCが歩いており、空を見れば、今はまだ昼時だという事をアキトに教えてくれている。
「……」
《ホロウ・エリア》の事も気掛かりではあるが、まずは武器のメンテナンスに行かなければならない。これ以上、気不味いからなどという理由で行かない日が続けば、武器が何本あっても足りはしない。
最後に見たリズベットの顔を思い浮かべ、アキトは商店通りを歩いた。
───しかし。
(…あれ…開いて…ない?)
リズベット武具店を訪れても、その店にはどうやらリズベットは不在のようで、店の扉はうんともすんとも言わない。
何処かへ外出しているのか、だとしたら、エギルの店だろうか。
こちらが謝ろうと決意した途端に、その人物がおらず、アキトの決心がぐらつく。
この程度で情けないと、アキトは静かに苦笑した。
リズベットが怒るのも、無理は無いと思った。
本心でなくても、自身の生きていた世界を否定されたのだ。友達思いのリズベットが、アスナの為に怒るのは当然だったと思う。
この世界のものが、偽物であると。何もかもが人の業で、罪ありしものだと。この世界のものは現実に反映される事は無く、人は皆夢想の世界を過ごしていると。
仮初めの、欺瞞に満ちた世界であると、そう言われたら。
そんな事は、ただの一欠片だって思った事は無いのに。
アキトは再びその歩を進める。向かう先はエギルの店。今日は《ホロウ・エリア》に飛ばされたり、巨大なモンスターと戦ったりと、アキトの精神は疲れていた。
今日はとても攻略という気分でも無かった。《ホロウ・エリア》での探索も理由の一つではあるが、何より、フィリアと共にパーティを組んで、未知なるものへと遭遇する状況が何度もあって、その度に過去の光景が蘇って来ていたから。
今この気持ちで攻略に出ても、きっと嫌になる。
アキトはその重い足取りで、商店通りを進む。
立っていたNPC達を素通りし、プレイヤーの視線を無視する。その視線からは、興味、好奇心といった感情が見て取れる。
下層から来たプレイヤーならば、『黒の剣士』について知っているのは恐らくその容姿だけ。全身黒づくめ、アキトがまさにそうだった。
話し声こそ聞こえないが、プレイヤー達はきっと勘違いをしているのだ。
あれが、『黒の剣士』だと。
(黒の剣士…か)
アキトは自嘲気味に笑い、そのプレイヤー達に背を向け、エギルの店へと赴く。
周りで噂が立つ度に、自身とキリトの差を、嫌でも感じる。
キリトに憧れを持っている自分。けど、『黒の剣士』と噂されると、途端に嫌になる。
自分なんかが、『黒の剣士』と並ぶ筈など、ありはしないのに。
もし、自分がキリトと同じくらい強かったら、これから先の攻略ももう少し捗るかもしれない。
もしあの時、自分がキリトと肩を並べる程の実力者だったら、何か変わったのかもしれない。
もし、俺がキリトだったら、アスナやユイ、それに他のみんなも。
悲しまずに今も笑っていられたかもしれない。
もし、俺がいなかったら────
「アキト君!」
「っ…!」
突如声がして、ハッと我に返る。気が付くと、自身が今立っている場所は、エギルの店の前、その扉を無意識に開いていた状態だった。
店の奥のカウンターには、シリカにリーファ、そしてシノンの三人が座っており、アキトを見て目を見開いていた。
何故そんな大きな声で呼ばれたのか、心当たりが全く無いアキトは、店の扉を閉め、カウンターに向かって歩き出す。
だが、リーファとシリカはそんな彼を待たずに、自分からアキトに迫って来た。
アキトはその勢いに後ずさるも、リーファとシリカはその距離すら詰め寄ってくる。
途端に、シリカが口を開いた。
「アキトさん!」
「な…ん、だよ…何そんな慌ててんだよ」
「だ…大丈夫なんですか!?」
「は?…何が」
「アキトさんの位置情報が、長時間ロストしたから…あたし…」
「よ、よかった〜…あたしてっきり…」
シリカもリーファも、その後の言葉は言わなかったが、アキトはそれだけで色々と察してしまっていた。
《ホロウ・エリア》にいる間、自身の位置情報が消えてしまう事、それによって、アキトがあちらに居た分の時間、こちらの位置情報がロストしていたのだろうと言う事。
そして、シリカ達の反応を見るに────
「…心配、してくれたのか」
「当たり前じゃない。知らない仲じゃないんだから」
シリカとリーファの後ろから、シノンがこちらに歩み寄ってそう言った。
その態度は高圧的で、表情には怒気を孕んでいるように見えた。
だがすぐにフッと息を吐くと、シノンはアキトに微笑を見せた。
「…まあ、無事で良かったわ」
「…悪い」
アキトは素直にシノンにそう謝った。シノンは驚いたのか、一瞬目を丸くしたが、再びその顔からは笑みが零れていた。シリカにリーファも、そんなアキトを見てシノン同様の態度を見せ、シリカの頭上にいるピナも、嬉しそうに鳴いた。
現在、この《ソードアート・オンライン》では、原因不明の揺れや、バグなどが起きている。
その中の一つが、『一度76層に赴いたら最後、76層より下の階層に降りられない』というものだ。このバグにより下層の人間は最前線での状況が分からず、上層の人間も、下層の状況が分からないといった、半ば危険な状態にある。
今回のアキトの位置情報ロストの件も、第1層《はじまりの街》にある《生命の碑》を見れば生存状況が確認出来た。だがそれもバグのせいで確認出来ない。
そう考えると、アキトは彼女達に相当心配をかけたのだ。
あれだけ嫌な態度を取っていても、キリトの事を悪く言っても、彼女達は自分を心配してくれて。
それがとても有難いと思ったし、とても辛いとも思った。
「……そういや、エギルはどうしたんだよ。今カウンターにいるのってNPCだよな?」
アキトは話題を変えるべくカウンターに目をやった。そこに立っているのはいつもの巨漢では無く、何処にでもいそうなNPCだった。
そう考えると、今は店を空けているのだろうか。ならば、何故空けているのか。
その理由は自ずと見えてきてしまう。
(…そういえば、リズベットも店にいなかった…)
アキトは店を見渡す。いつもこの店で騒いでいるクラインも見えない。勿論、アスナも。
アキトは考えるが、だがその理由も、もう分かっていた。
リーファはアキトが求めているであろう答えを、アキトの予想通りであろう言葉を口にした。
「…ボス戦に行きました。78層の」
「っ……そう、か…」
その言葉に、アキトは静かにそう返した。意外にも驚かない自分にも、特に何も感じない。
アキトは肩の力が抜けるのを感じる。そのまま疲れてへたり込みそうになった。
その状態で、アキトは自身に一番近い席に腰掛け、深い溜め息を吐いた。
その行動に、シノンは目を丸くする。
「…行かないの?」
「…俺がいなくても、ボス戦ぐらい何とかなんだろ」
攻略は、参加を希望するプレイヤー達で結成されてる様なもので、会議に来ない人間をわざわざ呼びに行ったりはしない。
途轍もない戦力を有しているプレイヤーなら勝手は違うのかもしれない。だがアキトは、戦力としては充分だと思われるが、ボス戦経験は浅い。加えて、前日までの攻略組に対しての態度もあって、必要無いと思われていても不思議ではなかった。
実際、彼らがアキトを意識していたかどうかは分からないが。
だが今は、絶対的エースの様な主力はいない上に、アスナの精神も複雑なものになっている。リズベットやクライン、エギルといったアスナを支える仲間や、攻略組の中心となるであろう人物は揃っているが、ヒースクリフとキリトを失ったのは大きいと言わざるを得ない。
チームワークにおいては、寧ろアキトがいない方が良いのかもしれない。
いつもなら、飛んで行ったかもしれない。だけど────
「心配…してないの?」
「は?別に…つい最近知り合っただけで、そんな情なんか湧かねえよ。それに、攻略組はベテランのボスキラーばかりなんだ。心配したって意味ねぇよ」
リーファの不安気な声に、思ってもいない言葉を繰り出す。リーファの隣りで、シリカもまた不安そうな顔をした。
アキトはそんな視線に苛まれ、居心地が悪くなる。彼女達が、何かをアキトに訴えている様で。
なんとなく耐えられず、座ったばかりの席から立ち上がり、店の出口へと歩き出す。
だが、その視線は彼女達の方へと向いていた。
「…何か勘違いしてる様だから言っとくぞ。特にシリカ」
「っ…」
「街で俺を『黒の剣士』だと噂してる奴らがいるが、それは俺の見てくれでそう決め付けてるだけだ。最前線に来た事も無い奴らはキリトの顔を知らねえからな」
この中で唯一キリトと面識があるであろう彼女を真っ直ぐに見つめ、そう発する。
キリトに似ているのは見た目だけだと、そう諭す。
「俺はキリトじゃない。…だから、キリトみたいに強くねぇんだよ。行っても何も変わらねえ」
「っ…」
シリカは目を見開き、言葉を詰まらせる。シリカの考えていた事は、おおよそアキトの言った通りだったのかもしれない。
震えるシリカから背を向け、その店を出る。だが、すぐにシノンがアキトの元へ駆け寄り、呼び止められた。
シノンはアキトにしか聞こえない声で呟く。
「待ってよ。…本心なの、それ」
「……」
「今攻略組が危うい状況だって、アンタ言ってたじゃない…知ってて…助けに行かないの…?」
「…言っただろ。俺がいても、何も変わんないって。アイツらも、そう思ってボス戦してんだろうし」
「そんなのっ…アンタが死んだと思ったから…、」
シノンのその言葉は正論だった。アキトとフレンド登録しているのは現在シリカとリズベット、クライン、そして彼女は知らないがフィリアのみ。
そんな状況で、アキトの位置情報が丸々一日ロストしていたのだ。そんな状況なら、死んだと思って当然だった。
「…けど、あんまり変わらなかっただろ?攻略組の空気は」
「……」
キリトが居なくなった時は、あんなに重苦しい空気だったのに。
恐らく自分はそうじゃない。経歴も不明、態度も高圧的。そういう風に振舞っていたけど、それでも。
「キリトと俺じゃ…偉い違いだな。それが俺とキリトの戦力の差だ。俺は必要無いって…そう思われたんだよ」
「…そんなの、アンタの思い込みじゃない」
「…ていうか…今までも、必要な場面なんて無かったのかもな」
「え…?」
アキトはそのまま、シノンを背に歩き出した。シノンからの呼び止めは無い。
どうしたのだろう、俺は。ここへ来てから、どんどんと壊れていくようで。
普段ならきっと、迷宮区のボス部屋まで駆け出すくらいはしたかもしれないのに。何故か、そんな気分では無かった。
意志が、揺らいだ。
《ホロウ・エリア》で思い出した。かつて自分が必要とされた居場所があった事を。
だが今、アキトは攻略組に必要とされていないと、そう感じて。
今の自分に、居場所なんて無くて。
そんな自分が居なくても、きっと結果は変わらない。
これまでも、もしかしたら自分が何もしなくてもアスナは死んでなかったかもしれない。自分が居なくても、彼らは立ち直ったかもしれない。
そう思うと。何故か動けなくて。
他人に何を言われても、関係無いと思っていたのに。
そんな小さな事で、アキトは自身の決意を揺らしてしまう。
『黒の剣士』
街での噂が、本当になるくらい強かったら。体も心も、キリトの様になれなら。
みんな、幸せなんじゃないだろうか。
アスナとユイと、家族揃って笑い会って。クラインやエギル達と馬鹿やって。リーファやシノンといった、キリトにとっては新しい仲間と触れ合って。
アキトの代わりが、キリトだったなら。
(俺にだって…もう生きる理由なんて…)
《ホロウ・エリア》に行った事で思い出してしまった過去の記憶と、自身不在でボス戦へ行ってしまった攻略組という状況が、アキトの心を揺らいでしまった。
自身が求めていた居場所が、もうこの世の何処にもありはしないと、もう二度と、それは手に入らないものなのだと、突き付けられた気がして。
「あ…!」
「ん?…っ…、」
突如目の前でそんな声が。下に向けていた顔を、ゆっくりと上げる。
目の前にいたのは、長い黒髪と、白いワンピースを身に付けた小さな少女がいた。
「ユイ…ちゃん…?」
「あ…アキ…ト、さん…?」
二人は互いに目を見開いた。二人の横に設置された噴水が、陽の光に照らされてキラキラと輝く。
だが、そんな綺麗な景色など見えないといった様に、ユイは震える体でアキトに近付き、その瞳を見つめる。
そんなユイを見て、アキトの顔が強ばった。
彼女にまで心配をかけたのかと思うと、焦りがこみ上げて来た。
「い…今までどこに…!」
「ご、ゴメン、その…知らないエリアに飛ばされ…」
アキトが説明しなければと口を開くが、ユイはそのままアキトに近付き、彼の服を両手でギュッと握った。
その瞳からは、涙が薄らと滲んでいて。
言い訳しようと開いた口は、そのまま固まった。
「心配っ!…したんですからね…」
「っ…ゴメン」
ユイの涙するその顔を見て、アキトは何ともいえない気分になった。また自分は、目の前の少女を泣かせてしまったのだという事実が、胸を抉る様で。
彼女にとって、人が死ぬというのはとても応えるものの筈だ。自身の父親が死んで、母親も、その後を追おうとしている。そんな立場の娘を、そんな少女を。
「…ホントにゴメン」
「…もう良いです。帰って来てくれましたから…」
ユイはアキトを見上げて、無理して笑って。そんな痛々しい彼女の頭を、アキトはそっと撫でた。
それからアキトは、噴水の前のベンチで二人で腰掛け、アキトの位置情報がロストした理由をユイに説明した。
《ホロウ・エリア》という謎の場所に飛ばされた事、ボスモンスターが沢山蔓延っていた事、そのモンスター達のレベルが軒並み高い事、自分の他にもプレイヤーがいて、フィリアという少女と出会った事。
勿論、オレンジカーソルという事情は隠して。
ユイは一通り聞くと、驚いたかの様に目を丸くしていた。
「…そんな事が…」
「うん。…それで、少し聞きたいんだけど、そんなエリアが丸々未発見なんて事、良くあるの?」
「確かにアインクラッドには様々な事情で一般のプレイヤーには公開されていないエリアがあります。でもそれはゲーム開始時に封鎖され、誰もアクセス出来ない様になっています」
つまり、プレイヤーが非公開エリアに入る手段は無いという事。だがそうなると、他にもプレイヤーがいる理由も、アキトがそのエリアに飛ばされた理由も分からない。
「ですが、今はカーディナルシステムが不安定になっています。それを考えると……絶対に無いとは言い切れません。現在の稼働状況が分かれば良いのですが…」
「いや…ありがとう、助かったよ」
「…なら、良かったです!」
アキトがそう笑いかけると、ユイも途端に笑顔になった。アキトはそんなユイを見て心が暖かくなるのを感じる。
彼女と話していると、思わず素の自分を出してしまう。優しくしなければというのもあるが、どこか、彼女には嘘が付けない。誠実でありたいと、そう思った。
キリトとアスナの娘だと、なんとなく実感した。
「…それで、ユイちゃんはここで何してたの?」
「私、良くここで散歩しているんです。あちらには美味しいクレープ屋さんがあるんですよ!」
「そっか…」
ユイはそう言うと、景色の方へと視線を移す。その瞳、その表情は、笑っているけど、どこか悲しそうで。
理由は分かっている。先程自分が逃げ出した案件であろう事は。
「…アスナ、待ってるのか」
「っ……はい。ママが…攻略組の皆さんが強いのは分かってます。ですが、何があるのか分かりませんから」
アキトが突いた図星によって、ユイの表情は少しずつ暗く、けど無理して笑おうと、その口元は歪んでいた。
「ママの事、信じてます。…信じたいです。でも、私には待ってる事しか出来なくて…。皆さんの力になりたいのに…とても、歯痒いです」
それは、いつしか聞いた言葉。アキトは、目を見開く。
確か、あれはユイとはじめて話したあの日。
ユイと、『約束』を交わした時の。
『わた…し、じゃ…ママの…生きる理由に…なれ、な、なれ…ない…から…だからっ……!』
瞬間、アキトは自分が勘違いしている事に気付いた。
自分の居場所なんて、キリトとの差なんて、考える前にやらねばならない事があったのに。いつの間にか、また同じ事を考えていた。
そうだ。あの時、確かに『約束』したんだ。ユイを泣かせないって。
変わるって。変えてやるって。
他人の事を思えるユイの、そんな願いを聞き届けようって。
会ったばかりの見知らぬプレイヤーに、彼女は縋って来ていた事を思い出した。
あの時彼女は、アスナの目に自分が映っていない事にショックを受けていた筈なのに、それでもアスナの身を案じていたのだ。
(俺…いつの間にか、自分の事ばっかで…)
ユイは、自分と同じだった。アスナに必要無いと、そう思われたユイと、居場所の無いアキト。アスナは無自覚だったかもしれないが、ユイのショックは大きかっただろう。
けど、同じなのはそれだけで。アキトとユイは、全然違っていた。
ユイはこうして、今も変わらずアスナの事を思っている。
けどユイ自身は何も出来なくて。ただ、待ってる事しかできなくて。
それでも、ユイはアスナを待ち続けている。いつ死ぬか分からない彼女を、きっと帰って来てくれると。
アキトはポツリと、呟いた。
「…待つのも、無駄じゃないって気はするな…」
「…え?」
アキトはそう言って、ユイと同じ景色を眺める。ユイはそんなアキトの横顔を、キョトンとした目で見上げた。
アキトの表情は、少し悲しげで、けどそれでも笑っていた。
「誰にだって必要だろ、帰る場所…いや、帰りたいと思える場所が。俺達は、元々その為にゲームを攻略してた訳だし」
「……」
「待ってる人がいるって、凄い有難い事だと思う。だって、誰かが待ってくれているなら、きっとそこが帰る場所だ。自分のいるべき場所があるって…恵まれてる事だし…這ってでも帰って来るもんだろ…そういう場所に」
「アキトさん…」
俺にもあった。帰りたい場所が。戻りたいと願う世界が。
それはきっと、誰でも同じ。みんな、自分の居場所を求めて、帰るべき場所へ帰る為に生きている。
「帰る場所に誰もいないのは、とても寂しい。だから、家族って…暖かみのある存在だったんだなって…ここに来て思った」
『家族』。その言葉の有り難みを、アキトは忘れていたのかもしれない。
現実での光景が、頭の中で蘇る。曖昧にだが覚えてる母親。生き方を学んだ父親。そして、現在の家族。新しく出来た妹。
ずっと避けていた、この世界に来る前、かつて好きだった、彼女の笑った顔が。
2年間、ずっと待たせてる。帰る場所を、作ってくれている。
ユイも、きっとアスナの────
「…さーてと!」
「っ!…どこに行くんですか?」
「決まってるだろ?ユイちゃんの家族の頭を叩きに行くんだよ」
急に立ち上がるアキトに、ユイは慌てて声を掛ける。だが、アキトは笑ってユイにそう言った。
ユイは目を見開き、そのまま固まった。
「ゴメンな、ユイちゃん。もう少しで、嘘吐きになるところだったよ」
「っ…あ…あの…」
「…約束、したもんな」
「っ……っ…、!」
言葉にならない声で、ユイはアキトに訴える。聞き取れはしない。けど、言いたい事はなんとなく分かる。
アキトは涙を溜めるユイの頭を、軽く撫でた。
「心配しなくていい。ユイちゃんの大切なものを、何一つ失わせはしない。必ず、アスナ達をここへ帰してみせるから」
アキトは不敵に笑ってみせた。
この76層に来た時に、死んだキリトにした『誓い』。
『キリトの忘れ形見を、アスナ達を、必ず現実に帰す事』
もう二度と、約束を違えたりしない。投げ出さないと、そう決めた筈だった。
再びここに宣言する。必ず、この誓いを果たしてみせると。
「…だから…アイツの、帰る場所であってくれ」
「…っ…はいっ…!」
涙するユイを背に、アキトは駆け出す。AGI振りの彼のステータスにより、走り去った道からは時間差で突風が来る。
アキトの瞳は、その一本道を見据えている。この道を抜ければ、転移門。そこから迷宮区へと一気に駆ける。途中のモンスターは全て無視し、ボス部屋を目指す。
もう、迷いは無かった。
ユイはその彼の背を、目と頬を赤くして見送った。
その顔は笑顔で。嬉しそうで。
信じてる。きっと、みんなで帰って来てくれるって。
「…あら、さっきぶり」
「シノン…」
転移門へと着くと、その柱にはシノンがもたれかかっていた。
アキトは、シノンを一瞥し、すぐに転移門へと足を踏み入れる。
シノンはそんなアキトの背を見て、口を開いた。
「…ちゃんと帰って来なさいよ」
その言葉に、アキトの動きが止まる。振り返り、シノンを見つめる。
互いに目が合い、そんな時間が続く。
それはほんの数秒。けど、彼女の言いたい事は分かっていた。
「……当然だろ。やらなきゃいけない事がある。もう投げやりになんかならない」
「…そっか」
「……ありがとう」
アキトは真っ直ぐに、シノンにそう言った。自分の事を心配してくれた彼女に、誠意を持って。
シノンはほんの少し驚いた様で、目を逸らすが、すぐにフッと笑って目線を戻した。
「…ん。…行ってらっしゃい」
「…行ってきます」
アキトは今度こそ、転移門に足を踏み入れる。その体は眩い光に包まれ、やがてその姿は光とともに消え去った。
シノンはその光が完全に消えるまで、その場から動かなかった。
────その迷宮区を、黒い剣士がひた走る。
何かを求めて、何かを成す為に。
ずっと居場所が欲しかった。守りたいと思える場所があった。
もう既にそれはこの手から零れ落ちて、気が付いたら失ったものの方が大きかった。
生きてる意味は無いと思っていた。未練なんて無いと思っていた。
─── いまさら何を守るのか?
─── 守りたいものはある?
「『…それでも俺は───』」
護れるものは、まだその手に残されているだろうか?
── Link 35% ──
過去の事思い出しただけで決意揺れるとか…
アキト小さっ!っと思った方々、申し訳無いです。
彼心弱いんです。察してあげて…(白目)
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