荀シン(何故か変換できない)が恋姫的世界で奮闘するようです 作:なんやかんや
特使として荀彧が来る。
その報告を受け取った友若の同様は清々しいほど見事なものだった。
友若が意識を失ったことは泡を食った文官が必死に応援を呼んだことで周囲の知るところとなった。
友若を嫌う勢力は仕事に支障をきたす病弱さを非難した。
何かにつけて友若を非難する彼らの行動はいつものことであったが、今回の内容は一理あった。
この時点で、冀州において重要な裁可を行う権限を持っているのは袁紹と友若のみである。
袁紹が常日頃から思い出したようにしか政務に携わらない事もあって、友若の不在は冗談抜きで冀州行政を麻痺させるのだ。
官僚たちは田豊の喪失の大きさを改めて思い知らされることになった。
少なくとも政務をサボりがちなツートップの代わりに実務を取り仕切る人間が早急に必要だ、というのが彼らの一致した見解であった。
意識を失って倒れた友若は4半刻もすると目を覚ました。
上半身を布団から起こしぼんやりと周囲を見渡した友若は、枕元に置かれた大量の裁可待ちの書簡を見るとため息を付いて再び横になろうとした。
「とっとと起きなさい」
現実からの逃避を図る友若に対して、見舞いに来た張バクが冷たく言い放つ。
「あんたの親愛なる妹が来るそうよ」
友若は張バクの顔を見た。
友若の顔は恐怖に染まっていた。
「じょ、冗談、ですよね……?」
「冗談じゃないわ。本当のことよ」
かつて、友若は冀州で妹、荀彧を散々に非難した。
妹が袁紹の下に来ようとしている。
かつてその話を聞いた友若は必死にそれをさせまいと、荀彧を貶める噂を流したのだ。
その噂の一部は一理あると言えるものであったが、大半は根も葉もない虚構であった。
友若は嘘を吹聴したのだ。
そして、その嘘をあたかも本当の事のように周囲に話す内に、友若はいつの間にか、その虚構を本当に信じるまでになった。
荀彧を近づけたくないあまり、妹を貶める発言をさんざん繰り返した友若、オオカミ少年はいつしか本当にオオカミの実在を信じるようになったのだ。
そのため、友若は妹、荀彧を理不尽な動機で行動する得体のしれないバケモノだとまで思っている。
そんなバケモノの事など考えたくもない、と友若は徹底的に妹の存在を無視してきた。
だから、友若は十年も前の荀彧しか知らず、その間に彼女は人間的に成長した事など想像もしていなかった。
実際を知ろうともせず、過去に自らの創りだした虚構の妹、バケモノに怯える友若。
その姿は自らの影に怯える子供にも似て滑稽ですらあった。
「そ、そう言えば、えーっと、寒気がするし、腹も痛いし、全身の血管から血液を吹き出して死にそうだから、俺は対応できそうにないな。孟卓、任せた」
審配と酒を飲み交わした際に覚悟を決めたと思い込もうとしたはずの友若。
だが、彼は荀彧という恐怖を前にどうにかして逃げ出せないか、と真っ先に考えた。
瞬発的な判断に本性が現れるとするならば、友若は危機にあって真っ先に逃亡を選択する人間であった。
立ち向かわなければいけないと理屈では理解していても。
「バカだバカだと思っていたけど、本当に馬鹿ね、友若。あんたが対応しなくてどうするのよ?」
「い、いや、他の人間でも……」
「友若……」
張バクは深く溜息を付いた。
目眩を堪えるように目頭を抑えると、張バクは友若の顔を真正面から見据えた。
「今、冀州で曹操と戦いを避ける事をまともに主張しているのはあんただけよ、友若。他の人間に任せれば、曹操との対立を煽ることは間違いないわ。まあ、私も曹操と戦うという選択肢もありだと思う。でも、あんたが絶対に戦うべきでないと考えているなら、曹操の使者に応対するのはあんたでなければならない」
「で、でも……一応親族相手に俺が譲歩したととられれば問題にならないか?」
張バクの言葉に友若は言い返した。
ここ最近の苦労によって友若はようやく政治というものを学び始めている。
学んだことの一つが、余計な面倒を避けるためにも批判される行動は慎むべきだ、という事だった。
血統上は妹である荀彧と交渉の席に付けば豪族達や士族達など友若を憎んでいる勢力から批判される事は間違いない、と友若は確信する。
「問題にするでしょうね。でも、そこまで大きくはならないわ。あんたが妹を嫌っていると言う事はここでは有名な話だもの。余程の事をしなければ、ただの言いがかりに終わるでしょう。日頃の言動の賜物ね。あんたが嫌っている妹に便宜をはかるわけない、とでも言っておけば深くは追求できないでしょう。それよりも、あんたの批判者が荀彧と交渉の席に着けば、否応なしに曹操との戦闘になるわ。少なくとも、連中はそうなるように動くでしょうね。戦闘になれば功績を上げる機会もあるわけだし」
「う、ううう……わ、分かったよ。やるよ。やればいいんだろう」
友若は悲壮な声で言った。
棍棒を片手に竜に挑む、そんな覚悟で友若は妹に会うことを決めた。
「情けないわね」
張バクが辛辣に言い放った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
袁紹のお膝元に到着した荀彧達の一行は政庁の一室に案内された。
「懐かしいです。昔、ここにいた頃は稟ちゃんと一緒に仕事をしたものです。まあ、内容は簡単なものばかりで時間を持て余し気味だった風達はよく2人で色々と話し合ったものなのですよ」
程昱が案内された部屋を見回しながら言った。
そして、壁際に歩き依ると程昱は引窓を開けた。
涼やかな風が室内に吹き込んでくる。
窓の外には人と物と金が集中する冀州の町並みが見えた。
「忙しないわね」
旅路、殆ど喋らなかった荀彧が程昱に話しかけてきた。
程昱は若干驚いたような声を出すと、荀彧に調子を尋ねる。
「おおっ! 桂花ちゃんはもう大丈夫なのですか?」
「ええ……大丈夫よ」
「それは何よりです。……しかし、桂花ちゃんの言う通り冀州は相変わらずですねー。こんなに忙しないと、おちおち昼寝もできないじゃあないですか……ぐう」
荀彧の様子に内心で安堵した程昱は窓から吹き込んでくる心地の良い風を受けながら夢の世界へと意識を飛ばした。
「風、起きていなさい」
「おおっ! これは失礼しました。秋風の心地よさについうとうとと」
「……あんた、さっきの自分の言葉、もう一回言ってみてくれないかしら? おちおち昼寝もできないとか言っていたと思ったのだけれど」
荀彧は半眼で程昱に言う。
程昱がちらりと周囲を見渡すと、他の人間の殆ども程昱を大なり小なり呆れた様子で見ていた。
「何というか、稟ちゃんと仕事をしたこの建物は懐かしいのですけれど、風にはこの冀州の町並みはどうにも懐かしく感じられないのですよー」
「逃げたわね。まあ、いいけど。それで、冀州の町並みが懐かしくないっていうのは建物がどんどん建て替わっているからかしら?」
「ええ。風にはちょっとこの街の変化が速すぎるのですよ」
荀彧の質問を程昱は肯定する。
冀州の町並み。
それがどうしても好きになれない、と程昱は思う。
袁紹の治める冀州は今現在、異常な速度で建築物を壊して、作っている。
莫大な金が動く冀州。
そして、人々はより多くの金を求めている。
商売を拡大するために、店を構えるために、工場を作るために、そうした様々な金儲けと関係のある理由により、この土地では古い建物が次々と打ち壊され、新たな建築物が作られている。
それは手放しで喜んで良いものではない、と程昱は思う。
何世代にわたって歴史を積み重ねて来た古い建築物。
それが何の価値もないと、叩き壊される光景は程昱を少しばかり憂鬱な気分にさせる。
もちろん、この漢帝国に変化が必要なことは程昱は痛いほど知っている。
減少の一途をたどっていた漢帝国の税収と一方で肥大する官僚機構。
宦官等、一部勢力への権力の集中と、それに伴う血で血を洗う終わり無き権力闘争。
こうした問題を思えば、漢帝国は変わらなければならない。
変われないのであれば、最早存続することは許されない。
それでも、程昱は変わるべきではないものもあるはずだと思う。
変化が必要だからといって何もかもを打ち壊し変えてしまえば、そこに残るのは別の何かだ。
漢帝国が変わるにしても、別の王朝が建つにしても、それは過去の歴史と文化を引き継いでいるべきではないのか。
程昱が見る限り、冀州の変化の果てにあるのは儒教を始めとした既存の価値観の崩壊と金が主体となる新しい世界だ。
それは程昱が脳裏で描いてきたこの国のあるべき姿からはかけ離れている。
もちろん、冀州の発展により多くの人が救われたことは確かであるし、今後もその恩恵に預かる人間は増えていくだろう。
しかしながら、既存の価値観の全てを打ち捨てて進み行く冀州の在り方を満面の笑みで歓迎できない程昱であった。
「失礼します」
程昱が物思いに耽っていると、荀彧達の部屋に侍女が入ってきた。
その手は盆を支えており、盆の上には茶碗が並べられた。
「お茶を用意いたしました」
侍女は部屋に備え付けられた机の上に茶碗を並べて、最後に持っていた盆を机の上に置くと、頭を下げて部屋から退出していった。
侍女の足音が遠のいていくと、荀彧は目で楽進に合図を送った。
楽進は机に置かれた盆をひっくり返すと、その裏にあった紙を手にとった。
毒針などが仕込まれていない事を確認した楽進はその紙を荀彧に渡す。
「……袁紹、それと兄は私達との交渉に応じるみたいよ。直接の交渉に出てくるのは……荀シン、ね」
荀彧は紙に書かれた袁紹勢内部に関する情報を見ながらそう言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
友若は荀彧と相対することを決めたが、覚悟を決めて直ぐにそれが実現する訳ではなかった。
重要問題の決定権を持つ友若がいなくては幾つかの行政上の手続きが進まない。そのため、袁紹配下の官僚たちが最低限の裁可を済ませることを強く友若に求めたからである。
覚悟を決めたにもかかわらず肩透かしを食らったことに友若は若干の不満を覚え、同時にバケモノと恐れる妹との対面が遅くなったことに安堵した。
渡された書簡を読解して、その妥当性を吟味し、様々な要因との関係から判断を下すのは億劫であったが。
田豊のありがたみを今更ながら強く感じる友若であった。
何時も以上に時間をかけて渡された書簡の裁可を終えた友若は取り敢えず服を着替える事にした。
友若の普段着は比較的質素なものである。
ゴテゴテした装飾を好まない友若は、普段動きやすさを優先した服を着ている。
敵対者は立場に相応しくないと友若の格好を批判してきた。
だが、友若はそれを気にしてこなかったし、そもそも、そこまで問題にされることはなかった。
前世の感覚からすれば友若にとって普段着ですら派手な部類に入るのだ。
いわんや正装をや。
という訳で、友若は前世の感覚に基づいた普通の服――白と紺色を基調とするそれ――を普段は着ていた。
しかし、他勢力の人間に会う際に普段の格好を貫き通せば、相手に軽んじられたという認識を与えてしまう恐れがある。
今の所、喧嘩を売るつもりも買うつもりもない曹操配下、妹でありバケモノである荀彧。
どういう行動原理で動いているのかも分からない相手の気を損ねるかもしれない無用のリスクは避けるべきだと友若は判断した
そんな訳で、普段の倍以上の時間をかけて正装を身に纏った友若は重い足取りで荀彧との対談に向かった。
涼しく過ごしやすい気候である。
にもかかわらず、友若は背中にじっとりとした汗が流れることを感じた。
「あー、くそっ!」
苛立ちの声を友若は上げた。
本音を言えば今直ぐにでも逃げ出したい友若。
それができないのは友若以外が曹操の使者、荀彧と対談すれば曹操と戦いが起こってしまう可能性が高いからである。
自殺したいなら周囲を巻き込むなよ、と友若は思う。
兵力差が僅か3、4倍程度しか確保できない上に、相手のみが銃火器を所持しているという状況で曹操軍と事を構えるなど死に急いでるとしか友若には思えない。
あるいは、彼らは曹操とつながっており、袁紹に無謀な出兵をさせようと企んでいるのではないか、とすら友若は思う。
ただの被害妄想であったが、友若はそれが正しいと考えた。
袁紹の配下としていい目を見てきたはずなのに裏切るような真似をして、と憤る友若。
傍目から見れば、曹操に利する行動をしているのはむしろ友若だと捉えられかねないことを友若は想像すらしていなかった。
「どいつもこいつも。麗羽様を裏切って曹操の味方をするなんて」
友若がそう呟いた直後、けたたましい音が響いた。
驚いた友若が音の聞こえた方向を見ると、侍女が蒼白な顔をして立っていた。
その足元には粉々に砕け散った陶器が散らばっている。
「何事ですか!?」
大きな音を聞きつけた兵士が友若の方へ駆け寄ってくる。
侍女が落として割った陶器、お茶用の湯のみと思わしきそれを確認した友若は兵士に向き直った。
「彼女が陶器を割ってしまった音だ。済まないけど、後片付けをお願いできるから。必要だったら他に人を呼んでもいい」
侍女の事を指さしながら友若は兵士に言った。
兵士は床に散らばった陶器の欠片を見て、安堵の表情を浮かべた。
友若は荀彧、バケモノとの話し合いのために嫌々ながら歩き出そうとして、真っ青な顔で未だに震えている侍女の姿を発見した。
賠償金の事を心配しているのだろうか、と思った友若。
この政庁で用いられる調度品の数々はそこそこ高価なものが多い。
侍女の給金がどのくらいか友若は全く知らないが、賠償金を支払うことが難しい可能性は十分にある。
侍女が賠償金の心配をしていると考えた友若は、さてどうするか、と思案した。
数瞬の思考の後、侍女を助けることにする。
情けは人の為ならず。
その言葉が誠であると考えれば、この侍女を助けておくことは巡り巡って友若の利益になるはずである。
具体的には妹、バケモノとの対談で何かの助けが入らないだろうか、と友若は期待する。
困ったときの神頼み、と同じ心理である。
友若は侍女を安堵させようと、ゆっくりとした口調で彼女に話しかけた。
「気にしなくても良い。この程度何の問題もないからね」
「!!?」
友若の言葉に侍女は恐怖の表情を浮かべて後ずさった。
侍女を安心させるための行動だったはずなのに、何故彼女を怖がらせる事になったのか。
予想外の反応に友若は唖然とした。
いや、と友若は考えなおした。
よくよく考えて見れば友若は袁紹配下でトップの権限を持つ立場にある。
極端なことを言えば、友若は文字通りこの侍女の生殺与奪権を握っているのだ。
この者を切れ、と友若が命じれば、兵士はその命令に従うだろう。
もちろん、友若はそんな誰も徳をしない蛮行に及ぶ趣味などないが。
だから、友若は侍女に話しかけるにあたって自分が怖れられているなどと想像もしなかった。
だが、それは友若にとっての当たり前であっても、侍女にとってはそうではない。
自らの首を物理的に飛ばせる上司の前で失敗に言及されれば、その口調がどうであれ、部下は怯えるだろう。
そうした事を考えた友若はどうしようか、と頭を悩ませた。
そして、若干の思案と葛藤の後、友若は周囲に応援を呼びかけている兵士に声をかけた。
「済まないが、少し頼まれてくれないか?」
「何でしょうか」
声をかけられた兵士が若干気構えるような表情で友若に応えた。
「どうやら、彼女が湯のみを落としてしまったのはどうやら俺が驚かせてしまったかららしくてね」
「なるほど」
「……」
自らに非があるという友若の説明に兵士は心から納得がいったように頷いた。
どうして、そんなに納得した表情を浮かべるんだ。
ここは自分が侍女を庇ったことに気が付きながらも敢えてそれを気が付かない振りをするべきだろうが、と友若は心のなかで兵士に罵声を飛ばした。
几帳面で真面目な夏侯さんが食器を落とすなんて失敗をするなんてそんな訳ないですよね、と呑気に宣う兵士に友若は怒りを向ける。
それはどういう意味だ、俺なら食器を割ってもおかしくないとでも言うのか。
口に出さずに友若は大いに憤った。
取り敢えず、侍女に積極的に話しかける兵士の顔を記憶に刻む友若。
何時か覚えていろよ、と友若は心の奥底で暗い笑みを浮かべた。
天上人とも言うべき上司、友若の怒りを買ったことにも気が付かず、兵士は侍女の割った陶器の欠片を拾い集めている。
侍女はといえば未だに青い顔をしながら固まっていた。
一応、侍女を助けるために行動したつもりの友若は、取り敢えず彼女を安堵させるべく口を開いた。
権力者である友若を恐れている様子の侍女だが、何も言わないまま去るよりはひと声かけた方が良いだろうという判断である。
「あー、さっきはどうでもいいことで声を上げたりして悪かったな。それについては全然気にしていないから心配する必要はないよ」
友若は転がった破片を手を降って指し示しながら侍女に言った。
対する彼女の顔面はいよいよ血の気を失い、蒼白になった。
自らの言葉がむしろ逆効果を生んだことに慌てたと思った友若はそれ以上何も言わずに踵を返すと、曹操の使者達と会うべく歩き出した。
珍しく人助けをしようとしたにもかかわらず上手く行かなかったことに落ち込みながら。
「大丈夫ですよ、夏侯さん。この食器の賠償金はさっきの荀大老師殿に請求しますから。それよりも、良かったら今度一緒に食事でもどうですか?」
背後から頭が空っぽとしか思えない兵士の声が聞える。
なんで俺が身銭を切らなければいけないんだ、と吝嗇家は内心で叫んだ。
「あ、あの、すいません。お誘いは嬉しいのですけれど、私には将来を誓った相手がおりまして」
「ちょっ!? き、聞いてないですよぉぉ! そんなぁ!」
後ろから聞こえてくる兵士の嘆きの叫びに友若はざまあみろと溜飲を下げた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
来賓を迎えるための一室に案内された荀彧一行はしばらくの間、部屋に待たされた。
4半刻程過ぎた後、ようやく部屋の戸が開けられ、数名の人間が入ってきた。
友若を筆頭に張バク、郭嘉、韓馥、最後に顔良が続く。
袁紹側には4席。
顔良を除く4名が着席した。
顔良は4名の背後に無言で控える。荀彧や程昱の背後に無言で佇む楽進と同様に。
友若は眼の焦点を遠くに彷徨わせると、張バクを見た。
視線を向けられた張バクは頭痛を堪えるように頭を押さえるとため息を付いて話しだす。
「曹西園八校尉殿より袁冀州州牧への戦勝の祝辞は確かに受け取りました。麗羽様も昔懐かしい学友からの祝福を喜んでおいでです」
実際の袁紹の様子など、伝えるべきでない余計な情報を切り捨てながら張バクは淡々と言う。
「先の戦いで残念なことに曹西園八校尉殿は麗羽様と矛を交えることになったが、本心ではこの国の平和を目指しているということ、麗羽様もよくよく納得しておられます」
そこまで言い切った張バクは続きを述べるかどうかを考え、口を閉ざした。
荀彧が返答する。
「華琳様――曹孟徳様の代わりに感謝致します。袁冀州州牧殿が華琳様のお考えを正しく理解されたことは、民草の無用な犠牲を避ける事に繋がります」
「天は民草を無用に傷つけることを望んでいないでしょう。麗羽様は人としての道に従っただけです」
「なるほど。袁冀州州牧殿は『礼』を心得ていらっしゃるのですね」
張バクに対する荀彧の返答に韓馥が眉を顰めた。
荀彧は袁紹を賛美するに当って、最も高い徳とされる『仁』ではなく、社会制度の徳目である『礼』をその根拠とした。
張バクの発言を鑑みれば、荀彧の言葉の背後には袁紹に対する非難の色があった。
袁紹の行動は『仁』に値しないというそれが。
結局韓馥はまだ何も言わなかったが、不満を持っていることは確実だ。
いや、袁紹を始めとして曹操との話し合いに不満を持っている人間は多い。
一方的に袁紹に逆賊の汚名を着せた皇帝。
その皇帝の直属軍を指揮する曹操に対する怒りを持っている者――本心からのものであれ、建前からのものであれ――は多い。
先の戦いで袁紹側に大きな損害を与えたほとんど唯一の存在ということもあって、曹操には袁紹勢力の憎悪が注がれている。
そのため、曹操側の使者が来たという情報が伝わった時、追い返してしまえ、という意見も多かった。
それでも、袁紹側が交渉に応じたのは、友若と文官達が強く曹操側との交渉を主張したからだ。
本音を言えば、荀彧を追い返したい友若であった。
だが、銃火器で遅れをとっている状況で曹操と現時点で戦うことを避けなければいけない、という友若の判断は荀彧に対する恐怖に打ち勝った。
だからこそ、友若は曹操と剣を交える可能性を少しでも減らすためにこうして交渉に臨んだのだ。
友若の目的は唯一つ。
銃火器の開発と配備で優位に立つまで、何としてでも曹操との争いを避ける事である。
対等な武装では勝ち目がないと友若は思っている。
そうした話を張バクは友若から聞いていた。
『銃火器』が兵力差を覆しうる兵器だという友若の主張に張バク自身は疑問を抱かないわけではなかった。
確かに、曹操軍から鹵獲した『銃』は袁紹軍で用いられている『真弩』と比べて単純な飛距離や速写性では優っている。
だが、有効射程や運用可能な数を考えれば袁紹軍は十分な優位を持って戦えるはずだと張バクは思っている。
しかし、それでも曹操を打ち破るために多大な犠牲が必要になるというのは張バクも認めることろである。
そして、戦いに苦戦したり、犠牲が出れば大きな問題が生じると考えた張バクは友若に協力することにした。
先の戦いで大勝利を収めたにもかかわらず、張バクたちは冀州経済の混乱収拾に奔走している。
田豊や沮授と言った名臣を失ったことにによる業務の混乱の影響が大きいが、他にも冀州経済に多大な投資をしていた豪族達等が一斉に資金を引き上げようとしたことも無視できない。
官軍との戦いを前に銀行業務を停止したことによって、いざという時に銀行預金が使えないという事を白日のもとに晒したのだ。
張バクや郭嘉達が根気強く説得を続けたことで、幸いにも銀行の利用を止めようという豪族達の動きは取り敢えずは収まった。
ただ、豪族の多くは袁紹が逆賊という立場に置かれていることをひどく心配している。
皇帝を無視して清流と濁流が争い続けている洛陽等の漢帝国中心都市と異なり、地方では皇帝の権威は大きな影響力を持っているのだ。
洛陽で官吏をしていた経験を持つ張バクにしてみれば、豪族達が皇帝をありがたがる様は滑稽に思える。
実権を握っているのは清流と濁流のどちらかだ。
この二つの勢力の宮廷力学的な力関係によって漢帝国の方向性は決定されているというのが実際である。
だが、地方に根を張る豪族達にとって、皇帝とは漢帝国中央からの命令を正当化する強大な権威である。
中央と関わるだけの権勢を持たない純朴な豪族達にしてみれば、背後で糸をひく黒幕よりも矢面に立つ皇帝こそが権力の象徴と思うことも無理はなかった。
同様の理由で、辺境の民は皇帝を憎んでいる。
事実上、漢帝国に切り捨てられた辺境。
その辺境の人間にしてみれば、背後に蠢く無数の官吏や宦官よりも、それらの象徴たる皇帝の方が憎悪を向ける対象として理解しやすいのである。
だからこそ、豪族達は袁紹軍が官軍相手に勝利を収めた今でも逆賊という汚名を重要視しているのだ。
袁紹と距離の近い豪族達は逆に漢帝国を潰して新たな帝国の樹立を夢見ているようだが、逆にある程度の距離を置いている豪族達は名目上漢帝国に逆らう反逆者となった袁紹や冀州経済との関係を維持する事を躊躇している。
そして、こうした豪族達の存在、彼らがばらまく貨幣は冀州経済にとって欠かせないものとなっている。
豪族達がいなくなれば、冀州の流通貨幣は一気に低下するだろう。
そもそも、今現在、冀州の経済全体の収支を見ると、資金は流入しているが、一方で物理的な貨幣は流出しているのだ。
これは、辺境の交易のために莫大な貨幣が必要だからである。
辺境では交易が活発化しているが、異民族はそもそもあまり貨幣を保有していない。
保有する機会も必要もなかった。
漢帝国の商人と異民族との交易は物々交換で事足りていたからである。
しかし、交易の拡大により、物々交換というものの効率の悪さが無視できなくなる。
また、漢帝国の嗜好品――衣服を中心としたそれ――を異民族が一度の物々交換で手に入れることは困難であり、彼らは貯蓄を行うためにも貨幣を利用した交易を望むようになる。
そして、辺境の交易における貨幣需要の高まりによって冀州から莫大な量の物理的な貨幣が流れでた。
経済発展とともに名目上の資金は今なお流入しているが、それは証文や物品、あるいは預金の数字の形を取っており、実物としての貨幣は流出しているのだ。
郭嘉によってまとめ上げられた冀州の貨幣収支を初めて見た時、張バクは大いに驚いた。
もし、袁紹側が敗北していれば、冀州経済がどうなっていたことか想像もつかない。
ただ、ひとつ言えることがある。
袁紹の力である圧倒的な財力を支える冀州経済は、戦争前には張バクが思ってもみなかった以上に脆い足場の上に構築されているのだ。
現在の冀州行政が続かないという噂が広まればそれだけで揺らぐほどには。
郭嘉の類まれなる分析能力によって冀州経済の危うさがが明らかになると、財政に関わる文官達は明白に官軍との争いを避けるべきだという立場をとるようになった。
そのためには、袁紹に汚名を着せた朝廷と講和することもやむを得ない、と文官達は考える。
冀州経済が危ないという噂が流れるだけでも貨幣危機が発生しかねない。
そのため、文官達は表立って経済の危うさを表明する訳にはいかなかったが、これ以上の危険な賭けは避けたい、というのが彼らの大勢を占める考えだった。
奇しくも、曹操を怖れてひたすらに戦いを避けるべきだと主張を重ねた友若と同じ立場に文官達の多くは立つことになったのだ。
その思考過程は全く異なっていたが。
これに対して豪族達や名士達の一部が強硬に反発している。
君側の奸臣を取り除かなければまた同じ事が起きると思う者。
漢王朝に代わって袁紹が立つべきだという考える者。
場当たり的な政策を繰り返してきた皇帝に対する不信を抱く者。
強大な敵となり得る曹操を今叩くべきだという意志を持つ者。
友若憎しの感情に囚われた者。
戦功を上げる機会を求める功名心に突き動かされる者。
冀州で幅を利かせる文官に対する反感を抱く者。
戦いを望む理由は無数にあれど、官軍と今戦って倒すべきだと主張する人間が一定数いることは確かであった。
だから、張バクと郭嘉達は荀彧との交渉にあたって朝廷との戦いを主張する主戦派の人間を可能な限り排除しようと動いた。
そして、主戦派の中でも比較的穏健で話の分かる韓馥を主戦派の代表として交渉の席に参加させた。
直実な人柄である韓馥であれば、他の主戦派の様に無理な主張はしないだろう。
更に、周囲から一目置かれている韓馥が交渉の席に参加する以上、その結果がどうであれ他の主戦派も強くは文句を言えない。
加えて、この交渉には袁紹配下として現在最も地位の高い友若も参加している。
派閥力学を無視して動く友若を憎悪する人間が豪族派閥や名士派閥に多いことは確かである。
しかしながら、面と向かって友若に文句を言える人間は冀州においては袁紹だけだ。
豪族達や名士達の中に不満を持つ者がいたとしても、現状では言葉を飲み込むだろう。
友若と曹操側の荀彧との血縁関係は問題となるかもしれないが、この兄妹の中の悪さ、と言うより兄の妹に対する憎悪は有名な話であるからなんとでもごまかし得るだろう。
問題があるとすれば――。
張バクは横目で友若を見ながら思う。
問題があるとすれば、友若が交渉の席に参加しながら言葉を発しようともしていない事だ。
それどころか、友若はそもそも荀彧を見ることもせずに視線を虚空に彷徨わせている。
頑として友若は妹と向き合うつもりがないらしい。
――どんだけ、妹が嫌いなのよ。
知っていたとはいえ、張バクは内心で呆れ声を出さずにはいられなかった。
友若が全く発言しないというのはあまりよろしくない。
この交渉を主導しろとは言わないが、主戦派である韓馥に主導権を渡すような展開を防ぐことくらいは友若にやってもらわなければ困る。
栄達の道から若干外れたところにいる張バクや、この場で最も地位の低い郭嘉だけで名声のある韓馥を抑えることは難しいのだ。
とは言え、友若のこの様子では、自分以外にも軍事的解決に反対する勢力が居ると知ったら、そもそも交渉の席に立つことすらなかっただろう。
――それを思えば、友若の態度は褒められたものではないにしろ、よく逃げなかったと褒めるべきなのかもしれないのかしら?――……そんな訳ないわね。
張バクは頭に浮かんだ考えを即座に否定する。
仮にも、現在あらゆる面で漢帝国最強の勢力の最大の側近がこの有り様と言うのはあんまりだ。
嫌いな野菜を残さず食べた子供を褒めるような対応ができるわけがない。
その上、友若は食事の席には着いたものの、その野菜を食べようとはしていないのだ。
気苦労のためか、張バクは軽いめまいすら覚えた。
とは言え、張バクに挫けている余裕はない。
心に活を入れると、張バクは口を開く。
「『礼』を心得ている、と言うのはどういう事でしょうか」
「漢帝国の序列、天子様を頂点とする序列に従う袁冀州州牧殿は『礼』に則っていると申し上げました」
荀彧は淡々と言葉を紡ぐ。
なるほど、と張バクは思う。
媚びることも飾ることもなく、ひたすらに理に適っている荀彧の言葉。
名目上、儒学を重んじる清流の中で一目置かれるのもよく分かる。
同時に、荀彧の有り様は味方と同じかそれ以上の敵を作ったことは間違いない。
人の神経を逆立てる言動に関して、荀彧のそれは天性が光る。
友若の妹というだけあって荀彧もまた随分と癖の強い人格だ、と張バクは現実逃避をしながら考えた。
荀家の兄妹、同僚としてどちらの方が楽かは微妙なところではあるが。
横に目をやると、韓馥が予想通り、その顔に怒りを浮かべている。
「なるほど、確かに袁本初様は『礼』を知るお方だ。対して、朝廷は何をしているのか。何をしたのか。臣下として『礼』を守り、天子様から統治を任された冀州を大いに発展させた。その功は古の名臣管仲にも優るとも劣らないだろう。その忠臣に朝廷は何を持って報いたのか!」
「失礼ながら、袁冀州州牧殿の行いは忠臣と褒め称えられるべきものでしょうか?」
「なに?」
声を荒げる韓馥に荀彧は冷淡に言葉を返した。
「確かに、袁冀州州牧殿は冀州を大いに発展させ、その結果として漢の国庫を潤しました。しかし、同時に、州牧殿は漢の秩序を揺るがしかねないほどの権力を一介の州牧が持つことを止めようとしませんでした。古来より、皇帝の地位を脅かす権力を握った者は如何なる功績を上げようがその生命を永らえることはできまませんでした。呂不韋は宰相として秦をして諸国列強最強の国家へと育て上げましたが、権勢を欲しいままに振るったため、始皇帝に廃されました。漢興隆の功臣であった韓信すらもその力が皇帝の権威を犯したがために処刑されたのです」
韓馥は荀彧を睨みつけた。
「忠臣を殺す皇帝に義があると言うのか!?」
「漢建国の功臣である韓信、その幕臣や高祖に不満を持つ者達は韓信こそが天下に相応しいと主張していました。そして、韓信はそれらの言葉に次第に心を動かされたのです。韓信が速やかに処断されなければ、韓信は高祖に反旗を翻していたでしょう。そうなれば、高祖が項羽を下してようやく訪れた平和が崩壊し、燃え盛る戦火は万民を傷つけることになったはずです。功臣を敢えて弑すことの不『義』と、それにより救われる万民の大安を思う『仁』、そのどちらがより重いと言えるでしょうか」
荀彧の発言に韓馥は言葉を詰まらせた。
先程の袁紹の行動が民を思っての行動であるとの発言を張バクがしている。
ここで義が重いとは言い難い。
それに、そもそも『仁』は最も重要な徳とされているのだ。
それでも、韓馥は何とか反駁をしようと口を開いた。
「だが、袁本初様は天子様に反旗を翻すなど考えてもいなかった! 呂不韋や韓信の如き、主君に刃を向けようと腹の中で考えていた不忠者とは違う! その袁本初様を貶めた宦官の如き佞臣こそが責められるべきであろう!」
「十常侍達の専横は漢を蝕んでいるでしょう。しかし、袁冀州州牧殿もまた天子様を脅かすほどに権勢を持ち過ぎました。また、官軍を打ち破るほどの兵を持っていることも事実です。そもそも建国の功臣ですら力を持ちすぎたものは命を落としたのですし、皇族であっても皇帝の地位を脅かすものは廃されるのです」
「貴様の主曹操は人を不当に陥れることを良しとするのか!?」
顔を真っ赤にして叫んだ韓馥の言葉に涼やかな顔を保っていた荀彧が眉を動かした。
張バクと対面の位置にいる程昱が素早く荀彧に目を走らせた。
荀彧は顔を殆ど動かさずに程昱に目配せをした。
張バクは思わず韓馥の顔を見た。
友若だけが何の反応も見せずに空中に視線を彷徨わせている。
相変わらず話し合いに参加するつもりはないらしい。
「……一般論として、君主は時に非情な決断を迫られるものです。人の上に立つ者であれば須く例外はありえないでしょう」
「荀大老師殿は曹操が随分な人物であると言っていたが、今までの言動、そして話を聞く限り、人を平然と陥れる人柄であるようだな。大した人物かはさておき、警戒に値する」
韓馥が暴言を吐いた。
張バクは舌打ちをしたい気分だった。
韓馥はまんまと荀彧の挑発に乗せられた。
「我が主、華琳様を侮辱するのですか?」
現状、袁紹側、曹操側の双方ともに戦う意志はない。
この時点で潰し合うことは双方にとって不利益となるからだ。
それを痛いほど理解できる立場にいる張バク。
主君と仰ぐ袁紹の為にも、張バクは曹操側との衝突を避けるように立ち回らなければならない。
友若もまた、張バクと同様に曹操との戦いを避けようとしている。
つまり、袁紹側の人間は、韓馥を除いて曹操と戦ってはいけないという考えで一致している。
そして名士の立場にある韓馥も袁紹の方針には基本的に従うという立場をとっている。
だから、この交渉の結果として曹操と戦うことになるという可能性は極めて低い。
そうならないよう、張バク、郭嘉、ついでに友若が動くからだ。
曹操側も同様に戦いを避けるように動くだろう。
だが、荀彧達は潰し合いは避けるという制約の下でも最大の成果を得ようとしている。
具体的には韓馥を挑発し、曹操に対する侮辱の言葉を引き出した。
主に対する暴言によって荀彧達は袁紹側に怒り、拳を振り上げてみせる大義を手に入れた。
それを実際にその大義を行使すれば双方にとっての大きな不利益となるから、荀彧はあくまでも脅しに留めるだろう。
しかし、荀彧は大して労すこともなく1つの交渉材料を手に入れたのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
会談の前の僅かな時間に郭嘉は曹操側の目的を推察した所を張バクに述べていた。
郭嘉は言った。
袁紹側に現状で戦うつもりがないことを荀彧、そして曹操は熟知しているはずだ、と。
「経済の急激な拡大に伴う行政業務の増大によって冀州では官吏の数の増やしました。その際に密偵やその類を紛れ込ませることは容易であったはずです。先見性のある人物であれば、それをしていないわけがありません」
「それはそうでしょうね」
郭嘉の言葉に張バクは同意する。
普段あまり意識していなかったが、郭嘉の言葉の通り密偵が存在している可能性は否定出来ない。
むしろ、存在していないなどと考えることは危険だろう。
例えば、張バクの目の前にいる女性がどこかの勢力に情報を流している、ということも可能性として否定はできないのだ。
疑いだしたらきりがないだろうし、大量の人員を雇った以上、密偵の全てを排除することは不可能だ。
「経済の拡大によって増員された官吏は基本的に出世の道がなく、一般的な業務のみを任されていましたから、密偵がそう簡単に重要な情報を手に入れる事は出来なかったでしょう。それでも、こちらが戦いの準備をロクにしていないことは当然分かるでしょう」
「それなら、曹操はどうして右腕である荀彧を態々こんな所に送ったのかしら? こちらに今戦う意志がないことが分かっているなら使者を送る必要性は低いだろうし、送ったとしても荀彧である必要はないはずじゃない?」
顎に手を当てて尋ねる張バク。
郭嘉はメガネの縁に軽く手を当てながら答えた。
「曹孟徳殿はこちらが朝廷に使者を送った事も知っているはずです。この状況で曹孟徳殿には袁本初様と朝廷との和睦の犠牲となる可能性があります。こちらにも朝廷にもそう言う考えを抱くものがいたとしてもおかしくはありません。曹孟徳殿は皇帝の寵愛を得ていますが、宦官を敵に回していますし、宦官の孫という血縁上、清流との関係も微妙な所があります」
「確かに曹操は宦官の関係者であっても厳しい処罰を下した事で名を上げたから中央に敵も多いでしょうね。それで、郭奉孝、貴方は朝廷を使って曹操を追い詰めることに賛成なのかしら? 反対なのかしら?」
郭嘉の言葉に好奇心を刺激された張バクは尋ねた。
目の前の理知的な女性がなんと答えるか。
張バクには興味があった。
豪族や名士達は賛否が別れるだろう。
政略で難敵を排除すれば、戦いの犠牲は避けられるが、戦場でこれを討ち取って武勲とすることもできなくなるのだ。困難であるとはいえ、友若が恐れ、先の戦いで大いに活躍した曹操を打ち倒せば万金に値する戦功となるだろう。
審配ならば迷いなく賛意を示すはずだ。
彼女は周囲の目を怖れずに実利を取る面の顔の厚さと勝利や栄光を求める貪欲さを兼ね備えている。
友若ほどではないにしろ、曹操を油断できない相手として認識する審配ならば、その障害を排除する機会を逃そうとはしないはずだ。
許攸は消極的に賛成するといったところだろうか。名誉や富に対する熱意を持ちながらも敵を作らずに外聞を保つ狡猾さを兼ね備えた彼女なら、敵を陥れる策謀を選択するにあたって躊躇して見せるだろう。見せるだけだろうが。
友若は恐らく消極的反対。というよりもあの食わず嫌いは曹操には関わりたくもない、という態度を保てるうちは保ち続けること間違いない。
審配と許攸が政略で曹操を追い詰めてから友若は大いに慌てて動き出すのだろう。
そして、友若の異様な発想で振りかかる問題はいつの間にか解決しているのだ。
そんな未来が張バクには妙に現実的に想像できた。
「心情的には反対です。しかし、この国の状況を考えればこれ以上の戦いは避けるべきですし、曹孟徳殿の人柄を聞く限りでは、袁本初様と天下を分け合う事ができる人物とは思えません。だから、私は朝廷を使って曹孟徳殿を排除すべきだと思います」
「心情的に反対とは……ねえ」
張バクは郭嘉の顔を見て妙に納得した。
郭嘉は圧倒的に優秀だ、というのが共に働いた張バクの感想である。
誰であっても郭嘉が飛び抜けて優秀なことは直ぐに分かるだろう。
それが、今回の戦いの後にようやくまともな地位に出世したというのは、いくら郭嘉が新参者で有力者との人脈がなかったとはいえ異常である。
ロクに人脈も実績も業務能力も有していない友若が田豊に引き上げられる形で今の地位にあるのだ。
ならば、郭嘉もまたそれなりの地位まで出世していてしかるべきではないか。
しかし、この馬鹿正直ともいうべき郭嘉の性格ならばそれも無理は無い、と張バクは思った。
立場的には許攸の下に郭嘉はいたと張バクは聞いている。
恐らく許攸は何ら批判を受けることなく、強力な競合相手となりかねない郭嘉を出世させずに捨て置くことが出来ただろう。
一定以上の地位に就くには能力だけではなく思想や忠誠心が重要な要素となるのだから。
「まあ、貴方が何を考えていようが、仕事さえやってくれるなら私はどうでもいいのだけど」
とは言え、郭嘉が袁紹の治める冀州で栄達しようが、しまいが、張バクには関係がない話だ。
張バク自身栄達にはそれほど興味が無い事を思えば、郭嘉の才能の無駄遣いを責めることはお門違いだ。
それよりも、今は曹操側の行動予測をこの天才的な戦術家と共有しておくべきだ、と張バクは考えた。
「……それで曹操は朝廷から切り捨てられることを恐れているのね。確かに、怜香や黄蘭あたりなら、曹操の首を和睦の条件にするくらい普通にやるでしょうし。でも、それなら荀彧を送るべきはここではなくて洛陽ではないのかしら。荀彧は清流でも名が知れているし、今このタイミングでこっちに来た所で朝廷との和睦に影響をあたえることは出来ないはずよ」
既に朝廷と袁紹側の使者である審配、許攸の交渉は始まって暫く経っている。
情報伝達の時間差を考えれば、もう既に交渉が決した可能性も高い。
つまり、今荀彧が冀州に来た所で洛陽の動向を左右することは出来ないのだ。
むしろ、洛陽に人脈を持つ荀彧を冀州に送ったのは失策ではないのかと張バクは思う。
「恐らく、洛陽には曹孟徳殿自身が向かったのでしょう」
「!? 冗談っ! っとも言い切れないわね。総大将の不在による士気の低下もこちらに戦う意志がないなら問題ないのだろうし。……そうだとすると、情報戦で圧倒的に負けている状況はなんとかしなくちゃいけないわね。曹操が洛陽に向かっているなんて情報、こっちには来ていないわよね?」
張バクは郭嘉に尋ねた。
「曹孟徳殿本人に関する情報に関しては私の知る限り、冀州には届いていません。曹孟徳軍が活発に訓練をしているという情報なら届いていますが。ただ、曹操が洛陽へ向かったというのはあくまでも私の推測です。それが正しいという保証はありません」
「でも、他に考えられないでしょう? 曹操がよっぽど愚かでもない限り、洛陽に干渉しないという選択肢はないわ。そして、そのためには洛陽で顔の広い人間でなければいけない。荀彧がこっちに来た時点で、曹操が洛陽へ向かったことは確実でしょう? だとすると、曹操はこっちの正確な情報を得ているってことじゃない! ああ、もう! 今から、進軍の準備をした所で曹操の帰還に間に合わないでしょうし、一方的にやられてるようなもんじゃない」
張バクはそう言って頭痛を堪えるように頭を抑えた。
情報戦で圧倒されているという状況はあまりにも拙い。
だが、身内に紛れ込んだ諜報員を見つける事は並大抵の労苦ではないし、それに割く人員の余裕もない。
むしろ、経済の混乱に対処するために人員を増やすことを決定したばかりだ。
膨張体制を整えるにしてもノウハウを蓄え、それがまともな形になるのは先の事になるだろう。
「まあいいわ。防諜に対しては友若の魔法のような解決策に期待しましょう。怜香や黄蘭にも頑張ってもらえば、なんとかなるかもしれないし。彼女達も手腕を存分に振るえる機会は望むところでしょうし」
張バクは取り敢えず問題を棚上げした。
「そんな事は後で考えるんでいいわ。それで、曹操が洛陽へ向かったとして、荀彧が態々冀州までやって来た目的は何なのかしら、奉孝?」
「あくまで推測ですが、――」
前置きとともに語り出した郭嘉の言葉に張バクの目は大きく見開かれた。
郭嘉の推測した内容は余りにも大胆であった。
驚愕に染まる張バクの思考。
だが、その一方で、態々荀彧を送り込む以上それくらいの理由があってもおかしくない、と張バクは頭の片隅で思った。
そして、曹操が態々荀彧を冀州へ派遣する理由として郭嘉の推測以上のものは考えられないとも思った。
なるほど、と張バクは思った。
曹操が本当にそれだけのことを考え、尚且つ断行するほどの意志の持ち主であれば、友若が彼女を恐れる様子も過大評価とは言えないかもしれない。
だからこそ、勢力の小さいうちに打倒しておきたいところではあるのだが、はたしてどうなるものか。
張バクは溜息を付いた。
こういう役回りはやる気のある人間に任せるべきだと思う張バクであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「先に侮辱したのはそちらではないか!」
韓馥が怒りの声を上げる。
それは違う、と張バクは内心で呟いた。
荀彧は袁紹に対する批判を口にしていたが、その言葉は慇懃無礼ではあれど、皮一枚の差で侮辱の一線を踏み越えてはいない。
袁紹を批判するにあたっても、その名を直接出すことなく、あくまでも故事の話、一般論という体を装っていた。
そのため、袁紹を侮辱したと言い張る事は難しい。
そうでなくとも、袁紹側と曹操側の立ち位置は違うのだ。
優位に立つ袁紹側はその優位を保つためにも、争いを避ける必要がある。
ともすれば、一時の自尊心を満足させるため、戦功を上げる機会を得るために軽挙に走りがちな豪族達や名士達を何とか抑えなければならず、交渉にあたってもうかつに好戦的な言葉を発する訳にはいかない。
この場で話したことは立ち所に冀州の同僚の知るところとなる。
豪族達や名士達は韓馥からこの場で起きたことのあらましを聞くだろう。
張バクが曹操と戦うという可能性をほのめかす程度であったとしても、曹操を打ち破る事こそが全ての権力を手にする唯一の方法であると近視眼的に信ずる味方が、元清流の人間も武断の意見に賛同したとして、これ幸いにと軽挙に走りかねない。
一方で、下手に曹操側に譲歩をしすぎれば、それを過失として責められることになるだろう。
袁紹は様々な背景を持つ莫大な数の配下を抱えているがために、意志の統一が困難かほとんど不可能で、その配下は常に味方の動向をも意識しなければいけないのだ。
対する曹操側は少勢力であるがその意志はよく統一されている様に見受けられる。
つまり、荀彧は強行的な姿勢を見せることで譲歩を引き出そうと試みる事ができるなど、戦術的な自由度が幅広い。
もちろん、こちらが引くに引けなくなるまで追い詰めることはしないだろうが。
「とんだ言いがかりですね。私の発言のどこに袁州牧を侮辱する言葉があったと言うのですか」
荀彧は口端を微かに歪めながら韓馥に答えた。
「何を屁理屈をっ!」
「では、私の言葉のどこに問題があったのかを示していただけないでしょうか」
増々精神を高ぶらせる韓馥は嘲笑とも取れる笑みを浮かべた荀彧に反駁する。
明らかに荀彧は韓馥を怒らせようとしている。
嫌な性格だ、と張バクは思った。
曹操の目的が郭嘉の予想通りであるのなら、荀彧は韓馥を態々怒らせる必要はないのだ。
荀彧があえて火に油を注いでいるのは今後の交渉材料を増やしておくためだけであるはずである。
その行動自体は曹操の利益につながるだろうから、配下である荀彧が熱心にそれに打ち込むことも理解できる。
そして、韓馥という格好の獲物に食いつくことも戦略として正しい。
もちろん、弱みを晒した相手に対して戦果を最大化する、という行動は間違ってはいない。
とは言え、貪欲なまでに戦果を拡大する行動を張バクはどうしても好きになれないのであった。
ともかく、郭嘉の言葉通りだ、と張バクは思った。
荀彧は、ほぼ間違いなく交渉の進みを遅らせようとしている。
主に対する物言い等という、ある意味でどうでもよいことに関して議論を続けていることからも明らかだ。
そして、恐らく、荀彧や曹操側は暫くこうした態度を崩さないだろう。
朝廷の動きがあるまで。
袁紹に着せられた逆賊という汚名がどうなるか。
朝廷が断固とした態度をとるのか、軟化するのか。
その結果によって、今後の物事の流れは大きく変わる。
曹操はその時に誰よりも素早く動くために腹心の荀彧を冀州へと送り込んだのだ。
荀彧を始めとした曹操の使者とって、本命の交渉は審配及び許攸と朝廷交渉との交渉結果が示されてから始まるのだ。
袁紹側としても洛陽の動向によっては方針転換する必要が出てくるかもしれない。
だから、どの道、朝廷の動きがあるまでは、曹操との関係についても決めがたい。
袁紹側と曹操側、両者の思惑の一致により始まったこの交渉である。
両者が結論を先延ばししたいという点でも一致している以上、交渉がまとまるわけがない。
茶番にすぎない今の話し合いなど適当に流してしまえばいいのだ。
まともに取り合おうとするなど労力の無駄で馬鹿げた行為だ。
張バクはその様に思っている。
荀彧や審配の様に真面目一辺倒に勝利のために勝利を求める行為は張バクの苦手とするところなのだ。
「う、裏切りを肯定するというのか!?」
「そのような事はありません。五常は万民が守るべき理想です。しかし、国を治める立場にあるものは状況によってはこれらを超越した好意を為さざるを得ないはずではないでしょうか」
荀彧は言葉に詰まる韓馥に冷然と返すと視線を目の前に向けた。
荀彧の目の前には友若が座っている。
韓馥を血祭りにあげた曹操の腹心は友若を睨みつけるように見据えている。
対する友若は決して荀彧に視線を向けることなく、木偶の坊のように宙を見上げている。
「だが、士が徳を失えばそれは国難の元だ!」
荀彧に散々論破されたにも関わらず、尚も反撃を試みる韓馥。
張バクは呆れるとともに感心した。
この善良で純朴な女性はこれだけの才能を持った友若の妹を相手に尚も反論を重ねているのだ。
その無謀さは褒められても良いのではないか、と思う張バクであった。
「なるほど、そうかもしれません。上に立つものが民を思いやる心を失えば、万民は苦しみに喘ぐことになる。だからこそ、孔子も『仁』を最も重要な徳であると述べたのでしょう」
荀彧は最早韓馥を見てもいなかった。
その視線はただひたすらに友若に向けられている。
荀彧の瞳は恒星のごとく輝きを放っていた。
韓馥はようやく自らがとんでもない怪物に剣を向けていたことに気がついたのか、顔をこわばらせていた。
これが荀彧。
張バクが去った後の混沌とした洛陽で清流として頭角を現した俊才。
小さな体でありながら尋常ならざる覇気であった。
だが。
何故か、張バクには一瞬荀彧が泣いている幼子のように見えた。
親を怒らせて口も聞いてもらえずに途方に暮れて泣き叫ぶ子供のように。
我ながら、何を考えているのだと頭を振る張バク。
「そう。仁とはとても重要なものなのです。力を持つものは皆仁を持たなければなりません。ここで言う『仁』とは、目に映る者達だけではなく、書簡を通してのみ知ることのできる人間をも含んだものでなければいけません」
荀彧の言葉は淡々と部屋に響いた。
「今、この国の南では民の多くが重税に喘ぎ、災害に度々見舞われて苦しんでいます。彼らが苦しんでいるのは、自らの土地を捨てて逃げ出す民が多かったために、人が減り、一人ひとりに伸し掛かる税等の重みが増えているのです。脱走に成功した者の多くは日々の糧を得ることができています。しかし、そのことにより、民の流出は加速して、その結果、残された者達の負担は増えるばかりなのです。多くの人手を失った邑では用水路の整備もできず、田畑は荒れ果ててしまったところもあります。これらの地域を治める官吏達や豪族達はこの問題に対処しようと努力を重ねましたが、失敗に終わったのです。相変わらず、民は自らの故郷を捨てて、去っているのです。荒れ果てた土地を捨て。袁紹を討伐するための軍に南方の諸侯が多かったことは偶然ではありません。彼らは自らの民を奪い取って発展を続ける冀州を恨んでいるのです」
「そ、それは、逆恨みではないのか。南方で民が逃げ出したからといって、それは我々の責任ではない」
韓馥が諦め悪く反論する。
荀彧はその言葉に視線を返すことすらしなかった。燃えるような激情を含んだ瞳はまっすぐ友若へと向けられている。
「そうかもしれません。しかし、冀州は確かに流民を多く受け入れることで発展を遂げたのです。人の増大があったからこそ、物の売り買いが広がったのです。人手がいるからこそ、大胆な灌漑工事や道の整備を行うことができたのです。そして、大量の流民を受け入れたがために、南方を始めとした地域は働き手を失い、そのことがさらなる貧困を生んでいます。今、あなた方が、この地の発展のみを考え、人を失い、荒れ果てていく南方の地の有り様を関係ないことだと切り捨てるのならば――」
荀彧の噛みつかんばかりの言葉にも友若は視線を彷徨わせたままだった。
「自らのことのみを考え、天下の民を思う『仁』を持たずに天下の富を集めるのならば、冀州の発展の裏で衰退している土地の事を忘れているというのなら、必ずやこれらは忘却の彼方よりあなた方に復讐をするでしょう!」
荀彧はそう言い放った。
ただ一人、友若を見据えながら。
それは、あるいは親に対して自らを見るように駄々をこねる子供の様子と類似していたかもしれない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
茶番のはずの交渉は思いの外長引いた。
結局のところ、郭嘉の予想通り、結論は決まらないまま、交渉は次に持ち越されることになった。
次回の日時は具体的に決められていない。
暗黙の内に朝廷の動向に関する情報が入ってきた時に二度目の交渉を行うことが決まった。
それまで、荀彧達はこの冀州に留まることになる。
張バクはある意味では人質となった荀彧達の衣食住をどうするか、頭を悩ませていた。
荀彧ほどの人間を自由にさせておけるほと張バクは脳天気ではない。
こちらの防諜体制では無駄かもしれないが、それでも、あれだけの才能を示した荀彧に実際の重要情報を見せる訳にはいかない。
さらに、先ほどの交渉の席にいた程昱という人物は荀彧によって袁紹の元から引きぬかれたという話を張バクは郭嘉から聞いている。
そのため、うかつにこちらの人間と触れ合わせるわけにもいかないのだ。
どうしたものか。
そもそも、何で自分がこんな事に悩んでいるのか。
こうした案件は友若こそが行うべきではないのか。
張バクの頭にはそんな考えがよぎる。
そんな時、張バクの執務室を一人の女性が訪れた。
袁紹である。
あの戦いの直後は塞ぎ込みがちだった袁紹であるが、最近では何時もの自由人ぶりを取り戻し――田豊というお目付け役がいなくなったことで一層悪化していたが――政務をサボっては神出鬼没にあちこちを歩きまわっている。
立ち上がって応対する張バクに袁紹は友若の妹が冀州にいるという話を耳にしたが本当か、と尋ねた。
張バクがそれに是と答えると、袁紹はその妹はいつまでここにいるのか、と続けて尋ねた。
朝廷の情報が伝わってくるまでは居るだろう、と答えた張バクに袁紹は考えこむような様子を見せる。
「そうすると短ければ数日、となってしまいますわね。うーん、これは困りましたわ」
「何をお困りなのでしょう、麗羽様」
張バクは面倒事が返ってこないこと祈りながら尋ねる。
対する袁紹は考えこむように腕を組んだ。
「兄妹、というものはやはり仲良くなくてはいけませんよね?」
「は、はあ。どうなんでしょうか……」
袁紹の問に曖昧に答える張バク。
目の前の問題に手と足が生えたような女性は例によってとんでもない事を考えている事を張バクは認めざるを得なかった。
あの兄妹の仲を持つことを考えているらしい袁紹。
先ほどまでの友若と荀彧の様子を散々目にした張バクには、それが山を動かす程の難題に思えてならない。
「兄妹、姉妹というものは素晴らしいものですわ。私も可愛い美羽さんとは何時も仲良く一緒にいましたし」
「……仲良く?」
洛陽で袁紹と袁術の様子を見たことのある張バク。
袁術は明らかに袁紹を敵視していたのだが、袁紹にはそうは思っていないらしい。
まあ、袁紹は持ち前の豪運で袁術の罠を全て回避し、存在に気が付いてすらいなかったようであるから、彼女の視点から見れば、袁術は可愛い妹なのかもしれない。
「ああ! その可愛い美羽さんが! 私の敵として戦場に現れるなんて! 運命とは何と悲しいものですわ! きっと、美羽さんも私と戦わなければいけなくなった時には涙を流したに違いありません!」
「それは無いんじゃないんですか。むしろ、袁公路様は喜んで……」
感極まって叫ぶ袁紹。
張バクは小さな声で呟いた。
袁紹は聞いてもいない。
自分の言葉に涙腺を刺激され、涙を流していた。
「う、ううう……ぐすっ……と、とにかく、運命とは何があるのか分かったものではないのですから、後悔しない内に兄妹は仲直りしておくべきだと思うのですわ」
「麗羽様にしては珍しく建設的な意見ですが……」
言いよどむ張バク。
世の中には可能なものと不可能なものがあるのだ。
しかし、袁紹はまるで躊躇もしなかった。
「残念なことに時間がありません。ですが、兄妹が幼いころと同じように一つ屋根の下で暮らせば、また、仲直りも不可能ではないと私は確信するのですわ!」
「えー」
「これは決定ですわよ! 荀、文若さん、でしたわね、の住まいは兄の家にしなさい」
元気良く言い切った袁紹。
張バクは何とか袁紹を思いとどまらせようと頭を巡らせ、現在の苦労の殆どの原因が友若であることを思い出した。
まあいいか。
友若のためにこれ以上労力を費やす必要はないと張バクは判断した。
「分かりました、麗羽様。御意の通りに致します」
「よろしいですわ、それにしても今日はいいことをしましたわ~」
上機嫌で踵を返して部屋を去る袁紹。
その後姿を頭を下げて見送りながら、張バクは袁紹の言葉を友若に伝える瞬間を想像して口元を歪めた。
超難産でした。
次話 りん
『けーりん』の予定を分割して投稿します。
次話も間違いなく難産。
その次はほのぼのと書きやすい内容な気がするのですが。