竹井久は、人誑しだと言われたことがある。
キセルの煙と共に吐き出されたその言葉の通りに、少し悪ぶっていたその昔から学生議会長に選出され麻雀部を率いる今まで何をしなくとも久の周りには自然と人が集まっていた。それこそ一年の頃の部室の中以外で彼女は孤独を感じたことはない。
「でも須賀君の方がよっぽどよね。いえ、あれは女誑し、と言った方がいいのかしら?」
だが、その程度。京太郎のように無自覚に異性を大いに振り回す、そんな台風の目になどなった覚えはなかった。
もっとも、久とて、自分が影にて綺麗だともてはやされていることは知っている。けれども、お互い集めている思いの強さには、随分と違いがあると感じていた。
「気づけば目に入れてしまうくらい好きと、その人しか見えないくらい好き、は好きの深度が全然違う。後者ばかり集められるのは才能というよりも、最早呪わしくすらあるわね……」
八十デニールの繊維が集まり足を覆っている、そんなタイツの暗さを知らずに見つめながら、久は呟いた。
縁も強すぎれば邪魔になる。少し前まで、恋情ばかりを集める少年は、糸に縛され身動きを取れないようになっているようだった。
それが変わったのは、再びあの屈託のない笑顔を見られるようになったのは何か。それを知っていながら、久は笑う。
「やっぱり、和に任せて良かったわね」
シンプルな内装の私室にて、いやらしくない程度に口角を持ち上げながら、久は直近に巡らせた策の成功を喜ぶ。そう、京太郎のこころ浮つかせていた事情の仔細を和に教え、背中を押させたのは、彼女だったのだ。
周囲を見回して真っ先に気付いたのは、欲しがり二人に、臆病者一人。だがそれらを無視して、微笑んで見守るその他の彼女と久はわざと、目を合わした。そして近くに寄ってから、口を開いたのである。
恋情は一様に、思わず溢れてしまうほどに強いもの。それでも、それを成就させる方法は様々。久のように、手段を選ぶものも居る。
将来の夢は、お嫁さん。和がやりたいのは、甘い、悪く言えばままごとのような恋愛だったのだ。強引なのは、希望に合わない。故に、彼女は肝心のところで必ず一歩引くのである。
己の麻雀観についての会話から偶々それを知った久は、京太郎に一等親身なカウンセラーとして和を使うことにした。
謀は、竹井久の得意。友達というにはまだ浅い、年下の恋敵。そんな相手を利用するのに躊躇いは、あまりない。もっとも、互いが互いを利用していることは察しながらの情報譲渡。
京太郎を思う心は交錯し、そして結果的に彼を救った。
「さて、普通にやっても多少は勝機が出てきたのかもしれないけれど……」
悩むばかりであった京太郎の心には余裕が出来たのだ。周囲を見回すことだって出来るだろう。もしかしたら、意地悪く構う部活の先輩を気にすることだってあるかもしれない。
思うはもしも、もしも。だがしかし、そんな甘い夢想に久が浸ることはなかった。
「もっと悪く、悪く……そうしてから、待ちましょうか」
まだまだ、足りない。悪待ちを好む久にとって、最悪こそ最高の機会。何時か訪れるであるだろうその時のために、彼女は今日も昨日も策を巡らす。
「……私、人間関係が得意とは言えないの。同年代のお友達も、少ないし」
「ふぅん……それは、信じがたいことね」
それは、少女と少年の想いがとっ散らかった日。待ち合わせの時間通りにroof-topへと訪れた久が見たのは、喧騒の中心で憔悴した様子の京太郎に、泣き腫らした福路美穂子の姿だった。
常連客の険のある視線と飛語を嫌った久は軽く事情を訊いた後に先ず京太郎を帰らし、そして奥へ隠れてしまったまこの面倒を見ている彼女の両親に説明をしつつ断りを入れて。
そして、顧問と後輩に話をしてから悲しみを全身で表していた美穂子を引っ張って、近くの喫茶店へと場所を移して仔細を把握した久は、彼女の自虐にそう呟くように応えた。
「ウザいと言われるのも、きっと、仕方ないのよ。私、適切な距離を計れていないことがあるから……」
「そんなことはないでしょう。優しさは、反省するべきものではないわ」
そして、続いた言葉に、久は断言をする。伏せていた左目を、つい美穂子は持ち上げた。
事情を耳にしただけの久にだって分かる。美穂子は優しく、良くも悪くもそれに過ぎていた。そして、時に過ぎたるものは毒になるもの。
確かに、うざったいときも、邪魔なこともあるだろう。今回のように、距離を近くし過ぎて問題が起きる場合だって、勿論あった。
だが、それは久が羨ましくなってしまうくらいの長所でもあるのだ。思わず、笑んで彼女は彼女に言う。
「貴女が隠しているサファイアの青色みたいに、綺麗なところの一つよ」
「やっぱり貴女は、上埜さん……」
「今は、竹井久、だけれどね」
あの日と同じ言葉を再び受けて開いた美穂子の右目の異色を、久は喜びと共に認める。相変わらず、嫌になる程綺麗だと思いながらも。
美穂子は上埜久という少女を意識し続けていた。最初は敵わないからその姿を、目を見開いて追いかけ、それから交わした会話に魅了されて。
ずっと、久の姓が上埜から竹井に変わったことすら知らないままに、美穂子は彼女が放った言葉の真意を求めていた。
再び出会えたこと、それがあまりに嬉しくて、つい美穂子は両の二色の宝石を煌めかせる。
「あ……ごめんなさい!」
「泣き虫ねえ。ほら」
苦笑してから久はハンカチーフを取り出し、渡す。親切受けることを躊躇う美穂子に促しを付け足すことを忘れずに。
拭われる、その手が飲み終えたアイスコーヒーのグラスに当たることで、氷がカラリと音を立てた。
「貸してあげるわ。何時か洗って返して頂戴。後で機会を作るから」
「嬉しいわ。また、会ってくれるのね」
「ええ。だって、福路さんは曲がりなりにもまこに京太郎に良くしてくれようとしてくれたし、貴女が覚えていてくれたように、私も福路さんのことが気にかかっている。出来ることなら、友達になれたら嬉しいわね」
喜怒哀楽の波は美穂子の中でまた盛り上がり、彼女の口元に笑窪が二つ。泣き顔よりもやはり微笑みが似合っていることを確認し、そして久も笑みを作る。
「ありがとう。友達、久しぶりだわ。出来れば、私のことは美穂子と呼び捨てにしてくれないかしら」
「いいわよ。だったら、私のことも、久って呼んで」
「わ、分かったわ」
言われ、美穂子は途端に狼狽した。その躊躇い振りから、承諾してはいるがこれは中々自分から言いそうにないな、と久は思ったが、今回そこは突かずそのままにしておく。
美穂子が落ち着くまでたっぷりと待ち、改めてから久は本題を切り出した。
「それで、美穂子」
「な、何? ……何だか照れるわね」
「切り出した貴女が恥ずかしがってどうするのよ。……まあ、それはいいとして。美穂子、貴女須賀君のこと、好きよね」
「え? ち、違うわ。だって、そんな。彼のことが好きで、それでいて染谷さんを唆すなんて、悪い人みたいじゃない」
美穂子は子供の駄々のように、いやいやをする。それもそうであろう。自身に悪心を認められるほど、彼女は強くない。
優しく、脆い。それが何処までも美穂子の基本色。勿論、そうであるからには、彼女に二心はなかった。
ただ、美穂子は割り切っていたのだ。自分にはもう関係ないのだ、と。
「分かってる。貴女、既に諦めているでしょ?」
「……そう、ね。どうして、判ったの?」
「貴女の性格と須賀君の性質からの、予想ね。でも……私はそれが勿体無いと思っているのよ」
「勿体無い?」
首を傾げる美穂子に対し、妖しく微笑んで、久は応える。
「貴女ほどの相手が敵じゃないと、絶対に私が勝ってしまうじゃない」
口をぽかんと開いたままの綺麗な少女の前で、あまりに楽だとそれはそれでつまらないわ、と悪い顔をした久は繋げた。
「……それで、京太郎の出禁はもう解けたのかな? roof-topに行っても京太郎の顔が見れないとなるとつまらなくて足が向かなくてね」
「一週間で終わっているわ。結局あれは、須賀君を悪意から守るためのものだから」
「下手をしたら看板娘を泣かせた青年が常連さん達の手で私刑にでも合うとでも思ったのだろうかね。常連公認カップルの痴話喧嘩なんて、犬をも喰わないものと思うけれどな」
「そこに美穂子……更に別の女の子が絡んでいたから。嫉妬心で須賀君を見る目もあって、そういうことではないのだと皆に説くのが大変だったみたい」
電話越しに、二人きり。師弟ですらない年の離れた友人同士は、話をする。くゆる煙が空間に大いに互いの違いを演出するようだった。一方、白色を吸い込んで吐き出した彼女の口は、そのまま歪んで弧を描く。
「ふふ……そうか。全く、染谷夫妻は京太郎を随分と、買っているな」
「本当に。今度の合宿の話をしたら、部屋割りに注文を付けてきて、困ったわ」
「男女別にしろ、とか?」
「違うわ。迂遠な言い方だったけれど、要はまこと須賀君を同じ部屋にしろ、って」
溜息が、呑み込まれたのを相手は感じ取る。反して、笑い声を呑み込んだ彼女は言う。
「……それは無理な相談だろう。因みに、合宿の引率に顧問が来られたりはするのかな?」
「何処かの学生会議長さんが余程信頼があるのでしょうね。中学の頃の内申の悪さも忘れてお前なら大丈夫と先生は丸投げしてくれたわ」
「なるほどねぇ。大人の目もない気楽な合宿か。それなら私の出る幕はなさそうだ。だが、それでは困るのではないかな?」
「困るって?」
その疑問符は、ただの体。次の言葉を引き出すための、釣り針にすぎない。しかし、年上の友人は、大げさなチョーカーを空いた手で弄くりながら、平気で予定調和を続ける。
「このままで、勝てるのかい?」
大丈夫だろう、そう思いながらも、しかし友のために彼女はそんな疑問を紡がずにはいられないのだ。
「勿論。靖子に言われるまでもなく、崖っぷちの最悪の位置に居るから大丈夫よ」
「久、普通ならば負けるつもりかと問うべきなのだろうが……お前は本気で勝つ気のようだな」
「そうね。この合宿で、決めるつもりだわ」
「ふふ。頑張るんだな」
「ええ」
言葉少なく意味深に、笑みは交わされた。二人の思惑、一致しながら。
ジャンケンはどうにもつまらないと、久はそう思う。最優の結果を得てはみても、過程は酷く単純で面白みに欠けていて。
麻雀漬けで疲れ切った頭で他の勝負事を誰も思い付かなかったとはいえ、しかし他に、例えばダイスの出目を比べ合うのでも良かったのではないかと、そう考えなくもない。
「部長」
だが、そんな愚慮を吹き飛ばすかのように、低い声が心地よく久の耳に響いた。そう、覗きの監視という無理矢理な名目にて皆で設けて奪い合って折角得た京太郎と二人だけの時間を大事にしなければ、と思い直す。
「何かしら?」
見れば年下の彼は、真面目に牌譜の山へと向かい合っていたようだ。思わず久は座椅子に預けていた身体を彼へと向ける。
少しくたびれた様子の金髪長身が、むしろ大人びた雰囲気のものにすら見えてしまうのは、惚れた弱みなのだろう。
「ここぞというときに見せる悪待ちが目立ちますけど……部長って、何時もは綺麗な手を作りますよね」
「そうね。別に、こっちのやり方に自信があるという訳ではないのだけれど、基本を守ることも大事だから。……須賀君は、もっと奔放に打つものと思った?」
「まあ……」
頬を掻きながら、京太郎は言葉を濁す。それを見て、久は頬を緩める。
久は、京太郎の前では特に、型に嵌まらない振る舞いをしていた。それをちゃんと認めていたのだと解して、彼女は笑うのだ。あの時彼に評されたように、可愛らしく。
それこそ、まるで美穂子のように微笑みながら、久は話を続ける。
「同じ待ちばかりしていては、相手も騙されないし……それに、待っていられなくて。優希も和も早くってね」
「ですねぇ、あいつらと打つと食う暇も殆どないです」
「悠長に待っていたら、まこには対策されて須賀君に流れを奪われてしまうし。それに、咲なんて気軽に避ける上に嶺上牌で和了っちゃうから」
久は、悪待ちと相性の悪い面子ばかりよね、と零す。
そんな反応を軽い感慨を持って横目で見ながら、京太郎は頭を押さえながら牌譜を睨み、改めて彼は自分の中で結論を出した。
やはり、竹井久は強者であると。
「それでも、部長が綺麗に打っている時の勝率って、かなり高いですよね」
「あら、気付いていたの?」
「それはもう、皆知っていますよ。だからこそ、和は部長の悪打ちを嫌うんでしょうね。そんなことをしなくても、勝てるのに、って」
「そんなこと、ねぇ……」
「部長?」
小気味の良い応答が、渋る。それが気になり京太郎が紙束から目を話すと、立ち上がった久が物憂げに近寄る姿が目に入った。
年の数は二つ離れているばかり、しかし近くの大人気が、少しだけ京太郎の胸を高鳴らせる。
「一人で過ごした一年間、私も何もしていなかった訳でもないの。ツキがなくても、能力を使わなくても、打てるようにはしているのよ」
更に京太郎に近寄った久は、書かれた今日の牌譜を指でなぞった。そして炭素が指先に付いたことで掠れたその綺麗なタンヤオ手を、爪で更に詰る。
「でも、付け焼き刃を信頼するほど、私は素直ではないの」
後付とはいえ、その刃は鋭いものがあった。それこそ、久は普通であっても後の県予選にて安い手とはいえ六回連続で早和了りをし、少し前の東場の優希に泣き言を口にさせる程に速攻で手を作れる程の腕前なのである。
だが、足りない。マトモでは決して勝てないあの圧倒的なチャンピオンの闘牌を思い起こせば、頂点に手を伸ばすということがどれだけの難度か判るものだったのだ。
「牙を抜かれた虎、ではないけれど。私は自分の一番の武器を使わないと、安心なんてとても出来ないわ」
「一番の武器……」
意外と、緊張し易い久は、自分の中で得た自信を大切にする。目の前で憂慮している様子である愛おしい京太郎によってもたらされたものであるから、それはまた更に。
しかし武器を得たばかりの京太郎の懊悩は存外深く、数多のやり方の中で一番を持たない彼は、何かヒントを得ようと、口を開こうとした。
「でったじょー!」
その時。風呂から出たことを知らせるために高く響かせた優希の声が彼らへと届く。
半端な口元は改められて閉じてしまい。京太郎が選ぶチャンスはこれで一つ、潰れた。
「優希ったら、これじゃあ、他のお客さんの迷惑になってしまうわね」
「本当ですね。後で叱らないとなぁ……」
「ところで、話が変わるけれど。――――須賀君って、咲のこと、好きでしょ?」
普段が帰ってきた安堵。京太郎のその隙を突いて、久の言葉は鋭く突きつけられた。
驚きに、沈黙が広がる。誤魔化そうか悩みながら京太郎が恐る恐る、振り向いてみると、紫の瞳が側にて瞬いていた。あっという間に、彼は呑まれる。
「うっ。それは……その……」
「部長命令よ、答えなさい」
「……はい」
「ふふ、冗談だったのに、須賀君ったら真面目ね。でも、それなら二人は相思相愛じゃない」
様子で判っていたけれど、と言い、何処か久は嬉しそうにした。
それはまるで年下カップルの誕生を素直に喜んでいる先輩のようで、祝福されているつもりになった京太郎は愚かにも警戒を再び薄くする。
「後で二人きりの買い出しの機会を設けるなりして、チャンス、作ってあげましょうか?」
「それは……」
「ふふ、直ぐには言えない、か。まあ、焦ってもいいことないとは思い知っているでしょうからね」
「その節は本当に……」
「はいはい。気にしない気にしない」
そのからかいも何時もの通り。全てを普段通りと受け取ってしまった京太郎は、紫色の奥に潜む暗さに気付くことはなかった。
だから、ただ感謝を表すために、頭を下げる。だから京太郎は、久に浮かんだ嗜虐的な色を見逃してしまったのかもしれない。
「ありがとうございます。なんだか、自分の中で想いが明確になった感じがします」
「それは嬉しいわね。そろそろ皆帰ってきそう。私も入浴準備をしようかしら……あ、そうだ。須賀君」
「何ですか? 用意するなら退きますし、覗きませんよ?」
「それじゃないわ。――――私も貴方のこと、好きだからね。覚えておいて」
それは唐突な告白。彼女は言葉で彼の心をきゅうと、痛めつける。
あまりの刺激を理解できずに停止した京太郎の前で、しかしそんな無防備な想い人に何をすることもなく。
恋を表立たせることもなく、久はばいばいをして、分かれた。
「冗談……じゃないんだろうな」
だが、質の悪い嘘ではないと判じてしまった京太郎の心は、しばらく久への想いで占められることとなる。咲に頬を抓られ、普段を取り戻す、その時まで。
「はぁ……」
竹井久は、火照った顔を冷まさないまま、着替えとお気に入りのバスセットを持参しながら風呂場へと急ぐ。
すれ違った恋敵達の訝しげな視線を、手を振り断ち切りながら彼女は人気のない浴場へ身体を隠した。
「これがきっと、一番悪い待ち。普通なら、どう考えても、私に運命が振り向くことはないでしょう。最悪の、状況」
そして、一息ついて、洗面台の鏡へと顔を近寄せる。持ち上がった顔に、影は次第に失われ、そうして最後に明るさばかりが残った。
「でも何時も――――勝っちゃうのよね」
久は自分の勝利を確信して、彼に独り占めしてもらうための自分の中で一等可愛らしい笑顔を試す。
ここに一つ、花が咲き。
「ごめんね……京ちゃん」
そして、何処かで花が散る。
ギリギリですが、京太郎君の誕生日に間に合いました。お祝いに……この内容で果たしてなるのでしょうか?
ダイスの結果……竹井久77+26
また百を越えましたが違いを出すのが難しく、こんな告白に。
次回から、最終章に入ります。
作中に挙げた漫画の中の描写二つを見る限り、普通に打っても恐らく久さんは相当に強いのではないか、と勝手に思っています。