ここから先のジムはこれまでのジムとは別格らしい。
早速ジムを尋ねたリョウジは、意外ななりゆきで意外な目に遭って・・・
ヤマブキジムへの訪問は、これが二度目だ。そして・・・なぜか俺は今、ジムリーダーのナツメさんに抱きしめられている。
何この状況? なんでこんなオイシイ目に遭ってんの俺?
それを整理するためにはヤマブキシティにたどり着いたところまで話を遡らなければならない。
エリカさんとの惜別を経てヤマブキシティへとやって来た俺は、一旦ポケモンセンターに旅装を解いた。
何せヤマブキシティへとたどり着いたのは、ポケモンセンターの門限である22時にかなり近い時間だったからだ。
しかし、街に着いたあたりから、どうも雰囲気が妙だと思った。良く分からないが、何か物々しい雰囲気が街を漂っているのだ。
緊張状態とでも言えば良いのだろうか。とにかく何か落ち着かない感じがしてならなかった。
そう言えば、途中で人々が口々に妙な噂をしているのと聞くともなく聞いた気がする。
なんでも、ロケット団がこのヤマブキシティにあるシルフカンパニー本社の占拠を画策しているのではないかという話だった。
別に何かの証拠があるわけでもなければ、実際にそうした動きが見られるわけでも無いらしいが、そうした噂が立つだけで街の人々は一様に不安げにしている。ロケット団とはつまりそういう存在なのだ。
この街には別の緊張の種もあるにはあった。現在ポケモンリーグ協議会が認定している公式のジムは言うまでもなくヤマブキジム。だが、この街にはもう一つ、ポケモンの高みを目指す者達が集まる場所があった。
外観は普通のポケモンジムのそれだ。実際、多くの人がこの街を訪れた時にそこがヤマブキジムだと勘違いして入っていくこともあるのだそうだ。
ここは元々はポケモンジムとなることを目指した格闘ポケモンの使い手が集まっている場所で、現在のヤマブキジムとどちらが正規のジムとなるかを決定するために戦い、残念ながら敗北した。
当然と言えば当然かもしれない。ヤマブキジムはエスパータイプのジムで、そこは今では格闘場と呼ばれている通り格闘タイプのポケモンを使う人が集まっている。言うまでもなくすこぶる相性が悪い。
いや、基本的にエスパータイプのポケモンは、他の多くのタイプのポケモンに対して圧倒的に有利な状態で戦うことができるのだ。
ただ、もちろん苦手なタイプが無いわけではなく、ゴーストタイプには滅法弱いし、聞いた話だとあくタイプと呼ばれるポケモンには、エスパータイプの技が一切通じないのだそうだ。
とりあえず俺は、そのタイプがカントー地方に生息しているという話を聞いたことが無い。まあ、少し聞きかじったところでは、イーブイが何かの石に触れるとあくタイプのポケモンに進化するという。
ただ、元がイーブイだから、あくタイプになってもきっとかわいいに違いない(笑)
ところで、センターの中はそういう感じでは無かったが、センターに泊まっているトレーナーたちは皆一様に暗い顔をしていた。
どうやら彼らはジム戦に挑み、負けてしまったらしかった。
タマムシジムで聞いた話だったが、ヤマブキ、セキチク、グレン、トキワの各ジムのジムリーダーは、その他のジムリーダーとはレベルが違うのだそうだ。
特にトキワジムのジムリーダーはポケモントレーナーとしての実力もさることながら、高いカリスマ性も備えた人物だという。
今は行方不明となり、そのジムがロケット団の関連施設になっているのは何とも皮肉な話だった。
また、セキチクジムのジムリーダーは現在四天王に最も近い人物として知られている。
この他にも現在在任中のジムリーダーとしては最強と名高いグレンジムのリーダー、そして、決して数が多いとは言えない、しかも育てることが難しいエスパータイプのポケモンの専門ジムとしても有名なここヤマブキジム。
俺は挑戦者では無いが、やはりこれまでのジムとは違ったプレッシャーを感じずにはいられなかった。
そんなジムへの挑戦が簡単に行くわけが無い。彼らもきっとヤマブキジムの洗礼を受けて消沈しているのだろう。
先の通り挑戦するつもりは毛頭無いが、珍しいエスパータイプのポケモンを見てみたいし、できれば捕獲のアドバイスももらいたい。
それは当然のことだ。何せ、俺個人の目的はともかく、旅の一番重要な使命はオーキド博士の研究のためにカントー地方のポケモンを全ての種類、可能な限りの数を集める必要があるからだ。
オーキド博士の話によると、他の連中は俺がヤマブキシティに着いた時とほぼ同じ間隔で旅を続けているらしい。焦る必要は無いが、急ぐ必要はあった。
そこで俺は、気の毒ではあるがジムへの挑戦に失敗したとおぼしきトレーナーの中から、比較的話の聞きやすそうな男の子からジムの様子を聞き出すことにした。
「僕はジムリーダーにすら届かなかった・・・」
彼は開口一番そう答えた。
他のジムと同様に、ヤマブキジムも内部が細かく仕切られていて、中でジム生とのバトルをして勝ち残りつつ進む必要がある。
ところが、ヤマブキジムは内部の構造が特殊で移動が難しく、おまけにジム生たちもエスパータイプのポケモンを使う難敵ばかりだという。
挑戦者ではない俺にはどうでも良いことではあるが、受付の人の対応は尋常らしいので一安心だ。
翌日俺は、早速ヤマブキジムを尋ねてみることにした。
ついでながら、ここはロケット団に入る前のヒデト兄さんが暮らしていた街である。
ジムに到着するまでに、俺は何人ものトレーナーたちとすれ違った。みんな一様に何かを恐れるように必死に走っていた。まるでジムから逃げ出すかのように。
ジムが近づいてくると、今度は明らかにヤマブキジムのジムトレーナーとおぼしきトレーナーたちも走ってきた。これまですれ違った連中と同じように恐怖に引きつった必死の形相だった。
「あの。すみません・・・」
と俺が言い終わるまでもなく彼らは恐るべき早さで俺の横を走り去っていった。電光石火とは技名ではなく彼らに送るべき称号なのかもしれない。
いずれにしても、ジムに何か異変があったのは間違いなさそうだった。しかも、ジム・トレーナーが我がジムを後に脱兎のごとく逃げ去るような事態が。
一体何が起こっているのか皆目検討がつかなかったが、俺としてはジムを訪ねるより他ない。他に目的などありはしないからだ。
正直、最初に頭に浮かんだのはロケット団の存在だった。彼らがこの街にあるシルフカンパニーを狙っているという噂はここに来るまでに何度も耳にした。
しかし、様子からしてそうでは無いように思える。というのも、街全体が例の妙な緊張感を保っているものの、何らかの混乱が起こっているという感じではないからだ。
俺はポケモングッズには興味はあるが、そのグッズを作っている会社とやらにさほどの興味は無い。だが、ポケモン業界(?)では有名なその会社が、もし巷で囁かれているような事態に陥っていたとしたら、この街は相当混乱していただろうし、外を普通に歩くなんてこともできない状態になっていただろう。
また、その足がかりとして連中がヤマブキシティの攻略に乗り出したというのであれば、ジム生が黙っているはずがない。おそらくあんなふうに逃げ出すような輩はいないだろう。
そこまで考えながら歩いていると、俺は今この時までヤマブキシティの中央にこんなドデカイビルが建っているという事実に気が付かなかった。
シルフカンパニー。ポケモンに関連するグッズのほとんどを作っている会社だ。シオンタウンで俺がフジさんから受け取ったスコープもここの製品、しかもかなりのレアアイテムだ。
今まで俺がお世話になり、そして今後もずっとお世話になるであろうポケモングッズの大半が、この会社で作られているという。そんなら、ずいぶんと設けているに違いない。俺は金持ちが嫌いだ。
会社はオープンな雰囲気で、製品開発の研究エリアを除けば、事前に連絡さえ入れておけば一般の人でも気軽に見学ができるという。将来的にポケモングッズに関わる仕事に携わりたい連中にはまさに垂涎の極みだろう。
俺としてはそれほど興味があったわけではなかった。まあ、人並みにそんな大きな会社があるのかという程度の感想を持っていただけだ。
そりゃ、今手にしているアイテムを世に送り出してくれているという事実については、必要最低限の感謝と敬意を持ってはいるが、それだけだった。
彼らはポケモン業界に大きく貢献しているのは明らかだが、オーキド博士のように俺達の孤児院に寄付をしてくれたり、俺をはじめとした子供たちにもポケモンについて教えてくれるといった直接的な世話をしてくれているわけではない。
子供なんて現金なもので、自分の面倒を見てくれる人には当然感謝するが、それ以外の大人は基本的に街の街路樹や公園のベンチと同じかそれ以下くらいにしか思わない。そして、俺もまた子供なのだ。
なもんで、俺にとってはこの街にあるでかい会社について何の感慨も無い。あるのは別格の実力を持ったトレーナーがジムリーダーを務めているジムがあるというくらいの認識くらいのものだ。
無駄にでかい建物を横目に見ながら、俺は格闘場と並んで建っているヤマブキジムを目指して、何となくチンタラ歩いて行った。
ヤマブキジムは、たどり着いてみると何やらひっそりとしていた。高名なトレーナーがリーダーを務めているジムとは思えないほどの人の気配が感じられなかった。
受付と思しきカウンターがある。現に『受付』と書かれたカード立てが置いてある。にもかかわらず、誰も座っていない、実に妙だ。
というか、ジムの中が全体に薄暗い。まるで電気が消えているみたいだ。おまけに人の気配もほとんどしない。ますますもって妙だ。
とりあえず俺は、昨日ポケセンで話を聞いた男の子の情報を便りに、周囲とは少し違う色をしたパネルの上に乗ってみた。
不思議な感覚だ。乗ったと自分が認識した瞬間には、既に自分が別の場所にいる。テレポートというのはこういうものなのかと驚くばかりだ。
俺の手持ちにもケーシィがいて、そろそろユンゲラーに進化するのではないかと思うのだが、あいつも野生の頃に良くテレポートを使っていたはずだ。こんな感覚に慣れっこなのかと思うとますます不思議だ。
ポケモンとは知れば知るほど不思議な生き物だ。だからオーキド博士のような研究歴の長い著名な研究者が、今に至るも研究を続けているのだろう。きっと毎日新しい発見があるに違いない。
そう言えば、聞いた話だとここのジムリーダーのナツメさんも超能力者で、ジム生の中にも数人そうした人がいるという。彼らもまた、日常的にこうした感覚を味わっているのだろうか。
ポケモンも不思議だが人間も不思議だ。そんな能力がある人もいれば、俺のように全くそっち方面には才能が無さそうなのもいる。色々な人がいるから人生は楽しい。
俺がそう思っているのではなく、時々オーキド博士が言っていた言葉だ。俺にはまだその気持ちが良くわからない。
さて。昨日聞いた話だと、いくつかある部屋にこうしたテレポートができる装置のようなものがあって、2つ程度部屋を移動するごとにジム生が居ると聞いたが、何度移動しても俺は誰にも合わなかった。
ただ、時々ジムの中心とおぼしき方向から低い衝撃を伴った音が聞こえてくるばかりだ。一体このジムに何が起こっているんだろう。
進むについれて、その音がわずかではあるが大きくなっている気がする。ひょっとしたらもうすぐナツメさんの居場所につくのかもしれない。
あるいはその場所で、何らかのトラブルが起こっているのかもしれなかった。それがもしロケット団絡みだったら…
もちろん容赦はしないぞと思いつつ、用心して先に進むことにした。
用心もくそも、ワープしてしまえば何にもならない。俺は唐突にナツメさんが普段いる部屋と思しき場所にワープした。
そして、目にしたものは俺が想像していたものとはずいぶん違っていた。
なんとそこには、半狂乱で暴れているナツメさんと、彼女を抑えようとしているジム生の姿があったのだ。
「ナツメさん!落ち着いてください!!」
「いや〜〜〜!!離してええぇぇ〜〜〜〜!!」
傍目からは助けたくなるような叫びをナツメさんが上げると、まるでアクションゲームのワンシーンでも見ているかのようにジム生がふっとばされた。
危険な状態なのは見るだけで分かる。ロケット団とは関わりあいが無いのは良かったが、これは一体どうしたことなのだろう。
そうこうしている間に、もう一人のジム生らしき人物が必死にナツメさんをなだめようとしているが、ナツメさんは完全に混乱している。
「やむを得ません! スリーパー! サイコキネシス!」
どうやらジム生はポケモンの力でなんとかナツメさんを抑えようとしている。自分自身も手をかざしているところを見ると、ご本人さんも少なからずそうした力があるようだ。
「いやあああぁぁぁ〜〜〜!!!」
叫び声が周囲を一閃したかと思うと、なんとナツメさんはジム生とジム生のスリーパーをふっ飛ばしてしまった。いやはや。ポケモンと人間両方の力を一人で上回るとは恐れ入る。
しかし、どうもヤヴァイ雰囲気だ。このままここに居たら俺も巻き添えを食いそうだ。正直ロケット団以外の面倒事は御免被りたい。俺は早々に立ち去ることを決めたが、その判断が一瞬遅かったらしい。
ナツメさんは部屋にいる部外者の存在に気がついたらしい。美しい顔に夜叉の表情を浮かべ、すさまじい殺気をこちらに向けてきた。ヤヴァ過ぎるだろこんなもん。
「ゴースト! ナイトヘッド・ウォールだ!!」
俺はナツメさんがこちらに仕掛けるよりも一瞬早くゴーストをボールから出して命じた。
ナイトヘッドは本来、ポケモンの強さに応じたダメージを的に与える技だ。ゴーストタイプであるためノーマルタイプのポケモン、例えばラットなどには通じないが、エスパータイプには効果はてきめんである。
もっとも、ナツメさんはポケモンではないし、俺も本来はこのジムに挑戦するつもりはない。したいのは見学だし、できればエスパータイプのポケモンについて色々とアドバイスが欲しい。
だが、どう考えてもそんな状況にはない。ある種の用心のためにゴーストを連れてきたのが、ここでは奏功したことになるわけだ。
ところで、本来威力が固定されているとされているナイトヘッドだが、俺はこいつがゴースの頃からこうした練習をさせていた。これは攻撃と防御を同時に行うためにやらせた俺オリジナルな技だ。
ナイトヘッドは元々、敵に幻を見せてダメージを与える技だ。俺はあえてこの技を威力を抑えさせることからやらせ、徐々に小さな幻を壁のようにそびえ立たせるように工夫させた。
そのおかげで、敵は巨大な幻の壁を見ることになる。何が見えているのかはそれぞれ違うらしいが、何か恐ろしいものが縦に積み重なって襲ってくるというのは、受ける側からすればたまったものではないだろう。俺なら嫌だ。
こうした巨大な幻を前にすれば、よほど肝の座った相手で無い限りひるんでしまうし、幻が大きすぎてゴーストの姿を視認することができなくなる。
威力は抑えたものを積み重ねているのだから、敵に与えるダメージは通常のナイトヘッドとほぼ同じ。威力を落とさずに敵をひるませ、攻撃の命中率を下げることができるというわけだ。
ところで、その幻のおかげでナツメさんは一瞬怯んだようだ。トレーナーにも威圧する効果があることが分かったのはめっけものだ。
「フーディン! テレポート!!」
俺の後ろから誰かがポケモンに命じた声だ。どうやらジム生のどちらかが命じたものらしい。
そう思った瞬間、俺はヤマブキジムの外に出ていた。どうやら追い出されたらしい。と思ったら、先ほどナツメさんをなだめようとしていたジム生、一人は女性のようだがその人たちも一緒にいる。
「やれやれ…君が一瞬ナツメさんを惹きつけてくれたから助かったわ」
「まったくだ。あの状況のナツメさんに挑むなんて骨のあるトレーナーがいるなんてね」
口々にそう言うが、俺としては未だに状況がつかめない。そんな俺に、二人は代わる代わる説明してくれた。
要約すれば、ナツメさんは情緒が安定しない人なのだそうだ。普段はそうでも無いが、一度バランスが崩れるといつまでも泣き続けたり、落ち込んでしまったりするらしい。それが周期的に来るわけでもなく、不定期に起こるのだそうだ。
普通の人なら、なんだか面倒くさいだけで済む話だ。だが、ナツメさんはカントー地方でも4指に入る凄腕のジムリーダーであり、ご自身も強力なサイキッカーだ。
そんな人が情緒不安定になって暴れ出したら… さっき見た通りのことになるというわけだ。ハッキリいって、先ほどナツメさんが手持ちのポケモンを出さなかったのは僥倖と言って良いだろう。
「まあ、そんな状況だから、今日は挑戦は諦めた方が良いと思うわ」
「いえ、俺はジム戦をしに来たわけではなくてですね…」
俺は二人に、ヤマブキジムへの来意を伝えた。俺の境遇は伏せておいて、オーキド博士の依頼で各地のポケモンを集めていて、その関係でエスパータイプのポケモンに関することで色々とアドバイスを貰いたかったのだ。
「アドバイスねぇ…俺達でできることなら協力させてもらうが…」
「ナツメさんに直接聞くのが一番良いにこしたことはないわね。でも今日は…」
「そうですね…」
さしあたり俺は、しばらくポケモンセンターに逗留して、ナツメさんの感情が通常に戻るのを待つことにした。
二人はそれぞれアキラとサヤと言って、本来なら彼ら二人とのバトルに勝ち抜かなければナツメさんに会うことはできないんだそうだ。
「君ならバトルでも相当良いセン行けると思うわよ」
「ま、とにかく落ちつたら連絡するから、それまで待っていてくれ」
「分かりました…」
正直、気が重かった。もしナツメさんが落ち着く前にシゲルなりサトシなりがここにやって来るようなことになったら目も当てられない。
とはいえ、当面はできることも無いから、オーキド博士と連絡を取りつつナツメさんの様子を伺う他はなさそうだった。やれやれ…
アキラさんから連絡があったのは、その二日後のことだった。正直も二、三日経ってもダメだったら諦めてセキチクシティに向かおうかと思っていた時だった。
「その、一応今は安定しているから、話くらいは聞けると思うよ」
一応というのが若干引っかかったが、どうやら俺はアキラさんとサヤさんとのバトルは免除されるようだ。ジムへの挑戦ではないことと、あの時の俺の行動からそうしても良いという判断がされたという。
まあそんなもんかと思いつつ、とりあえずナツメさんに挨拶をしようとしたところ、いきなり抱きすくめられて今に至るというわけだ。
「ちょ、ちょっと待って…わぷ!」
ほとんど無表情のまま、ナツメさんは驚くほどに情熱的に俺を抱きしめてきたのである。これには驚くより他なかった。
「すまないね。今はどうやらとにかく何かを可愛がりたいらしくて」
それならそれで、なんで俺なんだという思いがあったが、この状況はムッツリな(自分で言っちゃった)俺には悪くは無い状況だ。
しかし、こうして抱きしめられていると、どういうわけか徐々にそういう考えが薄らいでいったのは自分でも驚きである。
何と言えば良いのか… 今の俺の気持ちを表現するとすれば、それはおそらく『安心感』が最も適切なのではないかと思う。
俺は孤児院で育ったわけだが、孤児院にいる子どもたちがそこに来ることになった時期というのは、当然ながら人それぞれだ。赤ん坊の時の奴も入れば、ある程度は分別のある年齢で入った奴もいる。
俺はと言えば、分別があったかどうかは知らないが、自分が母親によって孤児院に入れられた時の記憶が残っている。そういう年齢だった。
あれは確か雨の日だった。俺の母親は罪悪感があったのか、最後に俺のポケットに大量の飴を入れて行った。雨の日に飴をもらって捨てられたのだ。なかなかに洒落た人生の始まりだった。
そんな年齢だったから、院には俺より年下の子供もたくさんいた。経費の関係上、院で働く人の数は知れているから、俺のような年齢の子供は自分のことは自分でするしかなかった。
そうだ。俺は… 俺はこんな風に誰かに抱きしめられたという記憶が一切無いのだ。
これまでの人生の中で味わったことの無い感覚。なんて柔らかくて、暖かくて…
おそらく自分に母親というものが存在していたとしたら、こうした感覚を幼い頃に味わうことができたのかもしれなかった。だが、俺はその母親に捨てられたのだ。
理由は知らないし、今となっては知る術は無い。また、知りたいとも全く思わない。結果として俺が捨てられてしまった事は間違い無いのだから。
愛を感じたことが無いわけではなかった。メイコ先生をはじめ、院の職員の人たちはそれぞれの形で俺に愛情を注いでくれていたと思う。
だが、それはやはり母親から注がれるそれとは全く違っていた。無条件にすべてを独占できる母親からの愛など、俺を含めた院の子どもたちには望むべくも無かったのだ。
院には、俺と同じ年齢かそれ以下の、もっと世話を必要とする連中がたくさんいた。誰かの手を煩わせることはもちろん、それを独占するような真似を俺がすべきではなかった。
ああ。何ということだ。おそらく知る必要もなかったもの。しかし、こんなにも素晴らしいもの。俺は今、それを知ってしまった。
こうした思いは、俺に否応なく自分の境遇というものを殊更強く認識させた。しかし、それでも俺は今、初めて自分が幸せな状況になるのではないかと感じずにはいられなかった。
旅の途次で、こんな思わぬ出来事が待っているとは考えていなかった。俺は、これまでの自分の人生の中で望むことはあっても手にすることはできないものを、今感じているのである。
「ありがとう…」
俺の耳に届いた言葉は、当然ながら俺が言ったのではない。どうやらそれがナツメさんの声のようだ。初めて聞いた。
「俺の方こそ…ありがとうございます」
俺はナツメさんに礼を言いつつ、そろそろ離れなければならないのかと思った。とても残念だったが、それも仕方のないことだった。だが。
「うわっと! ちょっと」
ナツメさんは再び俺を抱きしめた。さっきよりももっと強く。それはまるで、ぬいぐるみか何かを抱きしめるかのようである。
(うぷっ…かなり幸せな状況だが、このままでは息が…)
俺はなんとかもぞもぞと動いて、ナツメさんの豊満な胸の谷間からかろうじて顔を出した。ちょうどその時、ナツメさんと目が合ってしまう。
本当に綺麗な人だ。エリカさんとは別なタイプではあるが、まさに噂に違わぬ美人だ。正直何を考えているのかさっぱりわからないが。
俺はあれこれ考えるのをやめることにした。今、俺はナツメさんに抱きしめられていて、俺はそれを心地よいと思っている。それで良いんだ。
きっと気が向いたら、ナツメさんは俺を離すだろう。アドバイスをもらうのはその後で良い。
この時俺は、この後起こる事件のことなど、全く予想していなかった。
そして、その事件が俺のこの後の旅に後々まで影を落とすことになるということも、知るよしも無かった。