色々と考えて考えて捻り出した結果、時間的にも文章量的にも長くなった。
このあたり実は色々と定まってなかったというのも事実。
とりあえず、お待たせしました。
――いつの間にか、目の前には一面の緑の景色が広がっていた。
ここは草原だろうか。見上げれば晴天が広がっている。木々に囲まれた草原。風が吹き抜けて、草を揺らしていく。
しかし、この場に立って、その風を頬に浴びたはずのエトは、その風を感じることはなかった。
この風景は――この場所は――
しばらくすると、その静かな景色の中に、二つの人影が写り込んだ。一つは長身の男の姿。それが誰かはよく分からない。もう一つは小柄な男の姿。こちらも誰かははっきりとは見えなかった。
その二人は距離を取り、そして長身の男が手に持っていたものを上に投げる。
コインか何かだろうか、回転する円状が空高く放物線を描き、そしてゆっくりと降下する。
やがて距離を取った二人の丁度中心に落下――同時に二人は中心へと向かって走り出した。
足の長さを考えれば普通に長身の男の方が先に中央へと到達するはずだが、手加減したのだろうか、二人がそこに着くのは同時だった。
そして、二人がゼロ距離の射程に入った時、徒手空拳でのインファイトが始まる。
手を出し足を出し、相手の手を足を躱し防ぎ、相手に致命的な一撃を加えようと、力と速度と技を競う。
訓練か何かだろうか。お互いから殺気を感じることはないし、暴力的な雰囲気を感じ取ることもない。これは、エトとクーの師弟関係でのトレーニングのようなものだろうか。
いや、その姿こそ見えないが、その光景は二人の鍛練風景そのものだ。
長身の男はクー、小柄な男はエト。そしてその二人が、実戦形式で戦闘訓練を行っている。
ならばこの風景を見ているエト自身が風を感じなかったことの違和感の理由がはっきり理解できた。
これは恐らく夢か何かだ。
いつかこの身で体験し、この目で見てきた数ある光景のうちの一つ。それを別の視点から、身体という概念もなくただ映像として見守っているのだ。
霧の禁呪だかループ世界だかに巻き込まれる前、生きることを願って、強くなることを願って、戦うことを願って、貧弱な身体を酷使し、まるで願ったことと対照的な、無謀であり自傷的ともいえる鍛錬の数々を師匠であるクー・フーリンに叩き込まれてきた。
そのうちの光景の一つ。
殴られ、蹴られ、打たれ、転ばされ、投げられ、飛ばされ、それはもう、地獄の日々だったと言って差し支えない。血反吐を撒き散らし、全身の感覚を何度も失いながら、ただ前へ、前へと、目的を見失っても我武者羅に進み続けた。
地獄の日々だった。しかし、辛くはなかった。苦しかったが、やめようとは思わなった。
その痛みが、苦しみが、何かを成し遂げる糧になる――目の前の屈強な戦士が、言葉を用いず、ただその在り方のみでそれを示しているようにも見えたから。
そう、ただ、信じたのだ。
ベッドに伏せているだけだった自分が、何もすることができなかった自分が、姉に、家族に助けられるばかりだった自分が、自分を救った英雄と同じ道を辿ることで、何かは分からない――だが何か、誰かに誇れる何かをこの手に掴むことができるものと。
この時は、自分が強くなって、少女に背を向け敵に立ちはだかって、まるで英雄譚の主人公のように誰かと戦うことがあるなどと夢にも思わなかった。
強くなるための目的など、何一つとして持ち合わせていなかった。目の前の最強の男と、同じようにありたいと、ただそれだけを追い求めて。
今の自分は、この夢の時の自分から、少しでも前に進めただろうか。
戦闘技術では強くなった。それについていくことができるメンタルも成長しただろう。そしてその武力を振り回すための理由も見つけた。ただ一人のための、頼りがいのある勇者になりたいと。
「――」
摸擬戦が終わったようだ。最後に派手に吹き飛ばされた少年は、地面の草の上を滑るように数メートル転がった。
長身の男が少年に一言二言呟いて、彼に背を向け歩いて去っていく。
かすり傷を幾つもつくりながら、ところどころを血で染めながら、少年は自分の体をぎこちないながらに立ち上がらせる。
一歩、二歩。体中を怪我しているのか、千鳥足でゆっくり進む――が、その足はすぐに止まった。
少年は、止まったまま動かない。夢の中で、時間が停止してしまったのだろうか。
徐々に視界が暗くなる。この夢が終わりを迎えるのか。
夢が終わって、目が覚めて、その先に待っているのは――一体何だったか。思考がうまく働かない。
暗くフェードアウトしていく世界の中で、ただ一つ、その色彩を鮮明に保っている存在があった。それは先程までずっと歩みを止めていた、少年の後ろ姿だった。
『君はそんなところで、何をしているんだい?』
その背中が、唐突にこちらに問いかける。
恐らく、この夢の世界に、この夢を見ている実際のエトという存在はない。いわば実体のないカメラのような自分に、少年は声をかけたのだ。
この夢を見ているエト・マロースという存在がいるということを理解して。
『現実から目を背けているのか、あるいは』
言っている意味が理解できない。
『そもそも現実に帰ることができない――既に死んでしまったか、二度と目覚めない植物状態か』
その声音は、まるで他人事のように淡々としたものだった。
容姿が同一人物であるとは言え、夢の世界での彼と自分は他人であることには違いない。
『まあ、もし再び現実に戻りたいのであれば、少し僕の言葉に耳を傾けておくといいよ』
まるで舞台演劇のような軽快な台詞。
しかし背中を向けたままで、その表情をこちらに見せることはない。
『簡単に言えば、身の程を知れ、己の存在意義を知れ、本当に成すべきことに気付け、ってなかなか残酷なものなんだけど』
笑っているのだろうか。もしそうなのだとしたら、それは明るくするためのものだろうか、それとも侮蔑の意味が込められているのだろうか。
何にせよ、こうして夢から脱出することのできない現状で、彼を視界から外すこともできず、手足もないなら逃走することも足掻くこともできない。
つまり、少年が言うまでもなく、最初から彼の言葉を訊く以外に選択肢などないという訳だ。
『そうだね、まずは何から話そうか――』
相変わらず少年はその表情を見せることをしない。
ただ、ほんの僅かに見える程度だが、考え込むような仕草をとる。
『決めたよ。いきなりで申し訳ないけど、最初から、僕がいかに君に見下した評価をしているか、ということから始めようか。正直に言わせてもらうと、君は勘違い甚だしい』
唐突に彼の口から飛び出す罵倒。
『もしかして、誰かを守るために強くなってきた、なんて言わないよね。大切な友達や、大好きな女の子がいるのかは知らないけど、君にとっても僕にとっても、そんなものは後付けの理由でしかない。そんな中身のない理由で、僕たちは強くなったんじゃない』
実体のないエト自身を、激情が襲う。
もし今コントロールできる身体があれば、その手に武器がなくとも彼に拳を握って飛びかかったかもしれない。
存在の全否定。生涯の全否定。エトにとって、それだけは許されない行いだった。
『空っぽの信念がそんなに大切なのか知らないけど、怒りを露わにするのは間違っている。僕たちは、あの小さな家から飛び出した時から、そんな崇高な理由で強くなろうとしたわけではないことを知っているはずだ』
そう、その時は、ただ目の前の強者のように強くなりたいだけだった。
先人に対する畏敬の念。それだけがエトを強く動かしてきた。
だが同時に、ここ風見鶏に来て守りたいものが増えたのも事実だというのに。
『だったらまず最初の課題から済ませてしまおう。身の程を知ってもらおうか』
少年が最初に提示した三つの課題――まずはその一つ。
聞いてやる義理もないし、そもそも聞きたくもないのだが、選択肢がない以上仕方がない。
『簡単に済ませてしまおう。――思い上がるな。君は英雄でも勇者でも正義の味方でもない。そんな綺麗で立派な存在だといつの間に勘違いをしていたの?』
存在しないはずの喉が詰まったような気がした。
紛れもなく図星。ただ一人の少女の笑顔を見たいと、この身を傷だらけにしてでも戦い抜くと覚悟を決めたのはつい先ほどの話ではないか。
しかし、同時にその言葉に対する疑問。
英雄、勇者、正義の味方。それは確かに綺麗で立派、そんなものになったと思い上がっていたのは事実だ。しかし、それがどれほどの犠牲を生んだか。誰に迷惑をかけ、誰を危険に陥れたか。
ない。そんなことは断じてない。
仮にそのような肩書に不釣り合いな人間だったとして、その重みを背負うに相応しい人物になろうとする心構えのどこに、間違いがあるだろうか。
『違う、心構えとか、理想とか理念とか、そんなものの話じゃない。僕たちにとってそれは、僕たちの人生を大きく左右するものだ。それを勘違いしたままでいるならば、君は一生底から先に進むことはできない』
先へは進めないという一言に、場の空気の温度は一気に下がった。
それは暗に、これから語られることの核心がこの先にあるということだ。
『僕たちは、まずは生きたいという生への渇望を、そして生き足掻くための活力を、そしてその為の方法を、師匠から授かった。それは決して彼が僕にそうして欲しいからそうしたわけじゃないのは、君もよく知っていることだろう?』
そう、彼は自分に問うたのだ。諦めるのか、と。生きたいのか、と。
彼にとって、当時は自分が生きていようとくたばろうと何の関心もなかった。
彼が最終的に自分の延命に協力したのは、自分自身がその意志と覚悟を見せたからだ。
それはつまり、彼の問いから、その問いに対する答えを自らの意志で奪い取ったに他ならない。彼ならそうする、それ以外の何を考えるだろうか、と。
『たくさんの人から、強者から身を護る術を学んだ。強者を相手に戦う術を学んだ。強者を下す術を学んだ。人を傷付け殺すということも、殺さなければ殺されるということも、そして、殺す相手に感情を持つなということも――』
それらは全て、師匠が教えたくて教えたわけではない。自分がそうしたいから、そう申し出たのだ。
『僕たちは、先人の血と汗と涙の滲むような努力と、研鑽と、試行錯誤と、膨大な経験の果てに手に入れた様々な結果――結晶を、僅かな短い時間のみで、簡単にその上澄みだけを綺麗に掬ってみせた。そう、既に僕たちは、師匠をはじめとしたたくさんの人から結晶を掠め取った、凶悪な泥棒なのさ』
クーが振るうあの槍の、神業のような槍術は、どれくらいの歳月をかけて身に着けたものだろう。
あの人生観を、あの哲学を自身の生き様として反映させるまで、どれだけの血反吐を撒き散らしてきたことだろう。
それらのような術を、思想を、自分は彼から簡単に抜き取った。泥棒という言葉が何よりも似つかわしいことを、今になって思い知ることになる。
そう、これこそが、エト・マロースが重ねてきた最悪の勘違いなのだ。
『そんな泥棒が、簒奪者が、やれ勇者だやれ英雄だと、綺麗で立派な存在に成り上がれる訳がないだろう。僕たちのような卑怯者には、卑屈に頑固に他人のあらゆる術を掠め取ることでしか前に進めない、そんな見苦しい生き方がお似合いなのさ』
自分はそんな生き方をしていない。少なくとも、ここ風見鶏に入学してから、友をつくり、尊敬する師から学び、そして守りたい人を見つけて身に着けた力を振るう理由を得た。
そんな、誰かの言うまっとうな生き方してきた自分にとって、そのような泥にまみれるような生き方をすることを、想像したことなどなかった。
『じゃあ、そんな盗人が、自分のオリジナルを持たない空っぽの僕たちが、
答えは否、だ。彼が言うことを全面的に肯定するのだとしたら、自分が培ってきた技術や知恵、そう言った自分のものだと信じ切ってきたこの力は、全て他の人から盗んだものであり、最初から自分のものだったという訳ではない。
始めから自分も力なんてありはしない、そういうことらしい。
『そんな自分が、嫌になってきたかい?』
どんな表情をしているのだろうか。こちらの感情を窺っているのだろうか。
どこか静けさを感じる声で、そう訊ねる。
『――このことだけは、まず気付いてほしかった。自分の力なんてものは、何もないんだってこと』
信じていたものが瓦解する。
風見鶏に来て手に入れたものは全て紛いものだったのか。それらは全て不必要なものだったのか。
他人の生き方を模倣し、他人の力に頼り、他人の道徳に勝手に共感し、自己の本質を捻じ曲げてまで
――違う。
『頼もしいね』
そう返された。
『簒奪者である自分を肯定すること――それが僕たちに必要なレディネスだ』
背中越しでも分かる。心の中で己を否定しようとした己を、更に否定してみせたことを悟ったのか、その背中はどこか愉快気だった。
ありとあらゆる他人の何かを奪ってきたことを、無駄なものだったと断言することは、それは己の根源を否定することになる。それは、自分が一番理解していることだった。
否定するのは過程ではない。未だ訪れぬ結論の方だ。
『僕たちは何も持ちはしない。だったら、誰かから盗めばいい。幸いなことに、今の僕たちにはそれをするだけの才能と知恵と経験がある。躊躇うことなく、敵の肉を奪い、糧とし、敵を殺してその人肉や骨すらも、生きるための血肉とすればいい』
再び思い出す。
かの師匠は強かった。だが、自分が憧れを抱いたのは、彼が強かったから、というだけではない。強かった彼が、その強さを武器に、理不尽を吹き飛ばし、不可能をひっくり返して結果を奪い取る、その傲慢な在り方が眩しく見えたのだ。
ベッドの上から眺める世界しか知らなかった自分にとって、そこに内在する無限の可能性は、ずっと遠い世界のようで、それでも手を伸ばして触れてみたいものだった。
故に新しく結論付ける。
自分――エト・マロースが本当に目指すべき頂は、強くなることでも、誰かを守ることでもない。
憧れた彼に、尊敬する彼に、並び立って、あわよくば抜き去りたい彼に一歩でも近づきたいなら、自分が最もすべきことは、何よりもまず、『奪う』ことなのだと。
残虐非道か――その通りだとも。何故なら『アイルランドの英雄』とも呼ばれた最強の戦士、クー・フーリンに最も近い場所で生きてきた男だ。敵対するなら己のその全てが奪われると思え。
そしてその先に、格好つけて誰かに突きつけるのだ。
「助けたわけじゃない。奴から全てを奪ってやった結果、君が生き残ったのだ」
同じセリフを呟いて不敵な笑みを浮かべる師匠の背中と横顔を思い浮かべながら、そうやって。
だったらまずは、ここから目覚めた先にある、早めにけりをつけなければならない最強の一角から、いろいろと奪ってやらなければならない。
『さぁ――未来が待ってる。夢の世界はここで終わりだ。君はこれから、きっと目先の強者を追い詰めるだろうね』
そう言うと、彼はその顔だけ、ゆっくりと首を捻ってこちらに向けた。
そこに映る少年の瞳は、そのルビー色は、血で染め上げられてこびりついたような、黒ずんだような色をしていた。
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ハッと意識が浮上した時には、既に事は再開されていた。
完全に機能を停止していたはずの両足がしっかりと大地を踏みしめ、大したダメージを追っていない、正しく剣を握ることができている右手は勿論、動かせなくなるレベルの怪我をしたはずの左腕は稼働し、その先にある拳はしっかりと握られていた。
理解が追い付かない――しかし目の前に迫る危害を認知することはできた。
剣、剣、剣。見渡す限りの暴力がこちらへと雨霰のように飛び込んでくる。
意識を戻す前から無意識のうちに身体だけ動いていたのかもしれない。それを見たジェームスが再びこちらを敵と認識し追撃を始めた、と言ったところか。
怪我を感じさせないくらいに体が軽い理由はよく分からない。どこかの専門書で読んだか、あどりん、だか、れなりん、だかが痛みを誤魔化してくれているのだろうか。
すぐに意味のない思考を捨てる。
ミスをすれば即死もあり得る状況。打開するにはこの全てを完璧に捌き切らなければならない。
簡単なことだ。自分に最も近くなるものから丁寧に一本一本処理していけば、その数が百や千に上ろうが全く問題はない。当たらなければどうということはないのだ――言葉にするだけなら簡単なことである。
――実際に、簡単にできそうな気がしていた。
夢の中で――あれが本当に夢だったのか、あるいは誰かのメッセージだったのかは定かではないが――自分の本質について正しく結論付けることができた今、これから何をすべきかを明確にビジョンにすることができる。
そのビジョンを現実へと形作るにあたって、まずは。
全体重を後方へと預け、後ろに転倒するくらいの勢いで体を傾ける。
その同時にギリギリまで曲げた膝のエネルギーを後方へと爆発させる。
自分の持つ最大威力でのバックステップ。自身の脚力とブーストに使った魔力を考慮すれば、五十メートルは一歩で潰せるだろう。
しかしそれでも、飛んでくる剣の速度には到底及ばない。相対速度で考えるなら確かに減速に成功したが、それでも接近の事実を避けることはできない。
それでいい。ほぼ視認できない状況から相対速度を落としたことは、どれだけ体勢を崩そうが十分に対応できるという状況を生み出す。
第一射――懐を狙う剣を、自身の剣で撃ち落とす。
自身の腕力が飛んでくる剣の力に負け、処理に成功するも後方への回避を僅かにブレさせる。
第二射――頭蓋を狙う剣を払うも、今度は大きくバランスを崩し、体勢が反転、全ての弾道から背を向けることになる。
一度地面に足をつけ、再び地を蹴り加速。もう一歩で再び体を反転させ弾道に対し正面を向く。
翻る勢いのまま第三射を処理。
捌く、捌く――捌く。
前方を向きながらも、全速力で後方へと距離を取り、追撃の剣を次々に撃ち落としていく。
しかし、この一方的な展開は、更に悪方向へと転調を始める。
剣を打ち落とした時にふと感じた鈍い感覚、明らかに不自然な振動を自分の握る剣から感じた。
そして次の剣に撃ちあった時、それは起きる。
――罅。
亀裂、そして中央からぽっきりと自分の剣の刃が折れる。
その僅かな時がスローモーションに感じられた。
武器がなくなる。自分の命を預けた一振りが失われる。自分が戦うための手段を奪われる。
しかし、エトの瞳から闘志は失われてはいなかった。
いや違う、それは闘志などと言う気高きものではない。もっと醜く、薄汚れて、みっともないものだ。
そう、なくなったのなら奪えばいい。奪われたのなら、奪い返せばいい。
簒奪者の、目的を得るためなら地べたを這いずり回るような手段をも厭わないような、冷え切った重い鉛のような瞳。
その瞳が、飛んでくる剣の一振りを捉えた。
血に塗れた細い指先がその剣へと伸びる。
刃の腹に指が触れる。ひんやりとした金属の冷たさが指先から腕を伝わり、脳へと信号を送る。
一方で瞬時に判断を返した神経が指先に電気信号を伝達し――そしてその剣の柄を、自分の右手が握り締めた。
――奪取成功。
そして左手もまた、同じように飛んでくる剣の内の一振りを奪い、握り締める。
身を翻しながら、全身の膂力と遠心力を乗せて、最も密集した剣の束をまとめて打ち落とす。
身が軽い。まるで全身が羽のようだ。敵からものを奪うことに快感と興奮を感じていたことは、この時のエトには自分で気が付いていなかった。
後方へと距離をとっていた体にブレーキをかける。
防御から攻撃への転調。ここからは逃げるだけではない。攻めるための、針の穴に糸を通すような、無茶を通り越した無理を実行に移さなければならない。
制動をかけた膝にエネルギーが充填される。
膨大な物量で接近を許さずただ一つの命を仕留めようとする凶器を正面に捉え、そのエネルギーは前へと向かって爆発する。
鋼の雨霰との正面衝突――傍から見れば、その瞬間の光景は、まさしく雨を弾く傘がそこにある、ただそれだけのもののように見えたかもしれない。ただし、上からではなく、前から。
そう、傘というか、盾も手にしていないはずなのに、真っ直ぐに敵へと距離を縮めながら、降り注ぐ刀剣を弾くエトの姿がそこにあった。
この世界に現界するだけの魔力を失い形状を維持できなくなったり、あるいは弾丸を遥かに凌駕する速度で全身を穿たんとする剣と刃でぶつかって破損したりと、あらゆる原因でエトの手から得物がなくなる。
その度にエトは、相手がわざわざ用意してくれる無数の良質な武器から一、二本頂戴し、再び弾き、壊す――この繰り返しだ。
すると、自らこじ開けようとしているトンネルに、終点が見え始める。剣を降らせることをジェームスがやめたのだ。
無数の刀剣を射出したところでこの少年は止まらない、それを学習したジェームスが次にとった行動は、相手に接近される前にこちらが先手を打つ――正面衝突からの先制攻撃だ。
エトもまた、そのトンネルの終点の向こうから、最大の敵が怯えたくもなる速度で接近してくるのが見えた。
だが、怯えない――竦まない。
エトはまず、右手に握る剣を手放した。相手に向かって投擲したのだ。
ゼロ距離になる前に先に攻撃を仕掛ける――相手が先手を狙うのなら、先に先手を奪ってやればいい。そうして相手の嫌がることを率先して全力で何ひとつ取りこぼすことなく実行する。
最初からエトは、そういった戦術が得意だったし、相手がエトよりも格上の存在である以上、そうせざるを得なかった。初撃を万全な態勢で与えたら、こちらは第一手で防御・回避に回らざるを得ない。そうなればあとは防戦一方となる。
しかし、予想だにしなかったエトの初撃は当然ジェームスの行動に影響を与える。
二刀流特有の手数と速度で圧倒しようとしていたその刃の片方が、咄嗟の攻撃に対応せざるを得なかった。
そしてそれだけの時間があれば、エトが自分の射程に相手を捉えることができる。
左手の一閃。
ジェームスの脳天を狙った一撃は、何の苦もなく彼の右の剣の腹で食い止められる。
と、同時に、彼の第六感が悪寒を感じ取った。底冷えするような死の感触を。
得物を手放したはずの右手がいつの間にか次の剣を握っており、なおかつその刃が脇腹へと伸びようとしていたのだ。
左の剣で斬り伏せられようとしていたその力を利用して咄嗟に後方回避、追撃されまいと近距離で投影射出を始める。
その時奇妙なことが起こった。
エトの剣が射出された剣を打ち落とす際に、
そして、射出を繰り返していたら、最後の十数本が、ジェームスへと飛んでくる――。
思考がエラーを起こしながらも、確実に飛んでくる刀剣に対処する。
その時のジェームスの困惑する表情に、エトは確信めいたものを感じていた。
「――ああ、やればできるじゃないか、僕」
相手の投影した刀剣を奪いながら対処し、砕かれると同時に新しい得物を回収、その時に一瞬だけ、自分の腕を相手に認識できないように魔法をかけつつ、自分がもともと使っていた剣が収まっていた鞘に、最も形が適する剣を拝借し素早く納剣していた。更にその剣を使って相手の視認できない一撃を脇腹へと叩き込むのに成功しかけた。
つまり、一瞬のみなら、認識を阻害阻害する魔法は通用することになる。ただしほんの一瞬、それもとてつもなく狭い範囲。
そして何より、奪うことができたのは武器だけではない。先程音もなく相手の刀剣を処理できたのは、他でもなく以前手を合わせたことのある佐々木小次郎のおかげである。
彼程の剣の技術など到底あるはずもない。彼の技術は、彼の剣筋を全く悟らせないことと、そして完全に威力を相殺する、音のない接触が群を抜いて印象に残っていた。
剣術だけでは再現できない。ならばその結果をもたらすには、自分の足りない技術をどう魔法で補うか。
幻術や認識阻害の魔法を瞬間的に使うことで剣筋を誤魔化した。物体の動作に関わる魔法を用いて剣と剣の衝突の際の威力を限界までゼロに近くした。ストップさせたたくさんの刀剣を使って、相手に向かって同時に射出した。
これらは全て、他人の発想を用いた他人の技である。
加速――
そして、エトの握る双剣は、佐々木小次郎の伝家の宝刀とも呼べる必殺の一撃を模倣した。
「秘剣――『燕返し』」
それぞれの両手の剣が、その剣筋が、まるで二つになったかのように、合計四本の剣筋となって、ジェームスの首を落とさんと走る。
逃げるも即死、受けるも即死――しかし実際にはそうはならなかった。
『燕返し』を発動した直後、ジェームスはそのどちらでもなく攻撃に転じたのだ。
エトの発動した『燕返し』は、オリジナルのそれと比べて剣筋が一つ多いが、しかしその精度は比べ物にならないくらいに劣悪なものだった。
佐々木小次郎のそれは、紛れもなく
所詮は時間差の存在する技であるならば、その隙を的確に狙って阻めばよい。前に踏み込んで、より見切りやすい、胴に近くなる部分で自身の剣を挟み、完全なエト複製の『燕返し』を絶った。
エトの口が、歌を歌うように口ずさむ。
「――≪
阻まれて打ち返され、後ろへと伸びた左手に握る剣から、真紅の光が立ち上る。
エトが師匠クーのグニルックの技から逆算して掠め取った技の模倣。初めて奪い取った憧れの象徴。
全て読み切っていた。エトの『燕返し』が到底本家に及ばないということ。その隙を突いて剣筋を弾きに来るということ。そして、それを計算に入れた上で身体の捻りを計算し、この一撃を繰り出すための構えを瞬時に構築する。
そして一度発動すれば、この技は止まらない。
対象物を破壊するまで、永遠に追いかけ続ける紅い光の槍。
僅か三メートル程の距離を光が駆ける。
一瞬という時間すら永遠に感じられる程の速度で、その槍はジェームスの心臓を穿つ――
――赤黒い噴水。
それが上がったのはエトの肩からだった。
≪
その時の挙動を記憶していたジェームスは、技そのものを食い止めるために、エトの懐に飛び込む。
振り上げた右手が、その手に握る剣が、エトの胴体を斜めに断ち切ろうと、振り上げて天を仰ぐ。
その瞬間、ジェームスはエトの左肩から指先にかけてまで、その筋肉全てが硬化していくのを確認した。
咄嗟の防御か――片手での威力、剣速では切断しきれないと判断した後、双剣を捨てて、頭上へと刃を上向きに、新たに両手剣を投影し、両手で握り締める。
そしてその大ぶりな刃を、肩口へと向けて勢いよく振り下ろした。
エトの僅かな横への回避行動、しかし僅かに対処に遅れる。
そして、エトの胴体と左肩が切断されたのだ。
血を噴く肩、胴から離れてゆく左腕。エトの身体の制御下から弾かれたそれは、肩から溢れ出る鮮血によって赤く塗り潰される。
「い゛って……」
腕を切断されて、たったそれだけだった。
驚愕するでも、絶望するでもなく、その瞳は未だに殺意に満ち溢れて、ジェームスを睨みつけていた。
そう、まだ諦めていない。
それどころか、肩の切断は、覚悟した上でのダメージだったのか――片腕を失ったことへの動揺すら見せることはなかった。
切られた腕を尻目に、左足を軸に身体を回転、そしていつの間にか空いていた彼の右手は、あろうことか斬り捨てられたその左腕を握った。
切り落とされる前に硬化された腕は一直線になったまま動くことはない。そして当然、その先にある指が動くはずもなく、その指の中で握り締められていた剣は今でも固定されている。
これは剣でも、ましてただの腕でもない。
十分なリーチを持った棒状の武器――これは紛れもなく、真紅の槍だった。
そして回転の遠心力と、彼の全身の膂力が、その全ての力が槍へと一極集中を始める。
再び立ち上る紅い光。しかしそれは今までとは違う、どこか禍々しい何かを感じさせるものだった。
今までエトが師匠の技を模倣して発動していたそれは、いつも剣を用いてのものだった。しかし今回は、正真正銘の槍の一撃。
この最終局面、最後の一撃としてエトが選んだのは、師匠であり、いつか並び立つつもりである未来のライバル、クー・フーリンの必殺技。
「――≪
因果逆転の一撃必殺の槍。
心臓を食い破るという結果が既に発生したものとして、槍を突き出す挙動が生まれる。
発動を許した瞬間、相手は死ぬ。それだけのことだ。
発動を阻止することを許してはならなかった。それ故に、わざわざ相手の両手を塞ぐ状況をつくらなければならなかった。
ジェームスの二刀流は速度を重視した、手数で相手を圧倒するスタイルである。エトがその一撃を発動しようとする挙動を見せた瞬間に、それを認識してすぐ発動を阻止しただろう。
そこまで読み切ったエトは、敢えて≪
切断された先の腕はそのまま硬化しているため、十分得物として利用することができた。
肉を切らせて骨を断つ――いや、骨まで切らせて命を絶つ。
どうせ捨てるなら、どこまでも捨て去ってしまえ。そしてその代わりに、相手の全てを奪い取れ。
そして、全てを奪い取るための最後の一撃必殺がたった今、発動した。
――今この瞬間だけなら、お兄さんに並ぶことができたかな。
一瞬、走馬灯のようにゆったりした思考の中で、そんなことを考えていた。
強くなりたいと、ただそれだけで生きてきた。それ以外にきっと、何も持っていなかった。
誰かを守るだの、誰かのためになるだの、そんなことは他の誰かの道徳から勝手に持ち出した価値基準の一つだった。
ただ強くあるだけなら、この一瞬だけなら彼と同じになれただろうか。
もし彼がこの瞬間を見ていてくれたなら、全てが終わった後に、よく頑張ったとガサツな動作で頭を撫でてくれるだろうか。
ああ、まだまだ自分も子供だな、と自分を嘲笑しながら、真紅の一瞬を駆け抜けた。
逆転に次ぐ逆転。考えるこっちがしんどいっつーの。
もっとも、素人の描く逆転なんてこんなもんです。
緊迫感の溢れる心理戦とか書けるようになりたい。
ちなみにこの話を書く少し前まで、エトの『本質』についてあまり定まってませんでした。
奪う的なスタイルにしようとはあらかじめ考えていたんですが、ただコピーするだけなのはなんか違う、かといってどこぞの落第騎士みたいな枝葉を辿って理を暴く、そして一分間のブーストで相手を倒す、とかいうのも丸パクリで面白くない。
結果こういう形に落ち着いたのが約一ヶ月前。
この話書く直前まで設定固まってなかったのかよ。