ピチャリ、またピチャリと、天上から降ってくる水滴が水面を打ち、静寂の中に一定のリズムを刻む。
真実の最期の一線を踏み越えてしまった男の背中にあったのは、ただ一人の、全てを抱え込んで隠してしまっていた少女の温かな体温だけだった。
葵は、その男の大きな背中にしがみつくように、追い縋るように、その肩に爪を食い込ませるくらいの強さで密着している。
たとえ今そこにいたとしても、その体温は偽物であり、虚構であり、夢でしかないのだ。この停滞した世界という、人々の負の感情を一手に担い叶えた世界の夢。
夢はいつか必ず覚める。覚まそうと、そして覚めようと思っていたのは、他でもなくこの世界を創りだしてしまった自分自身だ。
その結果、その結末に何が待っているのか、知らなかったわけではない。ただ一人の何でもない少女の命が散るだけの問題であれば、ここまで悩むこともなく、苦しむこともなく、葛藤することもなかっただろう。
夢の世界でも、やはり上手くはいかないのだ。この停滞した世界を愛した者がいる。壊したくない者がいる。縋りつきたい者がいる。
この停滞した世界に、生かされた者がいる。
最初から葵一人の問題ではなかったのだ。『八本槍』の一人、カテゴリー5の最高峰と言われる『
霧を晴らし、ループ世界から脱却した時、果たしてどうなるか。
陽ノ本葵という存在は、躊躇うことなく死へと向かって確実に歩を刻んでゆく。
夢によって生み出された『八本槍』は、霧が消失した時点でその存在を抹消される。
見るがいい、何一つとして残るものはないではないか。それなのに陽ノ本葵のこの口は、無責任にも自己満足から生まれた独善的で独りよがりな正義感で事件を解決したいと、あろうことか他力本願で助けてほしいとほざいたのだ。
情けないを通り過ぎて、滑稽ですらあった。
チャプリ、と水面が揺れる。少しだけ、クーが身動ぎをしたようだ。その顔は、その瞳は、何を見ているのだろうか、天井を見上げてぼうっとしていた。
そして、この温かいはずなのにどこか寒々とした空間の中に、低い男の声が響き渡る。
「……それじゃあ、俺は本当に存在しないってことか」
その確認は、葵の耳から濁流のように流れ込み、全身に重く圧し掛かった。
肯定の意味も乗せて、その重みに耐え切れなくなって、肩に乗せるての力を強くする。
「じゃあ、俺が世話したエトはどうなってる?」
今度の問いに、クーの肩に掛けられた両手はその力を失った。
「……分かりません。多分私が見てないだけかもしれませんが、生徒会長さんの弟さんだったら、どこかで耳にしているはずなので、もしかしたら――」
「――そうか」
そこから先は言わせまいと、クーは最後まで聞くことなく返事をする。
クー・フーリンの場合、仮に本当に葵の言うことが本当で、彼女がクーのことを何一つとして知らなかったのだとしたら、確かに現在の事実とは大きく異なっていることは間違いない。
あることないことあるが、これでもクー・フーリンという男は、『アイルランドの英雄』として名を馳せることとなった男なのだ。それこそたくさんの伝説があり、それは道行く人に次々に語り継がれる。まるで古代から畏怖される伝承のように。念のためもう一度確認しておくが、決してやってもいないことまで広まっていたりはする。
いずれにせよ、それだけ大々的に広まっているはずの噂話を、様々な店でアルバイトをしていて人脈の広い葵が知らないはずもない。それを知らないのだとしたら、そもそもクー・フーリンにまつわる伝承そのものが存在しなかったと考えるしかない。つまりそれは、クー・フーリンそのものの存在を、元の世界で否定するものとなってしまう。
そしてそれは、エトにも言えることだ。葵の言う通り、エトがこの風見鶏に入学した際には、現生徒会長の弟としてかなりの話題を集めたものだ。それはすぐに生徒会役員選挙の出馬などの話題で大きく取り上げられたり、その強かさと美しさから人々の人気を寄せ集めたりと、学園関係者でなくとも、周辺で生活していればその噂はどこかで耳にすることになる。それがないということは、やはりエトも。
そして何より、エトは本来、過去のクーが旅の途中に通りかかった小さな家で、病床に伏せていた少年を助けたという事実の下に成立している。しかし、クーの存在が否定されるなら、クーに助けられる過去そのものが否定されるとしたら、本来のエトは、現在どうなっているのだろうか――
「――ごめんなさい」
ぽつりと、今にも葵自身が消えてしまいそうな薄い声で、そう懺悔した。
そして、クーの背中から、葵の体温が離れて消えてゆく。
クーは、湯船の外にあるあるものを手に取って、それを湯の中に浸ける。そのままそれを持った手を背後で抱え、そしてひっくり返した。
バシャリ、と豪快な音が湯を打つ。
「ひゃあっ――!?」
何の前触れもなく唐突に頭から湯を被った葵は、気管に湯が入り込んだせいで
「謝る必要ねぇだろ」
首だけを回して、クーは顔にかかった水分を払っている葵を見る。
「誰のために霧の禁呪を発動させた?誰のために今その禁呪を解除しようとしている?他でもない、嬢ちゃんのためだろ」
死ぬことを回避するために禁呪に頼った。前に進むことのない世界など間違っていると思ったから禁呪を解除しようと思った。全ては葵自身のためであり、彼女のエゴ、自己満足から来るものである。
「だったら、とりあえず禁呪を潰すことだけを考えてりゃいい。テメェに心配される程、俺様も弱くなったつもりはねぇよ」
体の向きを変え、葵に右肩を向ける。
そして右手で葵の頭を鷲掴みにするように包んで、わしゃわしゃと髪を撫でてみせた。
「そのための俺とアンタの主従関係だろうが」
大きくてごつごつとした、まるで父のような掌から感じられる戦士の体温。その温もりが頭から消えて、その温度を惜しむように離れていく腕を見つめた。
そしてその視線は、再び水面へと堕ちてゆく。
「でも、それでは、ジルさんは――エトさんは――」
「そーだな、そん時はそん時よ。行き当たりばったりで考えりゃいいさ」
それは今葵が気にすることでもなければ、当然クーが考えることもない。結局、その時になってみなければ分からないのだ。
クーは、硬直してこちらを見つめている葵を見つめ返す。潤んだ瞳が、小刻みに揺れている。感情を整理できない、どうすればいいのか分からない、そんな瞳をしていた。
だから、クーは。
「――ったく」
右手で葵の肩を抱き寄せ、そして彼女の頭が胸元に来るように、彼女の頭を大きな掌で抱えてやる。
ビクリと、一瞬だけ拒絶するようなリアクションが見られたが、すぐに力が抜ける。そして、次にクーの胸を濡らしたのは、滂沱として溢れ出る涙だった。
少し広い風呂の中で、葵の慟哭だけが切なげに響き渡っている。
こう言う時、どう言ってやればいいのか分からないから、もしかしたらリッカがするだろう、ジルがするのだろう、そう思った行為を葵にもしてやる、ただそれだけのことだった。
彼女が他人のことを考えないはずがない。たとえ彼女の口が、自分が悪いと、全て自分の自己満足だと漏らそうと、やはり今こうあるのは、間違いなく彼女の優しさがこの状況を招いたからだろう。
優しかったから選べなかった。優しかったから躊躇った。優しかったから後悔した。苦悩した。
だったら、今度は、選べばいい。躊躇わなくていい。後悔しなくていい。苦悩しなくていい。それらは全て、彼女の騎士となったクーが一手に引き受けるから。
だからそのとめどない叫びも、枯れることのない涙も、止まらない感情も、全部、全部ぶちまけてくれ。そう思えるだけで、少しはジルやリッカのことを理解できたのだろうかと、柄にもなく首を傾げる。
「長居するとのぼせるぞ。先に上がってろ」
そう言って、泣いている彼女の背中を、二度軽く叩いてやった。
落ち着いた彼女から返ってきたものは言葉ではなくて、感謝を乗っけた温かで柔らかな笑顔だった。
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「――――て――さい」
ノイズが走る。
「――起き――――い」
また少し、ノイズの音が大きくなった。
しかし、恐らく等間隔で聞こえてきたであろうそのノイズは、次は聞こえてこない。
代わりに聞こえてきたのは、少女の発する妙な囁き声だった。
「――起きないとおはようのちゅーしちゃいますよー」
なるほどそれは魅力的な提案だと思ったが、生憎そこまでしてもらう義理はない。
とは言え、このまま起きてしまうのもなんとなく面白みがないので、そのまま寝たふりを続行してみることにする。
全身の感覚を研ぎ澄まして、そこにいる少女の一挙一動を肌で感じ取る。無駄に洗練された技術が、あまりにも無駄なことで披露されているが気にしてはいけない。
先程まで寝ていたことで泥のように重かった意識は、今では鋭敏になっている。まるで戦闘時の相手の出方を窺う時の精神状態のようだ。
次に耳に聞こえてきたのは、何やら唸る音だった。というより、ほぼ目の前である。昨日のジル程の距離ではなさそうだが、近いことには変わりない。その唸り声がほぼ耳元で聞こえてくるような距離だ。
そして、そのまま彼女は、よし、と小さく呟く。ようやく覚悟を決めたようだ。
クーの腰元に何か重みが圧し掛かる。恐らく葵が腰の上に跨ったようだ。なんだか現状がいかがわしく見える気がしないでもない。
そしてそのまましな垂れるように葵の体が少しずつクーの腹へとのっかかってゆく。
ゆっくりと、ゆっくりと、葵の頭が高度を下げてゆく。
着陸まで、残り五センチメートル。
まだ、まだ降りてくる。どうやら躊躇ったりすることはないようだ。この辺を見ると、葵の方がジルやリッカよりも積極的なような気もするが、果たしてどうだろうか。
そして、残り僅か一センチ。葵の吐息が直接が直接肌で感じられ、そしてクーの寝息も、葵の頬に当たっているのだろう。
ようやく葵のキスは、届いた。
「――ふみゅぎゅっ!?」
クーの頭を支えていた枕に。
その頭をがっちりと固定していたのは、クーの掌だった。
突然頭を鷲掴みにされ枕へと叩きつけられた葵はその場で両手両足をバタバタさせてもごもごしている。
何やらひふひふ(ギブギブ)とかふほっふふほっふ(ストップストップ)とかはふへへー(助けてー)とか騒いでいるが自業自得ということにしておく。
「懲りねぇなぁ全く」
空いた手で後頭部をポリポリと掻く。
そう言えば昨日は、あの後葵は泣き疲れてそのまま寝てしまったはずだ。寝る時間にしては割と早かったことを覚えている。
どんなに気丈に振る舞っていても、大きな事件に巻き込まれれば怯えるし、増して当事者であれば後悔するし怖くもなる。それくらいには、どこにでもいるような普通の女の子なのだとそんなことを考えながらその寝顔を見つめていた。
そしてクーも、今の事態を何度も頭の中で反芻しながら、ひっそりと眠りに就いた。
朝が来る、起きていた事件が今目の前で起きていることである。
とりあえず、ロックした自分の手を解除してやることにする。
葵はがばっと顔を上げて、そして深呼吸をするように大きく息を吸った。どうやら本格的に窒息しかけていたらしい。
そして非難するような涙目でクーを睨みつけた。
「ちょっと酷過ぎですよ!女の子を何だと思ってるんですか!?」
「付き合ってもないのに寝起きにキスする奴なんてあるかよ」
「……えーっと、一緒にお風呂に入るまでしたのに関係はなかなか希薄だったみたいですね」
何だか恨みがましい視線で睨まれていることにクーは気付く。その瞳はまるで、「私とは遊びだったんですか」とどこぞの修羅場のような台詞を語っている。
「私とは遊びだったということでございますか!?」
というか実際に言われる始末である。しかも妙な敬語を使うと来た。本格的に朝から頭が痛くなってくるクー。
早朝からの彼女の暴走を止めるべく一計を講じたのに、これではどう足掻いても暴走するではないか。
幸せが逃げていくのもお構いなし、クーは朝から盛大に溜息を吐いたのだった。
「そんなことより、朝ごはん、作ってますよ」
そんなこと発言をしている時点で先程キスをしようとしていた葵の行為も遊び半分ということになると思うのだがどうだろうか。
しかし彼女の言う通り指して葵のキスはどうでもいいし朝食の方が大事である。
ゆっくりと体を起こしてベッド代わりのソファから降りた。
テーブルを見てみれば、既に二人分の朝食が綺麗に並んでいた。
フフレンチトーストにベーコンエッグ、カットトマトを添えたレタスのサラダ、コンソメスープに野菜のスムージーと大変豪勢ではある。
「……お、おお、何かスゲェな」
朝っぱらからの葵の張り切りっぷりに軽く引いたクー。昨日の今日でそこまで心境の変化があったのだろうか。
とりあえず腰を下ろし、フォークをナイフとフォークを手に取る。ゆっくりとフレンチトーストに腕を伸ばした時、葵から静止がかかった。
「……そ、その、折角ですし、いただきます、しましょう?」
それくらいなら別に構わないが、何をそこまで改まっているのだろうか。
とりあえず両手に持っていたナイフとフォークを置いて、そして彼女に合わせるように両手の平を正面で合わせる。
そして、葵の合図で、朝食の号令がこの二人部屋に響き渡った。
いそいそとナイフとフォークが進む。これでも葵は喫茶店フラワーズでアルバイトをしており、たまに厨房も担当していることがあるので、料理は得意な方である。
その才能が十全に発揮されているのもあって、朝食が、手が止まらないくらいに美味い。
葵の頬が緩みまくっている辺り、本人からしてみてもなかなかの会心の出来だったに違いない。
そしてそんな彼女に、少しだけ訊ねてみる。
「覚悟は、できてんのか?」
それは、事実を打ち明け、目の前の男が全てを知って苦悩する可能性を生んだ今でさえ、変わることなく霧の禁呪を解除させる気持ちに揺らぎはないかという問い。
しかし彼女は、その問に首を横に振ってみせた。
「覚悟も、決意もありません。でも、希望ならあるんです。どうなるかは分からないですけど、きっと、奇跡は起こってくれるんだって」
だって、目の前にこんなに素敵な人がいるのだから。
最後に葵はそう付け足そうとして、やめた。今自分がそれを口にすべきではないと思った。
きっとそれが、その気持ちを表現できるのは、次に奇跡が起こった時だろう。その時を、いつまでも待つ。
いや、そうではない。
その時を、いつか自分で見つける。見つからないのなら、せめて創り出してみせる。それが前向きに生きることを決めた彼女の希望。
「そうかい、そりゃよかった」
満足そうに返事をして、そしてフォークの先端でカットトマトを突き刺す。口元まで運んで放り込み、咀嚼する。塩をかけない方が素材の味がして美味いかななどと考えながら。
日はとうに昇っている。陽光がカーテンの隙間から入り込んで、この部屋を少しずつ温めていく。
小鳥のさえずりに、葵が窓の外へと視線を外した。その先には、遠くに見える枯れない桜の桜並木が見える。相変わらずその景色は美しい。
未来のことも分からない、過去のことも定かではない。だったらどうする。答えは至極簡単だ。
ただ、今を生きればいい、それだけだ。
問題文の二つの条件がなかったとしても、きっと同じ答えが脳裏を過ぎる。結局は、それが最もクーらしく、そして葵らしい生き方で、別に二人だけでなくとも、世界中の人間がそうして生きているのだろう。
焦る必要はない。とりあえずは、この最高に美味い朝食を胃袋に収めてから色々考えようと、眩しく部屋を照らす陽光に眉を顰めた。
アカン、マジでこの章終わる気がしない。
あと十話くらいかかるかなー(白目)