満身創痍の英雄伝   作:Masty_Zaki

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葵ちゃんとのお風呂回をすると言ったが、アレは嘘だ。
その前に大事なお話をしておく必要があったことをすっかり忘れていたんだぜ。


朽ち果てぬ記憶

 爆弾テロ事件の解決のために、クラスメイトの情報を管理する司令塔という重要な役目を担い成し遂げた葛木清隆は、ミッションが終了し、教室に戻って、リッカの号令で解散となってから、机の上で突っ伏していた。

 身体的な苦痛はあまりない。むしろその点では街中を走り回った他の生徒の方が疲れが溜まっているに違いない。話によれば、あのイアン・セルウェイがサラを庇って大怪我をしたとの話だ。時間を見てその内見舞いに行くのもいいかもしれないと考えている。

 一方で、精神的な苦痛は大いにストレスとなった。素早く、正確な判断を、それこそ何回、何十回も迫られる。次の情報処理が終わったと思ったら次から次ヘと舞い込んでくる情報や指示待ちの報告。

 それだけではない。一度、通信指令室が黒い影に襲撃されたこともあった。一度はシャルルの指示によって離脱を試みたのだが、そこにナイスタイミングで駆けつけてくれたエトと、それから『八本槍』の一人、佐々木小次郎。二人の到着と援護のおかげで再びその場所で司令塔を続行することができたのだが。

 目の前で清隆の、自分のクラスメイトが体を張って戦っているところを見ると、あれだけ危険な相手と至近距離で睨み合っているエトのことをますます尊敬すると同時に、何だか少しだけ恐ろしく感じてしまう。彼は一体どれくらい危険な場数を踏んできたのだろうと。

 とにかく、実にいろいろなことがあったことが幸いして、今日こそはぐっすりと眠れそうだと溜息を吐く清隆。

 そんな彼の隣から少女の声が飛んできた。

 

「お疲れ様です、兄さん」

 

「姫乃こそ、お疲れ様」

 

 既に荷支度を終えた姫乃が席から立ち上がって机に突っ伏している清隆を見下ろしていた。

 彼女も清隆と同じように通信指令室で情報のやりとりをしていたはずなのだが、外見からしてまだまだぴんぴんしている。相変わらずしっかりしている妹だと感心していて、気が付いた。

 外では軽く猫を被るというか、気を張っていることが多い姫乃は、こんな場面でも自分のだらけた姿を他人に晒すことなく、葛木家の人間としての自覚を持って云々、とにかく清隆が見れば彼女が疲れていることは何となく見て取れた。

 一方で、教室前方が少し騒がしくなっていた。といっても、その人物は二人でありよく知る友人たちである。

 荷物を纏めて教室を飛び出そうとしたエトを、慌てて捕まえるサラ。

 そしてエトの前に立ちはだかって、恐らく何か説教しているのだろう。本日のミッションで、サラとエトは同じグループだったはずであり、あの時通信指令室に救援に来たということは、当然サラたちを置いてけぼりにしたということである。単独行動が危険だからこそのスリーマンセル以上での行動が絶対だというのに、彼はそれを無視して一人で突っ走ったのだ。

 エトには悪いが、彼の行動は少し危険である。少しサラに灸を据えてもらった方がいい。

 

「ほんっと、あいつらもう付き合ってんじゃねーのって最近思うんだわ」

 

 いつもの馴れ馴れしい口調で清隆の背後に姿を現す江戸川耕助。詳しくは知らないが、彼も今回のミッションで結構活躍していたようだ。運悪くこちらに連絡はあまり入らなかったが、姫乃の方で爆弾発見の報告を三件ほど受けたらしい。

 

「マスターは絶対に二人の仲を応援しないでください。二人に呪いがかかってしまいます」

 

「おい四季それ漢字間違えてないか、『呪』うんじゃない『祝』うんだよ!?」

 

「マスターの(まじな)いは確実に(のろ)いに変わってしまいますので……」

 

「俺は呪術の専門じゃねぇ――!?」

 

 背後でいつもの漫才が繰り広げられていて、二人の仲が大変よろしいと言ってしまえば、恐らく四季がこれ以上なく耕助に嫌悪感を示してくれるのかもしれないが、生憎今の清隆に他人のボケとツッコミに構ってられる程の気力と元気はなかった。

 特に何も書かれていない黒板を眺めていると、ふと教室から去りゆくクラスメイトに挨拶をしていたクラスマスターがこちらに向けて手招きをしているのが視界に入った。

 清隆は自分の顔に人差し指を向けて自分が呼ばれているのかと確認を取ったところ、彼女は無言でにこやかに頷く。

 

「みんなはちょっと先に帰ってくれないか」

 

 そう言うなり、清隆はリッカの下へと駆けた。

 清隆が傍に寄ると、リッカは軽く溜息を吐いて両手の拳を腰に当てた。どうやら彼女は彼女で少し疲れているようだ。

 

「全く攻撃魔法なんてあまり連発しまくる物じゃないわね」

 

 どうやらあの襲撃を受けた時、殿(しんがり)として戦線を保っていた時の魔法の行使が影響しているようだ。

 

「ああ、あの時は、ありがとうございました」

 

「別に礼を言われることじゃないわよ。シャルルは総指揮官で、他に誰もいなかったし、それに私だってすぐに崩れちゃったし――おまけにエトが飛び出してきたからね」

 

 全く危なっかしい、と一人ごちるリッカ。

 そしてもう一度清隆に向かい直った時、既に疲れ切ったような表情はそこにはなかった。

 どうやらここからが呼びつけた本題、大方あれだけの事件があったのだから、それなりの雑用を任されるのだろう。

 少しは新入生を労わってもいいはずなのだが、どうやら彼女にとって葛木清隆という存在は扱いやすいらしい。清隆としては自身がカテゴリー4の魔法使いであるという秘密まで握っている。別にそれをネタに脅そうなんてことを彼女は決してしないが。

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 思った通り、清隆が任されたのは今回の事件に関する資料の取りまとめと、生徒会メンバーのちょっとした周囲の世話だった。

 お茶汲み、資料の運搬、簡単な整理などが主な仕事内容だった。

 そしてついでに、今回の生徒会役員選挙が少し特別な扱いになることもリッカから耳にすることとなる。

 どうやら今回の生徒会役員選挙は、クーの『八本槍』脱退やら、今回の爆弾テロ騒動やらでかなり混乱が見られたために、今回の選挙はとりやめにして、葛木清隆、メアリー・ホームズ、イアン・セルウェイの三人を同時に生徒会役員に就任させるという方向に話が進んでいるらしい。

 それでは選挙をしないがために生徒会としての質が落ちるのではないだろうかという懸念に対しては、今回のテロ騒動の一件でそれぞれが多大な功績を残しているために、結局全員の就任に口を挟む者は最後にはいなくなっていたようで。

 何はともあれ、清隆としては選挙以上の出来事に遭遇したおかげで、これで楽ができるなどと言うことは一瞬たりとも頭の隅にも浮かばなかった。もしそんなことを考えたとしても、結局普通の選挙活動をしていた方が楽しかったかもしれないと思うだろう。

 生徒会室からみんなが去った後、そこに残っていたのはリッカと清隆だけだった。シャルルは学園長でもあるエリザベスと共に関係する機関に回って挨拶と報告に外に出ているらしく、巴も一応怪我をしているため少しだけ手伝わせて強制的に早退させた。残っていた本科生とリッカ、清隆だけで作業を進めていたという訳である。

 さて、先程のサラとエトのやり取りを見ていて、そして耕助と四季の漫才を見ていて、ふと清隆は思ったことがあった。

 

「リッカさんは――」

 

「ん?」

 

 カップを手に取って一口含もうとしていた彼女はその手を止めてリッカにサファイアの瞳を向ける。

 清隆は少しだけ躊躇ったが、折角二人きりなので聞きたいことを聞いておくことにする。

 

「リッカさんは、『八本槍』のクー・フーリンさんとどうやって知り合ったんですか?」

 

 清隆の問いに、リッカは一度ティーカップをソーサーに置いて、そして瞳を閉じる。大人が若き日の思い出をじっくりを思い返すように。脳裏に焼き付いて離れない記憶の残照を束ねて瞼のスクリーンに上映しているのだろう。

 

「そうね――」

 

 瞼を開いて、どこか遠い場所へと思いを馳せて視線を空へと飛ばす。

 リッカは、全ての始まりであるあの場所で起こった全てを思い返していた。

 あの遠くから見える黒い煙が、鼻孔を突き刺す焦げた匂いが、耳を切り裂く人々の悲鳴が、視界を彩る鮮やかで毒々しい血の海が――ずっと記憶の底にこびりついていた。

 

「魔女狩り――って、知ってるかしら」

 

 清隆は静かに縦に首を振る。

 魔女狩りに関しては姫乃の父親からも話で聞いたことがあるし、実際に類似する文献に軽く目を通したことがある。それを題材として扱った小説も読んだことがある。

 

「時代錯誤も甚だしいのだけれど、少し前まで、一部の地域でその文化は根強く残っていたわ。私たちが実際に遭遇したのも、当時の都会から随分と離れた辺境の地みたいなところだったから、文明的に取り残されている感じはあったの」

 

 彼女の口ぶりからして、清隆はふと思ってしまう。

 リッカ・グリーンウッドという女性は、果たして()()()なのだろうと。当然見た目のような年齢であるはずがないし、かといって、やはり見た目というのは印象を大きく左右させるものであり、そこまで長生きしているようにも見えなかった。ある程度長くは生きているのだろうが、まさか世紀を越えるくらいまでとは行かないだろうと推測する。

 

「私はずっと、二十歳を過ぎる前くらいから親友と旅に出たの。見聞を広げて、魔法使いとして一人前になるために。――ああ、親友っていうのはもちろんジルのことね。二人でいろんな場所を歩いて回ったわ。いろいろなものを見て、いろいろなことを聞いて、自分の肌で感じて自分の脚で辿り着いた」

 

 旅に出ようと飛び出したのはリッカだった。ジルは当時からして内向的だったのだが、その時は親友としてついてきてくれた。

 リッカが先に駆け出して、追いかけるように手を振って足を早めるジル。旅の道中は大体そんな感じだったことをよく覚えている。

 

「そんなことをしているとね、ジルも人間だし女の子だから、一つのことに夢中になれば、それに全力を尽くしたくなるの」

 

 時間も流れてとある町に辿り着いた時、彼女はその町でとある女の子を見つけた。

 出稼ぎに家を出た両親はそのまま帰ってくることはなく消息は不明、祖母の家に預けられたものの少し前に亡くなったらしい。ただ一人残された少女に残っていたものは、小さな小さな魔法だった。触れたものを少しだけ光らせる、取り立てて大きな力もない魔法。

 彼女の魔法の力が小さくとも、それは周りの人からすれば異常であり、脅威として認識するだろう。だから始めこそリッカとジルが二人で預かって面倒を見ていた。

 しかし、リッカの旅の目的はそこにはなかった。だからこそ、リッカは再び旅に出ることを決意して、そしてジルはその少女が自分の魔法の力を安全に制御し、一人前の女の子として暮らしていけるようになるまで面倒を見ることを決意して、二人は一度、分かれた。

 

「だから、私はジルのしたいようにさせて、いつかまた共に旅ができると信じて先を急いだのね」

 

 だが、それは大きな過ちとなった。

 ある日、その少女の内気な性格が災いして、通っていた小さな学校でいじめられ始めた時、無意識の内に魔法が発動して、嫌がって押しのけた男子を発光させ、そして発熱させた。

 クラスメイトを全身軽く火傷させたと同時に、これで彼女が魔法使いであることが、周囲にばれることとなったのだ。

 そして始まる、残酷な争い。

 

「その後で、ジルが残った町で、ついにそれは起こってしまった」

 

 ――魔女の疑いのある者は、例外なく抹殺する。

 

 一人の偏執した正義が波紋を広げ、それが更に他の住民へと広がっていく。

 小さな争いの火種は次第に大きな炎となり、そして疑心暗鬼と差別が生み出す憎悪の黒炎が、町を包み炙った。

 手始めに、ジルの知らないところで少女は捉えられ、広場に引き摺り込まれて磔にされ、殴打を繰り返されながら火炙りの刑に処される。石つぶてを投げ込まれ、全身から血を吹き出しながら、小さな魔法使いの命は犠牲となった。

 そしてジルは、彼女を助けることも、手を差し伸べることもできずに、騒ぎを聞きつけ駆けつけた時には、その残虐な行為を目の前に、膝を屈して涙を流していた。

 次に疑いの眼差しと共にありもしない憎しみの念を向けられたのは、彼女を匿っていたジルだった。

 

 ――殺される。

 

 そう感じ取った時には、一目散に逃走していた。

 どこに逃げればいいのかも分からない、誰に助けを乞えばいいのかもわからない、この町の人間の全てが敵であるということしか理解できず、既にここには頼れる親友がいないことを痛感して涙を零す。

 そして、助けてやることもできず、守り切ると心で少女に誓ったにも拘らず、その責任を放り投げて、彼女の亡骸に背を向け情けなくも逃げ回っていることに、罪悪感しか感じられなかった。

 ただひたすら、血を流し続ける少女の死体に、心の底で、ごめんなさい、ごめんなさい、と。

 しかし、町の住民の方が当然人数は多く、一人ではすぐに包囲され、追い込まれてしまう。

 誤って行き止まりの通路に入ってしまった時には、もう遅かった。

 ただ身を小さく屈めて蹲り、次に襲い掛かるであろう暴力の嵐に怯えながら、恐怖に震え、歯を食いしばり、目を強く閉じて、ただひたすらに、届かない『助けて』を心の中で叫んだ。

 すると、その叫びは、確かに届いた。

 耳を破らんばかりの爆音と、身を焦がすような熱風、そこにいたはずの男たちは一人残らず消し飛び、その奥に一人の青年が現れた。

 逆立つ蒼の髪を後ろで束ね、血のように紅い、真紅の槍を握り締め、そしてその槍と同じ色の、そしてその槍と同じように鋭い、真紅の瞳がこちらを捉えていた。

 助かった、と安堵すると同時に、彼女はその青年を見て、すぐに心配してしまう。

 

 ――あなたの方が大丈夫ですか、と。

 

「その時、ジルを助けてくれたのが、他でもなくあのバカなのよね」

 

 最後の一言を語った時、リッカはどこか嬉しそうで、満足そうな表情をしていた。

 

「その後、私はジルの傍にあいつが立ってて、あまつさえ槍なんか持ってジルを睨んでたものだから、これからジルを殺すつもりなんじゃないかと勘違いして、魔法で吹き飛ばしちゃうんだけれどね」

 

 なるほど、リッカがあのクーを魔法で爆破しているのは、その時からの因縁なのか。清隆は妙なところで納得してしまう。

 

「その時なの。私とジルが、世界を花でいっぱいにしようと誓ったのは」

 

 ジルが大切にしていた少女が、花が大好きだったから。

 彼女が、生前こう言っていたのだ。

 

 ――お花がずっと、きれいに咲いていればいいのに、と。

 

 ジルはあの魔女狩りの事件のことで、悔やんだり嘆いたりすることはなかった。そんなことで立ち止まっていては、彼女は救われないし、行動することを止めたジルのことを許してはくれないだろう。そう思うが故に。

 前を向いて生きる――ジルが後ろをそっと振り返って、少女の名を思い出し涙する時は、悲願を叶えると共に人々を笑顔に変えた時だと、心に決めた。

 だからこそ、今、彼女は、強い。

 そう思い出に浸りながら清隆に語りかけているところに、ドアが勢いよく開く音がした。

 清隆もリッカも吃驚してドアの方に視線を向けると、そこに立っていたのは、目の周りに泣いたような跡があるジルだった。噂をすればなんとやらという、アレである。

 ジルが何やらソワソワしていると思えば、彼女はおもむろに口を開いた。

 

「く、クーさんに、ちゅーされた……」

 

 そしてジルは、それだけを報告した後、夢から覚めたかのようにハッとして、顔を真っ赤に染め上げ、そしてどこかへと一目散に逃げてしまう。

 何だか拙いことに巻き込まれたのではと、清隆の内心は冷や冷やしている。事実、隣で座っているリッカの表情は、何とも微妙なものであり、そしてドアの方へと投げかけられていた視線は、既に冷めてしまった紅茶のように、中途半端に冷たいものだった。

 唐突に、リッカが立ち上がった。

 

「うわっ!」

 

 隣で清隆が驚いて後ずさってみれば、リッカも生徒会室を飛び出してどこかへと去ってしまった。

 恋する乙女も大変だな、と心の中で苦笑して、そしてこの生徒会室は、果たして誰が閉めてくれるのだろうかと、清隆は軽く不安になった。

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 生徒会室には割とすぐにシャルルとエリザベスが帰ってきたので、清隆は挨拶を軽く交わしてそのまま寮に戻った。

 疲れも溜まっていたためにぐっすりと眠っていたかったのだが、そんな日に限って例の夢の人はまたいつもの登場人物不明の夢の中に引っ張り込んでしまうようだ。

 気が付けばまたいつものように他人の夢の中に入り込んで、地に足がつかずに浮遊しているような感覚が体を包む。

 実際周囲は自分が眠っている寮の自室ではなく、どこか知らない場所の、それでいて空中だった。少し高い位置から辺りを俯瞰するような形になっている。

 それが、今清隆が見ているこの夢の風景は、今までにない以上に、血生臭かった。

 あちらこちらで怒号が鳴り渡る。争いがあちらこちらで起こっているのか、所々で壁や床がオレンジ色に照らされている。火の手が上がっているようだ。

 逃げ惑う人々、それを追いかける男たち。

 男に捉えられた人は、その場で追い打ちをかけられるように殴られ、蹴られ、手に持っている棒で滅多打ちにされる。

 体中から血を流しながら、引き摺られるようにこの街の広場へと運搬され、そしていくらもがこうと周囲の人間に取り押さえられ、そして柱に磔にされた。

 そこに投げ込まれたのは、枯草や小さな木の枝。そして時間が絶たないうちに、誰かが投げ込んだ火が枯草に燃え移り、爆発するように炎は揺らめき勢いを増した。

 磔にされ、火炙りの刑。

 清隆はその光景に、思い当たることがあった。それは、ほんの少しの興味で何となく読んでいたとある本に出てきた、魔法使いにとっての、忌むべき黒歴史――魔女狩り。

 磔にされ、足元から炙られている人は他にも何人かいた。男性であったり、女性であったり、――中には、子供までいた。

 

「――こんなのっ」

 

 込み上げる怒りに、口からつい言葉が漏れてしまう。しかし、覗き見した程度の夢の中で登場人物に干渉することはできない。

 悲鳴が、喚き声が聞こえる――耳を塞ぎたくなる。縛られ身動きが取れなくなった子供が、必死に頭を振って現実を否定しようとしている――瞼を強く閉じたくなる。

 耳を塞ぎ、瞼を閉じた。しかし鮮明に脳裏にこびりついてしまったその光景は、瞳を閉じた今にその漆黒の瞼の裏でより絶望的に上映される。

 この光景を、つい先程耳にしたはずだ。これは、そう、リッカ・グリーンウッドとジル・ハサウェイの凄惨な過去の一ページ。

 いや。もしかしたら。

 もしかしたらこの光景こそが、リッカとジルの記憶の物語なのかもしれない。

 だとすれば、今までに見てきた夢は、全てリッカとジルの記憶の夢だったのだろうか。

 何故、どんな目的で――疑問はたくさん残るが、しかし、もしそうであれば、今目の前で起きている出来事は、一瞬たりとも目を離すことができない。もしかしたらこれが、二人の何かのきっかけになるかもしれないのだから。

 広場に駆けつけた一人の少女――やはりその少女は、例の如く輪郭からぼやけていて、誰なのかがはっきりと分からない。ただ、これがもし本当にリッカかジルの記憶の一部であるのなら、つい先程リッカから聞いた話によれば、彼女はジル・ハサウェイだ。

 磔にされて息絶えている少女を見て嗚咽を漏らし静かに涙を流しながら、膝を屈してぺたりと座り込む少女。

 すると、若者や大人たちの視線が集まったのは、その少女の方向だった。

 突然の殺意に恐怖したのだろう、敵意剥き出しで迫ってくる大人たちを前に、震える足を無理矢理動かして走って逃げることしかできない。途中で何度も足を引っ掛けて転びそうになった。

 次々と現れる、凶器を握る男たちに迫られ、息が切れようが、足が痛もうが必死に走り続ける。

 そして、気が付けば、目の前に迫っていたのは、人ではなく、そびえ立つような壁だった。人の脚では到底飛び越えることのできない建物の壁に行く手を遮られ、完全に逃げ場を失ってしまう。

 背後を振り返ってみれば、罵声を浴びせながら歩いてくる複数の男たち。

 恐怖に足が竦む。両足は骨が抜かれたように力を抜かし、尻餅が地面に着く。少しでも、少しでも距離を取ろうと、壁にくっつくように、隅に蹲って、祈るように震えていた。

 鉄の棒を握り締める男の拳が振り上げられた時だった。

 腹の底を振るわせるような爆音、轟音、一瞬にして膨れ上がる爆炎が視界を埋め尽くし、目がチカチカとする。

 その光景を空から見下ろしていた清隆は、無意識の内に腕で目を守っていた。

 今の爆発で、彼女は助かったのだろうか。この爆発こそが、あの偉大な生きた伝説、クー・フーリンの起こしたものなのだろうか。

 煙が消え、視界が晴れる。少女の前から、人は一人としていなくなっていた。おそらく、今の爆発で骨も残らず消し飛ばされたのだろう。

 しかし、そこに清隆が期待していた、男の姿はなかった。

 代わりに、そこに立っていたのは、親友を安否が不安で駆けつけた、肩で息をしながら少女の姿を見つける、もう一つの輪郭がぼやけた少女の姿だった――

 

 


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