靴底が地面を叩く音すら聞こえない、訓練された足の運びが普通の移動時でも癖のように使われている。少し急ぎ足で、一歩、また一歩。
彼が耳元で聞いているのは、背中に負ぶっている少女のような、しかし世紀を跨ぐような長年の経験を積んだ女性の、見た目に相応しい可愛らしい寝息のリズムだった。
バッキンガム宮殿に続く地下道にある時限式爆弾を全て解除した後、クーの探索能力とジルの繊細な魔法でサーチアンドデストロイを遂行していた。
しかしジルも一つひとつの爆弾を素早く正確に無力化または除去するために高度な魔法を使い続けた負荷により、疲労も大分溜まってきていたらしい。彼女がクーに甘えてくるのを断りきることができず、仕方なしに負ぶってやればいつの間にか自分の背中で間抜けた寝息を立てて意識を落としていた。
しかし彼女の頑張りのおかげで、これから直接犯人のところへと赴いた時に、この街そのものを人質に取られることはなくなった。恐らく、情報が上手く行き届いていれば既に全ての爆弾が発見され撤去にとりかかられるところだろう。
詳しくは知らないが、情報の統括を行っている通信指令室の爆弾の位置を示したマップを受け取った巴・イアンペアが、更にジルとの通話の中でとある確信をしたらしい。ものを隠したり、逆に隠されたものの在処を暴きその情報を正確に把握して考察へとつなげるという思考は、ニンジャの家系である五条院家では得意分野なのかもしれない。
そんな彼女たちの情報によれば、敵の本陣はどうやら、ハイドパークホテル。
運が悪かったのか、たまたま今回の一連の事件の中でその付近を通りすがることがなかったために、そちらの方にまで視野を広げることはできなかった。もし付近を通過していたら、もっと早く解決していたかもしれないが――結局爆弾を先に処理した方が正解だっただろうか。
「よっこらせ……っと」
屈強な戦士にとっては小柄な少女が、負ぶさっている背中から少しずつずれて落ちそうになっていたところをひょいと抱え直す。
これまでに何度か彼女や親友であるリッカを抱えたり負ぶったり圧し掛かられたりしたことはあるが、その時はまだまだ軽かったかもしれない。
少女ということで体重そのものは軽い。あまり触れると彼女たちの気に障るのかもしれないが、重いとは言っていないのだから唐突に怒られることもないだろう。
「なんつーか、重くなっちまったな」
ふと、背中に背負っていて、そんなことを思ってしまう。
三百六十五日をもう百回以上繰り返し、その一日一日の小さな重みが、まさかここまでになってしまうとは。老骨になって時間の流れも早く感じ始めたかと自嘲気味に微笑を浮かべる。
さて、そんな彼女たちがここまでしてくれた戦果だ。無駄にしてしまわないためにも、せいぜい包囲のための一兵くらいの働きはしようと考える。
背中ですやすやと安らかに眠っている女の子を起こさないように、慎重にしかし素早い移動を難なくこなし、人でなしの速度で街道を突っ切った。
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美しい曲線を描く刀の反りに、蛍光灯の光が反射して、葉の先に朝露が伝うように光が流れる。
予科一年C組のイアン・セルウェイは、クラスマスターである彼女の背中を後ろから眺めていて、その勇姿に尊敬を越えて畏怖の念を感じていた。
ハイドパークホテルに侵入してからというもの、頻度こそそこまで高くはないものの、これまでに何度か黒い影とも遭遇している。そのたびに彼女は腰に構えてあった長刀を鞘から抜き放ち、躊躇う間もなく一刀両断してしまう。相手の反撃を許さない、決定的な一撃が相手の芯に叩き込まれる。そこに魔法などと言う神秘的な要素などなかった。
流石はクラスマスター、伊達に毎年行われる生徒会役員選挙で立候補し勝ち残っただけのことはある。それすなわち、魔法などなくともこの程度はどうにかなる、と。
無論、風見鶏に入学したばかりのイアンは、魔法の才能こそは確かにある。それはセルウェイ家に代々伝わる強大な魔法の力に由来するもので、自分が培ってきたものでは決してない。
なるほどこれまで才能のない者をここぞとばかりに見下してきたような気がするが、やはり上には上がいる。才能を才能のままにせず、それを押し広げ積み重ねていく努力。目の前の彼女は一体、どれほどの研鑽を積んだのだろうか。
そして、ホテルの最上階にある大広間の前へと到達する。既に他の階層には近場にいた本科生の生徒たちに制圧を頼んでいるのでそろそろ任務が終わることだろう。
となれば、後はここだけということになる。部屋の外から周囲を観察するに、今の段階で反撃する態勢には入っていないらしい。殺気といわれるものが全然感じられないのだ。
物音を立てないように、巴が大広間へと繋がる大きなドアに背中を当て、ドアノブへと手を伸ばす。軽く捻ってドアを蹴り、すぐさま刀を構えて戦闘態勢に入る準備はできている。
相手がドア越しにいることを想定して、ここにいる中で最も実力の高いイアンに巴の死角を補うように任せる。そのドアの後ろで包囲するように、サラたちが控えていた。
「みんな、特にセルウェイ君、決して無茶だけはするなよ」
「僕が無茶をしなくとも巴さんがあっという間にスピード解決してしまわないか不安ですよ」
ワンドを構えている手先はわずかに震えている。視線もどこか定まってはいない。だが、その表情はわずかに余裕を孕んで笑みを浮かべていた。
少なくとも軽口を叩けるくらいの心の余裕はあるようだ。流石はセルウェイ家の御曹司という訳か。
サラたちにも視線を送ると、緊張した面持ちで重々しく頷く。
カチャリ、とドアノブの金属音がした次の瞬間には、既に巴は大広間へと姿を現し刀を正面へと構えすぐさま飛びかかれるようなスタンバイを取っていた。
しかし同時に突入したイアンには、彼女の表情が氷結したように固まり、血の気が引いていくのが見て取れた。
その視線の先にあったのは、ただ一つの人影、そう、そこにいたのは、倒れている複数の成人以外に、たった一人だったのだ。
「貴様は――」
巴の首筋から背中へと、一筋の冷や汗が伝う。
プレッシャーに心が押し潰されそうになるのと同時に、その重みが刀を握る腕にも伝わり、構えた両腕がだらりと垂れ下がろうとしている。目の前の存在に押し潰されて戦意を喪失してしまわないように心をしっかりと保つのがやっとだった。
「あら、意外と早かったのね」
冷ややかな声が聞こえた。その声は、聞き覚えのない女のもの。
巴の視線の遠い先にあったのは、黒を基調としたローブを纏い、同じく黒いフードで目元までかくした魔法使いの女だった。
かつてリッカと共に彼女あったことがある。要件はほんの事務的な事だったが、その時の印象は、冷淡に落ち着いている、くらいのものだった。
そう、彼女こそ紛れもなく『八本槍』の中の魔法使いの最高峰、カテゴリー5の頂点に君臨する大賢者、『
何故ここにいる――先にここに乗り込んで、テロリストを鎮圧したのか。
――それはない。
「失敬。貴女はここで何をなさっていたのであろうか?」
先程の会議の時、
つまり、その延長線上にあるこの爆弾設置事件に関わる必要のない彼女が、まさか気まぐれで事件を解決するためにここに突入したとはどうにも考えられなかったのだ。
「私は、私の居場所を守りたい――ただそれだけよ」
唯一巴たちが確認できる、麗しき唇が僅かにその口角を上げた。
彼女の右腕がそっと前へと差し出される。ピンと伸ばした人差し指の先端には魔力が凝縮され、それを軽く動かすと、そこに小さな紋様が浮かび上がった。
頬にそよ風を感じた巴。しかしその微風は、突如としてその勢いを強め、この部屋を包み込むような嵐へと変貌していた。
台風や竜巻のような、周囲へと広がるように吹きすさぶ風とは違い、この嵐は内側へと収束しているようだ。
飲み込まれてはひとたまりもないだろう。巴は刃こぼれすることを覚悟しながら、地面へと刀を突き刺しそれに掴まるようにして風に抵抗する。イアンやサラたちも壁際にあった家具や柱に掴まって何とか凌いでいる。
部屋の中央へと集められている埃やゴミ、木屑などが、全て粉々に分解され、嵐の中で再構成されていく。分離し、結合する――その手順を何度も繰り返して、最後に一つの物体がそこにできあがった。
嵐がやんだと同時に部屋の中央、その天井を見上げると、そこには球体の形をした屑の塊が浮遊していた。
「なんだ、あれは……」
凄まじい轟音の後に生まれた謎の物質を怯えるように睨みつけるイアン。
音もなく空中で停止し、まるで周囲をじっくりと窺っているように僅かに回転しているように見て取れる。
「悪いのだけれど、私は≪永遠に訪れない
黒いローブ姿の『
現状、人が何のアイテムの補助もなしに宙へ浮かぶような魔法の技術は存在しない。一部そのプロトタイプのようなものはあるのだろうが、実際には実用段階にまでは発展させられていないはずだ。
それをいとも簡単にやってのける彼女は、流石カテゴリー5の頂に君臨する者ということであろうか。
漆黒の魔法使いが球体へと掌を合わせる。そしてその表面を二度、三度掌で撫でてやると、一気にそれに魔力を流し込んだ。
「邪魔立てさせてもらおうかしら。死にたくなければここから出ていきなさい」
地響きのような音と共に、球体が脈を打ち始める。
魔力の反応だろうか、赤黒く点滅する球体のあちこちが、規則的な曲線を歪ませて、凹凸を生み出す。
そしてその膨らみを割るように、中から何者かが姿を現した。
人型の骸骨のような、それでいて明らかにそうではないと理解させる、化け物然とした骸骨の手には、石器のように荒々しく削り取っただけの骨の剣や槍が握られている。
そしてその骸骨は、やがてこの部屋の三分の一程を埋め尽くすくらいに、その数を増やした。
あまりに多過ぎる――巴は地面に突き立てていた刀を抜き、両手に握り直す。ちらりと確認して、刃こぼれがないことを確かめる。
開戦の合図は、あまりにも挑発的なものだった。
風見鶏本科生の制服のスカートを揺らし、一歩踏み出したかと思えば、次の瞬間には、巴がもといた位置に最も近かった骸骨戦士が一刀の下に斬り伏せられていた。
「悪いが、いかに『八本槍』とは言え、これは女王陛下からのミッション故、引き下がるわけにはいかないのだよ」
バラバラに砕け散る骸骨戦士を確認して、この程度なら自分の刀でも倒せるということを確認する。そして反撃を食らう前に距離を置いて、予科生たちに振り返った。
「君たちはここを離脱してくれ。そしてすぐに他の『八本槍』の方に救援を呼ぶように報告してくれ」
彼女の要請に、サラは冷静に頷いて、隣にいたクラスメイトの腕を掴んで大広間からの脱出を試みる。
しかし、そう感嘆にはことは運ばなかった。
「あら、あなた一人でも残ろうというのなら、仕方ないわね」
骸骨戦士の一体が、超人じみた跳躍力で、巴の頭上を飛び去っていった。
巴が脳内の警鐘を聞き取った時にはもう遅い。しまった、と声を発することもできず、荒々しく削り取られた凶刃が、サラたちの背中へと突き立てられる。
――真っ赤な花が、宙で咲き誇った。
横たわる体の制服には、真っ赤な血が夥しく流れ染みをつくっている。
預かっていた生徒が、命の危険に晒されている。
クラスマスターとして、上級生として下級生を守るべき立場である巴が、彼女たちを守ることすらできず指一本動かすことすらできず、こんなことになってしまった。
背後を振り返ることが恐ろしく躊躇われる。そこにあるのは他でもなく自分の犯した過ちであり罪なのだから。
それでも、状況を把握しなければならない。彼女たちが今、どういう状況にあるのか。巴はそっと背後を振り返った。
しかし、そこに倒れていたのは、サラたち女子生徒ではなかった。
「……くっ、そ、セ…セルウェイ家の御曹司たる……この、僕が……」
苦悶の表情を浮かべ、骸骨戦士と共に横たわっていたのは、イアン・セルウェイだった。
その姿を見下ろすように、サラたちが顔を真っ青にしてイアンを見ていた。
イアンと骸骨戦士は取っ組み合うように絡まり、そして横転している。しかし骸骨戦士の凶刃は間違いなくサラたちを狙っていたはずだ。
しかしその矛先は横から割り込んだ少年によって狂わされる。
彼女たちを庇うように、咄嗟の判断で飛び込んだイアンは、骸骨戦士の体を吹き飛ばすように体当たりをぶつける。
しかし、その時骸骨戦士の方も本能的な危機管理能力によるものなのか、飛び出してきたイアンへと向かって剣を振ったのだ。
そしてそのままイアンはその脇腹を剣によって貫かれるが、致命傷だけは回避、確実にサラたちを殺そうとした一撃を逸らしつつ、骸骨戦士を無力化したのである。
「だ、大丈夫かっ……セルウェイ君!?」
巴は周囲に警戒しつつ、急いでイアンの傍へと駆け寄る。
まずは隣で寝ている骸骨戦士にとどめを刺して、出血しているイアンに刺激を与えて怪我が悪化しないように、動かすことなく彼に呼びかける。
「そ、そんなことより、サラ・クリサリス……君たちは、早く、行きたまえ……」
眉が苦しそうにぴくぴくと動いている。
彼の必死の訴えと、その勢いに気圧されたサラは、震える足に鞭打って踵を返し、大広間を脱出した。
その背中を見届けて、巴はイアンの瞳へと視線をぶつける。そして、訴えるように話しかけた。
「もうすぐ、応援が駆けつける。それまで意識を保っておくんだ。それまで、ここは私が――」
屈んでいた膝を伸ばし、鋭い視線で『
刀を握っている右手の拳に力がこもる。
よくも私の大事な生徒に手を出してくれたな。
イアンは体を張ってでも風見鶏の仲間を守ってみせた。あれほど無茶をするなと釘を打っておいたはずにも拘らずだ。それでも痛みを、死の恐怖を振り切って、その一歩を踏み出す蛮勇。
イアン・セルウェイは、間違いなく一流の魔法使いの一族、セルウェイの御曹司に相応しい人間だ。
それだけの生徒に傷をつけてくれたこの借りは、十倍にしてでも返してやる。
「――君のように命を
美しい曲線を描く刀の反りに、蛍光灯の光が反射して、葉の先に朝露が伝うように光が流れた。
まえがきであんなこと言ったけど、もう一話続きます(白目)