夜の暗闇の中、唯一彼方から突きの光が差し込む。
月光に照らされた真紅の刃が、既に葵の華奢な身体に向かって伸びようとしていた。
「なんだそれは」
夜空を散歩した時の軽快な表情の彼も、コーヒーを注文していた時のだるそうな顔の彼もそこにはいない。無表情に、そして冷酷に、刃の色と恐怖で鮮血のイメージを脳内に刻み付け、そして淡々とした口調で背中に刻まれた不可解な紋様の詳細を訊ねるばかりである。
閉店の作業が終了した店には既に明かりは灯っていない、が、中にはまだ店長がいるはずだ。声を上げたら助けに来てくれるかもしれない。
しかし、人の好さそうな温厚な性格の店長に、果たしてこの男を撃退する方法などあるだろうか。不用意に助けを求めれば、二人纏めて殺されてしまうかもしれない。
どうする――そう思考している間に、もしかすればその槍は喉元を貫いているかもしれない。腹の底から冷えていくような感覚が、次第に腕や指先まで伝わっていく。
「こ、これは――」
「ある程度予想がついてんだよな、これが」
勇気を振り絞って話そうとしてみればこれだ。まるで計ったかのようなタイミングで声を重ねるクー。
話すことすら否定されたかのように感じた葵は、上下の唇を糸か何かで固定され二度と開かないのではないかと思うくらいに、何も物が言えなくなっていた。
クーは紅い槍の構えを解いて、腕をだらりと下げる。
「地上の霧、何か関係してんだろ。嬢ちゃんは魔法使いじゃねぇ、しかしあの黒い影が見えたってことは、やっぱり周りを謀って実は魔法使いでしたってパターンか――これはリッカが何度も嬢ちゃんを見ている時点で在り得ねぇ。アレはアレで見る目はあるから魔法使いかどうかは大体当たる」
リッカ・グリーンウッドは魔法使いであるなら誰もが知っている程高名で、実力も高いカテゴリー5の魔法使いである。
そんな彼女ともなれば、その人が魔法使いなのかそうでないのか、その人の発するオーラとか雰囲気とかで分かってしまう、らしい。彼女自身その仕組みを理解していないため確証はないが。ともあれ、経験に裏打ちされたものであるため大体確実であることは間違いない。
「そしてもう一つが――テメェ自身があの霧の魔法の術者ってことだ」
身体が硬直――瞳の動きが変わった――『黒』だ。
残念なことに、あの霧の魔法が一体何なのかはまだ把握できていない。だが、恐らくその術者は目の前の少女であることはほぼ間違いない。彼女から全て訊き出せば、大体解決するだろう。
原因不明な霧があって、原因不明な黒い影が出現した。そこに現れた、正体不明の魔法の紋様を白い肌に刻んだ少女。例え正確な因果関係が掴めなくとも、とりあえず不明なものを繋ごうとすればその内自ずと答えは見えてくる。
「とりあえず、話してもらおうか。あの正体不明の霧について、そしてその背中の紋様について」
制服の上着を脱いだクーは、とりあえず引き裂いた服の代わりとして彼女の肩にそっとそれを被せた。相変わらず男臭さが染みついているだろうが、そこまで気が回るほどクーは気が利く男ではない。
葵はそれにしがみつくように両手でしっかりと握り締めて、そしてそのまま話し始めた。
「……地上の霧がこれのせいなのは、間違いありません」
躊躇いがちに、何かを恐れるように。
「私が手にした魔法は、すぐにその霧を生み出しました。禁呪っていうんですかね、こういうものは。気が付けば、私はこの魔法の本を手に取っていました。そして広がった霧は、このロンドンにいるたくさんの人たちの、『あの時ああすればよかったな』『あんな人いなくなればいいのに』みたいな、負の感情を集めてくるんです」
魔法は、想いの力である。想いの力は、人の人格や性格に由来し、そして人の感情や思い込みによって発動する。
こうあってほしい、こうなりたい、こうしたい、そんな想いが魔法となり、奇跡を起こす。同時に、死ね、殺す、そう言った想いは攻撃的な魔法となり、嫌だ、来ないで、そう言った想いは何かを停滞させる奇跡となる。
そう、これは、そう言ったマイナスのイメージでの奇跡なのだ。悲劇を生み、惨劇を繰り返す、そんな類の奇跡。
「……そんで、そんな負の感情なんぞを集めて何をするつもりだったんだよ」
霧を生んで負の感情を集める。それだけなら別に誰の危害にもならない。もっと他に、何か大きな目的があるはずだ。
想いが魔法を、奇跡を生むのなら、負の感情という想いの力を集めてまで起こしたい奇跡が存在する。あくまであの霧はそのための媒体であり、結果ではない。クーはそう推測している。
「私、いつか死んじゃうんです」
淡々と紡がれた言葉の内容は、まるで本当はそうならないと感じさせるくらいには他人事のように聞こえてきた。
「そう遠くない未来に、死ぬんです」
繰り返される言葉は残酷なのに、まるでその言葉の重みを感じない。
「予知夢を見るんですよ。見た未来は、決して変えることはできない。どうやったって結果は一つに収束してしまうんです。だから、死んでしまう未来を見た私は具体的な日時や場所までは分からないんですが、その内死んじゃうんです」
「――なるほど」
葵の説明に、クーはただ頷くだけだった。
「それで、自分が死なないようにするための魔法って訳か」
不老不死か、因果の断絶か、そう言った類のものをクーは想像する。実際に彼の持っている槍には、因果の逆転可能にする呪いの力を宿している。それくらいは予測の内である。
「壁にぶつかりたくなければ、そこで止まればいい。死にたくなければ――」
今、クーの中で全ての苛立ちがカタルシスのように昇華された。
何故、十月の終わりがあそこまで遠い過去のように感じられるのか、何故シャルルに問うたあの質問が過去に何度も聞いたことがあるようなデジャヴを感じてしまうのか。
そう、この世界は――
「――そんな未来が訪れなければいい、つまり、この世界は――」
この世界は、魔法使いでもない、彼女のたった一人のエゴのせいで――
「――ループ、しているんです」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
翌朝、風見鶏ではとある新聞の一面のせいで大パニックとなっていた。
廊下を走り回る生徒たちが、他の生徒にぶつかったり躓いたりして更なる混乱を引き起こす。
風見鶏の生徒会であるリッカ・グリーンウッドは肩を怒らせながら、後ろからついてくる親友、ジル・ハサウェイの様子を窺うこともそこそこに早足で生徒会室を目指していた。
案の定、辿り着いたそこは大勢の野次馬でごった返している。
偶然居合わせた巴の力も借りて野次馬を下がらせ、生徒会室に殴り込むように入室した。
「よう」
まるでいつもと変わらないように自分の専用の席に座り込んで新聞に目を通している騒ぎの原因の張本人、クー・フーリン。その姿を見つけたリッカはずかずかと彼の目の前まで歩み寄り、そしてその新聞を取り上げた。
「あんた、一体どういうつもりよ!」
怒鳴り散らすように大声をあげ、そして新聞の第一面を広げて机の上に叩き付けた。
それこそ生徒たちが騒いでいた理由であり、ロンドン中が混乱に陥る最大の理由だった。
そこに書かれていた記事のタイトルは、『『アイルランドの英雄』女王陛下に反逆か』。
そのタイミングだった。護衛の者を傍に大勢控えさせた状態で、エリザベスが生徒会室に突入してきたのだ。
「揃いも揃って慌てやがって、少しは落ち着けって」
この程度では英雄、クー・フーリンをどうにかすることなどできない。『八本槍』であるクーは、他の『八本槍』くらいの実力の持ち主でないと抑止できないのだ。
クーは挑発するように足を机の上で組み、そしてエリザベスを一瞥した。
「おうエリザベス、調子はどうだ?」
エリザベスの表情は、怒り、というより困惑した表情そのものだった。
「あなたが退屈していたのは知っていました。あなたのような自由を愛する人間が『八本槍』に縛られているのは実に酷だったでしょう。しかし、だからと言ってこのような――」
「ああ勘違いすんじゃねぇ、別に俺は国に盾突こうってつもりはねぇんだよ」
エリザベスが嫌いなわけでもない、『八本槍』という組織は確かに面倒だが、しかしこの集団に恩があったのは確かだ。退屈だったというのは、国家に対して反逆した――真紅の槍のペンダントを壊した理由の、ほんの一部でしかない。
それ以上に――面白いものを見つけたからだ。今のイギリス、そしてエリザベスに忠誠を尽くすよりも面白くて守り甲斐のある者を。
「陽ノ本葵、知ってるよな。よくここらでアルバイトで働いている嬢ちゃんだよ」
「ひ、陽ノ本さんがどうかしたの?」
ここで出てくるはずのない名前。それが彼の口から唐突に飛び出してきたのに首を傾げるリッカ。
彼女の疑問に、クーはすぐに答えを提示した。彼女が一体何者なのか、地上の霧との関係も、そしてそんな霧の魔法を発動させた理由も。
「ま、結局あの黒い影に関しては嬢ちゃんも想定外だったらしいがな」
黒い影についてはついぞ分からなかった。というのもあの魔法にはそこまでの効果があるとは書いていなかったし、葵自身その魔法を行使する前にしっかりと本を読み込んでいたつもりであり、見落としていたとは考えられないらしい。
「しかし、だからと言って――」
「だからこそ、だよ。アイツが霧の魔法の術者だって知ったら、アデルの野郎辺りがさっさと解決することばっか考えて間違いなく殺しに来る。そんなやり方は俺様が認めん。俺はあの嬢ちゃんを守るための
解決するなら正攻法だ、そう付け加えて。
「アイツは霧を晴らすことを望んでいる。若干躊躇いがちだったが――死ぬのが怖いのは仕方ねぇ。だからそれまで、誰一人として嬢ちゃんに指一本触れることは許さねぇ。なに、心配せずとも霧が晴れりゃ、また霧が出る前の十一月一日に戻ってくる。『八本槍』も安泰って訳よ」
魔法の名称は分からない。分かっているのは霧を媒体としてロンドン市民の負の感情を大量に集め、それを想いの力として魔法の奇跡に変換し、世界を十一月一日から四月三十日までの間でループさせているということ、そしてその暴走的要素として黒い影が不定期でロンドンを闊歩するということ。
ループが終わればそもそも事象を全てリセットするためにもう一度最後の十一月一日が始まるだろう。さもなければ、また十月三十一日と十一月一日の霧の量が明らかに不自然であるからだ。そう言った観点も含めて拗れた事象を全て元に戻す修正力が働く。
「文句があるならかかって来い、一人残らず血祭りにしてやんよ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「――ループ、しているんです」
そう言った葵の唇は、震えていた。それは罪の意識から来るものだろうか。
しかしその言葉に、クーは腹を抱えた。吹き出した、と思えば盛大に笑い始めたのだ。抱腹絶倒、それくらいの勢いで。
「なんだなんだなんだよオイ、それじゃもしかすれば、夢だったのかって思ってたあの金ぴかも、エトが俺様に一矢報いたってのも全部実際にあったってことなのかよ!」
かつてリッカと共に反逆者となり、その道中で英雄王、ギルガメッシュと相対した。勝ち目のない相手に挑むというのは心底興奮した。あの喜びは、夢から覚めたと思っていた時でもまだ魂に刻み込まれていた。
エトがサラ・クリサリスを救うために彼女の家に乗り込むと言った時、その前に立ち塞がったこともある。絶対に乗り越えられないものを目の前にしても、絶対に諦めない不屈の想いを鋼に変えて牙を剥いた小さな勇者がそこにはいた。
全てが夢だと思っていた。それが全て実際に体験したことで、この肌が、この腕が確かに覚えていたことなのだ。
「それはそれとして――」
そしてクーは、そのまま葵の前にしゃがみ込んだ。
「俺様は別に間違ってねぇと思うぜ、自分が死にたくねぇから魔法に頼ったってのは」
「で、でも――」
「それはテメェ自身が掴み取ったものだ。死にたくないならどうするって問いに、自分で答えを出して自分で掴み取った『生』だ。それを誰にも否定することはできんよ」
かつて自分は、あまり使わないようにしていたルーン魔術を、病床に伏せていた少年を助けるために使った。少年が生きることにしがみついたから。生きたいと願ったから。それと一体、どこが違うというのか。
「俺だって、ここに来る前は自分が生きるためにいろんなもんを犠牲にしてきた。そいつらに詫びようと思ったこともねぇし、むしろ俺の生き様の前に立ち塞がったことが運のツキだと思ってるよ」
そしてクーは、大きな掌で、そっと葵の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「それでもテメェが申し訳ないと思うのなら、自分で自分の死を受け入れろ。そんでこの霧を晴らして、最後まで自分の生き方を貫いてみろ。男も女も変わらねぇ、真っ直ぐに突き進むってことをやってみればいい」
そして、あの時と同じように、葵をお姫様抱っこしたと思えば、空高く舞い上がった。
「面白いもんを見つけたぜ、俺も。嬢ちゃんを守るために、俺は嬢ちゃんの騎士となることを誓おう」
ポケットから取り出されたのは真紅の槍を模したペンダント。
それを左の拳で握り締め、そして二つに砕いた。今ここで、クー・フーリンは『八本槍』ではなく、国家に対する反逆者として追われる身となった。
「えっ、そ、そんなことをしたら――」
「なに、死にゃしねぇよ。おあいにく様、俺は世界で最強の騎士様だからな」
その時の開放感溢れる『アイルランドの英雄』の笑顔に、葵はほんの少しだけ、ときめいてしまったのだった。
正直に言います。これがハーレムタグの最後の理由です。
さぁこれから面倒なことがたくさん起こりますよ(作者的にも)