もぞもぞと。
エトが横たわるベッドの隣で、小さな青色の髪の頭がひょっこりと姿を現した。
半分寝ぼけ眼でそれに気が付いたエトは、天井を向いていた首をサラの頭へと向ける。そして、いつものツインテールも解かれ、寝癖によって少し乱れた長い髪を、慈しむように撫でた。
「ぷはー」
何故布団の中に潜り込んでいたのだろう。しかしどうも疲れが癒えていないエトにはそんなことはどうでもよかった。ただ愛する少女が隣にいて、何気ない時間を無意味に過ごしていることが、今のエトにとって最高の幸せである。きっとサラも同じことを考えているのだろうと思うと、自然と笑みが零れる。
「何で潜ってたの?」
まだ少し眠いのか、半開きの瞼を擦ってエトの顔を見上げる。微かに湿った唇が僅かに動いた。
「エトが傍にいるのが……嬉しいんだもん」
いつものしっかりしたサラではない。猫なで声で甘えるようにすり寄ってくるサラの頭を優しく撫でてやると、サラはエトの腕をそっと抱き寄せて頬擦りをする。こうしていると本当に猫を飼っている気分になる。
エトがクリサリス家からのグニルックの試練をパーフェクトでクリアした後、ディーン・ハワードは大人しくクリサリスの敷地を去ったようだ。見た目通りに紳士らしく、また何かあれば声をかけるとだけ残していった。たとえここでクリサリス家とディーンの縁談が失敗しようと、挽回のチャンスはいくらでもある。ハワード家としての評判は多少下がるかもしれないが、それはまた一から積み上げていけばいい。そのためにはクリサリス家の協力も大きなものとなるだろう。双方で和解交渉を進め、全ては丸く収まった。
その後、エトはクリサリス家に微妙な空気の中で招待され、サラと並んで座ってクリサリス家の盛大なもてなしを受けた。相変わらずエトがリッカとクーの両方の弟子をしているという件については半信半疑だったらしいが、唐突に何の前触れもなく二人が乱入してきたことでクリサリス家は大混乱、遥か高みにいる権力者二人を前に親しげに会話するエトの姿を見て唖然、『八本槍』に対してすらフランクに接しているのに、かの大英雄は何の怒りも見せず、エトの活躍を褒め称えているだけのようだった。後ろのカテゴリー5がツッコミで後頭部を引っ叩いた時はエトを含めた三人以外の場の空気が絶対零度に凍ったが。
二人はすぐに退散、一連のやり取りが明確な証拠となって、どう足掻いてもエトを丁重にもてなさなくてはならなくなったクリサリス家一同はそれはそれは今までとは対応が百八十度近く変わって家族であるサラすら驚く程の気の利かせっぷりを披露した。そんな様子をエトとサラが向かい合って吹き出したのもまた思い出の一ページであり。
そしてその日は体験したことのないような理不尽なグニルックで疲れただろうということで、家族公認の下サラの部屋で一日休んで夜を明かすことになったのだ。
相変わらずサラの部屋はぬいぐるみが綺麗に並べられており、それを見たエトが再び目を輝かせてその内一つに飛びつきはしゃぐ。どこかで見たことある光景だなと思いつつ、サラはやっぱりエトにそのぬいぐるみをプレゼントするのだった。
無論、サラの部屋は個室である。個室であるということは当然ベッドも一つでしかも一人用である。当然広いベッドであるとは言え、二人で寝るにはやや狭い。その上、そんな密着した空間で男女が同衾である。何か間違いが起きても不自然ではないのだ。
しかしエトは、きっぱりと断言してしまった。
「そ、そう言うことをするのは、僕が一人前の魔法使いになってから、だね」
照れながら、はにかみながらそう言ったエトに、サラは同じくいかがわしいことを想像していたであろうエトに対して恥ずかしがりながらも、約束だと手を握った。
そういう訳で、翌日の朝、エトとサラは同じベッドの上で朝日を拝むことになったのである。
カーテンの隙間から眩しい朝の陽射しが、冬の冷たい空気と共に流れ込んでくる。朝といっても、そろそろ起きないと貴族の一員としても情けない時間であるのだが。
「……どうする?」
サラの方に体を向けて、エトは彼女に訊ねる。彼女がまだ寝ていたいというのなら、もう少しだけ怠けてみてもいいかなと思っていた。
「……起きないと、いけないです」
言葉とは裏腹に、閉じかけている瞼と掠れた声がまだ温もりの中でぬくぬくしていたいと訴えている。
しかしサラは自分の口で起きると言ったのだ。ならば恋人であるエトとしては、ほんの少し心を鬼にしてでもサラを嘘つきにしないために動かねばなるまい。
腹筋の力だけで上体を起こしたエトは、布団の中で丸くなっているサラを抱えるようにゆっくりと起こす。寒さにブルリと震えたものの、何とか朝の眩しさと寒さには慣れたらしくチョコンとベッドの上に座り込んで小さく欠伸をした。
サラは昔から、とにかく朝が弱いのである。全ての問題が一件落着して安心しきってしまったのが心の緩みを与えてしまっている側面もあると言える。
「……おはよう、ございます」
「おはよう、サラちゃん」
するとサラは、唐突に何かを思いついたのか思い出したのか、びくりと反応して急にエトに振り向いた。
頬は紅潮しており、瞳が潤んでいる。上目遣いが保護欲を駆り立てられ、エトは今にも抱きしめたくなってしまう。
しかしサラは何かを迷っているらしく、その瞳はあちらこちらに泳ぎまくっていた。エトもそんなサラを見ながら何事だろうと考えていたら、急に決心が決まったらしい。サラの視線がエトのルビー色の瞳を貫いた。
「目を閉じてください」
覚悟を決めた、強気な声色で言う。
様子がおかしい、というよりむしろ以前はこんなサラを何度か見たことがあるエトは、とりあえずサラに合わせてみようと瞳を閉じる。ベッドに座るエトの膝上に置かれた拳を、サラの掌が優しく包む。サラの体温が直に感じられた。
ふと、唇に温い潤いが触れた。ほんの一時感じられたそれには幸せがたっぷり詰め込まれていて。
拳からサラの掌の温もりが消えると同時に、エトはそっと目を開けた。視界に映えたのは、顔を真っ赤にして俯くサラだった。
「そ、その、まだ学生ですけど、風見鶏を卒業したら、正式なか、家族ですから……」
その言葉の意味と、唇に触れた幸せの意味を理解して、エトは自分の指先で自分の唇に触れた。そしてエトの視線は、エト自身が意図せずに不意に自分が触れたサラのそれに向かった。心臓の鼓動が異様に早まる。動揺、緊張、それとも羞恥、いや違う、これこそが恋だ。
「だ、だから、その、おはようのキ、キス……」
語尾が完全に聞き取れなくなりそうなくらいに弱っていったその言葉も、エトは絶対に聞き逃さなかった。
自分も恥ずかしいくせに――しかしエトが喜ぶだろうと思って敢えて行動に踏み切ったサラに、何かご褒美を上げたいとエトは考えた。
窓の外を見て、朝日の明かりに瞼を力ませながら、開けたカーテンの向こうへと指差して見せた。
「あ、サラちゃん、あれ見て!」
サラは指差された方へと視線を向ける。エトが嬉々として楽しそうに何かを見ているのだ。それを共有したいと思うのは恋人として当然だろう。
いつも通りの風景が広がる窓の向こうを、必死に何があるのかを視線を縦横無尽に動かして探す。しかし結局そこにあるのはいつも通りのここから見える風景であって、何か変わったことがあるわけでもなかった。
エトが喜んでいるものを自分が見つけられない、その寂しさを胸に感じながら視線を窓の向こうから戻して正面を向くと――
「――!?」
不意に唇が塞がれた。
目の前にあったのは、大好きな男の子の白い肌と、可愛らしい睫毛。寝癖で跳ねた白い髪が揺れている。
まるで時間が停止したようなその一瞬で、エトの顔を唇が触れる間近な距離でまじまじと見つめてしまう。
一瞬。そう、それは紛れもない一瞬。しかしサラからすれば何十秒にも感じられた時間の中で、エトの温もりを存分に味わう。
エトの顔が遠ざかって、ほんの少し残念な気持ちになる。もう少し触れ合っていたかったという、ちっぽけで優しい我が儘。
予想だにしないキスをサラにお見舞いしたエトは、どこか満足そうな顔をして、いつものあの引き込まれるような笑顔を作ってみせた。純粋で、無垢で、心癒される微笑み。
「お返し、と、恩返し」
そんな、別にどちらでもい補足をエトは加えて。
恥ずかしさで頭がおかしくなりそうになったサラは、そのままエトの胸へと全力でダイブした。
華奢な少女の身体を胸でしっかりと受け止め、壊れないように、離れないようにしっかりと抱き留める。サラの鼓動がエトへと届き、エトの鼓動がサラへと伝わった。
昨日までたくさんの試練や理不尽に溢れていたのが嘘のような、まったりとした時間。エトはその全てを思い出していた。
何が始まりだったのかと思い返してみれば、思えばサラの家族を馬鹿にしたイアンにお仕置きをしてやったところから全ては動き出したように思える。
あの時のサラは本当に頑固で融通が利かなくて態度も淡白で、でも誰よりも頑張っている努力家で怠けることも寄り道することもしないで。自らを律していた貴族の息女としてのサラだった。
次第にコミュニケーションを重ねていくにつれて、サラの冷酷という仮面がひび割れ剥がれ、そしてその裏にあった弱さと儚さを見た。本当は誰かに頼りたくて仕方がない、けれども家族のために自分が一人前の魔法使いにならなければならないという使命感と重圧が彼女を自身で孤独に追いやり、それでも才能の欠片もない彼女は、道のない道を、破滅という崖までおぼつかない足取りで歩いていた。
助けたい――支えたいと思った。独りアンバランスに揺れている彼女の力になりたかった。大英雄や孤高のカトレアなどと言った大先輩からたくさん得た力を使う時が来たと思った。
彼女に寄り添って一緒の時間を過ごしていく中で、一人の魔法使いではなく、サラ・クリサリスという少女を垣間見た。甘いものと可愛いぬいぐるみが大好きで、本当は誰よりも甘えん坊で、そして今もこの通り、朝に弱い。家族から重過ぎる期待を背負わされた、ごく普通の女の子。
助けたい、支えたい、は、いつしか共に在りたい、に変わっていった。一方的なものではない、力を使う理由などでもない。純粋に、傍にいて生きていたかった。
クイーンズカップに向けての練習はまさしく自分の身体が壊れるか壊れないかのギリギリの瀬戸際でのハードスケジュールだった。しかしサラはそれを、自分のペースを崩すことなく継続させていた。途切れることのない努力が、彼女の最大の長所だった。
当日、クイーンズカップでサラはリッカと当たった。相手はカテゴリー5、敵う道理などどこにもない。しかしサラはそんな相手にも物怖じせず、自分が信じる力をショットへと変えて、最後までリッカにしがみつき、そして負けた。このショットこそ、当時のサラにはあって、エトになかったものだった。
それを痛感したのは、彼女の不本意な婚約を取り消してもらうためにクリサリス家へと乗り込もうとした直前の師匠、クー・フーリンとの対戦である。かつてエトがイメージトレーニングとして対戦相手にしていたのはいつもクーだった。しかしイメージを相手に、それだけ都合よく考えようと、どれだけ自分が全力を尽くそうと、エトの剣先がクーのイメージに触れることはなく、実際にその戦いでも一撃たりとも彼に掠らせることすらできなかった。それは、自身でも当時は気が付いていなかった、最初からそのイメージができていなかった、つまり、自分の力を理解し信じ切っていなかったということだった。迷いなくラストショットを放ったサラと、諦めの中で剣を振るっていたエト、どちらがより素晴らしいかは言うまでもない。
そして、今回の出来事。これまでのことがあって、ようやくサラとサラの家族を幸せにするためのスタートラインに着くことができた。自分だけでは、到底ここまでたどり着くことなどできなかっただろう。リッカの協力があって、ジルの優しさがあって、クーの厳しさがあって、仲間の励ましがあって、そして何より、自分をここまで突き動かしたサラがいたから今ここにエトという存在がある。
「どうしましたか、エト?」
物思いに耽っていると、サラに声をかけられる。
エトの胸元から不思議そうにその表情を眺めるサラ。エトは軽く苦笑いを浮かべて返事をした。
「いや、ちょっと思い出に耽ってたのと、それから僕はサラちゃんのことがこんなに好きなんだなって」
相変わらず臆面もなく聞いている周りが恥ずかしくなるようなことを言う男である。今度もサラは顔を真っ赤にして照れているのかと思えば、そうでもなかったようで。
エトの言葉に嬉しそうにはにかんだサラは、満面の笑みを浮かべて返した。
「私も、エトのことが大好きです」
そしてもう一度、互いの気持ちを確かめ合うように唇をついばみ合った。
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大きな鏡に映るサラの顔。その後ろには、丁寧にサラの長い髪を櫛で梳いている。時折くずぐったそうに首を傾げ、そして互いに吹き出しあうのだった。
いつもはツインテールに分けて束ねている流れるような青い髪を、今はエトが独り占めにして自由にしている。それを実感すると妙に嬉しくて、そして何より触れているサラの髪の手触りが気持ちよくて、いつまでもこうしていたいと思ってしまう。
「本当に……よかったんですか?」
嬉しそうな表情を引っ込めたサラは、不安げな表情で鏡越しにエトを見てはそう問いかける。
「私たちはエトが家に来てくれて本当に嬉しいです。でも、エトは私の代わりに、なんて言っては駄目なんですけど、それでもクリサリスの誇りと伝統の重みを背負わせることになります。卒業して、正式にそれが認められたら、クリサリス家の人間としてのエトの自由は、きっとなくなります」
サラの言葉は、最後までエトの身と心を案じるものだった。今までクリサリス家の人間としてたくさんのものを背負ってきたから言えること。束縛され、自由を失うことで、いつかエトが本当の自分を見失ってはしまわないか、不安で不安で仕方ないのだ。これまでも自分が何度も自分を見失いかけたから。その度にエトが自分を支えてくれた。
しかしそんな彼女の問いに、エトは結局笑ったままで首を横に振った。
「悪いけど、僕は最後まで自由にやらせてもらうつもりだよ。僕は僕のやり方で、サラも、そしてクリサリス家の皆さんも幸せにしてみせる。僕の道を邪魔する奴はどんな人でも、どんな組織でも、どんな社会でもどんな常識でも打ち破ってみせる。それが僕が見つけた生き方って奴だから。だから、もし僕が道を間違えそうになった時は、サラちゃんが僕を叱ってほしい」
その言葉を、サラには一偏の疑う余地もなかった。今のサラならはっきりと言える、この世界で最もエト・マロースという一人の
「そっかー、風見鶏を卒業したら、僕の名前はエト・クリサリスになるんだね」
虚空にそんな自分を思い浮かべているのか、宙に視線を預けては楽しそうに笑っている。当然クリサリス家の門をくぐれば辛いことも苦しいこともたくさんあるだろうが、エトのその笑顔はその全てを織り込んだ上で楽しそうだと想像しているものだった。
「ほら、口ばかり動かしてないで早く髪を梳いてください」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、満足そうにエトに言ってのけるのだった。
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サラの髪をいつものツインテールに綺麗に整えて、リヴィングの大きなソファで二人で座っていると、サラの父であるネイトが部屋に入っては向かいのソファに腰掛けた。昨日の今日だからか、ほんの少し機嫌がいいようにも見える。
朝の挨拶を交わすと、ネイトも丁寧に挨拶を返した。その仕草だけでも上品さが溢れ出ているのをエトは感じた。どうやらこれから自分が学んでいかなければならないのは貴族としての嗜みとか礼儀とか、そう言った堅苦しいものが割合を占めることになるらしい。
「ゆっくり休んで、疲れは取れましたかな」
「はい。昨日の通り、ああいう方にご指導いただいているので、素早く疲れを取ることには比較的慣れています」
「ああ、吃驚したよ。まさか本当にあのお二方が現れるとは。カテゴリー5、孤高のカトレア――リッカ・グリーンウッド。そして『八本槍』――クー・フーリン殿。私たちとしても、突然のことに混乱したけれども、お見苦しいところをお見せしましたな」
自分たちよりも圧倒的な権力者であり実力者でもある二人に、突然の出来事に慌てふためくような情けない失態を晒してしまったことにはいささか羞恥しているようだ。
「大丈夫ですよ。二人ともそう言う格式ばったことは好きではないですから」
大きな会合に『八本槍』として出席している間に着用していた礼服も、用事が終わればさっさと逃げて息苦しく動きにくい固い布の塊を破り捨てるように脱ぐようなクーと、普段はしっかりしているのにプライベートではとにかく面倒臭がり屋で振り分けられた部屋やスペースも大体散らかっているリッカ。どちらもこの程度のことでうるさく言うような人ではないことをエトは知っている。
「そうだといいんだけれどもね」
そう言って苦い笑みを浮かべる。
「それにしても、君は一体うちの娘のどこに惹かれたんだい?」
閑話休題とばかりに飛び出してきたのはまさしく急な質問だった。
しかしエトは、これっぽっちも動揺することなく笑顔を作ってはっきりと答えてみせた。
「全部です。真面目なところ、頑張り屋さんなところ、論理的なところ、実は甘えん坊なところ、何事も諦めないところ、素直なところ、猫みたいに気まぐれなところ、なんだかんだで押しに弱いところ、髪の毛もさらさらしていていつまでも触っていたいし、泣いたり怒ったり笑ったり、普段の彼女からは考えられないくらいに表情が豊かで親しみやすいですし、クリサリスの血を継いでるんだってはっきり分かる意志の灯った瞳が綺麗ですし、肌は白くてキメ細かいですし、全身華奢で守ってあげたくなりますし、そう言ったもの全部ひっくるめて、一言で言えば、可愛いところです」
ネイトは顔を引き攣らせた。ほんの少し彼を試してみようと思って訊いてみれば、次々と終わりなど知らないとばかりに湧いて出てくる娘の魅力。ネイトとしても娘の素晴らしさを一言で表してほしくないとは思っていたが、まさかここまで饒舌に早口でかつ聞き取りやすくはっきりと声を大にして自分の恋人の魅力をこれでもかと晒し上げたエトに対しては本当に恐れ入った。
もしかしたら照れてしまって語れないだろうと思っていたら、実際に照れていたのは隣で耳まで真っ赤に染めあがった娘の方だった。自分のことに関する惚気話を自分の父親に堂々と語られるのを聞いていると、自爆してしまいたくなるような恥ずかしさに駆られてのたうち回りたくなる気持ちは理解できないでもない。最後の可愛いの一言がとどめを刺したのか、既にサラは涙目になってぷるぷる震えていた。
そしてそれら全てを語り終えたエトの顔を見ていると、何だかまだ語り足りないと言ったような表情をしている。この場だから敢えて途中で切ったのだろうが、流石にこれ以上聞きたくない。体中がむず痒くなって砂糖でも吐き出してしまいそうだ。
「そ、そうか……」
それからしばらく、他愛ない世間話や将来のことなどを、途中で参加した家族と共に語り合っていた。
話が弾んでいたところ、急にエトが立ち上がった。その表情は、どこか険しい。
「……ちょっとお手洗いに行ってきます」
そう言っておもむろに立ち上がったかと思えば、部屋に飾ってある甲冑の剣を手に取って、トイレなどとは縁のない、窓の外へと身を乗り出して草原へと走っていった。
何事かと一同が不思議がったが、昨日のグニルックを見て、そして本当にあの二人の弟子であるのを確認した限り、きっと二人の自由奔放な性格が災いしたのだろうと納得して、エトなしで話を進めていくのだった。
ちなみに、エトがいない間、サラはエトとの馴れ初めから根掘り葉掘り洗いざらい聞かれて、これ以上ないくらい恥ずかしい思いをするのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
クリサリス家の所有する土地の、草原の向こう側には小さな森が存在する。そこまで走っては、エトは足を止めた。
小さく聞こえる破裂音。音が聞こえた方位と距離を瞬時に弾きだして、すぐに身を地面へと投げ出した。すぐ後ろで何か小さなものが木に突き刺さる音が聞こえた。
気にすべきはそちらではない。既に特定した襲撃者の位置を瞬きすらせずに見つめる。すると、そこから現れたのは、昨日クリサリスの敷地から去ったはずのディーン・ハワードだった。その右腕には銃が握られている。襲撃犯は間違いなくこの男だ。
「……こんなところで何をしてるんですか」
大体は予想できる。しかしすぐに動くわけにはいかない。少なくともお互いに話し合うことで決着がつくのなら、無駄な争いをしない方がどう考えても正解である。
しかしディーンは、そんなエトを当たり前に裏切るように、もう一度エトに銃口を向けた。
「見て分かるだろう。このままでは私としても立場がない。だから失敗したアフターケアとして最善手を打ちに来たという訳だ。君を殺す。君はサラ・クリサリスを暗殺する実行犯としてここに忍び込んだ。そんな君を発見し無力化するために攻撃した結果君は死んだ、ということにすれば、私は最低限の信頼を失うことはない」
その言葉を聞いても、エトは至って冷静だった。何故なら、彼の言葉を信じようとは思えなかったからだ。
それでも、銃口がこちらへと向けられ、引き金が今ここでこの男を倒しておく必要がある。剣を構えた。
「……そうだ、まずはクリサリスの当主の亡き者にしよう。そうすれば私は貴族を潰そうとした大罪人を罰した男としてより社会に認められる」
やはりこの男、言っていることがおかしい。
しかしエトがそんなことを考えている最中に、ディーンはどこかへと向かって指示を出した。すると複数の方向から足跡が聞こえてくる。何者かがクリサリス邸へと向かって走り出しているようだ。
咄嗟に踵を返してその後を追うように森の中を駆け抜ける。後方からの発砲音に耳を傾けながら、その度に背後に木が立って盾になるように左右に体を振った。
森を出た。襲撃者の姿はまだ一つもない。となれば彼らよりも先に森を抜けたようだ。しかしすぐにその姿を見ることになる。軽装の防具に身を包み、それぞれ得物を持った男が三人、恐らくディーンに雇われた傭兵だろう。
密集される前に、こちらから一人ずつ潰す。エトは地面を蹴って一番左の男へと肉薄する。
その一歩で、男は驚愕を露わにした。そしてその表情に、エトは驚いた。まさか接近するだけで驚かれるとは。
剣を逆手に持ち、焦りを孕んだ剣の横薙ぎをしゃがんで躱しつつ後方へと素早いステップで移動し、そして剣の柄で後頭部を強く打ち付けた。ノックダウン。
次の一人がすぐ傍まで接近していた。剣が頭上に振り下ろされる、が、遅い、遥かに遅い。
術式を練り込んだ状態で剣の腹で剣先を強く打ち付け、その振動で男から剣を引き剥がす。顎へと向けて飛び膝蹴りを加えると、ただの一撃で昏倒してしまった。
最早言うまでもない、この男たちは、確実にエトよりも格下である。昨日までクー・フーリンの神速の槍を相手にしていたのだ。凡人の芯のない雑な剣など目を閉じていても避けられる。
三人目など、剣を振るう間もなくエトの拳に殴り飛ばされて気を失ってしまった。
そして丁度良いというべきか、森の向こうからゆっくりとディーンが姿を現した。一人目の男から剣を取り上げて、左手に銃を、右手に剣を構えた。
「さて、既に私しかいなくなってしまった。流石はクー・フーリン殿の弟子という訳か。遠くの位置からライフルで狙われていることにいち早く気が付き、そして私の知りうる限り腕の立つ傭兵を三人とも瞬く間に倒してみせた」
「御託はいいからかかってきなよ。どんな理由があろうとサラちゃんに手を出そうとする奴は僕が絶対に許さない」
言われるまでもないとばかりにディーンは銃口をこちらへと向け、そして発砲した。引き金が引かれる直前で、エトは左に飛ぶ。
銃弾は真っ直ぐにしか飛ばない。どれだけ弾の速度が速かろうと、どれだけ素早く連射しようと、相手の銃口の方向と引き金にかかっている指の動きを見ていれば、エトに避けられない銃弾などない。
ディーンもすぐにそれを悟ったのか、すぐにそれを捨てて剣を構え肉薄した。先程の傭兵とは違って幾分強い。
一撃目の剣閃を余裕で避け、そして剣を握る拳へと向かって剣の柄で殴りつける。腕を引いてすぐにそれを避けたディーンはすぐに横薙ぎに斬りつけた。
剣の腹で受け止め、力が弱まったところを縦に斬りつける。
しかし――躱された。
その隙を縫うように、ディーンはエトの背後に回り込み、そしてその首筋に剣先を突きつけてみせた。
「……僕の負け、かな?」
「残念だ、私の負けだよ」
今のディーンに、ここからもう数センチ剣を進めるイメージはできなかった。むしろ、エトの握る剣が自分の右腕を切断しているイメージしかできない。
「まるで隙がない。強いてあるというのなら、視界の届かない背後というくらいか。しかし君はそのことなど最初から織り込み済み、いつ背後から奇襲を受けても対応できるように訓練されてある。……君の縦に振った剣、そしてその腕にはまだ余裕があり、すぐに体勢を変えることなく私を殺すことができる、つまり私はまんまと君の罠に嵌ったという訳か」
剣を地面に置くと、両手を頭上へと掲げた降参を示すポーズを取る。
「少しは身になる相手ができたと思ったが、実力の差を測り違えたか」
やれやれとそう呟いた。
「貴族の名を背負って生きている以上、社会の闇と呼ばれる部分から君たちは永遠に狙われ続ける。その時に君は自分の身を、そして家族の身を守ることができるか、という心配をしていたが、それも杞憂らしい。私は大人しく去ることにするよ」
踵を返して、どこかへと立ち去ろうとするのをエトは呼び止めた。
「逃がすと思っているの?」
「逃げられるさ。たかが学生の言うことと、刑事事件に身を置いている私の言葉、大人ならどちらを信じる?」
エトが言葉を返すこともなく、ディーンはそのまま立ち去ってしまった。
もしかしたら本当に誰も襲うつもりはなかったのかもしれない。野生のように生活し、学園生活の中で平和に暮らしている自分をどこかで心配していたのだろう。魔法捜査官としてあらゆる犯罪に関わっている彼の、社会の闇という言葉にやけに重みが感じられた。
だからと言って、嘘でも唐突にクリサリス家の人間にライフルの銃口を向けて家族を襲撃しようとした彼らを許す気には、しばらくはなれそうもなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時が経って、とある晴れの日。エトとサラは他に誰もいないグニルック競技場で、二人で練習に励んでいた。
最初に軽く話が盛り上がって、それなら対戦だということで、二人でガードストーンを設置し合いながら得点を重ねていた。
クリサリス家での試練で見せたあのトンデモショットは使わないというハンデの下に勝負は行われたのだが、あまりにもサラが自分に追い縋っていたのと、ほんの少しの遊び心でついつい例の≪
しかしそれを目の前で見せられたサラも物怖じすることなく、自分のグニルックを貫き通すことで、第八フェーズ終了時点で双方パーフェクト、引き分けとなった。本来ならここから延長戦が始まるのだが、今回は疲れたのでなしということに。
芝生に二人で座り込んでいたところ、ふとサラがエトに問いかけた。
「ところで、エトは最初、世界最高峰の無理難題に付き合わされたと言ってましたが、何をしてたんですか?」
それはエトが、クリサリスの人間に試練を乗り越えるように要求された時、自分を鼓舞する意味も込めて彼らに放った一言だった。
「ああ、あれね。実はあの日の朝、お兄さんに勝負を挑まれたんだよ。武術の」
サラの思考が停止した。一個師団すら紙屑のように扱うらしい『八本槍』という化け物の集団の一人に武術で立ち向かったなど、そんなものの後のグニルックの試練など、それこそ弱った蝿を叩き潰すようなものだ。それをまるでいつもの思い出のように語るエトに、やっぱり何かがおかしいと思った。
「いやぁ、やっぱりお兄さんは強いよ」
いや、強いなんて言う次元ではない。心の中でサラは突っ込んだ。かつてその背中を眺めたことがあったが、アレは普通の人間が到達できるような肉体ではない。無駄な筋肉もぜい肉もない、素人が一目見ても美しいと思えるそれを服の上でも何となく感じ取れるそれが、武術にはまるで縁がないサラでも強いの一言では語れないということが容易に理解できる。
何だか話が面倒なことになりそうなので、とりあえず話題を変えることにした。
今日は月も替わって二月十四日。そう、もともと、二百六十九年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日であり、世界各地で男女の愛の誓いの日とされる一日である。通称、バレンタインデー。
サラは紙袋から箱を取り出し、それをエトの目の前で開けてみせた。
エトが覗き込んでみると、そこには可愛らしくデコレーションされた、綺麗に形の整った手作りチョコが幾つか並んであった。
「その、恋人ならこういうことするのかなーって……」
頬を染めながら、サラはそのチョコの端の方を咥えてエトの方へと向く。エトはその意図をすぐに察した。
まさかサラがこんな大胆なことをするとは――ある意味で間違った方向へと成長している気がしないでもないエトは、照れながらも誰もいないかを確認して、反対側からチョコの端を咥えた。
そこから両サイドから同じペースでチョコを噛み砕きつつ、そして最後に――唇同士が触れた。
サラがエトの背中に腕を回して、そしてエトもまたサラの背中へと腕を回して優しく抱き留める。
恋人になって初めての頃の子供のようなキスとは違う。お互いにじっくりと確かめ合うような、長く濃厚な口づけ。チョコの甘みもあったのかもしれないが、お互いに感じていたのはその甘味だけではなかったようで。
唇を離した後の二人の笑顔は、これ以上にないくらいの幸福を詰め込んでいるようだった。
「愛しているよ、サラちゃん」
「私も愛しています、エト」
言葉にしなくても分かる想いを、それでも言葉にしないと気が済まない。それが恋であり愛であるということで。
チョコを咥えたキスからの一部始終を、物陰から目にしてしまった葛木兄妹は、逃げるタイミングを見失って変な空気を肌に感じながら二人のイチャイチャっぷりを堪能していたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
――回る、回る。
分かっていますよ。
でもそれが、
――回る、回る。
私は皆さんの願いを叶えてあげているんです。嫌われる以前に、感謝されてしかるべき存在なはずなんですよ。
願いというのは叶えられる代わりに何かしらの代償を支払わなければならないというだけの話で。皆さんはそれを自分たちが知る由もなく払い続けています。そしてそれが、皆さんの幸せへと繋がる。行動へと繋がる切欠になる。
――回る、回る。
これで何度目でしょうか。同じことを繰り返して、後悔して、それでもまだ同じ過ちに縋り付こうとしている。
みっともないとも言えますが、しかし仕方のないことですよね。人間だから。私はそんな
――回る、回る。
例え誰かが傷つこうと、誰かが苦しもうと。私を呼び出してくれたあなたに恩を返すために。
全ては何もかも無に帰るから。なかったことにされるから。
――回る、回る。
楽しいですか?私は楽しいですよ。
その代わりに、たくさんの人が巻き込まれて、傷ついて、犠牲になって、その全てがなかったことにされる。そんな世界で何をしてもいいとは言えないけれど、それでも少なくとも、終わらない世界に安心できるでしょう?
私は誰よりも知っていますから。人間が最も安心していられるのは、全てが停滞している時だと。
――回る、回る。
知っていますとも。誰よりも
ゴメンナサイ、私には、その願いは叶えられないんです。誰かを助けることは、誰かを犠牲にすること。百人を助けるためなら、一人を犠牲にしないといけないこともある。そして、一人を助けるためなら、千人を犠牲にしないといけないこともある。
無情、ですよね。
――回る、回る。
決して終わることなどありません。今皆さんが持っている幸せは、永遠に持ち続けることができるのです。
今を楽しみ、苦しみ、悲しみ、そして喜ぶ心を、いつまでも忘れないで胸に仕舞っておける――そう、まるで永遠に大人になることのなかったピーターパンのように。
――回る、回る。
また、繰り返す。永遠の時を。訪れない未来を。
回り、巡り、連なり、輪を作る。いつまでも終わることのない夢を。そうそれは――
――回る、回る。
決して潰えることのない、永遠に繰り返される物語。それはきっと、ダ・カーポのように。
次章、風見鶏編最終章。
全ての謎が、驚愕の真実が、遂に明らかになる。