翌朝、早朝の校舎に、エトの姿はあった。制服を着込んで力強い足取りで前へと進む少年の顔は、覚悟に満ち溢れている。
することは決まっている。気に入らないことがあるのなら、自分で動いて勝ち取ればいい。そのために、今日は一世一代の願い事を大先輩に聞いてもらうつもりだ。
「朝から早いな、エト・マロース」
聞こえてきた声に視線を向けると、そこにいたのは秀麗眉目の貴族の御曹司、イアン・セルウェイだった。何故ここに彼がいるのかは――何となく察しがつく。
エトは彼の姿に一度足を止め、簡単に挨拶をして向き直る。
「サラ・クリサリスは無事か」
「彼女なら今もきっと寮にいるよ。昨日見た時は、魂が抜けたように虚ろな顔をしていたよ。僕がサラちゃんを怖がることがあるなんて思いもしなかった」
絶望の底に叩き落とされた、か弱き人間の姿。まるで全てを失ったかのように無気力に宙に視線を泳がせていたその姿は、エトが初めて見るものだった。人が絶望することすらやめてしまった時、あそこまで歪に見えてしまうものなのかと。
「君が怖がるとは余程だな」
失笑気味に笑ってみせた後、やれやれと言わんばかりに両手を広げる。相変わらず大袈裟な男だ。
「事情は把握しているよ。彼女の政略結婚が決まったらしいな。……一回戦敗北、結果だけを見れば、それは家にとっては顔に泥を塗られた気分だろうさ。しかし、相手があのリッカ・グリーンウッドだというのなら話は別だ。あの試合を当然僕も見ていたが、今年のクイーンズカップの中であの試合以上観客を沸かせたものはなかったよ。彼女のショットも、才能のなさを補うための戦略と努力も、僕は高く評価しているつもりさ」
へぇ、エトの口から思わず漏れてしまったのはそんな感嘆の息。自分が勝つために他人を監禁したりするような茶目っ気たっぷりな男が意外にも他人に敬意を表するとは。エトも正直、彼は権力ある者に媚び、弱き者を見下す典型的な悪者だと思っている節もあったのだが。
「君が僕を全く信用していなかったことは分かったよ。しかし今はそんなことはどうでもい。彼女には家を支える程の実力も――僕の家が僕にしている期待に応える程の才能も――彼女の家が彼女にしている期待に応える程の資質も――何もかも持ち合わせていない。それなのに彼女はカテゴリー5を相手に善戦し、会場を沸かせた。サラ・クリサリスには圧倒的に力がない。しかし、それ以上に、力以外の可能性があるようだ」
力以外の可能性。エトにはそれが何なのか分からなかった。
エトの周りには力のある者ばかりが集まっていた。目の前のイアンに、クラスメイトの清隆や姫乃、そしてリッカやジルをはじめとした生徒会メンバーに、生徒会長である姉のシャルル、そして彼ら彼女らを大きく突き放した、力の権化とも言える存在の集団『八本槍』の一人、クー・フーリン。
少なくとも、そんな人たちの姿を見て、努力によって、経験によって、不屈の想いによって、才能という人によって決められた大きさの種から大きな花を咲かせること、そしてそれが力となって、意志を貫き通すための固く鋭い剣となること――それが可能性となることを知った。
しかし、それ以外の可能性があるというのなら、たとえそれが何なのか分からなくとも、賭けてみる価値は十分にある。彼女に家を支え得る力がないのなら、力以外の何かで彼女の期待に応えられる可能性を、信じる。
「よく分からないけど、イアンがそう言うのなら、僕もそれを信じてみるよ」
イアンの言葉は本物だ。決して嘘でも大袈裟でもない、彼が心から感じた素直な感想。
普段こそ強がって傲慢な態度をとっているのかもしれないが、それも全て、家のために強くあるべきだと自分を演じていたからなのかもしれない。もしかしたら、きっと心優しい男なのだろう。
エトが屈託のない笑みを浮かべてみせると、イアンは何故か紅潮して慌てだす。
「か、勘違いするなよ!別に君たちを心配していたわけではない!これはそう、あれだ、僕の前で辛気臭い顔をされるのがたまらなく不快なんだ。僕の足を引っ張らないでくれ」
そう言って、背中を向けて早足に去っていく。結局最後はふてぶてしい台詞を吐き捨てていったものの、そっちこそ本心ではないのだろう。彼の態度から、十分にそれが伝わっていた。
イアンとの話を終えた後、彼が向かった先は、学園長室であり、生徒会室の役割も兼ねている部屋である。学園長が女王陛下であるということは隠蔽されていることではあるが、エトは彼の友好関係上、その事実を知っている。女王陛下としての公務が忙しいので、学園長室としての体裁をほとんど成していない以上、基本的には生徒会室という扱いとなっている。
ドアをノックして、中から女性の声を聞く。入室許可の反応だったので、ドアを開けて中に入った。
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少年の言葉に、リッカは少し紅潮して閉口した。
生徒会室に朝早くから客が来たということでもてなそうと思ってみれば、現れたのはエトだった。何か大きな覚悟を固めてきたというか、ブレのない真っ直ぐな瞳に強さを感じる。
恐らくサラの政略結婚に対して何か今後のことを決めてきた、そんなところだろうと思っていた。
しかし次の瞬間彼の口から飛び出てきたのは、とんでもなく突拍子もない言葉だった。
「僕、サラちゃんと結婚するよ」
堂々とした口調で臆面もなく幸せになる宣言をぶちまけたのだ。その気持ちも分からなくはないが、いくらなんでも発想が明後日の方向に飛び過ぎている。リッカは眉間を抑えながら溜息を吐いた。
「家と家の関係を邪魔しようっていうの?クリサリス家の決定は、家の名を残すのには安全な一手と言えるわ。サラにはもう家族の期待を背負える程の力を持っていない。娘さんのことも大事だけど、魔法使いはやっぱりご先祖様から受け継いできた血と誇りと伝統を守っていくものだから、そのためには一族の希望すら斬り捨てるわ。失敗したら、誰もが辛い思いをするのよ」
真剣な眼差しで、エトの気持ちを尊重しつつ彼を窘める。
しかしエトは、リッカの言葉を聞いてもなお、その面を俯けることはなかった。その目はまだ、熱い闘志を秘めている。
「失敗しないよ、僕は。それに、失敗することなんて考えてたら、最初の一歩すら怖くて踏み出せないでしょ。だから僕は、サラちゃんと一緒にクリサリス家を支える『可能性』になるって決めた」
サラが家族に期待を諦められたのは、彼女に力がなかったからだ。だからクリサリス家は他の家に力を求めた。つまり、力のある者で信頼できる相手であれば誰でもいいのだ。
だからエトは、クリサリス家のための力になる。そしてサラを支えながら、サラに支えられながら、クリサリス家の再興に尽力するのだ。
「政略結婚のサラちゃんの婚約相手に求められている条件は、才能があって信用できる家の魔法使いだよね。だったら、信用は何とかして勝ち取ることにして、僕が今の婚約相手であるディーン・ハワードよりも実力があることを示してあげれば、政略結婚の話はなしになるはずだよ」
そこまで考えていたのか。リッカはエトの言葉に、彼の意志が行動を伴っていることを感じ取る。
しかし、問題はそれだけではないのだ。エトは姉・シャルルが生徒会長を務めているとはいえ、本人には特に大した称号もないし、特別な活躍をしているわけでもないごく一般の風見鶏の生徒である。ただの一介の学生が、どうやって貴族同士の家の事情に介入できるだろうか。そもそも、クリサリス家の敷地に足を踏み入れることすらできず、彼女の家族の顔を見ることなど到底できはしない。
「それで、どうやってクリサリス家の人に連絡を取りつけるつもりなの?ただの魔法学園の生徒じゃ話はしてくれないわよ?」
エトは彼女の問いに、すかさず答える。
「僕一人じゃどうにもならないよ。だから、リッカさんに僕を推薦してほしいんだ。カテゴリー5の魔法使いの話なら聞いてくれるでしょ?それに、あまりこういうことは言いたくはないんだけど、この際仕方ないや。僕はただの学生なんかじゃないよ」
そして、力強い笑みを携えて、胸を張って言葉を続ける。
「僕は、『八本槍』の一人、クー・フーリンの弟子にして、孤高のカトレアと彼女の古くからの友人から魔法を教わってきた。どれも教えを乞うには究極の域に達している人だよね。そんな人たちから教育を受けてきた前代未聞の魔法学園の生徒、こんな感じで売り込めば、お話の場くらいはつくってくれると思う」
そう、言われるまでもなく、彼は異質なのだ。
サンタクロースの一族の血を継いではいるものの、実際のサンタクロースとしての力のほとんどが姉に引き継がれたため、一族が得意なプレゼントの魔法はエトには使えない。一度生死の境を彷徨い、その中でクー・フーリン一行に命を救われる。そして彼と、リッカやジルの下で魔法や体術を学んでいるハイブリッドな少年で、同じ風見鶏予科一年生と比べてずば抜けた実力と経験を持っている。
それはここロンドンで暮らしている魔法使いでは経験し得ないことばかりで、彼らとは違う価値観や可能性を孕んでいるのは事実である。
そして何より、リッカ・グリーンウッドとクー・フーリンの名がネームバリューとなって否でも注目をせざるを得ない。
「確かに、ただの学生ではなかったわね」
リッカは口元に人差し指を当てて、何やら思案するように宙に視線を向ける。
そしてうんと頷いて笑顔で再びエトに向き直った。
「いいわ。私がクリサリス家とハワード家にアポを取ってあげる。上手く行けばクリサリス家の人に恩を売るような形にもできるし。コネっていうのは結構大事なものなのね」
「え、いいの!?」
爛々と目を輝かせて、エトが前のめりになる。
「でも、私が手を貸せるのはそこまで。後はあなたの目で見て、あなたの耳で聞いて、そしてあなたの口で言葉を交わし、行動で示すこと。いいわね?」
「うん。ありがとう、リッカさん」
深々と、エトはリッカに頭を下げる。
リッカは期待していた。エトならば、あの男の背中を見て育ってきた彼ならば、サラを助けられるかもしれない。理不尽な環境から、絶望的な未来から彼女を救う、たった一人の小さな勇者。体もまだまともに成熟してはいないが、その小さな拳も、誰かを守るため、包み込むための大きな拳に見える。
部屋を出ていこうと向けた背中に重なったのは、青髪の真紅の槍の戦士。多分彼のことだ、きっと、サラを助けに行くのではない。その本質は、自分の気に入らないこの状況を逆転させるために立ち向かうのだ。
ドアが閉められ、再び生徒会室を沈黙が支配する。
溜息を吐いて、椅子に座る。
「シャルル、あなたの弟は、きっと私たちよりも立派で尊い志を持っているわ」
誰に言うでもなく、ここにいない友にそう告げる。
きっと上手く行く。誰もが幸せになる、最高のハッピーエンドへと向かっていくことを信じて。
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そして、約束の日が来た。
エトはこの日、一睡もせずに自分の部屋で精神統一を執り行っていた。
実際のところは、クーが何か大事な日の前には欠かさず行っていたものを、見よう見真似で再現しただけのことで、何かしらプラスになったとは思えないが、ある種の儀礼的なつもりだった。
一晩不眠であるということになるが、前日にはしっかり休みもとっていたことだし、問題はない。
風見鶏の制服に袖を通し、シェルを確認する。サラからのテキストが来ているかと思ったが、先日先に実家に戻ったサラからは何の連絡もなかった。
落ち込んでいる場合ではない。洗面所で顔を洗い、準備した荷物を肩にかける。
戸締りを確認してから廊下を渡り、学生寮を出たところで――
「よう、エト」
そこにいたのは、訓練用の槍を抱えた蒼の戦士だった。
どうやら面白いことを考え付いたようで、どこか獰猛な笑みを浮かべている。この笑い方は、強者と対峙するときの期待の眼差し。
「お兄さん、どうしたの?」
警戒心は怠らない。今の彼は、どうしようもなくとんでもないことを考えている。
「いやな、テメェがわざわざクリサリスの家に殴り込みに行くっていうからな、ちょっくら挨拶しに来たわけよ」
そう言いながら、エトの進路を塞ぐように前に立つ。
圧倒的な威圧感、腰が砕けそうになる圧力に耐えながら、ルビー色の双眸で彼の顔を見上げる。
「そこをどいてくれないかな」
無駄だと分かっているが、一応穏便に済ませたい。遠慮がちに来たところで、結局彼はその場を動かなかった。
「本当の理不尽ってやつを教えてやるよ。あの嬢ちゃんはリッカに負けた。理不尽な力の差のせいでな」
結局そうなるか。彼をここで目にした時から、こうなることは大体予想がついていた。
しかし、このままでは、本当に全てが台無しになってしまう。本番の前に、最恐最悪の敵が立ち塞がった。
「ここを通りたきゃ、俺様を倒してから行け、ってな」
そう言うことか。エトは彼の真意に気が付く。
サラはリッカに途方もない歴然な力の差で敗北を喫した。そして今度は、エトがクーに負けろというのだ。
槍一本で化け物の巣窟である『八本槍』に選ばれた、人類最高峰の武人。その槍に貫けぬものなどなく、立ち塞がる相手は容赦なく叩き潰す。その名もクー・フーリン。
対して、そんな彼を師と仰ぎ、彼と比べて実力も乏しく経験も浅い、サンタクロースの家系の元病弱な少年、エト・マロース。
全てが足りない。現実的に勝てる道理などない。
――それでも。
「分かった。お兄さんがそう言うのなら、僕はお兄さんを退かせるよ」
真剣な眼差しで、殺意を込めながらそう言ってのけた。
クーの笑みが、鋭さを増す。真紅の双眸の眼光が強さを増し、刃のような鋭さでエトの瞳を貫く。
エトは、クーから一振りの訓練用の剣を手渡される。その重さを腕で確かめて、頷く。
「ホント、今のテメェの立場が羨ましいぜ。手の届かねぇ相手に立ち向かうチャンスなんぞ、百年生きて一度あるかないかだ。俺様も一度でいいから死闘と呼べるモンを繰り広げてみたいところだね」
どっかにいねぇかなそんな奴、と小声で呟きながら。
クーの歩く後ろについていく。その背中を何度見返そうとも、勝てるとは思えない。
しかし自分でサラに言ったのだ。手の届かない強者を前にして、絶対に諦めるなと。魔法が想いの力である以上、信じ続ければ、進み続ければ、いつかは道が切り開かれる。
勝利の可能性、絶無――それがどうした。不可能を揺るがせ、果てに覆すような不屈の想い。それがある限り、ゼロパーセントの中を駆け巡ることができる。
ここで彼を倒さねば、理不尽な現実を打開せねば、愛する人が悲しむ。
――それだけはこの僕が絶対に許さない。
剣の柄を握り締め、その重さを感じながら背中を見上げる。
邪魔をするのなら立ち向かう、それだけの話だ。たとえ相手がクー・フーリンだろうと。
サラに示してやるのだ。勝率ゼロパーセントを覆すことができる想いの力を。不屈の想いが見せる、決定的な奇跡の瞬間を。
そして最後に、彼女の希望になる。彼女がいつでも笑っていられるように、彼女の傍にいつまでもいられるように、それだけを願って。
止められるものなら止めてみるがいい。
――今の僕は、負ける確率ゼロパーセントさ。
エトの顔に浮かんだのは、何かを楽しむ様な力強い笑みだった。
次回、師弟対決です。
ランサーのアニキには思う存分全力で手を抜いてもらいます。だって本気出せば一瞬もない内にぶっころころしてしまうもの。あくまで大きすぎる試練を課そうとしているだけですから。