冬の長期休暇も終わりに近づき、新学期への期待や不安がせめぎあう中で、少しずつ空気が変わってきているのが風見鶏の生徒には感じられていた。
ロンドンの地下に存在するそれはまるで異世界、王立ロンドン魔法学園、通称風見鶏では、この雪の降るような寒い季節でさえも変わらず薄紅色の桜の花を咲き誇らせている。
ヨーロッパでは実を結ぶ事の方が重要視されるためになかなか桜の花が注目されるものではないが、日本には春夏秋冬という四季が存在しており、冬の終わりから春にかけて、一面が桜で彩られる幻想的な光景をその瞳いっぱいに収めることができるのだそうな。
さて、どれだけ着込もうと冷たく乾いた風が素肌を襲うこの季節、しかし肌で感じるそれとは程遠いくらいに温かさを感じる一面桜色の一本道を、エトは耕助と共に歩いていた。特に目的のない、単なる散歩である。
「うう、やっぱ桜が咲いてるとはいえ冬には変わりないんだな……」
「気温は地上と同じように調整されているらしいからね」
ジャケットまで着込んだ耕助は、服の上から二の腕を擦る。余程寒いのが苦手なのか声も震えていた。
そこまで寒いならわざわざ外に出なければいいと思うだろうが、そういう訳にもいかないのだ。その理由こそ、彼らの視線の少し先にあった。
仲睦まじく手を繋いで歩く少年少女。一件恋人同士に見える彼ら、片や休暇に入る前は咄嗟の判断で多くの命を危機から救い、叙勲されただけでヒーローとなれるような名誉騎士の称号を手に入れ、挙句魔法使いの卵にとって尊敬の対象となる風見鶏生徒会役員選挙に当選、見事生徒会役員として返り咲くことができた日本人男性。片や趣味は世話焼き、特技は世話焼き、長所は世話焼き短所も世話焼きといった具合に、家族や友達の世話を焼かないと死ぬ病気にかかっているようにも見える、大和撫子という言葉が外見性格共に似合う少女。
この二人、実は血は繋がっていなくとも、兄妹なのだ。
日本から来た魔法使いの名門、葛木家の長女と養子。葛木姫乃と、葛木清隆。
少し前まで、事件があった。
年末を迎える少し前、葛木清隆が原因不明の昏睡状態に陥った。彼のクラスのクラスマスターを務めるカテゴリー5の魔法使い、リッカ・グリーンウッドが、他人の夢を利用した彼の無茶で闇雲な行動に気が付いて、自分の夢の中に彼を誘導することで彼の目的、そして姫乃や葛木家そのものに隠された真実を知り、そこで厳重に注意したつもりだった。
しかし、清隆はその時他人の夢の中に囚われ、そのまま他人の深層心理の中に搦めとられて夢の中から脱出できなくなり、目覚めぬ体になってしまった。姫乃に発見されたのは翌日のことである。
そんな彼を救い出したのは他でもなく姫乃だった。
自分の使命から、運命から逃げていた弱さに気付いていながら目を背け続けた自分に叱咤し、彼女はある決断をする。それこそ、『お役目』の力の継承。
清隆を救うためには、力がいる。その力を手にする準備はできていた。ただ、それを受け取ることが途方もなく恐ろしかった。しかし、それでも助けたかったのだ。自分にとって最も大切な人を――最愛の存在を。
姫乃は思い知った。何故母が、そして祖母が、悲しき運命を背負ってまで強大な力を得たのか。
――紛れもない、誰かの笑顔を絶やさないためだった。
強大な『鬼』の力を封じ続けて災厄が野に放たれないようにするのはもちろん、『お役目』の力でたくさんの人を救い、支えてきていた。姫乃の眼には見えずとも、彼女の親や先祖たちはいつも笑顔で誰かを笑顔にしていたのだ。
逃げるわけにはいかない。いつも隣にいてくれた人の笑顔をここで絶やすわけにはいかない。これから出会うだろう多くの人の笑顔をなくすわけにはいかない。そして何より――誰かを笑顔にするために、強くありたい。
もう、『お役目』に怯える
そして、姫乃は清隆の眠る夢の奥深くへと向かった。もちろん彼女には清隆と同様に夢見の魔法を扱うどころか、その基本すらも知らない。
それでも、姫乃には姫乃だけの、小さな奇跡が芽生えていた。子供の頃、たった一度だけ成功した、絆の力。
――清隆の心を知る魔法。
一度、少し遠い昔、姫乃がまだ幼かった頃だが、どこかに出かけては帰ってこなかった清隆を探しに行ったことがあった。
当時清隆は、まだ葛木家との間の心の壁を作っていたのか、一人になれる、お気に入りの場所を見つけては、そこで黄昏ることがあった。当然誰にもその場所を教えることなどなかったのだが。
何故かその日、清隆は葛木家の家に帰りたくなくて、沈みゆく夕日を眺めてはぼうっとしていた。
彼らの温かさに、馴染むことができなかった。かつて島で向けられた嫌気の絡む視線。人の温もりに対して猜疑心しか抱けなかった清隆にとって、これ以上なく居心地が悪かったのかもしれない。
そして、誰も知らないはずの場所に、姫乃が来たのだ。
その時、彼女は言ったのだ。何故ここまで来ることができたのか。
――おにいちゃんのこころのばしょをね、さがしたんだよ。
そう、清隆の心を知る魔法。
姫乃自身、何故その当時しか使うことができなかったのだろうと考えたのだが、今になってようやく理解できた。
あの頃は、本当に兄を、葛木清隆を慕っていたのだ。子供心ながら、心の底から愛していたのだ。しかし、成長して常識やらを身に着けていくにしたがって、次第に心の距離は離れていった。だから、今まで一度しか使えたことがなかった。そして、自身が覚悟を決めて『お役目』を受け入れることで、自分の本当の心を受け止めることで、また、彼の心を知ることができた。
そんなこんなで清隆を夢の底から救い出すことができたのだが。
そう、以前まで兄妹として仲良さそうにしていた二人が、今ではどこにでもいそうで、それでいて実に彼ららしい雰囲気を放つ恋人として手を繋いで歩いていた。
エトと耕助にとっても特に理由はないと言ったが、本当は目を覚ました清隆と、そんな彼と運命的に結ばれた姫乃を祝福したいがために彼らの後ろについて回っているのかもしれない。
「うらやましーなー、俺もカノジョほしーなー」
その二人の背中をまじまじと見つめては羨ましそうに耕助は呟く。実は隣にもカノジョ持ちがいるのだが、その真実については耕助は知る由もない。
そんな耕助に、慰め程度に、いつかいい人が現れるよ、なんてお世辞を言ってのけるエト。
「うっせ、俺はいつかがくえんちょみたいなおっぱいが大きくて美しい人を手に入れてやるんだっ!」
苦笑いを浮かべるエト。
いつも通り、何ら変わることのない日常。例え清隆が一度昏睡状態に陥ろうと、姫乃が『お役目』を継ごうと、兄妹だった二人が恋人として結ばれようと、相変わらず何もかもが変わらない。結局はまた自分たちを包み込む、温かな日常。耕助の文句という名の呪詛を聞き流しながら、そんなことを考えてしまうのだった。
「そう言えば今日って、帰省組が帰って来るらしいね」
そう切り出したのはこれまたエト。
冬の長期休暇が終わるということは、再び学園に戻ってくるために帰省していた学生が実家から帰ってくることになる。そうなれば、是非ともクラスメイトや中のいい連中に挨拶しておきたいと思うところもあるのだろう。
「ああそういやそうか。クラスの連中も帰ってくるみたいだし、一旦寮に帰って迎えてやるとしますか」
耕助の誘いに乗っては、前を歩くカップルに声をかけ、ほんの少し冷やかしては照れる表情を堪能し、踵を返して学生寮へと戻る。
寮を出たのが朝の早い時間だったために、帰ってきたのが丁度普段起きたくらいの時間帯だった。
階段を上がってはラウンジから見下ろして数刻。ようやく帰省組が帰ってくる様子が窓の外から見てとれた。
腰を上げて再び階段を降り、見知った顔を探してはお帰りと挨拶を交わす作業。清隆と姫乃も一旦別れて、親しい友人や知り合いと雑談を交わしている。途中でメアリー・ホームズやエドワード・ワトスンとも出会い、事実かどうかも分からない自慢話を聞き流したりもした。
そして、ここずっとエトが会いたかった人が、ようやく姿を現す。
「あ……」
純白のワンピースの上に、紺色のブレザーを着込んで。青色のツインテールをピョンピョン揺らしていたのが、こちらに気が付いてその動きを止める。小柄な堅物委員長、サラ・クリサリス。
引き摺るように転がしているバッグにはたくさんの荷物が入っているらしく、どうやらここまで来るのに大分疲れたらしい。エトは何も言わずに彼女の傍まで駆け寄って、そっと荷物を持ってあげる。
「ありがとうございます」
この日から、エトにとって大切な日々になるのは、彼にとっても、サラにとっても知る由もなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
本来、女子寮は男子禁制であるという原則があるのだが、実際のところは形骸化しているようなものであり、生徒会役員が見ていない限り、たまに男子生徒が女子の部屋の前をうろついていることも見受けられる。同様に女子もまた原則禁制である男子の部屋に行くことは禁止されているが姫乃をはじめとした連中がたまにうろついていたりする。
さて、大量の帰省組が返ってくるという状況の中で、誰に見られるか分からないというのにも拘らず、エトはサラの荷物を引っ張って転がしていた。わざわざ男子がルールを冒してまで女子の部屋まで行く理由は一つだろう、その光景を見ている誰もがそれを想像しているに違いない。実際、サラが周りを見渡してみると見知っている人そうでない人がこちらをちらちらと見てはクスクス笑っている。
一方でエトも同じ視線に晒されているというのに、全く動じることなくまるでそれが普通であるかのように振る舞っている。かの『アイルランドの映雄』と畏怖される男の傍で過ごしたことだけはある、流石の鋼のメンタルだ。
周りの視線を気にしつつ俯きながらようやく自室に到着するというところで、急にサラが足を止めた。
「サラちゃん、どうしたの?」
ふと振り返ったエトが目にしたものは、どことなく慌てているサラの姿だった。
何か忘れものに気が付いたのあろうか。とんでもない過ちを犯してしまったと言わんばかりの表情である。顔から血の気が引いていた。
「えっ――えっと、エトはここまででいいですっ、私はもう大丈夫ですっ」
そう言ってエトが引っ張っていた荷物手を伸ばして、強引に奪い取ろうとする。
しかしエトは、サラが本当は優しい子であるということは知っていた。きっとサラは、自分に余計な負担をかけさせまいと気を遣って、部屋でゆっくりするように言いたいのだろう。
だが、これでもエトはサラの恋人。こんなところで引き下がるわけにもいかない。
「大丈夫だよ。僕はサラちゃんの役に立ちたい――っていうより、少しでもサラちゃんと一緒にいたいんだ」
好きな人にそんな甘い言葉で囁かれると、何だか脳髄が麻痺するようで、思考がとろけて素直に彼に甘えようと思ってしまう。
そこで思い切り首を左右に振った。そうではない、それではいけないのだ。
「違うんです!そうじゃなくて、部屋に来てほしくないんですっ!」
顔を真っ赤にしながら、しかし冷静に周囲を見ているようで、小声で叫ぶように訴えかける。
エトはそんな彼女に、やっぱり変に優しくしてしまうのだ。
「サラちゃんの部屋には、是非一度は入っておきたいな。だって男でサラちゃんの部屋を知ることができるのは、僕ただ一人ってことでしょ?」
なんだこの少年は、羞恥心とか自重というものを知らないのか。既にサラの心の中は半泣きである。
かと思えば、何故かエトの表情が曇っている。どこからどう見ても落ち込んでいるようにしか見えない。
「やっぱり、まだ早いよね。これからゆっくり距離を詰めていけばいいと思ってたけど、少し焦り過ぎたかな」
そんなことを言いながら、寂しそうに小さく笑顔を作ってみせる。
だからそう言うところが卑怯なのだ。その引き込まれるような笑顔で何度頭がおかしくなったことか。それに今回はそれに寂しいオーラを追加して解き放ってきた。以前のサラでも抵抗できなかったのに、もうほとんどエトに依存してしまっているところもある今のサラにとって、警戒に必要な心の壁など紙切れ一枚に過ぎない。
「そ、そんなに落ち込まないでください、わ、私が悪かったですから」
あ、何で私謝ってんだろう、もう気分は若干諦めモードである。どうあがいても今のサラではエトに太刀打ちできない。色々な意味で。
「じゃ、じゃあ、行っていいんだね!?」
ハッと自分の失態を思い出して、やっぱり駄目だと言いだそうとした時には、時すでに遅し。既にサラの部屋の前まで来ていた。
諦めたサラが部屋の鍵を懐から出しては、ゆっくりと、そうゆっくりと少しでも先延ばしにしようと足掻きつつ、しかし物理法則というものは無情でサラの努力空しくカチャリと音を立ててしまう。
そして次の瞬間。サラの静止を聞く暇もなく、エトがドアノブを捻って扉を開けてしまったのだ。
流石は最強の野生児の下で育った少年、女性に対するデリカシーがどこか足りていない。
そして、エトはその光景を視界に収めて、絶句してしまった。
「凄い……」
見渡してみたら、そこかしこに置いてあるファンシーな人形。テディベアから始まる様々な動物の形を模したものから、ハートや星などの典型的な形のものまで、実に様々な人形があらゆるところに綺麗に整列して座っていた。これこそ普段堅物な印象しか見られないサラの予想だにしない部分。所詮サラも一人の可愛い女の子ということで。
引かれるか、嫌われるか。普段の自分からは想像できない部屋に幻滅するか。そう思って目をぎゅっと瞑ったと思った刹那。
頬に風を受けた。部屋の方へとツインテールが揺れる。そっと目を開けてみれば既にエトはそこにはいなかった。
部屋の中へと視線を向けてみると、人形の内一体を手にとっては、嬉しそうに笑っているではないか。
「凄い、何これ、凄く可愛いよ!」
子供のように興奮しては、人形を次々に手に取ってはしゃいでいるエト。
まさか自分が幻滅されると思っていたが、むしろエトもこう言ったものが好きだったのか。結局似た者同士だったというオチが待っていただけでどうということはなかった。
何を焦っていたのだろうと全ての努力が本当に無駄な徒労に終わってしまったことにある意味で安堵を感じつつ、ゆっくりと荷物を部屋の中に片付けていく。
サラの片付けの手伝いを申し出たことをすっかり忘れて人形と戯れているエトを見ながら苦笑いをするサラ。まだまだ知らないこともたくさんあるんだなと、静かにエトを見つめる。
トナカイのような人形を腕の中に抱いて、頬擦りをしているところを見ても、男の癖にみっともないなどと思えない。
生徒会長である姉と同じような顔のつくりだからだろうか。女が尾という程でもないがまだまだ童顔で、そんな彼が人形と戯れているのは、弟が何かのごっこ遊びに夢中になっているようにも見える。
「それ、気に入ったのならあげます」
そう言うとエトが一瞬で反応して振り返っては、驚きで顔を染めて期待の眼差しでこちらを見つめる。
頷いてやるとそれはもう大歓喜で、それを見ているとなんだかおかしくて思わず吹き出してしまった。
どうしてそこまでそのトナカイが気に入ったのだろう、彼の感性はよく分からないが、彼が喜んでくれるのなら、普段のお礼も兼ねて、そしてついでにその楽しそうな表情を堪能させてもらおうと、そんなことを考えていた。
気が付いたらこれもう五十話来てるけど、何だか百話までに終わるか不安になってきた。章で言えばこれが終わってあと二つあるからなぁ……