――チラッ。
「あ、サラちゃん、一緒に学食でも――」
――プイッ。
――スタスタスタ……
「あちゃ……」
最近一か月程、ずっとこの調子なのである。というのも、いつだったかの大浴場での遭遇以来、サラがエトのことを必要以上に意識してしまっているのか、あるいは嫌ってしまっているのか、一瞬だけ目が合ったと思えばそっぽを向いてすぐにどこかへ向かってしまうのだ。結論、エトはここ一カ月程サラとまともな会話ができていない。
その様子を見かねたのか、耕助がエトの隣に立って難しそうな顔をしている。
「ホントにお前、何もしてないの?」
「えーっと、したと言えばしたし、してないと言えばしてないかな」
などと曖昧な返事をするしかない訳で。実際、『サラと大浴場で混浴してました』などと言ってしまえば、この男からは意味不明な呪詛を投げかけられ、変態のレッテルを張られて周囲から残念な人間を見る目で見られてしまうことは否定できないだろう。
かと言って、直接的な原因は何かと問われれば、無論あの日をきっかけに話さなくなったのだからその時拙いことを口にしたか、あるいはあの場で居合わせてしまったのが拙かったのか、そのどちらかとしか考えられない。
「だってあいつ、結構エトを信用してたとこあったのに、ここまで露骨に避けられるって絶対何かあったとしか考えらんないっしょ」
「そうなんだろうけど、謝ろうにも取りつく島もないって感じでさ」
教室の後ろ、男子生徒二人が苦笑いを浮かべながらウーンと唸る。どうやら女心は、男二人には理解できないようだ。
お互いにそのことに合点が行ったのか、偶然近くに寄ってきていた清隆と姫乃を捕まえる。呼び止められた二人はエトたちの難しそうな顔を見て、すぐに何の話かを理解してしまった。状況は把握しているみたいだ。
「でもやっぱり、エトくんとサラさんがその日何があったのか、具体的に話してくれないと何とも言えないんですが……」
姫乃はそう言うのだが、それを言えば彼女は理解してくれるのだろう。サラが何を思い、何を抱えているのか。しかし、運が悪ければ彼女の機嫌すら損ねてしまうかもしれない。なんと言い訳しようと、男が女の湯に乱入した時点で、既にエトは女の敵なのだ。怒った時の姫乃はなかなかに恐ろしいことを、清隆との掛け合いを見てきた中で理解しているつもりだ。氷の世界に棲む鬼、まさにそんな感じだった。
「でも避ける理由って、何も嫌がってるだけって訳でもないだろ。例えばそうだな、何か隠してることがあるとか、お前に顔向けできない何かしらの理由があるとか」
と、清隆。
しかし驚いた。普段マイペースで女心もろくに分からないということで定評の清隆がそこまでの推測をしたということに、一同、特に姫乃は開いた口が塞がらなかった。
清隆には、実は上級生女子生徒からある種の好意を持った視線を向けられることがたまにあるのだが、無論本人は気が付いていない。きっかけは九月に行った、初めてのグニルックの大会での大活躍だったのだが、清隆が上級生からいい意味で噂をされ、それを見た姫乃が何故か不機嫌になり、更にそれを見たエトが苦笑いを浮かべるようなことは決して少ないことではない。
「なんだよ?」
「いや、何でもないですけど……それにしても、何か何かって、何なんですか?」
結局はそこに行きついてしまうのだが、しかしそこに到達するのが最終目標であり、いつまで経っても議論がループしてしまう。
暫く抱えそうになる悩み事に、エトはついうっかり嘆息してしまうのだった。
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クー・フーリンが生徒会から押し付けられている基本的な仕事は大体雑用である。書類整理、設備点検、校内巡回、杉並捜索……
なかなかに面倒臭い作業がこれでもかと集結しているのだが、しかしクーにとっては、逆にそれがなければ暇で暇で仕方がないくらいの生活習慣と化してしまっている。所謂生徒会役員による調教というものである。
今日もまた、設備点検の際に、木材の老朽化に伴った破損によって釘が剥き出しになったベンチを回収し、しかるべき場所に運んでいた。
右肩には、相棒とも呼べる真紅の槍が収められたケースがかけられており、左肩にはサイズの大きい、四人くらいが同時に座れるウッドベンチが抱えられている。
鍛錬、研鑽を続けてきているクーにとってはこの作業も苦でも何でもなく、むしろ平和ボケしてしまいそうな体にほんの少しでも鞭を入れる程度の作業として役割を担っている。
中庭の通路を進んでいたところ、別のベンチでグニルックの道具らしきものを膝に抱え込み、何やら憂えた表情で空を見上げては溜息を零すどこあkで見たことのあるような青髪の少女を見かけた。
どこで見かけたか――予科一年A組のクラスメイト、リッカ・グリーンウッドが受け持つ生徒の一人、サラ・クリサリス。ついでに恐らくエトのお気に入り。
特に気にすることもなく彼女に接近し、そして声をかける。
さてここで問題が生じる。声をかけたのが一般の男子生徒なら何も問題はなかった。
人としての領域をあらゆる意味で突破してしまった人外集団、『八本槍』に話しかけられ、あまつさえその男は双肩にそれぞれ槍とベンチを抱えている。この状況に遭遇してしまった良識のある魔法使いの貴族の息女は一体何を思うだろうか。
正解――気を失いそうになる程の恐怖である。
「えっ……あっ、あっ……」
話しかけられただけで既に涙目、いやもう泣いている。小刻みに震える体が言うことを聞いてくれないらしい。死ぬ覚悟すら決められないままに『八本槍』と対面してしまったことに後悔しているのだろう。というよりむしろ、サラからすれば、何でこんなところに『八本槍』なんかが雑用をこなしているのだろうと、理不尽な気持ちでいっぱいなのだろう。
突然涙をぽろぽろと零し始めたサラを目の前に、クーは茫然としてしまう。何もしてないのに泣かれるとはなんと理不尽な事か――そんなことを考えているのだろう。
とりあえず自分の身なりを確認してみる。先程から変わらずベンチと槍の入ったケースを抱えている状態である。何となく答えが分かってしまった。
「……」
くるりと踵を返し、そのまま少しばかりサラと距離を取る。ジャマにならない位置にベンチを置いて、その上に得物も置いておく。再びサラの眼前まで行って、こう言った。
「すまんかった」
何だろう、このシュールな光景は。
天下の『八本槍』ともいわれる集団に属する長身の男が、泣いている女の子に対してばつが悪そうに謝っている状況など、他人から見れば最早
「よく分からんがこれやるから落ち着け」
そう言うなりポケットから取り出したのは小さなミルクキャラメルだった。何故そんなものを持っているのだろうとか聞いてはいけない。きっと仕事の合間に糖分を摂取しようとしていたのだろう。
ともあれ、緊張こそしてはいるものの、目の前の死神が自分の命を奪いに来たわけではないことに警戒及び恐怖を緩め、受け取らざるを得ないミルクキャラメルはクーが機嫌を損ねてしまわないうちに口の中に放り込んだ。
「オイシイデス」
ガチガチに緊張した五感でキャラメルの甘みを堪能しろという方が無理だ。何も感じられないままに喉元を越し、よく分からないままにとりあえず無理のない感想を口にする。
何をそこまで緊張しているのだ、そんなことを口にするクーは、自分の立場というものをちっとも理解していない。
しかしクーが彼女に接近したのは、何も怖がらせるためでも、緊張させるためでもない。エトの友人である少女がこんな昼休みにグニルックの道具を抱えて空を見上げている、そんな光景がほんの少し気に入らなかったから、何があったのか相談くらいには乗ってやるつもりだった。
「なんかあったんかよ」
彼女の隣にどっかりと座り込み、足を組む。リラックス、というよりだらけているだけである。
サラは突然自分の隣に座り込んでくる『八本槍』の動作にビクリとする。暗に『話さないと殺すぞ』と言っているようにも見えて、逃げようにも逃げ出せない。
「あっ、あのっ――」
喉まで緊張しているのか、言葉にが言葉になってくれず、いちいちそこで引っかかってしまう。
一方でクーは、それ程までに体を強張らせているサラの隣でこんなことを考えていた――何で俺こんなところでどうでもいい奴の相談なんか受けているんだろう。
だがしかし、そう、ほんの少し、ほんの少しだけだが話聞いてやるくらいいいかなーなんてことを考えてしまっている。
以前から、この少女の顔には見覚えがあった。予科一年が例外なく最初に受ける依頼である、ロンドンのタワーブリッジ周辺の清掃作業でも、二人が仲よさそうに話をしながら行動していたのを目撃していたし、いつも通りの雑務をこなしている最中も、彼女たちが視界に入ることは何度かあった。だからこそ言える。
「――エトに何か言われたか?」
ひゃっ、と驚いたような声を上げて、サラがクーの顔を見上げる。まるでどうしてその名を知っていてあまつさえ今ここで出てくるのかと言わんばかりに。
クラスではどう生活しているのかは知ったことではないが、少なくともクーが見てきた中では彼女がエト以外の人間と親しそうに話しているところを見たことがない。あまり意識したことこそないが、しかしエトに関わっていることだからだろうか、何となく記憶の片隅に引っ掛かり続けている。だから何となく、彼女が落ち込んでいるのはエトに関係があるのではと推測した。
「アレもなんかこう、変な方向にジルみてーになっちまったからなぁ。自分が口にしたことの本質を自分で理解できてないっつーか、意外と周りが見えてないっつーか」
弟子が頑張っているのは師匠として分かっている。エトはそれなりに余裕を持ちながら自分のペースで、しかし怠けることなく日々の鍛練を積んでいる。だが体術の指導以外は基本的に姉であるシャルルやリッカ、ジルと共にいる時間が長かったせいか、思想は若干彼女たち寄りになってきてしまっている。
それに関して別にクーがとやかく言うつもりはないが、何と言うべきか、彼は今のところ、本当の意味で
「詳しいことは知らんが、あいつに関する何かを知りたいなら自分から関わりに行かねーと何も始まらねーぞ。アレも結構面倒臭ぇ性格してるからなぁ」
何かある度に表情をコロコロと変えるリッカのように。自分のことを心配してるんだと精一杯表現していると思いきや突然泣き出すジルのように。クーもまた、彼女たちと関わって彼女たちと同じように面倒な方向に進んでいるのはよく分かる。
「あの……」
隣から聞こえてきた声は、少し前よりも随分と自然なものだった。ふと小さな彼女に視線を向けると、何だかまた泣きそうな表情で俯いていた。
「んだよ」
「エトは、貴方に育てられたのですか?」
その質問の意図は、すぐに分かった。
生徒会長シャルル・マロースの弟であるエト・マロースは、魔法使いとしての才能が元々備わってはいない。クーからすれば、清隆と比べても、姫乃と比べても、その魔力は実に微々たるものだ。それでも彼は少し前のグニルックの大会でもしっかりと活躍し、魔術社会に認められるような魔法使いへと成長しているのは確かなことだ。
しかしサラにとって、努力のみでここまでしがみついてきた彼女にとって、同じように努力のみでここまできたものだと思い込んでいたエトが、『八本槍』の寵愛を受けていたと知った時、果たしてその心の支えが音を立てて崩れていくしか残されていない。
身内ではないし別に知ったことではないが、何故かクーには、彼女のことが放ってはおけなかった。理由こそ自分でも理解できないものの、きっといずれ、分かる時が来るのだろうとそっとしまっておくことにする。
「俺はあいつを育てちゃいねーよ」
それはあくまで結果論であって。
「あいつを育てたのは他でもなくあいつ自身さ。何もねーところから必死こいて地べたを這いつくばるようにたった一つの可能性に縋り付いて、自分で得るべきものを自分で見つけ削り取っていく。そうやってあいつはあそこまで育ってやがる」
死ぬ寸前だった命を、自ら再び焚き付けて、シャルルから教えられた外の世界の素晴らしさを、ジルやリッカから教えられた魔法の奇跡を、クーから教えられた生きるために戦う術を、彼は自分で手にした。誰も彼にそれを与えたわけではなく、結局は彼が全てを欲しがったから、自らの力でかき集めた。それを糧にして、今ここにいる。
「手ェ伸ばして、足出して、躓いて、ぶっ倒れて、失敗し続けろ、ヒヨッ子。たった一つって訳でもねぇ生き方って奴はそうやって見つけるもんじゃねーの」
クーがこれまで認めてきた面子というのは、どいつもこいつもそうして生き方を見つけ出している。真似をするだけ無駄だ、自分で灯火をつけて、自分だけの道程を刻んでいけばいい。
サラ自身に結論を与えられたかどうかは知らないが、言うだけのことは言ってみせたつもりだ。ここから先は全て彼女が決めることである。
クーはおもむろに立ち上がって、再びウッドベンチを抱え直す。そのままサラを見ることなくすたすたと歩いていってしまう。
その背中を見つめていて、ふとサラも立ち上がる。そして青のツインテールを揺らしながら、小さな頭を深々と下げた。
「あ、ありがとうございました!」
ふと、クーの足が止まる。振り返ることもなければ、背中越しに右手を上げ、ひらひらと揺らしている。それで挨拶をしたつもりなのだろうか。
「飯はちゃんと食えよー」
最後にそれだけを残して、クーはあっという間にその場を去ってしまった。
残されたサラ一人。色々と心の中で決意を固めて、ふと時計を見やった。そして気が付いた。
昼の休み時間は、あとほんの少しで終わりを迎えようとしていた。
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夕日の差し込む教室、本日最後の講義の終わりを告げる鐘の音を聞いては、クラスメイトたちがぞろぞろと教室を去っていく。
ふと、最前列の席から教室の後ろを振り返ってみれば、いつもの口うるさい連中が雑談に花を咲かせている。内三人は日本人で、更に一人は従者である自動人形。
端の方で白銀の髪を風に揺らしながら鞄に教材を仕舞い込んでいる少年が一人。いつもの仲間たちとはまだ合流してないが、すぐにでもそちらへと足を運ぶのだろう。
何故か高鳴る胸を抑えながら、足に力を込めて立ち上がる。
心の準備は何度でもしてきた。向き合う覚悟もできている。
彼の優しさに甘えては駄目だ。知りたいなら、欲しいなら自らの手で勝ち取るべきだ。昼時に偉大な誰かに教えられた言葉が胸を熱くする。
ガタリと椅子の音を立てて席を離れ、教室の後ろの方へと歩いていく。
目の前の少年はまだ気が付いていない。ほんの少し躊躇いそうになって、左足が後ろへと下がろうとした。その時の音が彼にも聞こえたらしく。
「ん?どうかしたの?」
意外そうな顔をした彼が、こちらに気が付いて顔を上げる。
そして小柄な青髪の少女は――
「その、エト――」
エト編は大体十~十五話で終わらせたいと思います。