背負うものは
弾けるように目が覚めた。
睡魔からの脱却、クー・フーリンには、もう一度目を閉じて微睡を堪能しようとは到底思えなかった。
胸の底で燻っている妙な昂揚感が理解できない。そう言えば何か、実に愉快な夢を見ていたような気もする。どんな夢を見ていたのかはまるで思い出せないが、胸の底に違和感を残してくれる程のものだ。きっと壮大だったに違いない。
場所は、明かりを全くつけていない、暗闇に支配された風見鶏学生寮の自室。ベッドからのっそりと起き上がってふらりと歩き、デスクの明かりをつけてカレンダーを確認する。
十一月一日。そう言えば昨日は生徒会に所属している旧友、カテゴリー5の魔法使い、リッカ・グリーンウッドに強制連行されて生徒会の仕事を手伝わされていたか。取り立てて忙しいわけでもなかったしむしろ暇だったから、ごねるつもりもなかったが。
しかしまあ――本当に今日は十一月一日なのだろうか。まるでそんな気がしないのは、カレンダーを見た時から変わってはいなかった。
魔法の勉強をする気など毛頭なく、むしろイギリス王室直属の騎士団、最終兵器の『八本槍』としての、雑用にもならない仕事のために王立ロンドン魔法学園――通称風見鶏、その学び舎に足を運び、そしてそこで風見鶏の生徒会長、シャルル・マロースと鉢合わせることとなった。
「あっ、クーさん、おはようございます」
天下の『八本槍』はその強力な武力と権力によって、イギリスを守る英雄として崇められていると同時に、その武力と権力が影響して、誰一人としてまともに会話をしようとする者はいない。シャルルのように『八本槍』であるクーに話しかけてくれる人は稀とでも言えよう。
シャルル・マロースは以前クーがリッカやその親友、ジル・ハサウェイと共にヨーロッパ中を旅していた頃に出会った少女だった。その時に弟であるエト・マロースを救ってもらったことが切欠となって行動を共にすることになったのだが、その時の印象が強すぎたのか、若干苦手意識を持たれているようではあるが。
「おう。そうだ、ちょっと訊きたいことがあるんだが」
早朝からずっと抱えている妙な疑問をぶつけてみることにした。風見鶏の生徒会長、そしてその名に恥じない圧倒的な魔法に関する知識量は学園一であり、無論生徒会長の名は伊達ではない。もしかしたら何か気が付くこともあるかもしれないと思った。
「えっと……」
若干緊張しているようだ。ある程度の付き合いがあるとはいえ、相手は『八本槍』、更に初対面の第一印象はあまりよくなかったと来た。本来なら相対するだけでいつ首と胴が離れてもおかしくない相手なのだから無理もない。
「今日って、十一月一日だよな?」
「えっ?」
唐突な質問、キョトンとするシャルル。質問の意味を曲解しようとしているのか、首を傾げて眉を顰める。白銀の髪がふわりと舞った。
そして結局。何の捻りもなしに。
「そうですけど?」
肯定の返事。しかし生憎質問の意図は測り切れなかったのか、返答の語尾は見事に疑問文だった。
そして今度眉を顰めるのはクーの番だった。結局妙な違和感の根源は見つからなかった。
ウーンと唸り、そして考えるのをやめた。戦闘以外で頭を使うのは嫌いなのだ。そう言うのはリッカやエリザベスなど、偉い人がすべきことである。
「サンキュ、全く参考にならなかった」
感謝の言葉とそれに続く言葉がものの見事に一致していない。本当に感謝しているのかも怪しい所だが。
生憎今日は学生も通常通り登校日であり、朝から夕方にかけて暇である。前述の通り授業を受ける気などないのだから仕方ないのだが、時間を潰すにあたってグラウンドで槍でも振っておくことにした。武人たる者、日々の鍛練を怠ってはならない。
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午前中の講義を終えたエトは、昼食をとった後グニルックの練習でもしようかと購買まで足を運んでいた。
そこで適当に三、四品手にとっては精算を済ませ、よいしょとグニルックの道具を抱え直しては競技場へと向かう。途中で知り合いと鉢合わせることはなかったが、しかしどうして、偶然とは意識もしないうちに訪れるもので。
――光球が空を翔けた。
一直線に飛んでいくそれは、流れ星のようで。エトは一瞬、その光景に見惚れていた。
しかしここはグニルック競技場。球が飛んだのなら、それはグニルックを行っていたに他ならない。そして視線の先にいたのは、青みを帯びたツインテール、両手にロッドを握って振り抜く小柄な身体。その背中はよく見知ったものだ。堅物クラスメイト――サラ・クリサリス。
ターゲット4のパネルを一撃で撃ち抜いた彼女の背中には、何か晴れ晴れとしたものが。そして次の瞬間――彼女は弾けた。
「やっ……」
小さく間を置いて。
「やったー!!」
余程嬉しかったのだろう、サラはその場でピョンピョン飛び跳ねながらバンザイして喜んでいた。
いつもの彼女からすれば全く想像できない姿。その無邪気な子供のような笑顔こそが、彼女の本当の姿――なのか。そんな彼女を見ていると、こちらの方まで何故か嬉しくなってしまう。
思わず立ち上がったエトはそのままサラの方へと歩いていく。そして、拍手をしながら声をかけた。
「今の凄かったよ、サラちゃん」
「へっ」
動きが止まった。多分時も止まった。エトにはそう感じられた。サラにとっては空間すら止まっているように感じただろう。
ギギギ……、とそんな音が聞こえそうなくらいにぎこちなく、そしてゆっくりとその首がこちらへと回る。そして彼女の金色の瞳がこちらを捉えるのにさほど時間はかからず。
顔を茹でダコのように真っ赤に染め上げ、涙目になりながら、何か言葉を紡ごうとする。
「なっ、なっ」
なおエトは相変わらず姉と変わらない、引き込まれるような魅力溢れる笑顔を浮かべて、心の底からサラを褒めちぎっている。サラの羞恥などまるで知ったことではないようだ。
「元々スイングのフォームは完璧だったところに、魔力の流れにも無理はなかったし、だからこそあんな軌道が描けたんだね」
しかしそんな言葉も聞き取ることなく、サラはその場にへにゃりと腰を落として座り込んでしまった。
何でクラスメイトが――よりによってエトがこんなところにいるのだろう、どのタイミングからずっと見ていたのだろう、先程の自分のあられのない姿を見てどう思ったのだろう。考えれば考える程にパニックに陥っていく。
「何でこんなところに……」
「えっ、大丈夫!?」
サラが本気で泣く寸前であることにようやくエトが気付くが、しかしどうしてそうなったのかまるで分からない。何が拙かったのか、今のは褒めるところではなかったのだろうか。
何かよく分からないがとりあえず謝りながら、この場は懸命に取り繕うエトだった。
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「……来るなら来るって先に言っておいてください」
そんな無茶な、とは彼女を再びご機嫌斜めに突き落とす危険性があるので絶対に言えない。
見られたくないものを見られたのだろう、流石に冷静になって考えてみればそこまでの推測はついたのだが、サラのグニルックのプレイを観察していたのだからある意味不可抗力なのだ。
しかしまた――なかなか貴重なシーンを納めることができた、と少しだけご満悦なエトである。
「えっと、それはごめん。でもサラちゃんが確実に上達していると思ってるのは本当だよ」
そう臆面もなく言われると、怒るにも怒れない。どころかエトという人間は嘘を吐かない人種であるゆえに、何だか体がむず痒くなってしまう。
サラにとっても、これまでの人生であまり褒められるという経験はしておらず、こうしてエトに褒めちぎられるのは反応に困る。どうすればいいのか分からないのだ。
だからサラは、少しむくれてぷいとそっぽを向く。
「でもサラちゃん、まだ昼食食べてないよね?」
相変わらずサラの気持ちには鈍感なままだが、しかし彼女の無茶には敏感らしい。
エトは講義が終わってすぐ、購買でパンとドリンクを購入してグニルック競技場に足を運んでいる。それより早くここに来ているサラが昼食を既に食べているはずがない。
「練習、しないといけないですから」
淡白に、そう返される。それが当然だと。自分は、サラ・クリサリスという人間はそうあるべきなのだと。
エトにはその言葉にどれ程の覚悟が秘められているのかを知る由もないが、目の前の小さな少女が没落寸前の貴族の息女としてどれだけの期待を背負っているのか、ほんの少し垣間見た気がした。
クリサリス――英国の名門魔術師の一族、古くから続く由緒ある家柄の一つ。
しかしその魔法使いとしての一族の力も、世代が変わるに連れて次第に衰弱していき、今ではその力は殆ど失われたに等しい。魔力持ちのいない魔法使いの一族、これは明らかな没落の一途であり、やはり他の魔法使いからも馬鹿にされることは多くなっていった。
その中で生まれた期待の魔力持ちが彼女――サラだ。力なき一族が再び力を手にした時、きっとこう思うだろう。
――クリサリスの名をもう一度名門に。
一族郎党の大願。代々受け継がれてきた誇りと伝統。それら全てをその小さな体で背負うことになった、たった一人の少女。
真面目で、家族想いで、融通が利かなくて。だからこそ、その期待に応えようと、一人でもがく。
「――やっぱり凄いよ」
結局、青空を見上げたエトの口から出てきたのはそんな言葉だった。
サラのことはよく知らない。でも、彼女の頑張りを、努力を、心の底から尊敬することに躊躇などいらなかった。
「叶えたい願いがある。手にしたい未来がある。目標のために、たった一人で頑張れるサラちゃんは、本当に凄いと思う」
果たして自分はどうだろうか。何のために頑張っているのだろうか。そもそも、本当に頑張っていると言えるだろうか。
かつてその命を救われ、強くなりたいと、誰かを護れるようになりたいという一心のみで、命の恩人であり、生きることを教えてくれたクー・フーリンに弟子入り志願し、ここまで生きてきた。しかし、一度でもその目標を見定めたことがあっただろうか。
「僕にないものを持ってる」
しかしその言葉を聞いたサラは、少し俯いて、悲しそうな表情をつくった。
「エトは優秀です。才能もない私より、ずっとずっと。私は、頑張ることしかできませんから」
それは、辛いのを必死に堪えている表情。かつてその表情を、自分の姉が浮かべているのを見たことがある気がする。自分が見ることができなかった外の世界を、楽しそうに、でも必死に伝えようとしている、姉の悲しげな表情。
いけないと。友達が友達を悲しませてどうすると。
エトは紙袋からパンを一つ取り出した。そのパッケージには、『さくらあんパン』と書いてある。
「それじゃ、頑張るためには、エネルギーを補給しないとね」
それをサラの前に差し出すが、彼女は受け取ろうとはしない。練習を続けたいのだろうが、残念ながらエトがそれを許さない。
エトの心に火が付いた。こうなれば、何が何でもこの少女に一時の休息と笑顔を取り戻してあげなければならないと。
「で、でも私、練習――」
「これ凄く美味しいらしいよ。清隆から勧められたんだけど、僕も日本の和菓子には興味があったからね」
「だから私――」
「サラちゃん甘いもの苦手だったっけ?もし好きなら是非一緒に食べようよ!」
「えっと――」
「こっちにお茶もあるから遠慮しないでね」
「あ――」
「ほら早くっ!」
「……」
何だろう。
かつてここまで積極的だったエトがいただろうか。どうしてこんなにも自分のことを気にかけてくれるのかは分からないが――そんな彼が、ほんの少し面白かったのかもしれない。
クスリ、と、ついうっかり笑みが零れてしまって。
「あっ」
自分で笑ってしまったことに気が付いて紅潮し。
「やっぱり、笑ってる方がいいや」
といいつついつも通りの笑顔を絶やさないでいるエトにそんなことを言われてしまえばもう。
サラは、エトには敵わないな、とそう思わざるを得ないのだった。
大人しくエトからさくらあんパンを頂戴して一口齧る。チョコレートやホイップクリームなど、甘いものはこれまでに何度か口にしてきたが、これまでにないようなさっぱりとした甘さ。ほんのりと感じられる桜の風味が口の中から鼻孔をくすぐっては、何かの感慨深さを残してどこかに去ってゆく。そして最後に残った感想はやはり、美味しい、だった。
「美味しいです」
自分が齧った断面を、その薄紅色の甘味の正体を眺めて、不思議そうな顔をしてみる。そう、何だか不思議な味だったから。
エトはそんなサラを見ながら、買ってきた紅茶――『クイーンエリザベスブレンド』を口に運んでいた。どうやらエリザベス一押しの紅茶であるという意味らしいが、本当のところは定かではない。
「エトは――」
ぽつりと。サラがエトの名を呟いた。
「エトのお姉さん、シャルル・マロースは風見鶏の生徒会長です。風見鶏の生徒会長といえば、もう魔法使いとしての成功を約束されたようなものです。そんな人を姉に持ったことを、エトはどう思ってるんですか」
サラはきっと、嫉妬していたのだろう。
この風見鶏には、たくさんの魔法使いの卵が魔法を学びにやってくる。それは、十人十色の才能であり、学びようによってはそれぞれが千変万化していくだろう。そのありふれた才能が、彼女にはない。
「お姉ちゃんか……」
魔法に関する知識は豊富で、それらを活かした多彩な技術も弟として誇るに値する。生徒会長として生徒たちの羨望と尊敬を浴びる姿は憧れでもある。そんな彼女を、一度でも妬んだことはないか――
だがエトは断言したい。そんなことなど、一度もない。
「お姉ちゃんは僕のたった一人のお姉ちゃんだから。ずっと傍にいてくれる、大切な家族。僕はそんなお姉ちゃんを助けられるような、支えられるような存在になりたい」
部屋のベッドで横になっている姿を数えきれないくらい見てきて、その度に悲嘆に暮れただろう。それでも弟が生きていける未来を信じたくて、いつまでも傍にいて励ましていた。その時に話してくれた物語を、見せてくれた景色を、決して忘れない。
いつか姉が辛い現実に直面した時、後ろから苦しむ姿を見ているだけでなく、その彼女の隣で、迫り来る脅威を薙ぎ払いながら肩を抱えて支えてやれる時が来るまで。
「いくら嫉妬しても、お姉ちゃんには、お姉ちゃんみたいにはなれないけど、僕には僕ができることがある」
ほとんど同い年なはずのエトの言葉が、妙に重く圧し掛かる。この言葉の重みは、姉を心の底から信じ尊敬している証。サラにとって、エトがますます遠い存在に思えてしまうが。
それでもほんの少しだけ、分かったことがあった。
「エトは、私が困ってたら、助けてくれますか?」
ふと投げかけた質問に。
「当然だよ。僕たちだけじゃどうにもならなくても、その時には清隆や姫乃ちゃんも力になってくれるよ」
そうやってまた、あのいつもの引き込まれるような笑顔を作ってみせるのだった。
その笑顔が、その言葉が少しだけ嬉しくて、頬を染めてはさくらあんパンを口に運んで緩みそうな頬を誤魔化すのだった。
以前から予定していた通り、エトが主役となる章です。