アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件   作:やんや

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346編開始。
間を開けてしまいました。遅筆で申し訳ありません。

4話はアニメ第1話の時期にあたります。原作同様に導入部ということで特に山場はありません。相変わらず千早がぐだぐだするだけです。

今回文字数を少なくするよう頑張りました。
前回のあとがきで文字数を少なくするという約束でしたので・・・。


アルティメットな笑顔

 春。

 それは出会いの季節。

 進学や進級を経て新しい学友を得る人。就職戦線を乗り越え社会人として世に羽ばたく人。これからの期待と不安が混ざりながら新たな人の繋がりが生まれる季節。

 春。

 それは別れの季節。

 卒業を機に友達と別の道を歩くことになる人。親元を離れ一人暮らしを始める人。これまでの絆の深さがそのまま別れの悲しみになる人の繋がりの儚さをしる季節。

 喜びと悲しみが同時に存在する矛盾した季節。

 出会いがあれば別れがある。当然のことだ。

 ほら、ここにも一つ別れのシーンが……。

 

「優、行かないで! 優が居なくなったら私は!」

 

 倒れそうになりながらも必死で優へと手を伸ばす。冷たい床に膝が当たり痛みが走るが気にしている余裕はない。

 

「お願い、お願いだから……考え直して!」

 

 何とかギリギリで優の足へと抱き着いた僕は必死に思い直すよう懇願した。

 優がそっと僕の手を解こうとするので必死で抵抗する。この手を離さないと誓ったんだ。

 お願いだから行かないで。優が居ないと僕は……。

 

「ごめんお姉ちゃん。僕、行かないと」

 

 でも優が僕の願いを聞き入れる様子はない。

 申し訳なさそうにしながらも確固とした決意で僕の腕を引き剥がそうとする。

 僕はそれに抗おうと腕の力を強めた。しかしその前に優が上手く自分の足と僕の腕の間に手を入れることで牽制して来た。それだけで僕は力ずくで優を引き付ける術を失った。こうすれば僕が優の手を潰さないため力を入れられないとこの子は知っているのだ。

 優に思い留まって欲しいのに。力を入れてしまえば優を傷つけるかもしれないから本来の力を僕は発揮できない。

 現実の無情さに僕は涙する。この時点で僕の敗北は決定しているのだ。今はそれを引き延ばしているに過ぎない。優の意思は変えられない。僕はこの子を引き留められない。

 優が居なくなる。

 嫌だ……そんな、せっかくここまで来れたのに。

 

「優、優優! お願いだから……!」

「ごめんね、お姉ちゃん……僕」

 

 行かないで!

 僕の必死の願いが叶うことはなかった。優が僕の手から足を引き抜き一歩下がる。支えを失った僕は前のめりに倒れた。

 そんな、優……。

 

「さすがにこの歳で一緒にお風呂に入るのは無理だから」

「なんでええええ!」

 

 脱衣所から出ていく優に手を伸ばすが無情にも僕の目の前で扉が閉じられた。

 そんなあっさりと閉めないでよ。もう少し名残惜しそうにしてよ。

 約束された栄光が目の前で儚く散った現実に僕は脱力した。

 

「床がキンキンに冷えてやがるよー」

 

 もう春なので大して冷たくもないんだけどね。今の僕は下着姿のため床に触れる肌面積が広い。おかげでひんやりとした床の感触を直に感じられる。

 せっかく優とお風呂に入れると思ったのに。こんなのあんまりだぁ。

 

 

 今日は優が初めてアパートに泊まる記念すべき日だった。

 実は一人暮らしを始めてから今まで優が泊まったことは一度もない。何度となく優に泊まってくれるようお願いしていたのだけど、あの子が首を縦に振ってくれなかった。どうやらお母さんからお泊りを強く禁止されていたらしい。

 いくら中学生の息子が心配だからって、実の姉のアパートに一晩泊まるくらいの冒険は許すべきじゃないかな。泊まってくれたなら僕は優をたくさん可愛がるのに。そう必死で訴えかけても両親が首を縦に振ることはなかった。むしろこの話をしたことで、余計頑なになった気がするんだけど。

 しかし僕は諦めなかった。両親への説得を繰り返し、時にお願いし、たまに甘えたりして懐柔し続けていった。特にお父さんへの甘え攻撃は効果的だった。ちょっと甘えた声でお願いし続けたら僕の味方になってくれた。ちょろいわー、うちの父親ちょろいわー。

 後は優本人の説得だけだったが、こちらは意外にも簡単に達成した。前は渋っていたのに、今回に限ってすんなり了承してくれた。

 あとは三対一でお母さんを説得したところ、根負けしたお母さんから優のお泊りの許可が下りた。

 優が泊まりに来る。そのことに僕のテンションは上りに上がった。優が泊まりに来る前日から部屋の掃除を念入りに行い、優の好きなジュースやお菓子を買い込んだりして優を迎え入れる準備を整えた。

 当日のお昼過ぎに優がアパートにやって来た。その手にはお菓子が入った袋を持っている。こちらでも買うから必要ないと言っておいたのにわざわざ買って来てくれるなんて、やっぱり優は世界一良い子だと感動した。こんな良い子を弟に持てた僕は幸せものだ。

 優が持って来たお菓子と用意しておいたジュースで乾杯する。その瞬間アパートの一室が高級ホテルのスウィートルームになったみたいに華やいで見えた。優が部屋に居る。ただそれだけのことが嬉しい。優と過ごす時間は僕にとって何ものにも勝る。本当に幸せ過ぎて実はこれは夢なんじゃないかと頬を力いっぱい抓っても起きる気配はないので現実だとわかる。確認する時に頬の肉がちょっと取れかけたけど問題ない。

 ここが現実世界だと確認した後はお菓子とジュースを楽しみながら優とお互いの近況を報告し合った。

 優は今年中学二年に進級する。この一年で背が伸びた優は僕の身長をすでに追い越している。十五歳から成長が止まっている僕を見下ろす日もそう遠くないだろう。弟の成長がこんなに嬉しいだなんて、生まれ変わらなければ味わえない感覚だった。大好きな弟がどんどん男の子から男に成長していく姿を見るのは言葉にできない感動を僕に抱かせる。きっとこの気持ちは姉というよりも母親の感覚に近いのだろう。あんな小さかった優が立派になって僕も鼻高々だった。具体的にどれくらい成長したのか知りたいくらい。

 そう言えば優と最後にお風呂に入ったのはいつくらい昔だったろう。思い返してみると優がまだ小学校に入ってすぐの頃は一緒に入っていた気がする。確か僕が優の体を全身くまなく洗っていると知った両親が止めるよう言って来たんだっけ。まだその時小学生だった僕と二人っきりだと不安だったのかもね。だからといって両親と入るのもお風呂場のスペース的に辛い。何より年齢的に親と入るという羞恥プレイは避けたかった。それから今日まで両親の監視下にあったため優とお風呂に入ることは封印されていた。しかし今は違う。うるさい両親は居ない。お泊りはオーケー。だったら一緒にお風呂に入って弟の成長をこの目でしっかりと確認しよう。これも姉の仕事だよね。

 

 ……そう思っていたのに、蓋を開けてみれば今こうして優からの全力の拒否を受けてしまい撃沈している。

 久しぶりに背中でも流して労ってあげたかったのに。きっと姉にお風呂で世話になるのが子供っぽくて嫌だったんだね。そういうところが逆に子供っぽくて可愛いと思う。

 仕方ないので一人で入ろう。

 

「あー! 優と一緒にお風呂入りたかったなー!」

「部屋中に響く声で恥ずかしいこと言わないでよ」

 

 扉越しに優がこちらを窘めてくる。ごめんね、無駄に通る声でごめんね。

 

「ごめんね、声大きかったね。ごめんね、嫌わないでね?」

「ううん、別にそこまで大きいわけじゃないから大丈夫だよ。嫌わないって」

「優が優しいよおおお! 大好きだああああ!」

「声が大きいよ」

 

 今のは駄目だったようだ。加減が難しい。

 

「ねー、一緒に入ろうよ」

「無理だよ」

「今なら全身綺麗に洗ってあげるサービス付きだから」

「それが無理だから言ってるんだけど」

 

 うーむ、全身洗うだけじゃサービスが足りないと申すか。昔は洗ってあげるっていうと喜んで一緒に入ってくれたのに。あー、楽しかったな優の体洗うの。石鹸を大量に泡立て全身を泡だらけにしてあげると無邪気に喜んでくれたなー。

 洗ってあげるだけで釣れるのは小学生までか。だったら中学生の優向けのサービスを新たに考える必要がある。

 でも何をすれば優が釣れるかわからない。わからないなら直接優に訊いてみよう。案外アイス一個でいけるかもしれないし。

 

「じゃあ優が好きなサービスつけるから。何でも言っていいよ? 私にできるサービスなら何だってしてあげるから」

「……」

 

 あれ、優からの反応がない。気配は扉の前から移動していないので、そこに居るのは確かなのに……。

 ハッ、もしやサービスについて色々と考えてるのかも!

 考えているということは、考慮に値するということ。つまりもうひと押しでいける?

 

「ん? アイス? アイスかな? 今なら二段アイスにしちゃうよ!」

「……お姉ちゃんってさ、たまに本当に十七歳なのか不思議に思うくらい精神年齢がアレだよね」

 

 優の言葉にドキリとする。

 僕の精神年齢は前世含めると結構高い。一度リセットされているとはいえ、前世の記憶の分同い年の子達より心は成熟しているはずだ。

 まさか今のやり取りで優に僕の精神年齢の高さが見抜かれてしまったのだろうか。

 さすが優だね。慧眼だよ。どうやらアイスは選択肢として失敗だった。

 ここはもう少し十七歳らしいものを言うべきだった。

 たい焼きとか……。

 

「い、いやだなー! 優ったら何言ってるの? 私は身も心も十七歳だよ。逆に十七歳じゃなかったら何歳かってくらい十七歳だし。……ゆ、優から見ても十七歳だよね?」

「んー……十歳?」

「なんでええええ!?」

 

 まさかの年下扱いを受けていた事実に驚愕です。

 何てことだ。今までお姉ちゃんとして接していた優から逆に年下扱いを受けていただなんて。

 ずっと僕がお姉さんだと思っていたのに、優の中では僕の方が妹だったということか。道理で体を洗われるのを嫌がるはずだよ。

 そうだよね、妹にお風呂で世話になるのはお兄ちゃんとして恥ずかしいものね?

 僕を妹として見ていたなら仕方がない。ここはひとつ大人として優に合わせてあげるとしよう。

 

「しょうがないなー。お兄ちゃんがそこまで言うのなら、洗う側に回っていいよ?」

「いや、言ってないから」

「あっれー?」

 

 おかしいなぁ。洗われるのが嫌だから洗う側ならどうかと思ったのに。優には魅力的に映らなかったようだ。

 

「何を言われても無理なものは無理だから。お姉ちゃんも、風邪ひかないうちにお風呂に入っちゃいなよ? その後僕も入るんだから」

 

 優が扉の前から離れるのを感じる。

 声だけを聞けば今の優からは拒絶しか感じなかっただろう。しかしそれは大きな勘違いなのだ。優も内心では僕とお風呂に入れずに残念がっているのはわかっている。大方両親からここに来る前に一緒のお風呂は止めるように言われていたのだろう。本当に余計なことをする親だな。優が一人でお風呂にも入れない駄目な大人になるとでも危惧しているのだろうか。優はそんな軟弱な子じゃないのに。

 優の気持ちももっと考えてあげないといけないんだぞ。その点僕はちゃんと把握できている。

 今も優の心理を把握済みだ。

 扉越しに聞こえる優の筋肉と関節の音、あと衣擦れの音から優がかなり前のめりになって歩いているのがわかる。これはアレだね。僕とお風呂に入りたかったけど、親に言われているため断らざるを得なくて、肩を落としているという感じだね。

 そんな落ち込むくらいなら一緒に入ればいいのに……。

 という、優が親の言いつけをきちんと守る良い子というエピソードであった。

 

 

 お風呂から出ると優から意外そうな目を向けられた。

 何だろうね。そんなに僕のパジャマ姿はセンスないのかな。

 

「何かなー?」

「……お風呂上りにちゃんと服は着るんだね」

 

 いやだな、いくら僕だってお風呂上りに全裸や下着姿で歩き回るわけないじゃない。

 

「そんなはしたないことするわけないでしょ? もー、優ったら私を何だと思ってるのさ」

「……」

「あれ、何で目を逸らすのかな?」

 

 優の中の僕の評価ってどうなっているのかな。一度お互いの認識のすり合わせをしたいのだけど。あ、やっぱり怖いからやめておこう。

 僕の中の優の評価?

 そんなの世界一可愛くて純真無垢な小悪魔系大天使に決まっている。世に弟選手権があったらぶっちぎりで優勝間違いなしなほど優は弟レベルが高いのだ。

 

「前にお客が来てた時にバスタオル姿で出ちゃったことがあって」

「え、それ大丈夫だった?」

 

 優が心配そうな顔で訊いて来る。僕はその反応に心が温かくなるのを感じた。僕の身を心配してくれる姿が愛おしい。

 弟に心配させないために事情を説明しておこう。

 実はそのお客というのは春香だった。765プロの事務所から家までが遠い春香は、事務所での仕事が長引いた日には自分の家に帰らずに僕の部屋に泊まりに来ることがある。

「つい打ち合わせに熱が入っちゃう」というのは春香の言だけど、やけにその頻度が高い。泊まること自体に問題はないけど、春香の体が心配だ。

 アイドルに夢中になる春香の姿を見るのは嬉しい。でもそれで体を壊したら意味がない。僕の家に泊まるようになる前は終電間際の電車に長い間揺られていたと思うと春香の忍耐力に感心させられる。同時にその忍耐力の所為でいろいろと溜めてしまっているのだろう。僕の家に泊まることで少しでも彼女の負担が減るならばいくらでも泊まってくれていいと思う。

 と、前に春香に伝えたところ、顔面の筋肉が全部切れちゃったのかと思うくらい緩んだ笑顔になっていた。よほど通勤時間が長いのが辛かったんだね。今度また労ってあげよう。

 

「うん、そのお客が春香だったんだけどね、春香に驚かれちゃったから、それからは着て出るようにしてるんだよ」

「え!? それ大丈夫だった!?」

 

 何で同じことを訊いたのかな。しかも最初よりも必死さが段違いなんだけど。相手は春香なんだからそんな必死になる必要なくない?

 

「春香は女の子だから問題ないでしょ。さすがに私だって男の人相手にそんな恰好しないよ」

「いや、そういう意味じゃなくて、何かされなかったかと心配で」

「別に春香もそれくらいで怒る子じゃないから大丈夫だよ。心配し過ぎだって」

「ぎりぎりでチキンになるタイプだったか」

「にわとり?」

 

 優の言っている意味がよくわからなかったけど、何やら納得しているところを見ると優の中ではこの一件は問題なくなったようだ。

 

「あ、それからバスタオル一枚で出るのは止めなよ? 天海さん相手でもやめてね」

「うん、わかってるよ。やるとしても優が居る時までにしておくよ」

「やめてね?」

「はい」

 

 バスタオル一枚で出るのを窘めると優はお風呂場に向かった。当然着替えは持って行った。

 僕はそれをソファの上から黙って見送る。ここで一緒に入ろうと言っても断られるだけだと知っているから。

 まだ一緒にお風呂に入るのを諦めていない僕は次善の策を展開する。優が中へと消えたのを確認した僕はそっと足音を消しつつお風呂場の扉に近づき、

 

「覗いたり乱入して来たら駄目だよ?」

 

 速攻でバレたのでソファに駆け足で戻った。次善の策失敗。

 まあ、いいさ。一緒にお風呂作戦は失敗したけど、まだ僕にはミッションが残っているのだから。お風呂イベントくらいくれてやろう。

 

 時間は飛んで、いよいよ就寝時間となった。

 お泊りイベントと聞いてから僕が待ちに待った瞬間である。この時のためにベッドを端から端まで掃除したくらいだ。むしろ買い替えた方が早かったんじゃないかなと思えるくらい念入りに掃除した。お金ないから買い換えとか無理だけど。

 

「じゃあ、そろそろ寝よっか!」

「これから眠る人のテンションの高さじゃないよね?」

 

 僕のテンションに優が若干引いているが今の僕は気にしない。

 

「こんなものだよ! だってこれから優と寝るんだから!」

「いや、寝ないけど……」

「えっ……夜更かしは体に悪いよ?」

「徹夜でゲームしていたお姉ちゃんにだけは言われたくないけど……そうじゃなくて、お姉ちゃんと一緒には寝ないってこと」

「アメリカ語はさっぱりで」

「日本語です」

「なんでええええ、どうしてええええ」

 

 嘘でしょ?

 一緒に寝ないとか、だったら僕は何のために今日この日を迎えたと言うの。優と寝るためだけに生きて来たと言っても過言ではないくらいなのに。

 優と一緒に寝られると思ったから一緒にお風呂に入るのを我慢できた。だと言うのに一緒に寝ることまでスキップされたら僕はどうしたらいいの?

 

「お風呂の時もそうだったけど、この年で姉と一緒に寝るってあり得ないでしょ」

「そんなことないよ。仲の良い姉弟は一緒に寝るくらい当然のようにするよ。私と優は仲が良いんだから一緒に寝るくらいするよ」

「しないよ」

「なんでええええええ」

「それはもういいから」

 

 楽しみにしていたイベントが無慈悲なスキップにより無かったことにされる。それを許すわけにはいかないと何度も優に一緒に寝ようとお願いしても優は首を縦に振ってくれず、さっさと来客用の布団を敷いていた。くっ、こんなことなら布団を捨てておけば良かった。

 

「なんでー? ねー、なんでなんでー?」

「幼児化しないでよ……。真面目な話、僕だって男なんだから、お姉ちゃんと一緒に寝たらどうなるかわからないでしょ」

 

 理由を訊ねるとそんなことを言われた。

 優が?

 

「無い無い」

「その無いはどれのことを言ってるのかでお姉ちゃんの僕に対する認識が変わるんだろうけど……男ってところに掛かってたら僕は真面目に傷付くからね?」

「優は男です。優のおしめを替えていた私が言うのだから間違いない!」

「その証明の仕方は何か嫌だ」

 

 可愛かったなー。小さい頃の優は可愛かったなー。もちろん今も現在進行形で可愛いけどさ、この頃は格好良い要素が入って来たから素直に可愛いって言い辛いんだよね。僕も元男だから男が可愛いと言われても微妙だってのはわかる。僕は優を理解できている。元男だからね!

 

「そうじゃなくて、お姉ちゃんは……その、弟の僕から見ても美人なんだから、一緒に寝たら……わかるでしょ?」

「……?」

「わかってない顔だこれ」

「……はっ、優に美人って言われたヤッター!」

「姉の純真無垢さが今は恨めしい」

 

 優に美人って言われて嬉しい。僕って容姿を褒められたことが少ないから優に美人と言われると胸がキュンキュンする。

 今でもたまに男として生まれて格好良いと言われる自分を想像することはある。でも、こうして女の子として生まれたからには女としての評価を蔑ろにはできない。だからこうして女としての自分を褒められると嬉しいと思えるのだ。それが優相手ならなおさらだ。

 

「だから、僕がお姉ちゃんに何かエッチなことしたら大変でしょって意味だよ!」

 

 自棄っぱち気味に優がそんなことを告げて来た。

 不思議なことを言うね。優が僕にエッチなことをするだなんて。

 僕達は血の繋がった姉弟なのだからそんなことになるわけないのに。僕は優を弟としか見てないし、優だって僕を姉としか見ていないはずだ。

 それとも優は違ったのだろうか。優にとって僕は女だったとでもいうのだろうか。

 嘘。

 そう思った瞬間、カッと頬が熱くなるのを感じた。胸が高鳴って心が弾む。全身の血が勢いよく流れだすような錯覚を覚える。

 

「優は、その……私にエッチなことしたくなるの?」

 

 もし優が僕をそういう目で見ていたとなったら僕はどうすればよいのだろうか。正直いきなり過ぎて思考回路がショート寸前だよ。

 いや、その前に優の本意を確かめないと。

 緊張しながら優の答えを待つ。

 

「えっ、い、いや、その、なー……らないけどさ。ほら、万が一って」

「ならないなら大丈夫だね!」

「最後まで聞いて!?」

 

 もー、驚かせないでよね。優が否定したことで先程までの熱さは一瞬で引いてくれた。冷静に考えればそんなことあるわけないってわかるのにね。僕もつい動揺して変な気分になっちゃったよ。

 優みたいに優しくていい子がそんなことするわけないじゃない。何度も言うように僕と優は姉と弟なのだから気にすること自体間違っている。

 きっと優は将来僕が男の人から酷い目に遭わないようにって、あえて自分を貶めることで僕を気遣ってくれているのだ。本当に優しい子だと思う。

 でも少し心配し過ぎだと思うんだ。仮に男の人が僕に何かしようとしても、僕の場合純粋な腕力で対処可能だもん。通常モードで握力二百キロあるからブチリと捩じ切ってお終いなのに。殴ってから何かしようとする輩の不意打ちだって神速のインパルス持ちの僕なら余裕で対処できる。そして万が一攻撃がヒットしても一瞬で治るから即対応可能だ。つまり僕に危害を加えることは不可能。

 それは優も見て知っているはずなのに。

 おそらく素手喧嘩(ステゴロ)で僕に勝てる人間はこの地球上に存在しない。僕とまともに戦いたいなら世紀末覇者でも連れて来いと言いたい。それで勝てるかは別問題だけどね。

 

「そんなに私のベッドで寝るの嫌?」

 

 そう、そこが一番肝心なところなのだ。僕の男性への対処とかは今この時はどうでもいいんだよ。優が僕を心配してくれるのは嬉しいけど、それは今度話し合うとして今は一緒に寝るのが嫌どうかが知りたいんだ。

 

「嫌って言うか、恥ずかしいと言うか……」

 

 布団の上で正座姿の優がもじもじと体を捩っている。何か言いたそうにしているのに中々それを言おうとしない。そんな優のはっきりしない態度を見て自分の目付きが鋭くなるのを感じた。

 

「何この子可愛い」

「その顔で出る台詞がそれって。知らない人が見たら怒ってるように見えるよ?」

 

 目つきが悪いのは気にしていることだ。元から冷たい印象を与えやすい千早の顔だけど、今の僕だと少し目つきを鋭くするだけで相手を威圧してしまう。優や春香は僕を理解してくれているからいいけど、僕を知らない人からすると怒っているように見えるらしい。

 一度コンビニに行く途中に僕の不注意から知らない女の子とぶつかってしまったことがある。僕は体幹をスポーツ選手並みに鍛えているためほとんどよろめかなかったけど、相手の子は足をもつれさせて転んでしまった。慌てて助け起こそうと手を伸ばしたものの相手の子が僕の顔を見るや泣き出してしまったのだ。

 差し出した手の行き先に困った僕が困っていると、どこからともなく現れた女性がやけに喧嘩腰で割り込んで来た。様子からして僕が少女をいじめていると勘違いしたらしい。言い訳をしようにも事実泣いている子が目の前に居るので信じて貰えない気がした。特攻服姿のくせに正義感の強そうな女性の剣幕に押されたというのもあって何も言えないでいると、当の泣いていた少女が僕と特攻服少女の間に入って事情を説明してくれたので事なきを得た。

 その時意外だったのは素直に特攻服さんが謝って来たことだ。てっきり誤解を受けるようなことをするなと言ってくるかと思っていた僕は驚かされた。失礼を承知で訊いてみると「誤解をされる辛さがわかるから」とのこと。見た目怖そうな女性だったのでこの人も見た目から色々と謂れのないことを言われてきたのだろうと察すると同時に、僕自身も相手を見た目で判断していた節があると自分を戒めた。

 特攻服さんが立ち去った後、改めてぶつかった少女に謝ると自分も前を見ていなかったからと謝って来たためその場はお互いの不注意ということで収まった。

 そこだけ見れば大団円に見えるのだけど、相手の子が最初から最後まで決して僕と目を合わせようとしなかったのは何でだろうね。地味に傷付いたんだけど。それ抜きに見れば庇護欲をそそられる大変可愛らしい子だったんだけど。

 そんな感じに、最近の僕は色々と誤解されがちなのだった。

 

「もー、じゃあ優は布団で寝ればいいでしょ!」

「最初からそのつもりだよ」

「で、私も布団で寝れば万事解決」

「何も解決してないじゃないか! 迷宮入りだよ!」

「大丈夫、私が優の布団入りするから」

「何も上手いこと言えてないからね」

 

 ベッドで寝るのが嫌なら布団で寝ればいい。とてもシンプルかつ最適な答えだと思ったのに、優にとってはよろしくなかったらしい。

 どうすれば優は僕と寝てくれるのだろう。

 何とか説得できないかと頭をフル回転させている僕の前で優はさっさと布団を被って寝に入ってしまった。

 こうなるとどうしようもない。優と寝るのを諦めた僕は仕方なく電気を消すとベッドに横になった。

 

「あー、優と寝たいなー! あーあーあー」

 

 優と寝たかったな。

 

「あー……優と寝たかった! 超寝たかった! あー優……あっあ~」

 

 この悲しみを歌に込めて歌うよ。急に歌うよ。せめてこの歌が優の安眠に繋がればいいなと思って。

 

「寝られないよ……」

 

 優の抗議が入った。ちょっと声が大きすぎたみたいだね。少し声量を落とそう。

 小声で歌うよ。

 

「あー、優、あっあっ優……あー優ーあっあ~」

「人の名前呼びながらあーあー言わないでよ」

 

 これは優の趣味に合わなかったか。歌に関して僕が外れを引くだなんて……。

 こっちはどうだろうか?

 

「ん、ん~……優、んっんっんー」

「わざと? わざとやってるのかな?」

「?」

「無自覚!?」

 

 がばりと布団を跳ね除けて優が上半身を起こす。せっかくの子守歌だったのだけど、優が起きたので無駄になってしまった。

 

「お姉ちゃんさ……」

 

 あ、子守歌はやり過ぎだったか。フェイバリット心が広い優でも幼児扱いされたらいい気分じゃないよね。

 失礼なことをしたと思い顔を伏せる。ごめんね、ここはアニソンだったね。

 

「ごめんね、子守歌は幼稚過ぎだよね」

「子守歌のつもりだったんだ……道理で無駄に上手かったわけだよ。そうじゃなくて、何かあった?」

「え?」

 

 唐突にこちらを慮る様な声で訊ねてくる優に顔を上げる。

 優の端整な顔がこちらに向けられている。その表情は心配そうにこちらを覗うもので、それを見た僕は喉が詰まりそうになった。

 心配させてしまっている。

 またやってしまった。

 

「お姉ちゃんがこうやって僕に構ってくる時ってさ、何かしら悩んでいる時が多いよね。別に僕の勘違いだったらいいんだけど、もし何か悩んでいるなら聞くよ?」

 

 好きだ!

 思わず叫びそうになるのをぐっと我慢する。素直に自分の欲望を口にして失敗して来たが、ここでそれは許されない。

 優は真面目に僕の悩みを聞いてくれようとしているのに、ふざけたことを言うわけにはいかなかった。いや、僕が優を好きだってのは本当のことなんだけどさ。

 

「悩み……聞いてくれる?」

 

 代わりに口から出たのは弱音だった。

 自覚はしていた。自分の中の不安定な感情が暴走しかけていることに。

 もしかしたら、今日優が泊まってくれたのも僕のそんな雰囲気を察したからなのかも知れない。優が言うには僕って凄くわかりやすい人間らしいから。

 

「もちろん」

 

 優から返って来た答えはとてもシンプルなものだった。

 だから僕は優が好きなんだよね。

 

「私が最近していることって知ってる……?」

「うん」

 

 話の切り出すにあたり、まずはここ最近の僕の話をすることにした。

 僕が何をしているか、それを把握しているかで話す内容が変わるのだけど、当然の様に優は知っていてくれた。説明が楽になる以上に知っていてくれたこと自体を嬉しく感じる。

 

「アイドルのオーディションにね、また落ちたの」

「……そっか」

 

 言葉にしてしまえば簡単な内容だった。オーディションに落ちた。それだけなのだから。

 でも内容自体は簡単な話ではない。オーディションに落ちたことが重要ではない。”また”落ちたということが重要だった。

 

「ようやくあの頃の心の傷も癒えて。アイドルを再び目指そうと思い立ったのに、結果はこの様だよ。悲惨過ぎて笑えないよね?」

 

 まだまだ完全とは言えないまでも、今の僕はあの頃と違って過剰な自信もプライドも無い。常に自分を底辺に据えオーディションを受ける時は、未だ見ぬライバル達を全員格上と考えて一切手を抜かないようにしている。それでも合格を貰えていないという事実に自分は無駄なことをしているんじゃないかと思いかけている。

 自分には才能が無いのではないか? まだ終わってもないのにそうやって諦めかけている自分が嫌だ。まだ僕は終わっていない。終わっていないのに、終わる理由を欲している自分が頭の片隅に居るのを自覚している。

 もう少し経ったら、今は存在を感じる程度の駄目な自分が完全に表に出てきてしまうのではないか。不安を感じ始めていた時に優が泊まってくれると言ってくれたのは本当に救いだった。救われるついでに現実逃避のため優に必要以上に絡んでしまったのは反省している。

 あれだけ頑張ると言ったのに、こんな風にやる気減衰中の僕を見たら優も呆れるだろうと思ったのだけど、返って来た反応は意外なものだった。

 

「僕にはオーディションのことはよくわからないけど。昔のお姉ちゃんならともかく、今のお姉ちゃんがオーディションに落ちるなんて信じられないんだよね。断然今のお姉ちゃんの方が凄いわけだし」

 

 優は心底不思議だという顔で首を傾げると信じられないと答えた。いやいや、信じられないと言われても事実こうして落ちているからね。

 あと昔の僕ってあの声も出なかった一番やばい時の僕のことだよね? それと比べて良いとか言われても自信持てないよ。

 それとも優には何かそう言うだけの確信があるとでもいうのだろうか?

 

「お姉ちゃんってさ、カラオケの点数って普段何点だっけ?」

 

 しかし優が重ねるように質問をして来たため確信について問い質すことはできなかった。

 訊かれたからには無視することはできず、意図がわからないまま答える。

 

「……初めて歌う曲以外は基本百点だけど」

「この間観た天海さん達のライブの踊りって、もう踊れる?」

「踊れるよ」

「全部?」

「うん。全部。全員分」

「……やっぱり、落ちる理由がわからないよ」

 

 そうだろうか。優の言葉に今度は僕の方が首を傾げる。

 カラオケでいい点を取れたとしても、それで相手を感動させられるかは別だ。心に響かせる技術は単純な点数で表すことはできない。

踊りだって真似ているだけで実際にライブで踊って盛り上がるかはわからないのだ。その場の空気を感じて合わせるにはライブの経験が必要になる。

 どちらも今の僕にあるのか自信がない。アクティブ系のチートを使えばできなくはないだろうけど。

 

「カラオケで百点とってもアイドルとして上手いかは別なんだよ。心に響かせることは点数で表せないから。踊りだって一回しか見れてないから、ただ再現しているだけのモノマネだし。盛り上がるとは思えない」

「前半は理解できなくもないけど、後半は明らかにおかしいこと言ってるからね?」

 

 僕の説明では優は納得しなかったようだ。

 おかしいな、優も一緒に観たからあのライブの凄さは理解できていると思っていたんだけど。あそこで見せた春香達765プロのパフォーマンスはこれは純粋に観客として観た優とアイドル志望者として観た僕の違いなのかな。

 

「審査員の人は何て言ってたの?」

「え?」

 

 優の言葉を咀嚼するのに少し時間がかかった。

 審査員が何と言っていたか……?

 あ、そういうことね。理解すると同時に優と僕で認識違いが起きていたことに気付いた。

 

「……」

 

 理解してしまえば話は単純だった。優の考える僕の問題は大したものではなかった。僕を過大評価している優にとって、今の僕の状況は想像の埒外に違いない。

 優がそう認識しているというならば、真実を語るのは憚られる。

 

「僕にも言えないこと?」

 

 そんな風に言われると困る。優に言えないことなんて前世の話くらいだと思っていたのに。それ以外は全て話したって良いと思っていたのに。今になって”話したくない”ことができるだなんて。

 悩みを聞いてくれると言った優に対して黙り込むのは気が重い。優には僕の全てを知って貰いたいから。でも、こればっかりは無理だ。申し訳無さに顔を優に向けられない。

 

「仕方ないね」

 

 僕が何も言わないでいると、優が痺れを切らしたらしく話を打ち切って来た。

 仕方ないね。こればっかりは僕が悪い。いくら天使の様に心が広い優でも聞いてとお願いしておいて黙るのは無しだよね。自分の不義理さに気落ちする。

 だが我が大天使の慈愛は僕の矮小な想像を遥かに超えていたのだった。

 

「今回は僕から何か言うことはやめておくよ。代わりに最近頑張ってるお姉ちゃんがもっと頑張れるようにご褒美をあげる」

「……ご褒美?」

 

 ご褒美と聞いて顔を上げる。

 何だろう。優からだったら何を貰っても嬉しいよ。

 意地汚いと思いつつ優の言う”ご褒美”にワクワクしていると、優は自分が寝ている布団を捲った。

 

「一緒に寝てあげる」

 

 想像を絶する破壊力だった。

 弟が、優が、一緒に寝てくれると言うのだ。心が歓喜に震える。それ以上に体が震えてしまう。

 拒む理由も断る意味もない。一も二もなくベッドから飛び降りると勢いのまま優の布団へと体を滑り込ませた。

 

「優の布団の中あったかいナリ~」

「喜んで貰えたなら良かった」

 

 喜ばないわけないでしょ。優と寝られるんだから満足しないわけがない。同じ布団で優と寝る。十年ぶりくらいの偉業達成に千早グランプリの審査員も満場一致で満点を提示したよ。これは殿堂入り確定ですわ。

 

「優の匂いがする。温かい。最高」

 

 すぐ傍に優を感じる。優の体温と匂いに包まれる感覚が心を落ち着かせてくれる。

 もっと優を感じようと思った僕は両手を優の首に回し、両足でしっかりと優の腰を挟み込んだ。これで一晩中優を感じていられるね。

 

「!? ……これは早まったかも。あの、お姉ちゃん悪いんだけど、もう少し離れてくれないかな?」

「お休みグッナイ」

「今までの流れを全て断ち切る程の寝つきの良さを見せないで」

 

 意識が闇へと沈んでいく。もう少しこの感触を楽しんでいたかったけど、眠気には勝てなかったよ。

 

「お姉ちゃん? あの、ねぇ……本当にこのまま朝まで? え? 嘘でしょ?」

 

 お休み、優……。

 

 

 ────────────

 

 次の日。

 優を抱き枕にしたためか、目覚めはとても良かった。こんな寝起きが良いのは優の小学校の入学式の朝以来じゃないだろうか。半ズボン姿の優が緊張した面差しで式場(体育館)を歩く姿を見た時は、そのあまりの尊さと可愛さに涙を流したものだ。周りからはドン引きされたけど。

 そんな爽やかな思い出と未だ感じる優の温もりに二度寝したくなる。今この時が最上なんだ。

 

「お姉ちゃん、起きたなら悪いんだけど放してくれないかな?」

 

 と思ったら優も起きていたようだ。若干眠そうな顔を僕へと向けてそうお願いして来た。

 

「だが断る」

「断らないで」

 

 こんな最高の環境をそう易々と手放せるわけがない。いくら積まれてもだ。

 

「ちょっと。僕トイレ行きたいから」

「あっ、それはごめん」

 

 さすがにトイレと言われたら離すしかない。優だって中学生でお漏らしなんてことになったら恥ずかしいもんね。

 素直に離すと優はのそのそと布団から這い出ると立ち上がり、若干猫背気味にお手洗いへと向かった。

 眠そうな顔といいダルそうな歩き方といい昨夜はあまり寝られなかったのかな。枕が変わると眠れないタイプとか? まさか僕の寝相が悪かったのか?

 うむむ、無理して一緒に寝て貰った身としては愛する弟を寝不足にしてしまったのは失態だった。これは何か別のことで挽回しなければ。

 そこでタイミング良くケータイが鳴ったので通知画面を見るとお母さんからのメールが入っていた。

 内容は『何か問題はなかった?』というものだった。問題は特になかったのでそのまま返そうとするが、そこで先程の挽回の機会がやって来たと気づいた。優が寝不足であるため実家に帰った時に気を遣ってもらおうと『夜に無理させ過ぎたせいで優が寝不足みたい』と返信した。

 お母さんからの返事は来なかった。

 

「うん……うん、大丈夫だから。何も無かったから。お母さん達はお姉ちゃんを誤解してるよ。そんな考えお姉ちゃんにあるわけないでしょ? あのお姉ちゃんだよ?」

 

 トイレから戻って来た優がお母さんと電話している。僕にはメールだけなのに優には電話するなんてお母さんは少し不公平じゃないかな。

 会話の内容はよくわからないけど、優が必死にお母さんを説得しているみたいだ。会話の端々に溢れる僕への信頼に心が温かくなるのを感じた。これからも優から信頼される自分であり続けようと密かに誓うのだった。

 しばらくお母さんと話していた優は通話を終わらせると大きく息を吐いた。

 

「僕に何か言うことはない?」

 

 優に言うこと? 何かあるだろうか……。

 

「優の抱き心地は最高でした!」

「それを誰かに言ったら二度と泊まりに来ないからね」

 

 そんな! 今すぐにでも全世界に自慢したいと思っていたところなのに。掲示板にスレ立て自慢したかったのに。タイトルは”【弟】一晩中弟を抱いてたけど何か質問ある?【最高】”とかで。

 でも優が秘密にして欲しいって言うなら仕方ないね。そういう二人だけの秘密とかって憧れてたから嬉しい。秘密基地みたいで童心に帰った気になるね。

 

「……うん、わかった。昨日の夜のことは二人だけの秘密だね。誰にも言えない弟との夜……」

「なんでだろう。内緒にして貰えたのに逆に泥沼に足を突っ込んでいる気分になる」

 

 その後は優が作ってくれた朝ご飯を二人で食べた。その間も昨夜の話について優は触れないようにしてくれている。僕が言うまでは待ってくれるということだろう。何年も僕を待ってくれていた優を再び待たせることに罪悪感を覚えるけど、もう少しだけ待っていて欲しい。これを乗り切れたら笑い話として話せるから。

 お昼前に優を家から送り出した僕はポストに封筒が一封入れられているのに気付いた。少しだけ期待してそれを手に取るも、その薄さに期待は霧散し代わりに溜息が漏れた。

 封筒には地味な色合いの文字で大きく『876プロダクション オーディション』と印字されている。その下に小さく企画の名前が書いてあったが今ではどうでもいいことなので意識しないことにした。

 この封筒はこの間僕が受けた876プロオーディションの結果が入っている。結果は確実に落選だった。封筒の薄さでわかってしまう自分が嫌になる。

 念のため中身を確認するとやはり落選と記載されていた。僕はその”一次選考”の結果を慣れた手つきで封筒にしまい直し部屋へと戻った。

 玄関で靴を脱ぐとそのままクローゼットへと近づき扉を開いた。中には手にある封筒と似たものが重ねて置いてある。どれも落選通知の入った封筒だった。

 その数およそ五十枚。

 あり得ない数だった。国内に存在する目ぼしいアイドル事務所のほとんどに応募したかもしれない。876プロもその中の一つだ。それでも合格が一つもないのはありえない。それ以上にこれだけの数落ちてまだアイドルを目指していることがありえないだろう。

 一次選考は書類審査のみで、そこで大多数が篩に掛けられ落とされる。百人受けたら残るのは十人も居ないだろう。分母はわからないが受験者の九割が写真の印象だけで落とされるのだ。一応履歴書の方も審査対象になるが、そんなもの二次選考以降の面接で聞く内容だろう。僕は履歴書も大真面目に書くタイプだった。写真に問題がある僕にとって履歴書の方で審査員の目に留まるように頑張るのは当然のことだった。

 しかし一次選考はあくまで第一印象だけが審査対象なのはどのプロダクションも変わりない。どれだけそれ以外を頑張っても意味はなかった。

 普通だったらアイドルになるのを諦めていてもおかしくない。実際僕も何度心折れかけたかわからない。でもアイドルになると決めたから。やれるところまでやり切りたい。

 これが優に言えなかったことだ。五十回以上オーディションに落ちているという事実を優に言うのが怖かった。そして五十回落ちてもアイドルを諦めていないことを知られたくなかった。これを知った優から「さすがに諦めたら」と言われるのが怖かったのだ。

 クローゼットの中に乱雑に重ねられた不合格通知の横に最近まで毎日のように書いていた履歴書用の証明写真の残りが散らばっている。その中の一枚を手に取り、写っている自分の顔を確認する。どれも全て同じ表情をしていた。

 

「不細工な顔……」

 

 自嘲を多分に込めて呟く。

 写真に写った僕の顔は笑顔を作ろうとして失敗した様な、酷く歪んだ表情をしていた。仮にもアイドルオーディションに使用していいものではない。

 笑顔が上手く作れない。

 そのことに気付いたのは春香の前で歌った翌朝のことだった。

 その時の僕は声が戻ったことに浮かれていた。夢も思い出し春香も助けられた。何一つ文句がない状況に小躍りしたくらいである。

 引きこもりニート時代は煩わしく感じていた陽の光も今だけは僕を祝福している気がした。締め切っていたカーテンを開けて太陽光を部屋に取り入れようとしたところ、それが目に入った。

 一切表情の変わらない自分の顔だった。

 あれだけ喜びに溢れていた心が一気に冷え込んだ僕は慌てて洗面所へと駆け込み鏡で顔を確認すると、やはりそこには無表情の僕が映っていた。

 震える手で顔を押さえ、無理やり笑顔を作る。むにょりと歪になった顔パーツの所為で奇怪な表情が出来上がったが今はそれどころではない。そのまま顔に力を入れ状態を維持しようとして恐る恐るその手を離す。しかし次の瞬間には形状記憶合金のように元の無表情に戻ってしまった。

 その後も何度か同じ行為を繰り返してみても無表情から変わらない。

 声は戻っても笑顔は戻らなかった。

 いや、薄く笑うことはできた。でもそれは笑顔とも呼べない程度の微笑でしかなかった。

 原因は今になっても不明のまま。笑顔の作り方だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。

 全てを取り戻したと思い込んでいた分この事実はショックが大きかった。

 一応感情が表にまったく出ないというわけではないのが救いだった。鉄面皮ではあっても表情が無いわけではない。優と春香が言うには嬉しい時に薄く笑っているらしい。あいにく僕はそれを確認できていないが二人が嘘を吐くわけがないので完全に無表情というわけではないらしい。笑えないわけではないということに希望を見出した僕はそれ以降笑顔を練習している。一度はできたアイドルらしい笑顔作りをもう一度習得するために日夜研鑽を欠かしていない。結果は芳しくないが。

 それと並行してのオーディション参加だったんだけども、書類審査すら通れない有様だ。

 僕が笑顔を取り戻すまでどれだけかかるか分からない。その間にも時間だけは過ぎ去って行く。そんな焦りから生まれた数撃てば当たる戦法は失敗に終わった。

 結局二次選考まで進めたのは一つだけ。優が出してくれた346プロのシンデレラプロジェクトのオーディションだけだ。それも時間切れで二次は受けられていない。もったいないことをしたと思うも嘆いたところで時間は元には戻らない。過去を振り返るのは無駄な時間だ。それよりも未来のことを考えよう。

 もしかしたら街を歩いているとアイドルプロダクションの社長に声を掛けられるとかあるかもしれないじゃないかとか夢見たり。

 部屋に置かれた姿見の前に立つ。

 両手の人差し指で口の端を持ち上げ、可能な限り目尻を下げる。最後に体を横に傾け体重をかけていない方の足を上げる。

 

「エヘ!」

 

 今できる渾身の笑顔とポーズをキメる。

 でも出来上がったのは顔面神経痛にでもなったのかと思うほど歪んだ笑顔だった。

 無理やり目尻を下げ、口角を上げたことで笑顔とも呼べない何とも不気味な顔が鏡に映っている。

 

「駄目だこりゃ」

 

 指を離すとすぐにいつもの無表情に戻った。

 何度練習しても上手く笑えない。

 三歳から毎日練習していた笑顔。年季だけで言えば歌以上に自信のあった笑顔は今では不気味な顔芸に成り下がっていた。

 何度試しても変わらない。

 しばらく手であれこれと顔をいじって笑顔の練習をしたものの、結果は顔芸のレパートリーが増えただけだった。

 今日の笑顔のレッスンはそれで終わった。

 

「もうこんな時間か」

 

 時計を確認するといい感じの時間になっていた。二時間以上顔をこねくり回していたらしい。集中すると時間の流れが早く感じる。

 僕は部屋の隅に雑に放置されていた荷物を持つとアパートを出た。

 

 

 夕方の街並みはどことなく寂しく見えるのは何でだろうね。

 行き交う人々が変わるわけでもないのに、何でこんなにも悲しくなるのだろう。などと無意味なノスタルジーを感じながら日の傾き掛けた道を歩く。

 今僕が歩いているのは最寄りの駅へと続く商店街の中だ。この時間帯は人通りが多い。手を繋ぎ歩く母子の姿や部活帰りの学生の姿をよく見かける。彼らまたは彼女らはこれから家へと帰るのだろう。逆に僕は今出かけ始めたばかりだ。一時期の昼夜逆転生活とはいかないまでも、世の中のほとんどの人と違う時間帯に活動をする自分が時折無性に寂しい存在に思える。僕だけが世の中の流れから取り残されたような錯覚を覚えるのだ。そして、それは遠くない将来錯覚ではなくなる。今だけが僕が他人と解離していると”錯覚”できる時間だ。いつかそれが”現実”になる前に僕は色々と折り合いをつけなければならない。

 これからやることを前に気分が暗くなりすぎてしまった。気分転換をしようと試しに周りを見渡す。

 視線を向けた先に大きな看板が見えた。

 看板には765プロの皆が赤で統一された衣装姿横一列に並んでいる写真が掲載されている。近々発売されるニューアルバムの宣伝広告だった。看板には大きく『765 PRO ALL STARS』と書かれている。

 しばらく発売されなかった765プロのアルバムとあって、765ファンどころか大勢のアイドルファンまでもが期待していると話題だ。

 あのアリーナライブのオープニング曲『M@STERPIECE』が収録されているということもあり、予約開始時点から売上一位を何週間もキープし続けている。僕も当然予約済みだ。

 最近までメンバー個々のシングルやアルバムは発売されていたが、765プロ全体となると本当に久しぶりになる。

 理由はメンバーの活動内容が増えたことで全体曲のレコーディングのスケジュールが合わなかったからだそうだ。今回全員のスケジュールを秋月律子が調整したことで全体曲のレコーディングができたらしい。

 というのを春香から聞いている。最近春香から765プロの情報が枝葉末節関係なく流れて来る。メンバーの個人情報に触れそうなものまで教えて来そうだったのでさすがにそれは止めた。僕にそれを聞かせてどうしようというのか。僕が悪人だったら記者なり出版社なりに情報を売ったかもしれないのに。

 その辺りの注意とともに個人情報保護の大切さを春香に説いたのだが、彼女からの返答は『千早ちゃんがそんなことするわけないって信じてる。それよりも私達のことを知って欲しかったから』という何とも反応に困るものだった。

 春香からの信頼は嬉しいが、それによって万が一でも彼女の立場が悪くなるのは避けたい。少なくとも765プロメンバーからの信頼を失うようなことにはなって欲しくはなかった。しかし真っ当に言いくるめようとしても聞く耳を持って貰えないため、せめて春香個人の情報だけにして欲しいと伝えたわけだが……そこは何故か二つ返事で了承が貰えた。どういう基準で素直になるのか僕わからないよ!

 それ以来メンバーの情報は当たり障りがない程度に抑えられ、代わりに春香本人の情報ががっつり送られて来るようになった。

「今日の朝ご飯は目玉焼きだよ」というメール文とともに目玉焼きが乗ったお皿を持ったパジャマ姿の春香写メとか。

「みんなと一緒にお昼ご飯」というメール文とともにお弁当箱を持ったジャージ姿の春香の写メとか。

「お仕事で失敗。少し落ち込んでます」というメール文とともに衣装姿の春香の写メとか。

「新しい下着買ったんだけど似合うかな?」というメール文とともにわりときわどい下着姿の春香写メとか。

 そんな風に事あるごとにメールを送ってくれるのは嬉しいけれど、ちょっと最近画像が危険だと思う。パジャマやジャージはともかく、発表前の衣装とかは拙いんじゃないかな。こういうのって守秘義務の範囲なんじゃないのかと春香の立場を心配する。

 ちなみに下着姿はもう何か送られ過ぎて逆に見慣れた。たぶんこの世界で春香本人の次に春香の下着を見た回数が多いんじゃないかな。将来彼氏か夫に追い抜かれるとはいえ、向こう数年は負ける気がしない。どんだけ下着買ってるのさ……。

 

 商店街を抜け駅近くの広場まで来た僕はすぐに適当な空きスペースを探し始めた。

 この辺りはストリートミュージシャンが通行人相手に歌を披露してることで有名なスポットだ。まだ初々しい少年が慣れないギター一本で歌う姿や青春よもう一度な中年男性のグループが懐メロをメドレーで流す姿など、音楽に携わる人間が多種多様に集まっている。

 その中でも人気のある者は固定ファンが付くらしく、前見た時は人垣を作っているスペースもあった。そういう人気者が芸能プロダクションからスカウトを受けるなどしてデビューしたという話をよく聞く。ここはそういったスカウト待ちの人間にとって登竜門的な場所だった。 お互いが同じ趣味を持つ仲間であるとともにライバルでもあるわけだ。切磋琢磨する相手がいると成長も見込める。特に同じレベルの相手ならばなおさらだろう。

 中には純粋に歌を聴かせたいだけの者もいるが、そういう人は端の方で歌っていたりする。ある意味一番歌を楽しんでいるのは彼らみたいな人達なのかもしれない。ちなみに僕の場合は前者の意味が強かった。モデル志望の人が渋谷や原宿を歩く感覚に近い。

 オーディションが駄目ならスカウトでのアイドルデビューも視野に入れるしかない。そもそも原作の千早もスカウト組だしね。もしかして僕にとってオーディションは鬼門なのかな。

 

 歌う場所はそれほど時間を掛けずに見つけることができた。今日はやけに人が少ないため選り取り見取りだ。

 ここで歌い始める前は毎日ところ狭しと歌う姿を見せていたストリートミュージシャン達だったが、最近はその姿がめっきり減ってしまった。

 僕がここを使い始めるまでは繁盛していたのにね。これでは人気者のお零れを頂こうという僕の計画が成り立たない。我ながら小物染みた考えだけど、僕みたいな無名の小娘には三下めいた策が必要なのだ。形振り構っていられる程の余裕なんて僕には無い。早く春香達に追いつくためにもこういうチャンスに賭けなければならない。

 居ないなら居ないで良い場所を貰おう。僕は良い場所から物色し始めていたのでこの場所はすぐに見つけることができた。この辺りは元は古参や人気者が独占していたスペースだった。早く場所をとるために場所取り役のパシリの人がお昼くらいから居座っていることもある人気の場所で、毎度人気者同士で激しい場所取り勝負が繰り広げられていた。たまにやり過ぎる人達もいたけれど、それも含めてここの名物だった。しかし今は歌う人間が居なければ場所取りの人もいない。ぶっちゃけ寂れている。

 しかし人通りは多いし、そこかしこにストリートミュージシャン待ちの人間の姿が確認できる。常連の誰か待ちみたいだけど、今日のところは僕の観客になってもらおう。

 持参したギターケースからクラシックギターを取り出す。このギターは昔お父さんが学生時代に使っていたものだ。僕が楽器が欲しいと言ったところ押入れから引っ張り出して来てこれをくれた。ギターの知識はないため良し悪しはわからない。お父さん曰く本来ガットギター(クラシックギター)は出さないメーカーのものらしいが、それが良いのか悪いのかは他のギターと聞き比べなければ判断できないだろう。

 軽く弾いてみて目立つ違和感もなかったので悪いものではないはずだ。年季が入っているがまだまだ現役で使えそうなのでありがたく使わせてもらうことにした。

 ちなみにその時お父さんから何時ギターを練習したのかと訊かれたので正直にしていないと答えたらしばらく反応がなくなった。

 ギター演奏が得意な”如月千早”が居たので練習時間は実質ゼロ秒だから正直に言ったのだけど失敗だった。今度聞かれた時はもう少し努力したアピールをしよう。

 

 ギターの弦を軽く弾きながらチューニングする。やはり古いためか少し弾かないだけで半音ずれてしまっていた。ペグを少しずついじりながらA=440ヘルツに調整する。お父さんはピアノと合わせていたらしいので442ヘルツにしていたらしいけど、僕はギターソロしかしないので440ヘルツにしていた。一度どちらがいいかお父さんに確認したけどまたもや絶句されて以来訊いていない。

 僕がチューニングを始めると何をやるのかと興味を引かれた人間が注目し始める。

 特に人が集まるまで待つような真似は常連くらいしかやらないので僕は構わず歌い始めた。

 

「 遠い音楽 」

 

 曲名を告げ、静かにギターを弾きだす。

 この曲は物静かな曲調がクラシックギターに良く合う。

 出来ればピアノの伴奏で歌いたいけどピアノを持ち運ぶわけにはいかないし、キーボードはお金が無いので買えない。バイトでもして購入してみようか。

 まあ、汎用性の高いギターがあればいいかな。それにギターは静かな曲に合う。今の僕にはアップテンポな曲や明るい歌は合わないからちょうどいいのだ。

 十秒ちょっとの伴奏が終わり僕は歌い始めた。

 その瞬間、僕は自分の世界へと入り込んだ。

 外界からシャットアウトされ自分だけで完結した世界に僕一人だけが立っている。

 そこで僕は音色に歌詞を乗せて歌として外に送り出す。送り出した後の結果を僕は知らない。手は勝手にギターを弾き続け、僕はただ歌うだけだ。

 そうやって自分だけの世界で歌うこと一曲分。数分の間だけ僕は歌うことに浸っていられる。この時だけは全てを忘れていられる。

 未来への不安を頭から追い出せる。

 何度もオーディションに落ちて自分を慰めるように街頭で好き勝手に歌う日々に対してこんなことを続けて果たしてアイドルになれるのだろうかと疑問を抱きつつ止められない。

 歌っていれば、歌ってる間だけは忘れられるから。

 

 やがて歌が終わり、自然と意識が現実へと戻って来る。

 何度体験しても歌っている間のこのトランスは良いものだ。やばい薬をキメているわけでもないのに完全にトリップする感覚が素晴らしい。まじオクレ兄さん状態で癖になる。

 そこで周囲を見回すと何時の間にか僕の周りに人垣ができていることに気付いた。

 拍手なり歓声なりの反応が貰えたら出来栄えを把握できるのだけど、そういったリアクションは周りからは一切上がらない。

 盛り上がらなかったということは、あまり良い評価は得られなかったということだ。聴衆からすれば他に歌う人間がいないから試しに聴いてみたが内容は……といったところだろうか。常連が普段使う場所だということで期待値だけは無駄に上がっていたみたい。

 笑顔一つない人々の顔を見てそう自己評価を下した僕はこっそりと溜息を吐いた。今日も歌で人を笑顔にすることはできなかった。

 聴衆の期待に沿えなかった人間が次にとるべき行動は一つだ。

 ギターをケースへとしまうとすぐにその場を離れる。つまり退場処分ということだ。この場合自主退場というやつだね。その日聴衆ウケが悪かった者は自主的にその場を立ち去る。ここでの暗黙のルールのようなものだ。そうやって順番待ちや場所取りをしている人間に席を譲るというお行儀のよいシステムだった。例に漏れず僕も自主退場というわけである。

 聴衆も慣れたもので、僕が通ろうとするとすぐに人垣が左右に割れてくれた。軽く頭を下げると逃げる様に僕はその場を立ち去るのだった。

 

「今日もだめだったかぁ……」

 

 帰り道を歩きながら僕は今日の結果を独り言ちる。

 自分として生きると決めてから二か月。その間色々なプロダクションのオーディションに応募して来た。大手から弱小と呼ばれる事務所まで新人アイドルを募集しているところは片っ端から受けた。

 そしてその全てに落ちている。

 毎日送られてくる不合格の通知。決まって書かれているのは「如月千早様のより一層のご活躍をお祈り申し上げます」という一文。活躍なんて本当に祈っているなら合格させてくれと思う。

 オーディションに落ちた日には街頭で歌う。そんなルーチンができたのは何時からだろうか。

 確かあの日も不合格の通知を貰ったっけ。気分転換に外を散歩できる程度には落ちた後の切り替えが上手くなっていたと思う。十回を超えたあたりからペラペラの不合格通知を貰ってもあまり気落ちしなくなったから。

 特に目的もなく歩いていた僕の耳に遠くから誰かが歌う声が聴こえた。こんな町中で映像や街頭CMでもない生歌が聴こえることに興味を引かれた僕は歌のする方に向かった。

 歌に導かれるように歩いて行くと駅から商店街へと続く道に面した広場に出た。

 そこで目にしたのは老若男女問わず色々な人達が好き勝手に歌や演奏をする姿だった。

 皆楽しそうに歌っている。上手い下手はあっても、皆思い思いに歌を口ずさみ、曲を奏でている。その姿が何だか自由で楽しそうに見えた僕は「これだ」と思った。

 ここならばスカウトし易いに違いない。

 謎の確信を持つに至った僕はこの集まりに参加することを決めた。

 その日はここの決まり事などを把握することに努め、次の日から歌を披露し始めた。

 最初は端の方でこっそりと歌っていた。誰も聴かなくても歌っている間は気が楽になったから。しかし慣れてくると今度は誰かに聴いて欲しいと思うようになり、ちょっと本気で歌うようになった。この時くらいにギターを取り入れたのだ。

 そうやってオーディションに落ちる度に歌いに通っていたのだけど、ある時期から段々と端のスペースに隙間ができるようになった。それまで近くで歌っていたギター歌手志望っぽいお兄さんや懸命に歌っていた女性とか、端のスペースを主に使用していた人達が居なくなり、やがて端からはごっそりと人が消えてしまった。

 最初僕は今がたまたま人が少ないだけで、すぐに皆戻ってくると思っていた。新参者の僕の知らない人の増減周期があるのだと。ここで下手に中央の人気スペース側に行こうものならどんな難癖をつけられるかわかったものじゃない。それだけスペース取りに皆必死だった。

 だから僕は一人ぽつんと誰もいないスペースに取り残されることになっても暫く端スペースを使っていた。

 しかし、いつまで経っても人が戻る気配はなかった。仕方なく消えた人達により空いたスペース分を詰めることにした。

 新しく訪れた中央寄りのスペースでは端の人達よりも明らかに上手い人達が集まっていた。皆歌い慣れている感じがして、中には固定ファンみたいな人達が付いている人もいる。そんな風に身内のような固定ファンを獲得している人の横で歌うことに多少気後れしつつ歌うことにした。

 数日するとそのスペースからも人が消えてしまった。明らかに異常事態なのだけど、残った人達はあまり深刻にとらえていないように見えた。たぶん広場を訪れる人間の数が前よりも増えたからだと思う。歌う人間が減ってもそれ以上に聴きに来る人間が増えれば寂れることがないという考えなのだろう。

 僕もその頃は良い場所を狙う人間の一人になっていたので人が減ったことは気にしなくなっていた。

 そして今日はとうとう僕以外誰も居なくなってしまった。それでいて観客は前より増えているんだから不思議である。

 この間まで一番いいスペースを陣取っていた人達はどうしたのだろうか。今日は見かけなかった。あれだけ固定ファンが居たのに急に来なくなったらファンが悲しむだろうに。何か退っ引きならない事情でもあったのかな。よくわからないけど。

 こういうのを栄枯盛衰というのだろうか? いかに人気のスポットでもいつかは廃れてしまうものだ。あれだけファンの多かった人気グループが消えるのだから世の中何があるかわからないね。

 そうなると固定ファンも居ない新参者でしかない僕があそこに通う意味はもはや無いだろう。

 せっかく見つけた場所だったのに残念だ。もう少し早く参加していればもっと長く歌っていられたのだろうか。まあ、ああいう場所は流行り廃りが激しいって言うし、今回は運が悪かったと思って別の場所を探すとしよう。しかしただ新しい歌い場に移るのは芸がないと思う。

 さて、次からはどうやってオーディション落選の気分転換をしようか。

 いや、そもそもオーディションを新たに受けるのも難しいか。もうほとんどのプロダクションを受け終えてしまっている。今後はプロダクションを探すことすら困難になってくるだろう。

 こんなことなら346プロの二次選考を受ければよかった。そう今になって後悔している自分を自覚して嫌になる。

 二次選考はどうやったって受けられる状況ではなかった。二次選考の期限は丁度僕が最大級に落ち込んでいる時だったのだから悔いる意味がなかった。

 

「こんなことなら……はぁ」

 

 こんなことなら?

 今自分が呟いた言葉に憤りを感じる。

 何を今更言っているのだろうか。僕が今こうしているのは自業自得だろう。僕が選んだのだ。今の状況は僕が作った。

 全てはあの日のスカウトが発端だ。

 あの日、春香達のアリーナライブの日に僕に声を掛けて来た男性は自身を346プロのプロデューサーと名乗った。しかもシンデレラプロジェクトのプロデューサーだと言う。出来過ぎな話過ぎて一瞬裏を疑うレベルだった。

 株式会社346プロダクションと言えば、美城の一族が経営する老舗の芸能プロダクションと聞いている。軽くネットで調べたところオフィス街の一画に馬鹿でかいビルを建てそこに丸々一個会社が入っている。社内自体に撮影設備やトレーニングルームが完備されているとかで、765プロとは比べるべくもないほどの巨大プロダクションである。

 そんな大手の346プロのプロデューサーがわざわざ自分で外回りしてスカウトするという話は正直言って信じ難い。もっと言うと胡散臭い。初対面では誠実そうな人に見えたけど、一般的な感性からすると怪しい風体の男が突然自分は大手芸能プロダクションのプロデューサーだけどアイドルに興味ない? とか話を持ちかけて来たら百パーセント怪しむ。僕は一般人なので当然怪しんだ。

 しかし差し出された名刺は本物に見えるのでとりあえず話半分に信じることにした。仮に本物であった場合、プロデューサーから直々にスカウトされたというのはチャンスに他ならない。その時の僕は素直に喜んだ。 後の話になるけど346プロの公式サイトにプロデューサーとして顔写真付きで登録されていた。

 一度は時間切れで受けられなかった346プロのオーディションだったけど、プロデューサー本人からのスカウトというショートカットに内心浮かれた。これで春香達を追い掛けられるとその時は無邪気に喜んだのだ。

 しかし、プロデューサーからの話を聞いている間に僕のテンションは下がって行った。下がったというかドン底に落ちたと言うべきか。それまでの熱に浮かされた頭に冷水を浴びせかけられた気分だった。それはプロデューサーの、あの男が放ったたった一つの言葉が原因だった。

 それが理由で僕は男の誘いを断った。一度は受け取った名刺も突き返した。

 最初は乗り気だった僕が突然断ったことに男は驚き、何で急に態度が変わったのかと訊かれたが僕はそれに答えず、遠目にこちらへと向かってくる優を理由にその場から立ち去った。

 良い話だと思った。僕みたいな人間をスカウトしてくれた男に感謝もしていた。

 でも、だからこそ、僕は彼の話を断った。

 だって──。

 

「え……」

 

 相手のことを考えたからだろうか。こんな偶然あり得るのだろうか。

 あの男が居た。相変わらず遠目からでもわかる高身長だ。僕もあのくらいの身長が欲しいと思う。もちろん男として生まれていたらだけど。

 横断歩道を渡った先、久しぶりに見た男は初めて会った時と同じ不器用な人間特有の無表情になり切れていない硬い動かない顔で歩道の上に立っている。

 彼の目はまっすぐにこちらへと向けられていた。

 ……何で渡らないんですかねぇ?

 まるで待ち構えるように立ち尽くす男に胡乱げな視線を向ける。

 

「……」

 

 いや、まだ僕に用があるとは限らない。たまたま歩道に立ちたいお年頃なのかも?

 どちらにせよもうすぐ信号が切り替わるので渡り切らないと。

 僕はそのまま歩みを進めると歩道を渡り切り、無視する形になるが何も言わずに男の横を素通りした。

 

「如月さん」

 

 やっぱり僕かい。

 呼び止められたからには立ち止まるしかない。甚だ不本意だが相手は大手プロダクションのプロデューサー。しかもそこそこ偉い人。アイドルを目指す人間にとってこれ以上にない肩書だ。そのまま無視するわけにはいかない。

 僕はさも今存在に気付きましたという態度で男へと顔を向けると軽く会釈をした。相手も釣られたように頭を下げて来る。こんな小娘に律儀なものだ。

 ついこの間まで毎日のように見た男の顔を改めて観察する。一度断った僕に対して何度もアプローチを繰り返し、出向く先で何度もスカウトを繰り返してきた男の顔は相変わらずの強面だった。

 最初の頃は男の顔に少しビビっていたのだけど、定期的に会っているうちに慣れてしまった。今では少しだけだが感情の波を読み取れるくらいになっている。

 最近ぱったりとスカウトに来ることがなくなったので不思議に思っていた。いや気にしていたわけじゃないんだけどね?

 

「……お久しぶりですね」

 

 前言撤回。わりと気にしていたらしい。我ながら寒々とした声が出たと思う。自分はこんなにも他人に冷めた態度をとる人間だっただろうか。今の自分の態度を省みながらそんな疑問を抱く。

 僕は基本的に誰にでも平等に接するタイプと思っている。優に対して我を忘れるのはノーカウントだ。身内は別腹。

 僕の平等は平等に無関心というものである。初対面の相手や好意を抱けないと感じた相手にはあっさりとした態度をとる。決してこの男に対するようなツンケンしたものは僕の中に無かったはずだ。

 

「何か私にご用でもありましたか?」

「いえ、本日は近くの養成所に顔を出す用事がありましたので」

 

 勘違い恥ずかしい!

 まるで自分を待っていたのではないかと勘違いした自分をこの場で十回シバキたい。

 羞恥のせいで顔が熱くなる。

 そんなはず無いのに。何を期待しているんだか。

 ……うん? 期待?

 はて、僕は何で期待していたのだろう。

 何を期待していたのだろう。

 そもそも期待をしていたのかすら曖昧なのに。何か、もやもやする。

 そんな僕の内心を知らない男はぎろりと目を僕が手に持つケースへと向ける。

 

「その手にあるものは……ギター、でしょうか?」

「そうですが」

「ギターを弾かれるのですね。もしや駅近くのストリートミュージシャンの方々が集まると言う場所で?」

 

 さすが大手芸能事務所のプロデューサー。こういう素人の集まるスポットの情報も持っているのかと感心する。

 だがすぐに何を好印象を持っているのかと自分を戒めた。危うく絆されそうになってしまった。

 

「そうですが、それが何か?」

 

 意識的に突き放した言い方をする。「貴方に何か関係がありますか」という皮肉を込めた拒絶だった。男にとってはまったくの八つ当たりでしかないのに。無駄に引かれてしまっただろうか。

 しかしこの男は僕が思っていたよりも数段図太い性格をしていたらしい。

 

「大変興味がありますので、一曲お願いできませんでしょうか?」

「はいぃ?」

 

 男の言葉に思わず素が出てしまった。

 この男は何を言ってるのだろうか?

 今さっきまで養成所に顔を出していたと言ったではないか。養成所と言うとアレでしょ、アイドルの卵がいる学校みたいなところでしょ。そこでアイドル発掘に勤しんでいたというならば、嫌ってほどアイドルの卵から歌と踊りを披露されただろうに。その後でまだ聴きたいと言うのか。

 僕の歌を。

 

「お断りします」

「そこを何とか」

 

 ぐいぐい来るなぁ!?

ちょっと第一印象にあった落ち着いた慎み深い一歩引いたスタンスの人はどこに行ったんですかね。僕の勝手な思い込みで最初からこういう強引な人だったのかも知れないけど。

 

「何故そこまで聴きたがるんですか……養成所にも通っていない、素人の曲ですよ?」

「貴女の才能を改めて見てみたい、と言ったら納得いただけますか?」

 

 力強い声だった。真っすぐ僕を見る目も一切揺らいでいない。この人から嘘が感じられない。

本気だ。この男は本気で僕の曲を聴きたがっている。リップサービスでも建前でも興味本位でもない、本当に僕を知りたがっている。

 何となくだけど、それが真理だと思えるくらい僕は目の前の人間から本気を感じた。

 

「……一曲だけですよ」

 

 その意気に負けたとでも言うのだろうか。

 気付いた時にはそんな妥協染みたことを言っていた。

 まあ、聴きたいというのなら聴かせればいいだけだ。それだけならば今の僕でも可能なのだから。

 

 曲を披露するのは近くの公園ということになったので二人して移動した。

 一時期に比べ日が長くなった気がする。西日が公園に残り、舞い散る桜を赤く染めていた。

 

「桜の花びらが散るのを見て、春が来たと思う人と春が終わると思う人の違いって何だろう」

 

 桜の散る姿を見て自然と言葉が零れた。

 

「……春を常に意識している方は桜の終わりと重ねて春が終わったと思い、意識していなかった方は桜の花びらで春を思い出しその到来を感じるのでしょう」

 

 別に答えを求めていたわけではないのに、男が自分なりの解釈を言って来た。

 僕の何気ない呟きに律儀に答えてくれたことがくすぐったく感じる。自分と似た解釈なことが少々癪だったけども。

 

「じ、時間が無いのでさっさと終わらせますよ」

 

 ちょっと気恥ずかしくなった僕は誤魔化す様にギターケースを広げる。

 その時ちょうど強く風が吹いた。

 

「っ」

 

 冬を思い出したかのような冷たいそれに体が震える。

 意識すれば暑さ寒さを感じなくできるとはいえ、常にそれでは人間性を失っていくと気付いてからできるだけ外部からの刺激を遮断しないようにしている。

 しかしずっと刺激に鈍感になっていたため、今の僕はふとした瞬間の刺激に弱くなっていた。

 もう一枚多く着てくるべきだったかな。

 つい昨日まではスプリングコートを着ていたのに、今日になってセーターに変えたのが裏目に出てしまった。風邪をひくことは無いにしても寒いという感覚はあるのでこの時間帯は少し辛い。

聴かせると言った手前帰るわけにもいかず、微妙な寒さの中で演奏することになる。

 寒さで指が悴んでしまわぬように手に息を吐きかけていると横の男が微妙に立ち位置をずらしたことを感じる。

 その位置が風から僕を守る位置になっていると気付いて顔が熱を持った。女の子扱いされている気がして恥ずかしくなってしまったのだ。

 こういう扱いを受けたことが少なかったので新鮮に感じる。記憶を辿っても優とお父さん以外の男性に優しくされた記憶が無かったからこういう時反応に困る。

 お礼を言えばいいのか、余計なお世話と怒ればいいのか、僕には判断がつかなかった。

 結局特に何も言わずにギターを取り出す。また勘違いかも知れないと自分に言い聞かせて。たまたま立ち位置を変えただけかもしれないのに。

 期待しちゃいけない。

 

「リクエストはありますか?」

「そうですね…………では、『蒼い鳥』をお願いしたいのですが」

 

 意外な選曲に何度か目を瞬かせる。

 男もそれは自覚しているらしく、右手で首の後ろを押さえながら眉をハの字に下げていた。

 

「変、でしょうか」

「ええ……いえ、ただ意外だなと思いました」

 

 確かに、どうにもこの目の前の男がリクエストするタイプの曲とは違う気がした。

 何か理由でもあるのだろうか。

 

「この曲に思い入れでもあるんですか?」

「いえ、ただ……その、何と言いますか」

 

 先程まで言いたいことを好きに言っていた男とは思えない歯切れの悪さに眉を寄せる。

 リクエストに意味が無ければ嫌と言うほど”芸術家”ぶるつもりはないけれど、はっきりしない態度をとられるのも何となく気持ちが良くない。無いならば無いでいいのに。変に気を遣われる方が困る。

 訊いておいて申し訳ないけど、質問を取りやめようと口を開きかけたところで男が突然答えを出した。

 

「貴女に合いそうだと、そう思ったもので」

「……」

 

 数秒だけ呼吸を忘れる。

 ジーンと耳の奥で低音の耳鳴りが響き、寒さ以上に指先を震えさせる。言葉一つでそれまで取り繕っていた仮面が剝がれかけた。

 ごくり、と喉が鳴った音が頭によく響く。この人は何も知らないはずだ……。なのにいつも僕の弱いところを的確に突いてくる。

 良い意味でも悪い意味でも。

 今回のこれがどちら側かはあえて言わないけど。

 

「お願いしておいて訊くのも失礼とは思いますが、この曲は問題ありませんか?」

「どういう意味でしょうか?」

「あまりメジャーな曲というわけでもありませんので。レパートリーの中に無ければ他のものにしますが?」

 

 そう言われて、この曲の知名度はリアルと違ってこの世界では微妙なことを思い出す。

 アイドルマスターという作品では有名だとしても、この世界の中ではまだ無名だった千早の持ち歌の一つでしかない。

 あれ、そう言えばこの歌ってこっちだとどういう扱いになっているんだろう。僕の持ち歌でないならばどうやって世の中に出たのか。

 

「如月さん?」

「あ……はい、初めて歌いますが問題ありません」

 

 思考が逸れてしまった。慌てて問題がないと答える。

 

「……そうですか」

 

 一瞬男の目が細められた気がしたが気のせいだろうか。

 まあ、どうでもいいことだ。

 無駄な思考はとりあえず排して今は歌に集中しよう。と言っても曲が曲だけに難しいが。

 蒼い鳥。

 それは初期の千早を象徴するような歌だ。

 アニメのエンディングと劇中歌として披露された、まだ765プロの皆と打ち解けていない時の歌だ。

 千早が作る他人との壁を意識させる描写に使われているため、千早にとってはマイナスなイメージを持たせる歌である。

 それが僕に合うと言われて正直複雑な気持ちになった。でも千早の歌だ。千早が歌っていた歌だ。

 何となく、嬉しいと思う自分がいるのも事実で……。それが未練だというのは理解している。

 大丈夫、僕は如月千早として歌える。

 

 ゆっくりと曲を弾き始める。

 物悲しい曲調は最初一人の寂しさや孤独に耐える小鳥の境遇を想起させる。だがそれを小鳥は強がりと虚勢で耐え続けるのだ。

 そしてサビでは一人で飛ぶことの覚悟と強さを聴く人間に伝える。

 それは僕にはない強さだ。僕は一人で飛べる人間ではないから。蒼い鳥に僕はなれない。

 僕はこの曲に共感はできない。一人の寂しさを耐えて飛び続けることはできない。だから共感はしない。

 でも、この鳥の強さを否定はしない。一人で飛び続けた鳥の強さを僕は尊敬する。そんな想いを込めて歌った。

 

「……ふぅ」

 

 あまり歌に集中できなかったけど、ちゃんと歌い切れたことに安堵の溜息を吐いた。

 

「どうでしたでしょうか?」

 

 歌い終わってからも何も言わない男に感想を求める。ちょっと緊張している自分がいた。

 ずっと黙って聴いていた男は丁寧に拍手を送ってくれた。相変わらずの落ち着いた表情で。

 

「大変お上手だと思います」

「……ありがとうございます」

「ギターの方はいつからお弾きに?」

 

 来たな、その質問。

 僕は二の轍は踏まないタイプの人間だ。お父さんには練習していないと答えて失敗したので、ちゃんと練習期間を設けていると思わせないと。

 

「一月ほど前からです」

 

 どうよ、完璧な回答でしょ。実際始めたのは一ヶ月前なので嘘じゃないしね。

 

「……これを……一月で?」

「え、はい」

 

 しかし返って来た反応は期待したものとは違っていたため内心首を傾げる。

 

「一日の練習量は? どなたかに師事を? 猛特訓の成果ということでしょうか?」

 

 男の矢継ぎ早に繰り出される質問に何か雲行きが怪しいと気づく。

 まさかこの人、僕がギター大好き少女で毎日ギター弾いていると勘違いしてる?

 ギターを毎日引く程ギター好きというのはキャラ付けとしては王道だが見栄えはいいだろう。

 しまったな、この人には変に興味を持たれたくなかったんだけど。ここは努力を匂わせつつ熱意は無い感じに訂正しておこう。下手にギターに全力だと思われても困る。

 

「特に毎日練習するようなことはしていません。弾きたい時に弾いているだけです。誰かに教えて貰ったことはありません。今の曲も勘でやっていただけですので」

 

 これで軌道修正できたかな?

 

「……」

 

 何か反応が悪い。顔が引き攣ってるけど大丈夫だろうか。

 大方ギター弾ける系のキャラかと思ったらにわかだったと知って落胆したってところか?

 残念でしたね、ギターキャラじゃなくて。にわかギタリストが調子に乗って街頭で弾いていたと知って驚いたでしょ。

 

「ご満足いただけましたか?」

「はい、改めて参考になりました」

「? そうですか」

 

 言い方に多少の引っ掛かりを覚えつつ、相手もこれで満足しただろうとギターをケースへとしまう。

 そう言えば気になっていたことを訊いてみることにした。

 

「蒼い鳥ですが、この歌ってどなたが歌っているんでしたっけ?」

 

 僕としては何となく口にした質問でしかなかった。

 質問内容もギターをしまう間のちょっとした世間話程度の認識でしかない。しかし、彼にとってはそれは意外な質問だったらしい。

 

「ご存知無かったのですか」

「え、はい。歌だけ知っていたので」

 

 男から意外……いや、異質な存在を見るような目を向けられてちょっと身を引いてしまった。どうやら僕のこの質問は相当ありえないものらしい。そうでなければ付き合いの短いながらも根っからの真面目人間だと確信できるこの男がこんな目で見てくるわけがない。

 それ程までに僕のこの質問はありえなかったようだ。

 

「この歌は”あの”渋谷凛さんの物です」

「──っ」

 

 渋谷凛。

 春香と僕の前に現れ、春香にリーダーの責任を問い質した少女。僕が居ない代わりに765プロに存在するアイドル。

 そうか、蒼い鳥は彼女の持ち歌だったのか……。

 僕の代わりに765プロに入った凛の持ち歌が蒼い鳥であることに少しも思うところがないと言えば嘘になる。でもそれは恨みだとか嫉妬だとか、そういう負の感情ではないはずだ。少なくとも凛に対して恨みがあるかと訊かれたら迷わず無いと答えられる。何と言えばいいのか、 たぶん僕が彼女の存在をいまいち認識し切れていないからだ。

 それに、あのメンバーの中で蒼い鳥を持ち歌にできるのは彼女しかいないというのも確かだしね。死蔵されるよりは世に広まってくれた方が嬉しい。

 だから彼女が765プロに居ることはどうでもよかった。

 もし彼女がいなければ僕が代わりに……なんて思考は無駄なものなのだ。

 

「……」

 

 ギターをしまう手を止めて黙っていると視線を感じたので顔を上げる。男がじっとこちらを見下ろしていた。真っ直ぐに僕を見つめる瞳に含まれた感情を読み取ることはできない。だけど、次に何を言われるのかは予想できた。

 

「如月さん、何度でも言います。今一度シンデレラプロジェクトに」

「私が了承したのは一曲お聴かせすることだけです」

 

 続きを言わせないように強い口調でばっさりと切り捨てる。

 

「如月さん、どうかもう一度お話だけでも聞いていただけませんでしょうか。それで考えが変わるかもしれません」

 

 考えが変わる?

 あは、何を言うかと思えば……変わるわけがないだろう。

 僕の考えは変わらない。変わるとすれば貴方の方だ。変わるなら貴方の方だ。僕の考えは変わらない。変えられない。

 今のままで僕をシンデレラプロジェクトに誘おうなんて無駄な努力でしかないのだから。

 

「私には貴方の求めるモノがありません。シンデレラプロジェクトに参加する資格がありません」

「如月さん」

「失礼いたします」

 

 それ以上男が言葉を重ねる前にその場を立ち去った。

 僕には参加資格がない。最初にそう言ったのは貴方だろう。だったらもう誘わないでよ。期待させないで。また駄目と言われた時に余計惨めになるから。

 惨めになるのはもう嫌だった。

 さすがにあんなはっきりと拒絶したためか、男が追ってくるようなことはなかった。

 ……なんだ。

 

 

 家への帰り道ではどうにも歩みに力が入らずゆったりとした足取りになった。歩き慣れた道だというのに何とも足元が覚束ない感じがしてなかなか前に進まない。

 手に馴染んだギターケースの取っ手が今日に限ってはよく滑る。何度持ち直してもすぐ手からするりと抜け落ちそうになって、その度に慌てて持ち直すというのを繰り返した。

 ふと目の端に入った道に落ちている空き缶を拾い上げる。近くにゴミ箱は見当たらない。周囲を見渡せば道路の反対側に自動販売機があり、その横の空き缶入れが見えた。わざわざ反対側まで渡ると拾った空き缶を捨てるとからんと缶同士のぶつかる音が虚しく響く。

 

「……」

 

 しばらく缶を捨てた姿勢でフリーズした。何故自分はこんなボランティアみたいなことをしているのだろうか?

 自分に問いかけるも答えは出ない。仕方なくその場を立ち去る。

 その後も目についた看板の文字を目で追ったり、目の前を横切った猫に触ろうとして逃げられたり、近所の子供が描いたたくさんの円でけんけんぱしたり。とにかく無駄な時間を使う。自分のこの衝動を名付けるどころか正確に把握することもせず、ただ時間を無駄に浪費した。

 そんなことをして時間を無駄にしたためか、アパートの前に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。いつもならもう少し早くに家に辿り着くのに。あの人に歌を聴かせたことよりも、そこから家までの道を牛歩の如く時間を掛けて歩いたことが遅くなった原因だった。そう考えると夕闇以上に自分の心が暗くなるのを自覚した。

 自分の部屋のある階まで上り慣れた階段を一段一段ゆっくりと上がる。ゆらゆらと揺れるケースの底が何度も階段とぶつかりコツンコツンと音を立てた。

 階段を上りながら今日のことを考える。

 今日の僕は無駄な一日を過ごさなかっただろうかと。

 優が帰ってからオーディション用の履歴書を書いて、笑顔の練習をして、駅近くで歌って、あの男に曲を聴かせた。今日僕がやったことを挙げればこれだけしかない。

 履歴書を書いて別のオーディションの結果を見て落胆し、笑顔の練習をして落ち込み、何となく歌いに出る。それが最近の僕のルーチンワークだ。優とあの人の件は本当に特殊なイベントだっただけで、いつもの僕はこの繰り返しで一日を生きている。

 

 僕はギターを部屋の隅に適当に置くと、ケータイを取り出し短縮ダイヤルに登録した番号を呼び出した。

 数コールの後、相手が電話に出る。

 

『もしもし、お姉ちゃん?』

 

 電話の相手は優だった。

 今朝会ったばかりだというのに優と会話したのが遥か昔のように思える。

 

「優の声が聞きたくてぇ」

『そうだったんだ』

「今大丈夫? 忙しいなら後にするけど?」

『大丈夫だよ。ちょっと宿題してただけだから。夕ご飯も食べ終わったから時間もあるよ』

「そっかー、良かった。でも宿題があるならあんまり長引かせちゃ悪いよね! それにしても優はちゃんと宿題をやるなんて偉いなー!」

 

 僕なんて中学時代宿題を一度としてやって行かなかったからね。テストで満点取れば文句ないだろってスタンスだったから。我ながら舐めた態度だったと思う。

 授業もまともに聞いていなかったので一度数学教師にキレられたことがある。それでも態度を改めない僕に業を煮やした教師が「この問題が解けなかったら授業を真面目に受けろ」と言って数学の問題を黒板に書いたわけだけど。僕が最低限の途中式込みで三十秒くらいで答えを書いたところそれ以降何も言わなくなった。

 そんな僕は成績は優秀だが不真面目な奴として教師から扱われていたわけだけど。そんな黒歴史な僕の中学時代と比べて優はとても真面目に過ごしているようで感心する。

 

『そんなことないよ。普通だって』

「私と比べたら真面目だよ」

『……お姉ちゃんと比べたら誰でも真面目扱いになるよ』

「ん? よく聞こえないぞー。優の素敵な声が聞こえないよー?」

『ごめんね、電波が悪かったのかも』

「そっかー!」

 

 優の美声を妨げるなんて悪いケータイだな。後で電池パック抜いてやる。

 あ、そうすると優からのメールに気付かないかも知れないから止めておこう。命拾いしたな。

 

『最近はご飯ちゃんと食べてる? お母さんも心配してたよ。自分が行かない日はどうしてるのかなって』

「ちゃんと食べてるよー」

『本当? コンビニ弁当だけじゃだめだよ。昨日だって部屋にお弁当の箱がたくさん捨ててあったし』

 

 あちゃ、片づけたと思ってたのに優にはバレてたか。今度はちゃんとゴミ出しもしておこう。

 お母さんがご飯を作りに来ない日はだいたいお惣菜かコンビニ弁当だからゴミが溜まるんだよね。燃えないゴミの日に限って予定が入って捨てられないから余計溜まって困っている。

 だがそれも最近少しだけだが改善されて来た。当然僕が料理を覚えたとかそんな奇跡は起きていない。

 

「最近はねー、春香が泊まりに来た時に作ってくれるんだよ?」

『天海さんが?』

「うん。終電逃したーって言って765プロから家に来るんだよ。泊めて貰うだけじゃ悪いからって、その時ご飯作ってくれるんだ」

『……胃袋から攻めて来たかぁ』

「んっんっ? また聞こえないよ。電波?」

 

 そろそろケータイを買い替えようかな。最近はスマートフォンというのが主流らしいし。

 今僕が使っているケータイってガラパゴスケータイとか呼ばれているらしい。略してガラケー。そのガラケー全盛期でもあり得ないくらい古い型だったのでシーラカンスケータイと呼ぼうか。

 

『その料理変な味とかしてないよね?』

「大丈夫だよ、春香の料理は全部美味しいもん。それにせっかく春香が作ってくれた料理だから、多少おかしいくらいで残せないよ」

『一度信用したらとことん信じられるのはお姉ちゃんのいいところだよね』

「えへへ、優に褒められちゃった」

『とりあえず、天海さんが作った料理で変な味がしたものがあったら躊躇わず吐き出すこと』

「どういうアドバイス?」

『いいね?』

「あ、はい」

 

 ちょっと強めの念押しに思わず了承した。

 そんな感じに優との話が弾んだ。ところどころ電波が悪くなったり、優からの謎のアドバイスに戸惑ったりはしたけれどそれも含めて優との電話は僕にとって心休まる時間だった。

 本当ならもっと話したいし、できれば実際に会ってお話したい。でも今日のところは優も宿題があるからそんなに長話はできない。実際に会うにも優が学校があるからなかなか時間がとれないのだ。

 優不足が深刻化する前に何とか会えないかな。できれば休日にお出かけとかしたい。可能ならそのままお泊りしたいな。

 

「ありがとう。優と会話できたから元気でたよ!」

『そう、なら良かった。僕で良ければいつでも話し相手になるからね』

「優がぁ、優しくてぇ、生きるのが辛いぃぃびぇええん」

『唐突に泣くのはやめて欲しいかな』

「あい。ずびびっ」

『あと鼻も』

 

 最近優限定だけど涙脆い気がする。これは優の中学校の卒業式に参加したら涙と鼻水で脱水症状起こすレベルだわ。僕の目と鼻の穴は涙と鼻水でガバガバだわ。

 

「優のせいで私の両の穴はガバガバだよ~!」

『お願いだから、それをお母さん達に言うのだけは止めてよね。本気で』

「うん、よくわからないけどわかった」

『不安だ……』

 

 優は最近不安なことが多いよね。心配だな、僕でよければ力になるのに。でも優は僕に気を遣ってか何が不安なのか教えてくれない。お互いに世界で唯一の姉と弟なんだから、もっと頼って欲しい。

 

「優が不安になるなんて駄目だね。私に言ってくれたらその不安の原因をプチっと潰してあげるから、遠慮なく言ってね!」

『自殺教唆になるからいいよ』

「電波悪い?」

『……お姉ちゃんのことだから聞いてないふりとかできないだろうね。そろそろ本当に買い替え時じゃないかな。今時お年寄りでもそんな古いの使ってないよ』

 

 本当にねー。最近メールの受信もメールセンターに問い合わせしないと届かないし、電池の持ちも悪いから不便で困ってるんだよね。携帯充電器もこの型のとか存在しないし。

 

『何なら今度一緒にスマホ買いに行く? 僕も新型の見たいし』

 

 そ、それってもしかして!

 

「お泊りデート!?」

『お泊りでもないしデートでもないよ』

「うぇへへ、優とデートだぁ」

『くっ、本当にいい仕事するね電波!』

 

 その後はどこでスマホを買うか等の予定を話し合って優との会話を満喫した。

 通話を終えると早速春香にメールを送ることにした。この喜びを誰かに聞いて貰いたいという衝動が僕を突き動かしている。

 送るメールの内容は、昨日優が部屋に泊まってくれて色々してくれたことと、今度デートするというものだ。前々から春香には優とのことを相談に乗って貰っていたからその報告も兼ねている。

 

「……あれ」

 

 いつもなら送信して一分もしないうちに返信があるはずなのに、今日はいつまで経っても返事がない。

 普段僕からメールを始めることはないので春香は驚くかなとちょっと期待していたのだけど残念だ。ちなみに僕からメールをしないのは、春香が忙しい時にメールをして邪魔をしたくないからである。

 タイミングが悪かったのかも知れないね。最近の春香は人気が鰻登りなのである。一皮剝けたと言えばいいのだろうか、春香が見せる「私毎日楽しんでます」って顔で明るく仕事をする姿はお茶の間でも評判が良いらしい。

 そんな春香にメールをしてもすぐに返せるわけがないよね。つい何時もの感覚で送ったから戸惑っちゃった。

 まあ、後にでも読んだら反応を返してくれるだろう。僕は特に気にすることはせず、ケータイを枕元に放った。

 

 その日春香からメールが返って来ることはなかった。

 

 

 ────────────

 

 

 次の日のこと。

 コンビニにお昼を買いに行く僕の前にあの男が現れた。

 何時の間にそこに居たのか、僕の横に立った男の手にはシンデレラプロジェクトと書かれた封筒がある。男は無言でそれを僕に差し出した。

 一言あっても良いんじゃないかな。無言で突き付けられても反応に困るから。

 

「……何かご用でしょうか」

 

 理由なんて判り切ってるのにあえて皮肉を込めて男に問いかける。

 僕の態度から歓迎されていないのは理解できているだろうに、男は律儀にシンデレラプロジェクトと印字された分厚い封筒を僕の目に入りやすいように差し出して来るのだった。これワザとやってたらかなり大物だよね。もしくはこちらを舐めているか。この人の性格的に”絶対に”真面目に勧誘して来ているのだろうけど。だからこそ厄介な相手だった。

 僕は真面目に物事に当たる人間に強く出られないタイプの人間だ。これは僕がずっと不真面目な人間だったことの反動である。きっと僕の心の奥底では真面目に生きてこなかったことに罪悪感が根付いてしまっているのだろう。だから真面目な人を見ると申し訳ない気持ちになってしまうのだ。

 だからと言ってこの人の差し出す封筒を素直に受け取るかは別問題。断固とした態度で断るつもりであった。

 

「あの、私はお断りさせていただいたはずですが。何故今も勧誘されているのでしょうか?」

「せめて名刺だけでも受け取っていただけないかと」

 

 そう言って封筒の代わりに今度は名刺を取り出してきた。微妙に僕の質問からずれた回答だ。これこそあえてやっているんじゃないかと思う。今ので僕が断る対象が曖昧になってしまった。僕は勧誘について訊いたのに名刺を受け取れと言う。それにより『まあ、それくらいなら』ととりあえず受け取らせようという魂胆だろう。営業マンがよく使う手だ。さすが大手事務所のプロデューサー、何の策もない真っ向勝負で玉砕するほど馬鹿じゃないか。いくら実直そうな男でもこの手度の搦め手は使うか。

 多少の引っ掛かりを覚えつつ相手のやり方を冷静にそう分析した。

 

「何度も申し上げたように、私はシンデレラプロジェクトに参加するつもりはありません」

「……理由をお聞かせいただけませんか?」

 

 ここで答える義理はないと突っぱねることは簡単だ。でもそうすると今度は理由を聞くために付き纏われかねない。大の大人が子供みたいに「ねー、なんでー、なんでーねーねー?」と周りをうろちょろするのは嫌だった。

 どうせ話したところで問題にはならない。ここで完全に希望を断ち切るためにも説明しておいた方がいいだろう。

 

「私は──」

「君かね、少女に付き纏っているという不審者は」

 

 説明しようと男に顔を向けると、男は制服姿の警察官に腕を掴まれ職務質問を受けていた。

 なんでだよ!

 今僕が説明しようとしてたでしょ。それがたった数秒でお縄頂戴されかけているのさ。

 

「最近この辺りに不審者が出没するという通報があったんだよ」

「いえ、私はただ彼女に名刺と企画の書類を……」

「まあ、詳しくは署の方で聞かせて貰うので」

「ですから、私は」

「あの!」

 

 あれよあれよと言う間に警察官に連れて行かれそうになる男を見て思わず割って入ってしまった。

 その時彼の手にあった名刺を受け取ってしまう。これだけは受け取らないようにしようと思っていたのに……。

 

「この人は……その、知り合いです」

 

 だから、僕は真面目な人間が不遇な目に遭うのがダメなんだってば。同情心を誘うとかずるいだろ。

 

「知り合い、ですか?」

 

 警察官の視線が男と僕の間を行ったり来たりする。その目は「どんな知り合い?」という疑問が含まれていた。

 まあ、僕みたいな少女と強面の男が知り合い同士と言われても、まずどんな関係か察せる人間は居ないだろう。当の僕が男との関係を言い表せないのだから他人に察せという方が酷だ。

 

「……」

 

 とりあえず警察官の方もいきなり男に任意同行を求めるのは止めたらしい。しかし完全に納得したというわけでもないみたいだ。

 改めて僕と彼がどんな関係かと問われたらすぐに答えられそうにない。警察官に問われる前にここは戦略的撤退をするべきだ。

 何か手はないだろうか?

 まだこちらを疑っている警官の視線からどうやって逃げようかと視線を彷徨わせていると一件の喫茶店が目に入った。ここはあそこに逃げ込むしかない。僕は男の腕を掴むと喫茶店へと向かって歩き出した。

 

「あの、如月さん……手が」

 

 しかし男の方が何やら後ろでごちゃごちゃと言ってなかなか歩こうとしない。

 体格差から逆に引っ張られて後ろに倒れそうになった。

 

「あっ、大丈夫ですか?」

 

 倒れそうになった僕を男が慌てて抱き留める。僕の小柄な体躯がすっぽりと男の腕の中に納まってしまった。

 思っていた以上にたくましい胸板だと場違いな感想を持ってしまう。

 だがすぐに男の行動の所為で再び鋭くなる警官の視線に慌てた。

 仕方がない。僕は一時的に筋力を増強させると男の手から逃れ、引っ張られないように男の腕を抱え込んで無理やり男を歩かせた。僕の力の強さに驚いたのか男が一瞬体を硬直させていたが僕は気にせずに歩き続ける。

 

「き、如月さん、その……当たって」

「黙って付いてきてください!」

 

 もう男が寡黙なのか無駄口が多いのかわからん。

 僕はそのまま男を連れ喫茶店へと入った。

 

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

 

 喫茶店の中は僕一人では絶対に入らないであろうお洒落な造りをしていた。

 店員さんもアルバイトにしてはなかなかにあか抜けた感じである。近所にこんなところがあったのかと状況も忘れて少しの間店内を見回した。

 

「あの、如月さん……そろそろ離していただけると助かるのですが」

「あ、ごめんなさい」

 

 何故か非常に申し訳なさそうな声音で男が指摘して来たので慌てて腕を離す。さすがに警察官も店内まで追ってくることはないだろう。

 ようやく落ち着いたので僕はお暇したいところなのだけど、最後に男に皮肉の一つでも残してやろうかと我ながらいじわるな感情が芽生える。

 

「いえ、私の方こそ、ありがとうございます」

 

 律儀に感謝を述べて来る男に気勢がそがれる。

 別に助けたのは相手が貴方だからではなく、僕が誤解や勘違いで誰かが可哀想な目に遭うのが嫌いなだけだ。だからそんな風に感謝の念を込めた目で見ないで欲しい。

 そもそもこうして話を持ってくるのも、僕がいつまでも曖昧に断っている所為なのだから。男がしつこいという点を抜きにしても多少はこちらを責める姿勢を見せてもいいんじゃないかな。

 まあ、この人はそんなことを思いもしないのだろうけど。

 

「あの、お客様……」

 

 と、そこで店員さんを待たせていたことに気付く。

 男の方はともかく、僕は警察官をやり過ごす必要はない。この人を置いてお店から出ようと思い躊躇いがちに声を掛けて来た店員さんに連れではないと説明しようとする。

 

「二名で」

「ちょっ」

 

 だが僕が何かを言う前に男の方が答えてしまった。しかも二名って……。

 これは巻き込まれた感じ?

 若干胡散臭そうにこちらを見始めた店員さんの案内に従い、僕達は奥の方の席に腰かけた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 席に着くと開口一番先程の件の謝罪を受けることになった。

 今思えば律儀に同席する必要も無かったと今になって気付く。今更だけど。

 

「いえ、気にしないでください。私も無関係というわけではありませんでしたから」

 

 一応建前としては知人である男を助けるのは当然だろう。あのまま連れて行かれていたらどうなっていたかわからない。最悪大手プロダクションのプロデューサーが淫行疑惑で検挙なんてスクープが世をにぎわせかねないのだから。

 そうなったらアイドル業界の世間の風当たりが強くなる。こちらの世界でも芸能界というのは一般人からすると謎の多い世界だ。何が火付け役になるかわかったものではない。さすがの僕も大炎上している芸能界に飛び込みたいわけじゃないからね。

 だから別に貴方のためじゃないんだからね?

 

「先程もお尋ねいたしましたが、なぜお受けいただけないか理由をお聞かせいただけませんか」

 

 実はここまでの一連の流れが男の戦略なのではないかと思った僕は悪くない。先程までと違い喫茶店という逃げられない空間に誘い込むための巧妙な罠だったのではないか。

 さすがにあり得ないか。僕を追い込むためだけにそこまでの捨て身の攻撃をするわけがない。自分のプロデューサー人生を賭ける価値が僕にあるとは思えなかった。

 しかし男からは丁寧ながらも有無を言わせない迫力を感じる。少なくとも今この時は本気で僕に向き合ってくれているのは確かだ。

 一度スカウトした相手が断ったから躍起になっているという印象は受けない。相手もプロなのだからそんな理由でしつこく話を持って来たりはしないだろう。

 だったら何で僕に構い続けるのだろうか?

 

「あの、それにお答えする前に、改めて確認させていただきたいのですが」

「何でしょうか」

「どうして……私なんでしょうか。前にこのお話を頂いた時から時間が空いています。それが今になってまたお話を持って来ました。それをするだけの理由がそちらか私にあったということでしょうか?」

 

 初めてこの人にスカウトされた時は春香達のアリーナライブの日だった。その時に一応だが断っている。なのにしばらく男から勧誘を受け続けた。結構しつこかったのを覚えている。

 だがある日を境にぱったりと姿を見かけなくなった。さすがに諦めたかと思ったところで、また今になって現れたのだ。意味が解らない。男の行動の理由を知りたいと思うのは不思議ではないだろう。

 もしかしたら、もしかするのかも? そうやって期待する僕が居た。

 

「理由は幾つかあります。まず、シンデレラプロジェクトに欠員が出たため、その補充という意味です」

「欠員……」

 

 始まる前から欠員が出るとか大丈夫かその企画。大手プロダクションと言っても外れ企画というのはあるということだろうか。

 でもそのアイドルだって何か事情があったのかもしれないし。シンデレラプロジェクトの定員は十名以上らしいからその中の一人くらいならあり得るだろう。事故や家の事情ならば仕方がないことだ。

 ふと、空いた枠のおかげで僕にこうして話が貰えたことを喜ぶ自分が居た。浅ましい考えに顔も知らない相手に心の中で謝る。

 

「その補充として如月さん達にお声を──」

「ちょっと待って下さい」

 

 今聞き捨てならない言葉を聞いたぞ。

 

「はい? 何でしょうか」

「今、”達”と言われました?」

「はい」

 

 如月さん達──つまり、僕以外にも声を掛けていたということか。

 ちょっと上がりかけていたテンションが一気に萎んでいくのを感じる。

 なんだ、僕だけに声を掛けてくれたわけじゃないのか。

 

「あの、如月さん?」

 

 期待が大きかった分、気落ちする勢いも激しかった。何故だか男に裏切られた気分になる。完全に的外れな感情のはずなのに。

 僕以外に候補がいたことを残念に思っているわけではなかった。僕も補充……スペアの候補の一人でしかないことも納得しきれないけど呑み込むことはできる。

 でも僕以外にいるというならその人と比べられるということは拙い。それはどうしても許容しにくい。他の補充要員と何を比べ合うのかわからないけど、もしもそれが僕が危惧する物であった場合、僕は競い合うこともできずに敗北することになる。ならば予め確認しておかなければならない。

 わずかな希望を胸に問いを発した。

 

「……今回、私を補充要員として選んだ理由を聞かせていただけませんか?」

「ええ、もちろんです」

 

 唐突に話を振ったにも関わらず男は気分を害した様子もなく頷いてくれた。

 その態度が僕を安心させようとしてくれてるように見えて少しだけ心が落ち着く。期待が高まる。

 もし今度は違う選考理由だったならば、僕はこの人を信じてもいいと思った。

 

「笑顔です」

 

 その希望はたやすく手折られてしまったが。

 結局それだったか。

 僕は少しの失望を感じるとともに席を立ちあがった。

 

「……さようなら」

「っ、如月さん」

 

 何かを言いかける男を無視して僕は逃げる様に店を出た。まだ注文も何もしていないので別にいいだろう。

 

「何だよ。結局またそれかよ」

 

 また笑顔が理由か。

 笑顔。

 それは僕が失くしたものじゃないか。

 アイドルになるために練習した努力の結晶はあの日砕け散った。今この手には欠片しか残されていない。それは僕に残った千早の残滓だ。千早を目指していた時の僕が必死で磨いた自分だった。

 その笑顔を必要としていると言われて平常心を保てるわけがなかった。

 あの人は知らないのだ。僕が笑えないことを。だからあんな残酷なことを真っ正直に言えるのだ。

 店を出てからもしばらく走り続けていた足を止める。

 隣を見ればショーウィンドウに自分が映っていた。

 

「……」

 

 試しに笑ってみる。顔に力を入れると微かに目尻が下がり、心持ち口角が上がった気がした。

 だが出来上がったのはやはり不格好な、笑顔とも呼べない変な顔だった。

 笑顔が採用条件とあの男は言った。

 でも僕はその笑顔を彼に見せたことはない。あるとすれば優が出した一次選考の書類だけ。あれが世に出た唯一の僕の笑顔だ。プロジェクトのプロデューサーならば書類に目を通すくらいあるだろう。

 つまり、彼はたまたま目に止まった僕の中学時代の写真を見て笑顔を理由に話を持って来ただけなんだ。

 だから、彼が笑顔だと言った時に僕はシンデレラプロジェクトの誘いを断った。

 本当ならその時笑顔のことも言うべきだった。でも僕は正直に告げることができなかった。万が一にも彼の口からほかの事務所のプロデューサーに僕の話が行き、僕が笑顔が作れないと広まるのを恐れたからだ。誰彼構わず他人の事情を言いふらすタイプには見えなかったけど、業界の横の繋がりを侮ってはいけない。765プロの社長と961プロの社長に交流があるのだ。本来あり得ない繋がりというのはある。人同士の繋がりは常識では測れない。

 その結果ズルズルと時間ばかりを無駄にさせてしまった。欠員補充のためにも一日だって無駄にできないだろうに、こんな頻繁に僕のところに来る余裕があるはずがない。それでもこうして足を運んでくれている彼に申し訳なさと微かな喜びを感じている。

 

「……ん?」

 

 はて、僕は何を喜んでいるのだろうか?

 突然自覚した自分の心境に自分で首を傾げる。

 喜んでいる。何を僕は喜んだ。喜ぶ要素があっただろうか。しつこく付き纏われたことが嬉しいのか。何度もスカウトされたことで自分の才能を他人が認識していることが嬉しいのか。

 それとも期待されて嬉しいとでも言うのだろうか。

 ……馬鹿馬鹿しい。期待など受ける理由がない。仮に期待しているとしたら、その期待は相手の勘違いでしかないのに。裏切ることを前提とした期待を持たせるなんて不義理過ぎる。

 やっぱり理由をきちんと話して、絶対に僕はシンデレラプロジェクトに参加できないことを知ってもらおう。ずるずると無駄な時間を使わせるのは彼に悪い。大手事務所のプロデューサーをこんな小娘一人のために拘束するのはいけないことだ。何より彼が集めているという他のアイドルに悪い。

 欠員が補充されない限りプロジェクトは始動しないというならなおさらだ。参加する意思の無い僕が曖昧に断り続ければ、それだけ彼女達の活動開始時間が遅くなる。

 いつから止まっていたかは知らないけど、僕が最初に声を掛けられた時が二ヶ月前にと考えると最低でもそれだけの間待機させていることになる。そんな簡単なことすら気づかずにいた自分が嫌になった。

 名前も顔も知らないアイドル達に僕は心の中で盛大に頭を下げる。ごめんなさい、今すぐ君達のプロデューサーには理由をきちんと話して断るよ。

 気が変わらぬうちにすぐにでも男へと真実を告げようと踵を返す。

 だが、僕はそこから一歩目を踏み出すことができなかった。

 目の前に知った顔があったから。

 

「渋谷……凛」

 

 僕の前に凛が立っていた。

 オフの日なのか、私服らしい青のシャツと紺色のスラックス姿で足元には飼い犬だろうリードに繋がれた小型犬を連れている。

 奇遇というにはやけに凛の距離が近い。明らかに僕に用があるとしか思えない距離感だった。

 凛の顔からは春香相手に睨みを利かせていた時とは違い幾分険が取れているような気がする。ライブの時に遠目に見る機会があったけど、こうして普通の表情をしているとやはり綺麗な顔をしていると思った。

 

「貴女に呼び捨てにされる理由はないと思うけど?」

 

 しかし返される声は冷たい。見た目が穏やかな顔をした美少女である分、形の良い小さな口から放たれた言葉を一層冷たく響かせている。

 凛の僕に対する感情が冷めていることに嫌でも気付かされた。

 周りに人がいるから表面上そうやって取り繕っているだけなのだ。今も凛に気付いた通行人達が驚いた顔でこちらを振り返っている。

 

「失礼いたしました、渋谷さん」

 

 確かに言われてみれば僕は彼女と友達でもなんでもない。いきなり呼び捨ては失礼だった。

 あの時もまともに挨拶をしなかったし、もしかしたら僕の無礼な態度が彼女の冷たい態度の原因になっているのかと思った。

 

「っ……丁寧になる必要はないよ。別に後輩でもなければ……先輩でもないんだし」

 

 そう言ってくれるのは助かるけど。

 先輩でも後輩でもないと言った時、彼女が泣きそうになったのも、ギュッと拳を握った手が震えていたのを僕は見ないふりをした。

 

「春香が最近調子が悪いみたいなんだけど……」

 

 この話題は触れない方がいいみたいだ。凛自身も触れられたくないのか、別の話題を振って来る。もしかしたらこちらの方が本題だったのかな。

 それにしても春香が?

 何だろうか。ここ数日はメールと電話しかしてないから直接様子を見られたわけではないけど、文面や声から悩んでいる印象は受けなかった。

 春香は溜め込むタイプだから今度会った時にでも悩みが無いか聞いてみよう。

 

「そう」

 

 僕はあえて何でもないかのような反応を返した。

 765プロのメンバーで春香が思い悩み限界を迎えかけたことを把握していた人間は少ないそうだ。

 最初から知っていた者、後から知らされた者、事情を把握できていない者、年齢と性格を考慮して765プロ内で情報規制が施されているそうだ。

 誰がそれに該当するか僕は把握していないけど、凛が事情を知らないグループだった場合に余計な情報を伝えるのはよろしくないと思ったからだ。

 

「そうって……何その反応」

 

 でも凛にとっては僕の今の反応は望んだ物ではなかった。僕の考えや春香との付き合い方を知らない者からすれば今の僕は「自分には関係ない」と言っているように見えたことだろう。

 

「春香が悩んでいるのに、その態度はないんじゃない? 友達……なんでしょ?」

 

 ちょっと必死になり過ぎだ。一度クールダウンして欲しい。トップアイドルが往来で少女一人に声を荒げているというのはよろしくない状況だ。周りの目もある。

 自分が責められているというのに僕は凛の心配をしている。僕の言い方が悪かったとはいえ、理不尽に憤りをぶつけて来る凛に怒りを覚えない。

 たぶん僕は無意識に凛と自分を重ね合わせていたのだろう。それに気付いたのは結構後のことだけど、今この時は理由もわからずに凛の態度を許容しているのを自覚していただけだった。

 そんな風にどこか凛の態度を微笑ましく思ってしまったからだろうか、僕は凛に落ち着いて貰いたいがために無謀にも愛想笑いを浮かべようとした。

 

「何、その顔」

 

 当然愛想笑いなんて高等技術を今の僕ができるわけがない。結果として凛に変顔を晒すことになってしまった。

 やだ、こんな顔優にも見られたことないのに恥ずかしいわ。

 

「……笑顔、のつもり……ですけど、一応」

 

 自信がないため段々と声が小さくなっていく。自分でも今の顔はやばいってのは自覚していた。凛の瞳を鏡に自分の作り笑いが見えてしまったから。

 

「笑顔……? それが? 嘘でしょ?」

 

 当然凛から好意的な反応は返って来ない。むしろ馬鹿にされたとでも思ったのかこちらを睨んでくるありさまだ。

 そんな怖い顔をしないで欲しい。

 

「本当、ですけど……。私はこの笑顔しか作れません」

 

 必要性を感じないまでも、一応僕は嘘吐きだと思われたら回りまわって春香に迷惑がかかる可能性があるため、何とか凛に納得してもらえないかと言葉を探す。

 こういう時に口下手な自分が恨めしい。目の前の怒れる少女を納得させる言葉が浮かばない。結局事実をそのまま言うことしかできなかった。

 

「嘘だよ……嘘でしょ? 嘘だよね!?」

 

 何度も念を押すように凛が問いかけて来るが、本当に僕はこの笑顔しか作れないんだよ。そんな嘘嘘と言われても困る。

 そもそも凛の前で笑顔を見せたのはこれが初めてなんだから、何の証拠もなく嘘吐き扱いは止めて欲しい。必死すぎでしょ。さすがに抗議の一つくらい言ってもいいよね。

 実際に口にすることはできなかったけど。

 

「嘘だ!」

「ちょっ!?」

 

 突然凛が叫んだかと思うと両の肩を手で掴まれ、そのまま背後のショーウィンドウへと押し付けられる。その時凛が持っていたリードが手から落ちたが、凛の方はその事に気付いていない様子だ。

 僕の方もいきなりのことに反応が遅れてしまう。人間を超えた反応速度を持っていても、こうしてありえない行動をとられると精神が一般人の僕の場合対応が遅れるらしい。今知っても意味ないけど。

 と言うか何で凛はそんなに必死になっているの?

 今の彼女からは余裕が感じられない。先程まで取り繕っていた平静さが微塵も感じられない。こんな場所で、人通りのある場所で声を荒らげるなんて。

 周囲の人間が何事かとこちらを見ている。

 

「あの、落ち着いて……」

 

 僕は周囲を目で見回すことで周囲の目があることを凛に伝えようとする。頼むから気付いてくれと願いながら。

 でも今の凛にそんな余裕はなかった。

 

「私のことが気にくわないから笑わないだけだよね? そうでしょ?」

 

 周りの目など気にすることもせず、僕へと顔を寄せる凛。彼女の綺麗な顔が目の前まで迫り一瞬ドキリとする。思わず顔を逸らすと僕の目に凛が連れていた子犬が映った。突然の主人の豹変に戸惑ってるのか、リードが離されたというのに彼女の足元から離れようとしない。

 今は動かなくてもいずれ子犬が逃げ出すかも。場違いにも犬の心配をした僕は注意をするために凛へと向き直る。そして息を呑んだ。

 凛の両目の瞳孔が完全に開いていた。

 息が荒く、興奮しているはずなのに僕の肩を掴む両手は血の気が失せ逆に冷え切っていた。明らかに異常な状態と言える。

 何かに動揺している?

 何に? 僕が笑えないことに?

 それだけでこんな激しい反応を見せるなんて。疑問を込めて凛の瞳の中央、開ききった瑠璃色のそれを見返しても、こんな時でも無表情な僕の顔が映っているだけで思考までは読み取れない。

 

「この前春香に強く当たったのは謝るから……春香ともあの後和解したし、だから……ね?」

 

 明らかに様子のおかしい凛が的外れなことを言って来るも、僕は何も言い返せない。何故こんなことになっているのか理解できないから適切な対応がとれない。

 凛は何をそんなに動揺しているんだ。そして僕にどんな答えを期待している。

 笑えばいいのか?

 凛が望む笑顔を作れたら彼女は満足するとでもいうのだろうか。

 だったらすでに詰んでいる状態だった。僕に凛が望む笑顔は作れない。

 

「ごめんなさい……笑えません」

「っ!」

 

 だから僕は正直に言い続けるしかない。僕は笑えないと。

 それで納得してくれるわけがないと知っていても愛想笑いの一つもできない僕は真実を告げることしかできないのだ。

 

「なんで……貴女はそんな風に……」

 

 凛の口から漏れ出た言葉の意味はわからない。

 

「私の知っている如月千早はそんな笑顔じゃなかった!」

 

 凛は足元の子犬を乱暴に掴みあげると、初めて会った時と同じ様に僕に背中を向け走り去ってしまった。

 呼び止めることはできない。彼女に掛ける言葉が無かった。

 言いたいことだけを言って、逃げる様に去って行った凛。そのこと自体にはどうでも良かった。いや、どうでもいいと言うのは言い過ぎか。優先順位が低かったと言った方が正確だ。

 僕はただ、彼女が去り際に放った言葉が気になったていた。

 如月千早の笑顔って何だ?

 そんなもの凛に見せたことはないのに……。

 答えを知る本人の姿はすでに雑踏の中に消えていた。

 

 

 ────────────

 

 

 凛との一件は僕の中で後に引いた。

 とてもじゃないが男の元へ戻って説明する気力なんて湧くわけもなく、僕はそのまま家に帰ることにした。昨日と違い帰路を進む歩調は速い。余計な道草を食うこともせず真っすぐに家に帰る。

 僕は凛の期待を裏切ってしまったのだろうか。家に着くまでの短い間に何度も繰り返し考える。

 あの時の僕に正直に答える以外の選択肢はなかった。適当に誤魔化す術も無い。あるとすれば凛が嫌いだから笑顔を見せなかったという彼女の誤解を肯定することだけだった。そんな嘘で誤魔化せたとは到底思えないけど。

 家に帰ったところでそう言えば喫茶店にお弁当を置き忘れていたことを思い出した。

 わざわざもう一度買いに行くのも面倒だ。一食くらい抜いてもいいか。そう思うと同時にお腹の虫が鳴いた。

 ここ最近はまともな食生活を続けていたためお昼になると普通にお腹が空く。

 前みたいに一週間絶食なんて無茶は出来なくなっている。今でもやろうと思えばできなくもないのだけど、絶対に優から止められるのでやらない。そもそも絶食生活はゲームの課金代のために食費を削っていたからであり、ゲームをしなくなった僕にはそこまでする必要はない。

 そう言えば最近ゲームをしていない。昔は一日中パソコンの前に居たというのに、今ではプロダクション探しのために使っている程度だ。最新型のグラボを二枚刺ししておいて、やってることがネットサーフィンという無駄遣いっぷりである。

 久しぶりにゲームでもやろうかな?

 何となくご無沙汰だったネトゲをやってみようという気になった。

 パソコンの前に座って電源を入れる。SSD搭載のため起動は早い。二十秒ほどでデスクトップ画面が現れた。

 見慣れた優の顔の壁紙と目が合う。写真の中の優も格好いいよね。

 優の顔の左目の下あたりの配置されたゲームのショートカットアイコンをダブルクリックすると専用のランチャーが立ち上がり、すぐに別の小さな窓が表示された。

 

「そっか、アップデートかぁ……」

 

 長らく起動していなかったためにゲームのアップデートが掛かっていたらしい。公式サイトすら見ていなかった僕は知らなかったが、小窓にトピックとして大型アップデートがあったと記載されていた。

 残り時間を見ると軽く二時間は掛かりそうだった。完全に当てが外れた僕はゲームを放置しながら検索エンジンを別窓で開きネットサーフィンで時間を潰すことにした。

 何か面白い動画か記事はないだろうか、期待しながら動画サイトを物色する。

 そう言えばこういう動画を投稿できるところでは素人が自分の歌を投稿したりするんだよね。歌や演奏を録音して投稿し、それを視聴した人達がコメント付けたり評価したりするらしい。ある意味あの広場に集まっていた人達に近いわけだ。

 試しに僕もやってみようかな。顔出しでやる勇気はないから、歌だけ録音してそれを投稿してみるとかどうだろう。

 ネットならお世辞を言ったりすることもないだろうし、忌憚のない意見が貰えるはずだ。多少の酷評は今の僕ならば問題なく受け止められると思う。

 そうと決まれば録音機器を調達しよう。

 優にメールで家に録音に使える何かが無いか確認する。

 お父さんあたりが持ってたら借りたいところだ。

 優の返事を待つ間に近場で録音が可能な場所を探す。スタジオなんかを借りるお金も意味も無いから普通にカラオケ店でいいかな。一人で入っても恥ずかしく無い場所がいいなぁ。あと周りの音とかが入らないとこがいいけど、それは高望みしすぎか。とりあえず試しに録音して投稿できればいいだけだし。

 

「おっ、あったあった!」

 

 ちょうどいい事に駅前の近くに良さげなカラオケ店があった。値段も手頃だし、広さもなかなかだった。楽器の持ち込みがありなのも良い。

 録音場所はここで決定だな。

 と、そこでケータイにメールが届いた。送信元は優からで、今学校だから帰ったら確認してみると書いてある。そう言えば今日は平日だったなと曜日感覚の無くなっている自分に呆れる。前はネトゲの定期メンテで曜日を把握していたのに、今はゲームから離れているため完全に曜日感覚が狂っていた。

 そうなると優が泊まりに来たのは土日になるわけだ。今度から土日は泊まりに来てもらうとかどうだろう。後で提案しておこう。

 ゲームのアップデート状況を確認するとまだ二割も終わっていなかった。結構大きな仕様変更が入ったのかな。気になるけど公式サイトで確認するほどではない。ログインすれば必要な情報だけ表示されるしね。楽しみは後にとっておこう。

 アップデートまで時間が掛かるだろうし、その間にカラオケ店の下見でもして来るかな。お昼も割高だけどカラオケのメニューを適当に摘まむとしよう。

 こういうフットワークの軽さは昔から変わっていない気がする。引きニート時代前の僕は結構アグレッシブだったのだ。「よし、近所の暴走族潰そう」と思ったその日に族の集会に殴り込みを掛けるくらいにはアクティブでバイオレンスだった。碌な奴じゃないな、中学時代の僕って。それでも引きこもりに比べたら百倍ましだよね……?

 やんちゃしていた時代と比べて幾分丸くなった僕はカラオケに行くくらいが関の山だ。平穏って失ってみて初めてその大切さがわかるよね。

 被害者側の話だよ。

 アップデートを続けるためにパソコンは点けたままにサイフを手に取るとアパートから出た。

 

 

 

 ──────────

 

 

 どうしてこうなった。

 

「私、島村卯月っていいます!」

 

 眩しいくらいの笑顔を携えて現れた少女──島村卯月を前に僕は自分のタイミングの悪さを呪っていた。

 昼間の陰鬱な気持ちを払うためにカラオケ店で心行くまで歌った僕は意気揚々と帰路に就いた。帰った頃には放置していたゲームのアップデートも終わっているだろうし。今日は久しぶりに徹夜でゲームかな? なんて足取り軽く歩いていたのだけど、駅前から商店街に差し掛かった交差点で男と島村卯月に遭遇してしまった。

 彼女の背後には当たり前のようにあの男が立っている。一日二度の遭遇なんて今までになかったから完全に油断していた。

 まさか再アタックしてくるとは。しかも今度は第三者を使っての搦め手まで用意して来るなんて。あまり他人の助けを借りないタイプと思っていたので、こんな年端も行かない少女を連れて来たことに驚いた。

 

「こんな所で奇遇ですね」

 

 島村に対応するのを後回しにして僕は男へと声を掛ける。本当に奇遇なのか分からないけど、昨日の件があるので予防線を張る意味でも言い方が刺々しくなってしまった。

 結果として無視された形になった島村がしょんぼりとしているのが視界の片隅に映る。悪いことをしたと思ってもこの男と一緒に居たという時点で向こう側の人間だ。早々簡単に仲良くできるわけがなかった。

 自分が面倒臭い奴だというのは自覚している。こんな女と好き好んで付き合ってくれる人なんて普通はいない。優と春香が良い人だから僕はぼっちにならなくて済んでいるに過ぎないのだ。

 二人が良い人だから成り立っている関係に胡坐をかき続けていた僕に一般的なコミュニケーションは難しい。特に島村のような初対面から好感を示してくる相手への適当な返しが思い浮かばない。まだ凛の様な攻撃的な性格の方が受け止め易いとさえ言える。

 

「彼女は島村卯月さんです」

「はぁ」

 

 僕の皮肉に答えることはせず、男は僕に島村を紹介した。

 本人が名乗ったというのに、改めて紹介する意味がわからなかったので曖昧に頷く。しかし続く男の言葉を聞いて意図を察した。

 

「この度、島村さんにはシンデレラプロジェクトで出た欠員者の代わりにプロジェクトに参加して頂く予定です」

 

 そういうことかと男の話を聞いて理解する。

 なんだ、引導を渡そうとしていたのは僕だけじゃなかったのか……。

 

「島村さんは以前シンデレラオーディションをお受けになっていた方で、今回の再選考時に真っ先に名前が挙がりました」

 

 島村は僕とは違ってきちんとオーディションを受けた側の人間らしい。やはりスカウトよりもきちんとオーディションを受けた人の方が信用できるってことかな。確かにこうして見ると島村の容姿はそこいらの女の子よりも格段に良いことがわかる。養成所に通っていたということは歌と踊りも素人ってことはないだろうし。そうなれば僕みたいなぽっと出の奴と違い即戦力として採用されるのは当然と思えた。

 それ以上に僕は断っているのだから比較対象にすらならないんだけどね。

 

「そう言えば、昨日養成所に用があったと言われてましたが……もしかして」

「はい、彼女はそこの養成所に通っています」

 

 それって昨日の時点ですでに決まっていたってことじゃないか?

 いや、僕が昨日と今日に断ったことで島村に確定したという可能性もあるか。はたまた昨日聴かせた歌が最終判断の材料になったということもあり得なくはない。

 どちらにせよシンデレラプロジェクトの補充要員は島村で決定なのだ。今更僕の方から断る必要はない。笑顔のことを言わずに済んだと気が楽になる反面、やはり見限られたという事実は心に来るものがあった。自分で拒絶しておいて、いざ捨てられたら傷付くなんて僕は本当に自分勝手だ。

 

「……」

「……」

 

 しばらく無言が続く。お互いあまり口数が多いタイプではないので一度黙り込むと無言の時間が続いてしまうのだ。そうやって時間切れを起こし僕が立ち去るというのが最初の頃のお約束だった。

 

「あ、あの! ここで立ち話も何ですから、移動しませんか?」

 

 今回は島村という第三者が居たことで時間切れは免れた。

 だからどうしたって感じだけど。

 

 

 

 この時間はどのお店も混んでいるということで、近くの公園に移動することになった。ここは昨日男に歌を聴かせた公園である。昨日と違ってまだ日が出ているので少し暖かい。僕と男はともかく、制服姿の島村には夕方の寒さは辛かろう。何を話すことになるかはわからないけど、それまでには話を終わらせたいところだった。

 公園に着くと男はとりあえず僕と島村の二人っきりで話して欲しいと言った後に遠くのベンチの方へと去って行ってしまった。今更男と話すことなどないので構わない。でも初対面の島村と二人っきりというのも気まずい。

 

「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

 

 二人っきりになると、卯月は名前を尋ねて来た。てっきり聞いているものだと思ったので少し戸惑ってしまう。

 

「えっと、駄目……でしょうか?」

 

 僕の戸惑いが渋っているように見えたのか、卯月が明らかに気落ちした顔をする。

 名前も教えない奴に見えたのかな。あ、しょっぱなに無視したね僕。なら仕方ないね。

 

「如月千早です」

「如月さんですかー!」

 

 名前を教えると島村はすぐに満面の笑みを浮かべた。立ち直りが早いのか計算なのか、表情がころころとよく変わる子だ。

 あと何となくだけど島村からリア充の空気を感じる。

 リア充だからなんだって話だけど、リア充が持つ独特の馴れ馴れしさはちょっと苦手だった。

 これが春香とかだったらまた違うのだろうけど。

 春香のそれが世の中の侘び寂びを知った後に掴んだ距離感だとすると、この島村という少女の距離感は子供が持つ好奇心の暴走によって偶発的に生まれた距離感だ。言うなれば春香がアウトレンジから様子を伺いつつ、ここぞで決めるフィニッシュブローで、島村がノーガードで殴り合いに来る感じに近い。

 これまで殴り返して来る相手が居なかったから何とかなっていただけで、一度でも相手がその気だったらこの少女の心は酷く傷つけられていただろう。

 彼女が何歳かは知らないけど、十代も半ばまで生きて来てこの性格を維持できるのは奇跡だ。いや、悪夢なのだろうか。

 この性格の子が果たしてアイドルの世界で輝きを保てるのか……。

 って、僕には関係のない話だった。どうせ僕はシンデレラプロジェクトに参加しない。その僕が彼女の未来を案じても無駄なことだ。

 

「あの! 如月さん!」

「はい?」

「あの……如月さんはアイドルになりたいとか……そういうの思ったことないですか?」

 

 アイドルになりたいと思ってるよ。何時だってね。

 でも今の僕にはそれが難しい。そんな簡単に笑える貴女にはわからないだろうけど。

 

「思っていたとしたら、どうなのかしら?」

「でしたら、一緒にアイドルやりませんか!」

「無理」

「ええー!?」

 

 いちいちリアクションが大きい。何かなこの子、実はアイドルじゃなくて芸人志望か何か?

 あと一緒にアイドルやらないかというのは皮肉か何かかな。僕の代わりに補充枠に収まった島村に言われると他所のアイドル志望の子に言われるよりキツいんだけど。

 今の会話だけでわかってしまう。僕と島村は致命的に噛み合わないって。

 相手に初手から深く踏み込めるのは島村の強みであると同時に弱点だ。こちらの都合なんてお構いなしに突撃するスタンスは奥手な人間には有効かもしれない。でも僕みたいな絶対に触れてほしくない物がある人間にはある種無遠慮とも言える島村の態度はよろしくないものに見える。無意識にこちらの急所を抉って来る感じは許容できない人間も少なくないだろう。

 僕と島村が表面上会話が成り立っているのは僕が抉られ慣れているからだ。それすら何とか取り繕えているだけに過ぎない。だから絶対にいつの日か島村のコレは火種になると思った。

 こうして偉そうに語ってる僕も無意識に他人を傷付けているのだろう。でもそれを僕は自覚している。自分が会う人間全員に好かれるなんて思っちゃいない。誰かしらの恨みを買ってるという覚悟はしている。それこそまったく自覚もないまま凛に嫌われている例があるのだから。

 でも島村はどうなのだろう。自分の存在が誰かを傷つけるという可能性を考えたことはあるのだろうか。

 まあ、それは島村本人の問題であって僕には関係がないことだ。いつか気付くかもしれないし、気づかずに生涯を終えるかもしれない。全ては島村次第だとその時の僕は他人事として考えていた。……後になってこの時島村に何かしら言っておくべきだったと後悔するのだけど、今の僕にはそこまで彼女を気遣う精神的余裕はなかった。

 

「せっかくアイドルになれるのに……」

 

 僕の考えていることなんてわからない島村は純粋に残念そうにしていた。

 

「貴女はどうしてアイドルになりたいと思ったの?」

 

 ふと気になった僕は島村へと質問を投げかけた。

 特に島村自身のことを知りたいと思ったわけではない。何となく他の人がアイドルになる理由が気になっただけだ。言ってしまえば誰でも良かった。

 

「アイドルって言ったら、ほら、アレですよ! キラキラした衣装を着て大勢のファンの前で歌って踊るんです!」

「知ってます」

「憧れませんか?」

「ええ、まあ……それなりに」

 

 そう言えばそっち方面でアイドルに憧れたことって無かったと島村に言われて気付く。僕はただ楽しく歌えればそれで良いかなと漠然と思っていたから、衣装とか大勢のファンとかの副次的な物は意識していなかった。

 今回島村に言われてその辺を考えるのも良いかもしれないと思った。やりたいことを考えるというのもモチベーションの維持に繋がるからね。

 

「それが貴女がアイドルを目指した理由?」

「えっと、それだけじゃないんですけど……でも、夢なんです」

 

 夢?

 島村の夢とは何だろう。今まで何となく上辺だけのやり取りを心掛けていた僕だったけど、彼女が言った夢という単語に思わず興味を引かれた。

 この少女にも夢というものはあるか。当然と言えば当然だけど、多くの人が各々夢を持っているということを僕は失念していた。それはまるで自分だけが夢を持ち、その夢の実現に苦労しているような悲劇のヒーローを気取っていたような、傲慢さがまだ僕の中にある証拠だろう。

 

「夢っていうのは……アイドルになること? それが貴女の夢?」

「はい!」

 

 アイドルになることが夢だと言う島村。その迷いない態度が僕には眩しく映った。僕の『春香達と楽しく歌う』という夢は叶わなかったから、今この時に夢を持っている島村はなおさら輝いて見えた。

 僕も新しい夢を持ちたいと思っている。アイドルになった後の夢を持ちたいと。……アイドルになることすらできていない僕が、その後を考えるというのもおかしな話だった。

 

「……ずっと私はキラキラした何かになりたいと思ってました。スクールに入って、同じ研究生の子達とレッスンを受けて。私以外の子達が皆辞めちゃって……私だけが残ったスクールで、一人レッスンを続けながら、それでも私は待っていました」

「……」

「そしたらプロデューサーさんが私に声を掛けてくれたんです」

 

 あの人が声を掛けた。

 そのフレーズを聞いた僕は、一人っきりで踊り続ける島村に声を掛ける彼の姿を夢想した。

 一体どんな態度で接したのだろうか。僕の時と同じ様に単刀直入にプロジェクトに誘ったのだろうか。それとも世間話から入って小粋なジョークの一つでも飛ばしたのか。それはないか。

 どっちでも良かった。ただ素直に島村の夢が叶う取っ掛かりができたことを喜ばしいと思う僕が居た。

 

「プロデューサーさんは私を見つけてくれたから。きっと私はこれから夢を叶えられるんだなって……それが嬉しくて!」

 

 キラキラと輝く彼女の笑顔にはたくさんの幸せな未来が見えた。それは卯月が持つ幸せが前面に出ているためだ。きっと彼女の笑顔を見た人は彼女を通して自分の幸せを見ることになるのだろう。だからこそ彼女の笑顔は不思議な説得力を持っているのだった。

 そしてその笑顔は昔僕が求めていたものだった。

 自分と相手を同時に幸せにする魔法の笑顔。ずっと練習して来たのに終ぞ習得ができなかった笑顔。”如月千早”が内包する可能性には存在しない笑顔。

 それを当たり前のように振りまく卯月の姿に僕は敗北感を覚えたのだった。

 

「私は貴女が羨ましいわ」

 

 自然と口を突いて出た言葉に自分で驚いた。

 でも同時に納得している自分が居た。

 そうか……僕は彼女が羨ましいのか。素直に笑える彼女が、アイドルになることが夢と言える彼女が、あの人に選んでもらえた彼女が羨ましかった。

 

「羨ましい、ですか?」

 

 コテンと首を傾げる島村。今のは僕がやっても似合わないだろう。そういうところも羨ましいと思う。

 

「アイドルになることが夢だと言える貴女が羨ましい。今もアイドルを目指しながら、その先にある何かを求めて必死にもがいている自分が情けなくなるくらいにね」

 

 僕はアイドルになって何をしたいのだろう。漠然と昔に思い描いていた夢は二度と手の届かない場所へと消えてしまった。

 765プロで叶えたかった夢は水泡に帰し、今更掴もうとしても指の隙間を擦り抜けて遥か彼方へと去っている。

 僕の中のキラキラとした何かは未だ新しい形を成してはいなかった。漠然とした”何か”は思い浮かんでも、それを具体的な形にできない。

 そんな状態でアイドルを目指したところで虚しいだけだった。

 僕にも欲しい、何か一つだけでもアイドルになった後に待っている光を信じたい。島村の夢を聞いてしまったことで、忘れていた気持ちが蘇ってしまった。

 僕がアイドルになる意味って何だろう?

 

「もしも──」

 

 声に振り替えると、男がいつの間にか僕達の近くまで来ていた。

 

「貴女がアイドルになった後の夢を持ちたいと思うなら……どうか、私にそのお手伝いをさせて下さい」

 

 素直に嬉しいと思った。

 僕が求める光をこの人なら一緒に探してくれるかもしれない。思っちゃいけないのに、彼の優しい声が僕の心を動かしてしまいそうになるのが怖い。

 手伝ってくれるという甘い言葉に乗るわけにはいかない。

 優しいこの人をこれ以上僕に関わらせてはいけないんだ。

 だって、僕は彼が望むアイドルになれないから。

 

「……笑えないんです」

 

 ようやく言うことができた。

 初めて彼のスカウトを断った時から二ヵ月経って、今ようやく告げることができた。

 肩から重しが取れたような感じがする。ずっと感じていた期待を裏切ることへの恐怖や苦しさから解放されたからだろう。

 

「笑えないとは、どういう意味でしょうか?」

「ある時期から私は笑顔が作れなくなったんです。どんなに練習しても、何をしても、笑えないんです……」

 

 男の問いに優とのことは言及せずに端的に答えた。

 目を見開く男と背後で息を呑む島村の気配が胸を締め付ける。余計な罪悪感だとわかっていても、わざわざ今日こうして時間を割いた二人にこの事実を告げるのは辛かった。

 特に男にとっては到底許容できる話ではないだろう。だって二ヵ月も僕のために時間を使ってくれたのだから。それが全て無駄だったと知ったならさすがに「そうですか」で済ませられるわけがない。

 

「私は貴方が求めるアイドルを持っていません。笑顔が作れませんから」

 

 そう、だって僕は──、

 

「欠陥品だから」

 

 ずっと見ないふりをしていた。たとえ笑えなくてもアイドルはできると。

 歌さえあれば、僕はアイドルとしてやっていけると思っていた。でも笑えないなんて致命的な欠陥を抱えた人間がアイドルをやろうだなんて土台無理な話だったのだ。

 何度誤魔化しただろうか。何度言い訳を繰り返しただろうか。

 笑えなくても大丈夫なんて、取り繕って自分を騙して、無駄な努力を続けていた。

 あの広場に通っていたのだって気分転換なんかじゃなかった。切り替えなんて出来ていなかった。僕はずっと待っていたのだ。目の前のこの人が僕の歌を聴いて笑顔以外を求めてくれるんじゃないかと期待していたのだ。

 期待したから笑えないことを黙っていた。

 でも、この人が僕を選んだ理由を笑顔だと言う度に心が悲鳴を上げた。笑顔なんて作れないのに、笑顔を求めてくるこの人を一時期は遠ざけようとした。でも、結局この人しか僕を求めてくれそうな人がいなかった。

 どんなオーディションに応募しても返って来るのは不採用だけ。町中を歩いていてもスカウトの一つも受けられない。

 この人だけだった。僕にアイドルをやらないかと言ってくれたのは。

 

「ごめんなさい。ずっと言おうと思ってました。でも、言ったら本当に終わってしまうと思ったら言えなくて……」

「如月さん……」

「貴方の時間を無駄にしているとわかっていながら、私は黙ったままでいました。貴方に失望されたくなかったから」

 

 笑えないと知られて見限られるのが嫌だった。

 他のプロダクションの一次審査に落ちても気にならなかったのに、この人に期待外れと思われるのは嫌だった。

 たぶん、それはつまらない相対評価の結果でしかないのだろう。

 僕が再びアイドルを目指してからこれまでの間、僕に声を掛けてくれたのはこの人だけだったから。

 これが未練だというなら正しくその通りだろうし、刷り込みと言われたら確かにと納得できる。

 だから僕は試していたのだ。本当にこの人だけなのか。この人だけが僕にアイドルとしての可能性を感じてくれたのか。だから僕は履歴書を書き続けたし、駅前の広場に通い続けた。ただ試したいがために。

 そうやって試し続けた結果が五十七回の落選だったわけだけど、その数がより一層彼に期待する結果に繋がってしまった。

 この人しかいない。僕に期待してくれるのは。

 この人しかいないのに、この人が求めるアイドルに僕はなれない。それが苦しくて申し訳なくてーー悲しかった。

 顔も知らない相手に何度落とされようと構わない。ただ一人僕に声を掛けてくれたこの人の期待を裏切り続けたことが悲しかった。

 でも、それも今日で終わりだ。

 彼が僕に付きまとう理由はなくなった。笑顔がない僕に拘る理由はないのだ。

 それにこの人は見つけてしまった。本物の笑顔を持った少女を見つけたのだから、僕は要らないだろう。

 この先僕に声を掛けてくれる人なんて現れはしないだろう。

 

「長い間、お時間を頂いてしまい申し訳ありませんでした」

 

 男に向け深々と頭を下げる。

 

「何を言ってーー」

 

 男の困惑混じりの声が聞こえるが僕はそれを意識的に聞こえないようにする。また何か話を聞いてしまったら躊躇ってしまうから。

 いつまでも引きずっては駄目だ。未練なんて持ってちゃいけない。

 

「また、何かの機会があれば……その時は」

 

 定型文の様なお決まりの台詞が寒々しく聞こた僕は最後まで言いかけた言葉を死ぬ気で飲み込んだ。これはもう必要ない。次の機会なんてない。

 

「さようなら」

 

 代わりに出たのは別れの言葉だった。

 また、なんて言わない。シンプルな言葉だ。

 

「如月さん!」

 

 何かを言われる前に走り出す。

 これ以上は要らない。期待したくない。

 僕は脚力を強化するとその場から一目散に立ち去った。

 背後で僕の名を呼ぶ男の声が完全に聞こえなくなるまで走り続けた。

 

 この人だけ、だったのになぁ……。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 今僕の目の前には二枚の履歴書が置いてあった。

 片方は近々行われるアイドルをメインに据えたオーディション番組の参加用の履歴書。そこそこ売れているお笑い芸人がMCを務め、素人からアイドルの卵を見つけ出そうとか、そういう企画だったと思う。

 ローカルテレビ局が企画する深夜帯の番組だが、審査員にはそこそこの事務所のプロデューサーが参加するらしい。まあ、一般的なアイドル事務所だけでなく所謂グラビアメインの事務所も参加するためかなりカオスな番組となるだろう。

 もはやこういうイロモノ企画に便乗するしか僕のアイドルの道は残されていないという現実に自嘲の笑みすら浮かばないよ。元から笑えないけど。

 もう片方はアイドルとは関係のない会場設営等の力仕事系のアルバイト応募用だ。

 ……別に、アイドルを諦めたわけではない。ただいつまでもこのままではいけないと思っただけだ。

 今の僕は世間一般では中卒のニートという大変不名誉な肩書きになっている。アイドルを目指していると言えば格好が付くかと言えばそんなわけもなく。どちらかと言えば現実を見ていない痛い奴に思われるだろう。

 現実……。やはり、どこかでこの世界をフィクションか何かと思っていた節があるのかもね。物事が勝手に良い方に流れると勘違いしていた。無駄な努力と意地を張り続けたために、もしかしたらそこらに落ちていたチャンスを幾つも取りこぼしていた可能性だってある。

 無駄な時間を過ごした。最初から高望みなんてせず手近な企画に参加していればよかった。そうしていれば、どんな形であっても今頃はアイドルをやれていたのだろうか。

 そんな下らないもしもを考える。

 アイドルになりたい。その気持ちは今も変わらず僕の心の中で生き続けている。

 でも今の僕にアイドルになる力はあるのだろうかとすぐに弱気になってしまう。

 歌には自信がある。歌だけならば現役アイドルの中でもトップレベルだと自負している。

 踊りも上手い方だと思う。一目見ればどんな踊りだって再現可能なのは強みだろう。盛り上がるかはともかくとして。

 容姿は……正直わからない。その辺りの正確な判定を貰ったことがないから。

 そして笑顔。これはまったく自信がなかった。

 もしも笑えていたら……。

 

「それこそ下らない話だ」

 

 笑えていたら。

 そうだね、簡単に笑顔が作れたならば今こんな惨めな思いをしなくても済んだよね。

 で? だから?

 そのもしもを考えることに意味ってあるの?

 

「意味はないよね」

 

 そう、意味なんてない。これが現実だ。

 笑えない僕が今の僕で、アイドルのオーディションに落ち続けたのも僕で、あの人から逃げたのも僕だった。

 最後なんて言うつもりだったのかな?

 とても良い言葉を貰えるとは思えなかった。無駄な時間だった。期待外れだった。そんな残酷な言葉を浴びせられたら僕は果たしてどうなってしまうだろう。

 想像しただけで寒気がする。失望されることがこれだけ恐ろしいものだったなんて知らなかった。期待も失望もなかった前世のツケが今になって回ってきた。

 誰かに期待されるってこんなに重いものだったんだ。だから失望された時にこんなにも胸が痛むのだ。

 こんなことなら知らなければよかった。期待されなければ失望されないから。

 この胸にぽっかりと空いた喪失感を埋める方法を僕は知らない。

 誰か教えて欲しい。僕はどうすれば良かったのかを。

 衝動的にケータイを手に取った。

 慣れた手つきで目当ての相手に電話を掛ける。求めた相手はすぐに出てくれた。

 

「優……今いいかな?」

『うん、大丈夫だよ』

 

 僕が頼った相手はやはり優だった。

 春香の方は何やら忙しそうなので今回は選択肢から外しておいた。こんな時に頼る相手の選択肢が限られているのは迷わなくて済む。

 

「あのね、この間のことなんだけど……」

『この間と言うと、僕が泊まった日に言いかけていたやつ?』

「うん」

 

 たったこれだけで伝わったことに驚く。そして覚えていてくれたことが嬉しい。優が僕との会話を大切にしてくれていたことに心から喜びが湧き立った。やっぱり優は天使なんだ。

 

「あのね、私ね……最近たくさんのオーディションを受けてたんだ。それで全部に落ちてるの」

『たくさんってどれくらい?』

「五十七」

『……』

 

 電話越しに優が絶句しているのがわかった。今更この反応に戸惑うことはない。あり得ない数字に絶句されるくらい予想の範疇だ。

 

『それは……この短い期間によく受けられたね。面接だけでも相当時間取られるでしょ?』

「ううん。全部一次選考の書類審査で落ちてるから面接は一つも受けてないよ。さすがに面接も受けてたら身体が足りな」

『ちょっと待って』

 

 珍しく僕の話に割り込んで来た。

 優はなんだかんだ僕の話を聞いてくれるから、途中で区切って来たのは意外だった。

 

『え、一次? 書類審査で落ちてるの? お姉ちゃんが?』

「そうだけど?」

 

 あんまり念押しされると情けなくて涙出ちゃうからやめて。うそー、全部一次落ちとかありえないわーとか優に言われたら僕は窓から飛び降りる。

 

『ありえないでしょ』

 

 よし飛び降りよう。

 

『お姉ちゃんが落ちるなんて』

 

 え、そっち?

 てっきり優に馬鹿にされたと思っちゃったよ。窓枠に掛けていた手を離す。

 

「でも落ちてるものは落ちてるもの」

『審査した人がよほど無能なのかな? それとも男性アイドル向けのオーディションに間違えて送ってたとか?』

 

 さすがの僕でも男性向けのオーディションに応募する程アホではない。優の中の僕はやるタイプに見えるのかな?

 

『僕はてっきり、いつものお姉ちゃんのキャラで面接を受けたから落ちたのかと思ってたよ』

「どういう意味それ」

『あれ、電波が仕事してくれてない?』

 

 何か聞いてはいけない優の本音を聞いてしまった気がする。小悪魔優が降臨してるのかな? 可愛いから何でもいいけどね。

 

『お姉ちゃんが一次で落ちるってどんなレベルのオーディションなんだろう。全国美少女コンテスト優勝者ばかり参加してるとか? それでも落ちるとは思えないけどね』

「それはどんな修羅のコンテストなのかな。私の容姿でそんな激戦に参加するわけないでしょ。私は分を弁えてるからね。仮にそんなオーディションに参加した場合……良くて中の下くらいだよ」

『いや、無いから』

「否定早すぎませんかね!?」

 

 僕は自分の力量もわからないような自信過剰野郎じゃないよ。優は僕を無謀な戦場に赴く猪武者だと思ってるの?

 

「昔ならともかく、今の私は自分の評価をちゃんと理解してるって。見た目だけじゃなく、歌も踊りも他人からどう映るのか自覚できてきたし」

 

 書類審査で自分の容姿の評価が悪いことは自覚できている。原作千早のようにもっとシュッとしてパッとした美人さんならよかったのに。

 歌と踊りの評価は例の広場のお通夜みたいな空気からだいたい察している。僕のパフォーマンスは盛り上がらない。これはクール系の歌ばかりを歌っているからだろう。

 もっとアイドルらしい曲を歌ってみたいところだけど、笑顔の無い僕には静かな曲かクールな曲しか歌えない。

 キャピキャピした曲は抵抗あるけど可愛い系の曲を歌えるアイドルは少し憧れる。765プロのビジョナリーとか歌ってみたい。

 

『……正直に言うとさ、中学時代のお姉ちゃんがアイドルを目指すと言って来た時、僕はちょっとだけ不安だったんだよね』

「不安?」

 

 中学時代のパーフェクトだった僕を優が不安に感じていた?

 どういう意味だろうか。

 

『お姉ちゃんはあの頃凄く自信家だったよね。自分は何でもできるって思ってて。実際何でもできちゃうから余計自信満々だった感じだね』

「それは……まあ、中学生特有のイタイ万能感って言うのかな。一過性の中二病みたいな?」

『今も中二病でしょ』

「はい」

 

 たまに右の魔眼が疼いたり、左手に封じられた暗黒龍がざわめくんだよね。あれ、僕中二病じゃなくて邪気眼系じゃないか。余計痛いぞ。

 

『あのね、僕が泊まった日に言った言葉覚えてる?』

「うん。全部覚えてるよ。一字一句間違えずにテンポまで復唱できるくらい」

『想像以上に凄くてちょっとびっくりした……まあ、覚えているならいいんだ。その時僕は前のお姉ちゃんよりも今のお姉ちゃんの方が凄いって言ったよね』

 

 言ってた。昔よりも良いって。でもそれは比べる対象が酷すぎるよ。引きニート時代の僕と比べたら何だって凄く感じるって。

 

『僕が言った前のお姉ちゃんっていうのはね、この間までのお姉ちゃんのことじゃないよ』

 

 へ? この間の僕じゃない?

 ちょっと優の言っていることが理解できなかった。

 

「え? でも、じゃあ前っていうのは」

『僕が言ったのは中学時代のお姉ちゃんだよ。僕は中学時代のお姉ちゃんよりも今のお姉ちゃんの方が断然良いと思う』

「嘘」

 

 嘘でしょ。あの完璧人間だった頃と比べて今の方がいいなんてありえない。あの頃の僕は完璧だった。歌も踊りも笑顔も、何一つ弱点がないパーフェクトな千早だった。

 

『嘘じゃないよ。さっきも言ったけど、あの頃のお姉ちゃんって自信家だったでしょ。何でもできる。全て簡単。自分最強って。……そういう考えが全部透けて見えてたよ』

「マジか」

 

 自分としては謙虚に振舞っていたつもりだったんだけど。やはり優には全てお見通しだったということか。さすが優だね。

 

『いや、たぶん周りの人皆気付いていたと思うよ? お姉ちゃんわかりやすい人だったから』

「マジでか!」

 

 中学時代の僕めちゃくちゃ痛い奴じゃん。

 

『それに、あの頃のお姉ちゃんの笑顔ってさ……』

「うん」

『胡散臭かったもの』

「はうあっ!?」

 

 ぐさっと来た。今物凄く心にダメージが来たよ。優に胡散臭いと言われるなんて本当にキツいわ。畳みかけるような優のダメ出しに僕の心はブレイク寸前です。

 と言うか胡散臭かったのか僕の笑顔は!

 

「う、胡散臭い……?」

『うん。胡散臭い。あ、僕に向けてくれる笑顔は別だよ? 余所行きの笑顔が作り笑いだなって感じがして、何となく怖かったかも』

「優に怖いとか言われたわ。よし死のう」

『死なないでね!』

 

 優に怖がられていたなんて知らなかったよ。優以外への笑顔が作り物めいていたと言われて凄くショックだ。自分としてはアイドル向けの謙虚かつ愛に溢れた笑顔だと思ってたのに。

 救いがあるとすれば、優に向けていたものは本物だったと言われたことか。

 

『お姉ちゃんって実は顔に思っていることが出やすいんだよ? あの状態のお姉ちゃんの笑顔なら自信満々の俺様笑顔だね』

 

 優の責めが強いよー。優に言葉攻めされるのは辛いよ。まだ殴られるほうがましだよ。僕はマゾじゃないんだぞ。

 

『だから僕は今のお姉ちゃんの笑顔が好きだよ』

 

 優の愛が強いよー。

 

『お姉ちゃんは作った笑顔じゃなくて、本当の笑顔だけ見せればいいと思う』

「本当の、笑顔?」

 

 優と春香が言っていた、たまに僕が浮かべるという笑みのことだろうか。

 

「でも、どうやれば本当の笑顔になるかわからないよ」

『それは……ごめん、具体的な方法となるとよくわからないかな』

「ううん、謝らないで。優が私の笑顔が好きって言ってくれただけで十分だから」

 

 昔の笑顔よりも今の笑顔の方が好き。優がそう言ってくれるならば、僕は今の僕の笑顔を探そう。

 

「ありがとう、優。まだ上手く笑顔が作れないけど、きっと私の笑顔を見つけてみせるから」

『うん。お姉ちゃんなら大丈夫だと思うよ。だって僕のお姉ちゃんは無駄に天才だからね』

 

 優の期待に応えたい。僕の中にある本物を見つけたい。

 未だ昔の笑顔より今の笑顔が良いと信じられない僕だけど、優が期待してくれるならいつかそれを手に入れようと思う。

 これからは笑顔の特訓内容も見直さないとね。

 

「優のおかげで元気出た! 今なら族の一つや二つ殲滅できる気分!」

『それはもう止めてね?』

 

 まあ、今の僕ならば軍隊の一つや二つ殲滅できちゃうんだけどね?

 どうやら僕は中学時代の僕を女々しくも引きずっていたようだ。笑顔一つで今よりも昔の方が勝っていると思い込んでいた。たった一つが上手くいかないだけで全てが駄目になったと勘違いしていたんだ。

 チートだけを見ても今の僕の方が昔の僕よりも勝っている。それに今の僕は友達もいるし、優とお泊りしたし……えーと、つまり最強ってことだよ。

 思ったよりも勝ってる項目が少なくてちょっと気弱になりかけた。

 

「ありがとね、優超愛してる」

『ふふ、ありがとう。僕もお姉ちゃんのこと愛してるよ』

 

 これは相思相愛だわ。僕達の姉弟の愛は本物だったんだ。もはやこのままエンディングに向かってもいいんじゃないかな。これ一つで中学の僕とか雑魚扱いしていいと思う。奴は千早四天王の中でも最弱。いや最弱は引きニート時代か。

 

「ああああ優がああああああ可愛いよおおお!?」

『いきなり発狂しないでよ』

 

 発狂してないよ。愛を叫んでいるだけだよ。

 優との電話は僕に新しい道を開いてくれた。昔を取り戻そうとしていた僕は無駄な努力をしていたんだ。

 これからは新しい僕を見つけていかなければいけないんだと気づかされた。

 本当に優には感謝してもしきれないね。

 

「また、今度……泊まりに来てね? その時には優の好きな笑顔を見せられるようにするから」

『うん。楽しみにしてるよ』

 

 優が楽しみにしていると言った。

 楽しみにしてくれるということは、つまり優は僕と寝たいと思ってくれていたということに等しいわけだ。

 そうか、そうか……。

 

「ぐへへ」

『その笑い顔は見せないでね?』

「優の寝顔……むふふ」

『感情が表に出やすいというのも考え物だよね』

 

 しばらく優との楽しい会話は続いた。

 

 

 

 ────────────

 

 

 

 優に言われて覚悟は決まった。やはり僕には選ぶべき道は一つしかないんだ。

 履歴書を郵便ポストに出すために駅前へと歩きながら自分の中で渦巻いていた思いを反芻する。

 あの人は言った。僕の可能性を信じていると。僕の中にある何かを信じたいと言ってくれた。

 果たして、僕はあの人を信じただろうか。

 勝手に『期待外れ』と見限らなかっただろうか。期待してくれたことを喜んでおきながら期待されることを重荷に感じて、それが嫌になったら勝手に投げ出してしまった。

 失望される前に自分から真実を告げたのはただの逃避じゃなかったか。期待されることよりも、彼に期待することが辛かったのではないか。

 きっと僕は期待されるよりも期待することに耐えられなかったのだ。

 裏切ってしまうことよりも裏切られることを恐れていたのだ。

 島村は言った。これから夢を叶えられると。自分が目指したキラキラした何かをあの人が与えてくれると。だから信じられると。

 どうして会って間もない相手をそこまで信じられるのか。島村の考えが僕にはわからなかった。盲目的に信じているだけではないのか。とりあえず差し伸べられた手を掴んで信じたつもりになっているだけではないか。そんな八つ当たりにも似た感情を島村へと向けてしまう。

 島村に羨ましいと言ったのはまさしくその通り、僕は彼女が羨ましかった。素直に笑えることが、アイドルになることが夢と言えることが、あの人に選んでもらえたことが。

 そして何よりも、あの人を信じられる彼女が──羨ましかった。

 

「本当の本当に八つ当たりだよね」

 

 島村は何一つ悪いことはしていない。むしろずっとこちらを気遣ってくれていたのに、僕はそれを頑なに無視し続けた。

 悪いことをしたと思う。子供じみた態度だった。今度何かで会う機会があれば謝ろう。通っているスクールがこの近くなら案外ばったり出会うかもね。

 少なくともあの人に会うよりはましだ。

 あの人とは最後までまともに会話をしてあげられなかった。相手は大手事務所のプロデューサーで僕はアイドル志望の娘でしかない。本来簡単に話ができる相手ではないのだ。それでも彼の方から歩み寄ろうとしてくれた。ただの子供だと侮らずに同じ目線に立とうとしてくれていた。

 

「もう少しだけ早く断っておけばよかったかな……?」

 

 その努力を無駄にしてしまったことが唯一の心残りだった。

 駅前のポスト前まで来た僕は手に持った封筒を投函しようとする。この行為も五十八回目にもなると最初の頃にあった期待などすでに抱くこともなく機械的な動作になる。

 そうだ、もう期待なんてするだけ無駄なんだから。

 この先あの人と会う機会はないだろう。万が一僕がアイドルになり、どこかの職場で顔を合わせることになったとしても、その時は簡単に声を掛けることはできない。それだけ僕とあの人の立場は違い過ぎる。

 一度だけでいいから呼んでみたかったな。

 

「如月さん!」

 

 ポストへと履歴書の入った封筒を投函する直前に声を掛けられ手を止める。

 まさか、という思いで胸が高鳴った。

 あり得ない。だって、僕は……。

 恐る恐る声の方を振り返る。

 目の前にあの男が居た。

 いつもの冷静な雰囲気の彼はそこには居らず、肩で息をして、顔中汗だらけで疲労困憊といった姿で僕を見ていた。

 

「なん、で……」

 

 終わったはずだ。笑えないと真実を伝えた。無駄な努力だったと切って捨てた。終わったはずなのに。だって、僕は。

 

「如月さん……貴女はまだ終わっていません」

「っ!」

 

 僕が自分に言い聞かせていた言葉を彼が否定する。心の中を読んだわけでもないのに、的確に否定された。

 終わったって思わせてよ……。もう期待させないでよ。

 辛いよ。貴方に期待することが辛い。

 

「これを」

 

 男の手には一枚の紙が握られていた。折れ曲がって、汗に濡れたそれはよく見ると履歴書だった。

 優が出した、中学時代の僕の写真が載った履歴書だった。

 何で今更そんなものを持っているのさ。

 

「これは、貴女の履歴書です」

 

 そんなことは知っている。中学時代の僕の写真を使ったイカサマの履歴書だ。

 

「これには貴女の写真が貼られています。今より少しだけ幼い、貴女の写真が」

「はい、それは……二年前の写真です。私がまだ笑えた頃の、写真です」

 

 自分の罪を突き付けられた気がして、僕はまともに彼の顔が見れなくなった。

 だってこんなズルは許されないから。優は今の笑顔が良いって言ってくれたけど、この人が選んだ笑顔はその写真のものなのだから。

 

「ごめんなさい。騙すつもりではなかったんです。その写真を見て私に声を掛けていただいたとわかっていたのに、なかなか言い出せなくて……その」

 

 それが無意味だと理解しながらも口から出るのは誠意の欠けた謝罪と虚しい言い訳だった。

 騙していた時点で何をどう取り繕っても無駄なのに。

 

「……」

 

 男からの言葉は無い。彼はただ無言で僕を見続ているだけだ。何も言わないこと、それが端的に答えを表しているように思えた。

 どう考えても好意的に思われているわけがない。そんなの当たり前じゃないか。

 視線に耐えられなくなった僕は少しでも男の目から隠れたいという衝動に駆られ、無駄な努力と知りつつ体を捩った。

 その時、体の後ろに隠していた封筒が男の目に止まってしまう。彼は無言のまま僕へと近づくと手から封筒を奪い取った。

 

「えっ?」

 

 本当に意外な行動だ。この人は間違ってもこういう強引な行動はとらないと思っていた。

 でも封筒に書かれている”テレビ番組の企画名”を見られたからにはその行動も納得できるというものだ。

 結局僕はオーディションを選んだ。目の前の安定ではなく、果ての無い届くかどうかもわからない光に手を伸ばし続けることを選んだ。

 彼からすれば自分のスカウトを蹴っておいて別の番組のオーディションを受けたというのは面白くないだろう。

 

「あ、それは……」

 

 何と言えばいいのかわからず最後まで言い切ることができない。

 これは何かと問われて答えられる気がしなかった。ただ申し訳なさと気まずさだけが僕の心を占めている。

 

「この番組は貴女向きではないと思います」

 

 しかし、男の口から出たのは意外な台詞だった。

 何でそんなことを言うのだろうか。自分のプロジェクトの方が勝っているから……という感じではないみたい。

 僕を責めるでもなく、ただ向いていないと、純粋にアドバイスみたいなことを言って来る男の真意がわからなかった。

 

「……貴方には関係のないことです」

 

 こんなことしか言えない自分が嫌になる。建前やお礼の一つでも言えたなら可愛げがあるというのに。口から出るのは突き放したような言葉だけだ。

 ぎょろりと男の目が僕へと向く。さすがに気に障ったか。すでにスカウト対象でもない少女相手に我慢する必要がないと思ったか。

 

「あの、ご、ごめんなさ──え」

 

 反射的に謝ろうとした僕は男に腕を掴まれ謝罪の言葉を途切れさせた。

 

「あの、え? え?」

「こちらへ来てください」

「あっ──」

 

 突然のことに混乱している僕に構わず男はそのままどこかへと歩き出した。

 力強く手を引かれた僕は筋力の強化も忘れて男のされるがままに付いて行くしかない。周りの人々が何事かという目で見てくるものの、男の鬼気迫る顔を見て完全に他人事を貫くつもりらしく全員顔を背けていた。僕の位置からは見えないけど、目の前の男は今どんな顔をしているのだろうか。通行人がモーゼの様に左右に分かれていくとかどんだけだ。

 

「ちょ、ちょっと離して下さい。何なんですか! もう放っておいて下さいよ!」

 

 僕がいくら抗議の声をあげても男は構わず歩き続ける。つい先ほどまでの一歩引いた態度が無い。これまでの二ヵ月間、本当に一瞬だけ見せた強引さ全力の姿を見せていた。

 何をそんなに必死になっているのさ。男の行動の意味がわからない僕はただ男のなすがままに歩き続けるしかなかった。

 やがて辿り着いたのは駅前に設置されている証明写真ボックスだった。ボックスの前まで来ると、男が入り口のカーテンを捲り中を示す。

 

「これで写真を撮って下さい」

「嫌です」

 

 有無を言わさない強い口調で写真を撮れと言われた僕は反射的に拒絶を返した。

 男の意図がわからない。分かりやすいと思っていた相手の気持ちが今はまったく理解できない。そのことが何だか怖かった。

 しばらく続く沈黙。

 いつもはここで僕が耐えられなくなって立ち去るのだが、今日はその前に男から動きがあった。

 

「如月さん。私は貴女に伝えていなかったことがあります」

「伝えていなかったこと?」

 

 何だろう。

 それを聞けば解放してくれるとでもいうのだろうか。放っておいてくれるのだろうか。僕に関わらず、こうして期待させないでいてくれるのだろうか。

 そんな”期待”を込めて男を見返せば、それ以上に強い視線でもって彼がこちらを見ていることに気付く。

 

 

 

 

「私には貴女が必要です」

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ────、は?

 

「は?」

 

 ちょっとの間だけ意識が飛んでしまっていた。

 今……この男は何と言った?

 僕が必要?

 え、はい、え?

 何言っちゃってるの。嘘を吐くにしても、もうちょっと現実味のあるものにしてよね。それとも誰かに唆されたとか?

 でもこんな真面目な人が誰かに言われたくらいでこんな恥ずかしい台詞を言うだろうか。仮に言うとしたら何か弱みを握られているとしか思えない。何故か胡散臭い笑みを浮かべた守銭奴そうな女性の顔が頭に浮かんだ。混乱の極みに至った僕が見た白昼夢だろうか。

 でも真っすぐに僕を見つめて恥ずかしい台詞を吐いた彼からはとてもではないが言わされているといった印象は受けない。言いそうにないってイメージを抜きに見れば彼の言葉は本心に思えた。

 と言うか、この台詞ってどちらかと言うとプロポーズのように聞こえるんだけど。実際はプロデューサーとしてってことだろうし、僕も誤解するようなタイプではないから問題ないけど。僕以外の女の子に言ったら勘違いするんじゃないかな。気を付けて欲しいものだ。男の僕ですらドキリとしのだから。

 周囲の通行人達が僕達をやけに微笑ましげに見ているのが視界の端に映る……深くは考えないことにした。

 

「私は今日初めて履歴書の写真を見ました」

「……え?」

 

 僕が脳内で大混乱を起こしていることなど気にもせずに男が話し始める。展開に追いつけないんですけど。

 と言うか今何て言った?

 初めてその写真を見たと言わなかっただろうか。

 

「え、だって、その写真を見たから、私の笑顔をって……?」

 

 僕はてっきりこの人は僕の履歴書の写真を見て僕をスカウトしたと思っていた。

 でもこの人の言うことが嘘じゃなかったら、その前提条件がおかしくなる。

 

「私は一次の書類審査に携わっていません。いえ、正確には参加できません。時間が取れませんので」

「嘘……」

 

 この人クラスになると一次選考は部下とかに任せて自分は二次や三次から参加するという感じなのか。確かに何百人といる人間を全員見られる程暇があるわけないよね。僕を追いかける時間はあるみたいだけど。

 でも、じゃあ何でこの人は僕を選んだ理由を笑顔だと言ったのだろう。

 

「嘘ではありません。私は写真に写っていた取り繕ったものではない、本当の貴女の笑顔を見てスカウトを決めました」

 

 嘘だ。だって僕は貴方の前で笑ったことがないよ。

 どうせ適当なことを言ってその気にさせるつもりなんでしょ?

 期待だけさせて、最後の最後でやっぱり駄目でしたって裏切るんでしょ?

 だったら最初から期待させないでよ。

 

「それを証明するために、写真を撮っていただきたいのです」

「写真を……」

「さあ、こちらに」

 

 再びボックスの中を示された僕は今度は素直にカーテンの中へと入ると備え付けの椅子に座った。

 男の言葉を信じたわけではない。写真を撮ることで何がわかるかなんて知らない。でも、その時の僕は男の”指示”に従うことが自然なことのように思えた。

 僕が椅子に座ると男は顔だけをボックス内へと入れカーテンを閉める。周囲からは大男が首だけ中に突っ込んでいる異様な光景があるのだろう。ちょっと想像して怖かった。

 僕の代わりに機械の操作をする男の顔を眺める。

 どうしてこの人は僕に構おうとするのだろう。もうプロジェクトメンバーの補充は終わっているのに。アイドルが集まったのなら本格的にプロジェクトが始動するはずだし、だったら今こうして僕のために無駄な時間を使う暇なんてないはずだ。

 

「準備ができました」

 

 僕の視線に気付いていただろうに、男はそれをまったく意に介さずに準備が終わったことを告げる。

 男が頭をひっこめてカーテンを閉める。

 聞き慣れた機械音が響くと写真撮影が始まった。

 撮れた写真を確認画面で見ると写った僕の顔は無表情になっている。今回変顔を作る暇すらなかったのでデフォルトの無表情になってしまった。

 

「どうでしょうか?」

「それが、その……」

 

 僕が言いにくそうしていると男は確認画面を覗き込んだ。

 

「……なるほど」

「すみません、こんな顔しかできなくて」

 

 変顔よりはましとはいえ、この無表情も結構やばい気がする。何を考えているのかわからない冷たい表情だ。少しでも目尻が上がれば不機嫌に見えるオプション付き。

 

「謝る必要はありません。……そうですね、今度は何か楽しいことを思い浮かべながら撮ってみましょうか」

「楽しいことですか?」

「はい。何でも良いので楽しいことを考えてみましょう」

 

 楽しいこと。

 僕が楽しいと思うこと……。

 それは歌を歌うこと。歌っている時間が僕は楽しくて好きだ。

 

「歌……歌を歌ってる時は楽しいです」

「でしたら、その時のことを想像してください。自分が歌っている時のことを」

 

 歌っている時の僕?

 歌っている時の僕ってどうしてたっけ。いつもトリップしてから実はよくわからない。自分の中に引き籠ってただ歌うだけの僕は外側の自分を意識したことがなかった。

 とにかく男の指示通りに歌っている時の自分を想像しようとするけど、なかなか上手くいかなかった。焦れば焦るほど”僕”がどうしていたかわからなくなる。

 

「あ、あの私歌っている時の自分がよくわからなくて、そもそも歌っているときはたぶん無表情で」

「落ち着いてください」

 

 てんぱってしまった僕は男の声ですぐに平静を取り戻した。二十七個に並列展開していた思考群が彼の一言で一斉に方向を揃える。こういうのを鶴の一声と言うのだろうか。

 

「一つ一つ順に思い浮かべましょう。まずは目を閉じて。私の声に耳を傾けてください」

「はい」

 

 言われた通りに目を閉じる。

 

「場所は……そうですね、昨日私に歌を聴かせてくれた公園にしましょうか」

「公園……」

「貴女は公園に立っています。桜の舞い散る春の公園です」

 

 真っ暗な視界の中で男の低く落ち着いた声が耳に入りこむ。すると彼が言った情景が頭に浮かんだ。

 想像の中の僕は公園に立っていた。桜がとめどなく舞い落ちる幻想的な世界に僕は居る。

 不思議と詳細にそれらが頭の中に思い浮かぶ。

 

「貴女の歌を聴く人間がいます。どなたか思い当たる方はいらっしゃいますか?」

「弟と……友達、あと……いえ、その二人だけです」

「……では、そのお二人が貴女の歌を聴くために公園のベンチに座っています。貴女はお二方の前で歌います」

 

 本当はこの人も思い浮かんだけどあえて言わないことにした。こっそり想像の中だけに追加する。

 優と春香が男を左右に挟んで狭いベンチに座っている情景が思い浮かぶ。二人とも男の強面にびびって顔が引き攣っていた。よく見ると愛嬌のある顔をしているのだけど、初対面ならそんなものだよね。

 

「貴女が歌い始めるとそれを聴いた方々は笑顔になります。貴女の歌がとても素晴らしいからです」

「っ」

 

 不意打ちで男から歌を褒められてどきっとする。想像の中の話なのに、褒められていると思うと嬉しいと思えた。

 言われた通りに歌っている自分を想像する。三人は僕の歌を笑顔で聴いてくれた。

 男の笑顔が想像できないので相変わらずの強面のままだけど、それでも楽しそうにしている姿を精一杯想像した。

 

「どうでしょうか。想像の中の貴女は楽しんでいますか?」

「楽しんでいます。凄く……楽しいです」

 

 たぶん、これが僕が一番楽しいと思うことだ。歌を歌い、誰かに聴いてもらう。ただそれだけのことが僕には何よりも楽しく感じられた。

 

「では、そのまま……合図とともに目を開けてください」

 

 サッと音がして男がカーテンを閉じたのがわかる。

 僕は言われた通り歌い続ける想像を続けた。

 やがて撮影開始の合図が流れるとゆっくりと目を開ける。その瞬間写真が撮られた。

 

「……」

 

 撮れた写真を確認画面で見る。

 これって……。

 

「如月さん」

 

 カーテンを開いて男が顔を出し。その手には今撮ったばかりの写真を持っていた。

 

「貴女は笑顔が作れないと言いました」

 

 男が履歴書から写真をはがす。優が言うところの胡散臭い笑みを浮かべた僕の写真が地面へと落ちた。

 次に彼は今撮った証明写真から一枚を剥がし、そのまま写真欄へと貼り付ける。

 

「私にはこの顔は笑顔に見えます。素直に楽しいものを楽しいと感じている、素敵な女の子の顔です」

 

 そう言って男が見せてくれた写真には、薄っすらと、本当に微かにだけど笑みを浮かべている僕が写っていた。

 

「……私は」

 

 笑っている。写真に写った僕はほんのちょっぴりだけど確かに笑っていた。

 ようやくそこで、この人はこれを見せたかったのだと理解した。

 

「笑顔を作る必要はありません。貴女には必要がありません。貴女には自分の感情を素直に表現する才能があるのですから。昨日、私に歌を聴かせてくれていた貴女は笑顔でしたよ」

 

 そうだったのか。

 言われるまで僕は気付かなかった。歌っている時の僕は笑えていたのか。

 

「私は笑えるんですね。歌だけじゃなかったんですね」

「その通りです。もちろん、歌も素晴らしいと思っています。是非シンデレラプロジェクトに参加して欲しいと思えるくらいに」

 

 今更言わないでよ。

 最初にそう言ってくれていたら、こんな風に悩む必要もなかったのに。

 だから凄く残念だった。もっと早くこうして笑えることを知りたかった。そうすれば貴方の手を取ることができたのにね。

 

「本当にありがとうございました。私でも笑えると知れたことはこれからの役に立つと思います。私なんかのためにお時間をいただいて、その……」

 

 何と言ってこの気持ちを伝えればいいだろう。無関係な相手のためにここまで尽力してくれた人に言うべき言葉が僕には見つからなかった。

 でもその言葉は不要だったらしい。

 

「まだご納得していただけませんか?」

「納得?」

「私は今でも貴女にシンデレラプロジェクトに参加していただきたいと思っています。その気持ちは最初から変わりありません」

「え、でも、もう島村さんで決まりでは?」

「はい、島村さんも再審査による補充要員の一人です」

「一人」

「補充枠は三名居るんです」

「……んへぁ」

 

 三人……だと?

 じゃあ何か、僕はずっと無駄に枠争いをしていたのか。無意味な一人相撲を演じていたのか。

 いや、でもまさか三人分も欠員が出ているなんて思わないじゃないか。普通こういうのって一人だろ。

 それよりも今度島村に謝らないと。勝手にライバル扱いして必要以上に冷たい態度をとってしまった。ライバルじゃなくて同期になるってことじゃん。ごめん、本当にごめんなさい。

 

「如月さん」

「あ、はい?」

「私と一緒に歩んではいただけませんか?」

「え」

「後悔は絶対にさせないと誓います」

「あ、いや」

「私は貴女が欲しい!」

「ちょ、ちょっと待って待って!」

 

 何かおかしい流れになって来たぞ。貴方そういうキャラじゃないだろ、いったい誰に吹き込まれた。本人はいたって真面目に言っているのがわかるから質が悪い。この人にこれを吹き込んだ人間は絶対に”ワルイヤツ”だ!

 

「如月さん、私は」

「わかりました! いいです、もう結構ですから!」

「受け入れていただけるまで私は何度でも貴女にこの想いを伝え続けます」

「ひいぃぃ! さらに重くなった!? いや、ちょっと、本当に入れ知恵した人後でひっぱたくわ!」

 

 傍から見ると十代の少女に強面の男が全力で愛の告白をしているように見える。

 事案だ。誰がどう見ても通報物である。その証拠に先程まで微笑ましい目をしていた人達が心配そうな顔でケータイを取り出している。

 あ、これ最初に会った時と同じパターンのやつだ。

 

「わかりました! OKです! 貴方に付いて行きます、これで満足ですか!?」

 

 これは受け入れるしか選択肢がないではないか。元より断る理由は無いけど。

 この人は僕を必要だと言ってくれたのだ。歌と拙い笑顔の僕を欲しいと言ってくれた。付いて行く理由はそれで充分だ。

 

「本当ですか。ありがとうございます!」

 

 くぅ、そんな無邪気に嬉しそうな顔で喜ばないでよ。変な台詞に聞こえている僕が汚れてるみたいじゃないか。

 証明写真ボックスに備え付けの鏡で顔を見れば僕の顔が真っ赤になっているのが見える。

 この程度のことで顔に出るだなんて。誰だ僕が無表情だなんて言った奴は。僕だったわ。

 

「この履歴書は私の方でお預かりさせていただきます。スカウト枠として私の方から上に提出いたしますので」

「あ、はい。よろしくお願いいたします」

 

 もう一度履歴書を書かずに済んで良かった。あ、でも、僕が自分で書いた履歴書の特技欄よりも内容が薄いかも?

 僕が書いた方の特技欄には握力が200kgとか神速のインパルスとかちゃんと書いてあるから、できればそっちを持って行って欲しかったけど。ま、いっか、受かれば何でもいいし。

 

「あの、最後にもう一度だけ訊いてもいいでしょうか?」

「はい、なんでしょうか」

「貴方にとって、私の良いところは何ですか?」

 

 ”昨日の歌は貴方の心に届きましたか?” 本当はそう訊きたかったけど、それはまた今度にしよう。

 男は僕の問い掛けに対して、あの時と同じくまっすぐな目を向けて言った。

 

「笑顔です」

 

 うん──。

 信じてみよう、この人を。

 僕を信じてくれたこの人を信じよう。この人が僕の良さを笑顔だと言ってくれるならば、僕はこの笑顔で頑張ろう。

 貴方が僕を必要だと言ってくれる限り僕は貴方のために笑おう。

 僕は姿勢を正すと手を両の太ももへと当て、上半身を傾けると深くお辞儀した。

 やはりここはあれを言うしかないだろう。

 ずっと呼んでみたかったんだよね。

 

「これからよろしくお願いします。プロデューサー」

 

 僕はこの日アイドルになった。




ああ、それと前話のあとがきで1話ごとの文章量を減らすと約束したな?

──アレは嘘だ。



まさかの3話よりも文字数多いという謎。7万文字って。これでも二万文字以上削ったのに・・・。
4話をお読みいただいた方々はお気づきかもしれませんが、今回は武内Pに「I need you」を言わせたかっただけです。その一言のためだけに7万文字があります。千早がぐだぐだ無駄に考えたり逃げたり寄り道した全てが「I need you」で解決しちゃったわけです。
4話なんてやろうと思えば3行でまとめられます。

千早「私は駄目人間なんです」
武P「I need you」
千早「はい」(トゥンク)

即落ち3コマ。最後千早が武内Pの言うことに素直だったのは落ちてるからです。昨今の少女漫画ですらもう少し頭の良いヒロインが出てくるでしょうよ。まじチョロイン。
あとは色々と千早の現状というか、どう環境と性格が改善&悪化してるか紹介しようとしたらこんなことに。
こうやってぐだぐだ1話を長くするよりはもっと展開を早めに流していきたいです。無理ですけどね!
1話を3万文字くらいに短くまとめられる人を尊敬します。
次こそは短くしようと思います。5万文字は切りたい。できれば半分くらいにしたいです。


以下あとがきという名の補足と雑記。あまり読む意味はありません。

さて、今回でようやく346編が始まりました。前回の引きでいきなりアイドルデビューするかと思っていた方々には申し訳ない思いです。本編始まってもまだニートだったという衝撃的事実。
スカウトされたんだからそのままアイドルやればいいのにね。そう思ってもこの千早は面倒臭い奴なので紆余曲折を経ないとゴールできません。
前回の主題が「今更なんてない」ならば今回は「無駄なものなんてない」でしょうか。千早とPの無駄な駆け引きを描いただけとも言えますが。これをやったことで千早がPに依存してくれました。やったね。美希とまゆと凛足して3で割らなかったら千早になるよ。
Pは本当に頑張ったと思います。死ぬほど面倒臭い女のために裏であれこれ頑張る姿は涙なくしては語れないでしょう。彼視点でのお話では是非「千早この野郎。めんどくせー女だなw」と思ってやってください。
今回のお話を書くにあたり、千早の心理描写と並行してPの心理描写(ただし三人称)を副音声で脳内再生していました。千早の態度や言葉がどうPに映っているかを想像しながら千早の行動を書くというのは苦労しました。
だって千早クソめんどくさい奴なんだもの。話聞いてないし。勝手に悪い方に解釈するし。豆腐メンタルだし。学校行ってないから行先読めないし。逃げ足だけは人外だし。歌と楽器演奏は他人の心をへし折るレベルなのに自己評価が低いとか予想できんわ。
Pからすればクール系の天才少女をスカウトしたつもりが、実際は精神パッションでチートにより自己評価が低い難聴系主人公なんだから悪夢です。
P本人としてはよかれと思ってやったことが全て裏目に出ていますので本当にかわいそう。笑えているのに本人が笑っていないと思い込んでるとかわかるわけがない。同じ再審査仲間の卯月を連れていってみたら逆効果とか予想できるか。
それでも千早の才能を諦めきれなかったPは7話の未央や24話の卯月にしたような積極性を見せます。一話目にして歯車やめちゃってるよこの男。千早大好き勢だからね。仕方ないね。二か月もストーキングしたからね。仕方ないね。仕事放棄し過ぎて部長とちひろさんからめちゃくちゃ怒られたからね。仕方ないね。
Pがなぜそこまで千早の”才能”と”笑顔”を確信していたかはデレアニを見ていた方なら予想できると思いますが、P視点までは一応内緒です。

千早大好き勢と言えば春香が何やら不穏に見えます。でも安心してください。ちゃんと不穏です。
本当は春香襲来シーンを一話目に入れる予定でしたが、今回の話の中で完全に浮いている上に一万文字プラスされるためばっさりカットしました。4話で時間飛んでる?と思ったシーンがそこに該当します。
まあ、春香襲来シーンなんてあっても意味ないので5話以降で適当に回収します。お風呂に二人で入ったり、そこでキャッキャウフフするだけです。

もう一人の千早大好き勢の優君ですが、前回から引き続き千早のサポートに回っています。姉への扱いがぞんざいになりつつありますが、最初からこんな感じです。千早フィルタが掛かっているから天使に見えるだけです。実際はわりと普通の男の子です。
ここに自分のことが大好きで言えば何でもしてくれるし何しても許してくれる上に超美人な姉と同じ布団に寝て、全身密着状態のまま一晩何もしないでいられる普通の中学二年生が居るぞー!
彼はこれからも千早のために動き回り、姉の意味深な台詞に悶々としてもらいます。胸以外ハイスペックな姉を持ったせいで同級生の女子のほとんどが芋女に見える。今作で二番目に不憫なキャラです。

876プロ等のほかの事務所のオーディションに落ちた理由は変顔の写真が主な理由ですが、特技の欄を素直に書きすぎたのも敗因です。嘘は書いていませんが嘘臭い内容に冷やかしと思われてます。神速のインパルスとか。握力200kgとか。本人は大まじめに書いていますが失敗ですね。
奇蹟が起きて二次審査に進んでいた場合、歌でも歌えば二次の時点で採用されていました。

次回は写真撮影。
・・・の前にまたもやひと悶着。だって千早ちゃんまだアイドルじゃいもんね。
「僕はこの日アイドルになった(キリ)」

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