ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

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【7】

 とはいえ、帰って来たのが自分の知らない旅館では、流石に戸惑うのも無理はなかった。

「着きましたよ」とアキヒトさんは、傍らで半ば唖然としているわたしの様子に構わず言った。

 今もまだ降り続く雨を防いでいる車寄せの下で、わたしは彼に、ここは自分の泊まっている旅館でないと伝えた。それを伝えるのは、仮にも悪天候の中で虚無感を抱えつつさまようわたしを見つけ、助けてくれた彼の恩義をないがしろにするようで、気が引けた。わたしが後ろ髪を引かれる思いで言うと、彼は呆れたように目を細めた。

「わがままな人だなぁ」と彼は言った。「仕方ないじゃないですか。オートバイで走ってる最中、僕は旅館の場所を聞いたのに、アリシアさん返事をくれなかったんですもん。僕の後ろであなた、お休みにでもなってたんですか?」

 わたしは我を主張したつもりなど毛頭なかったので、そう呆れられてむっとし、いくぶん険しめの応酬をしばしの間アキヒトさんと交わした。

「寝てなんかいませんでしたよ。あんな体勢で、しかも風が吹いて雨が降る中で、寝られなんかするもんですか」 

「それじゃあ何ですか。風の音で僕の声が聞こえなかったんですか」

 そう言われると、わたしは腕組みして頬を膨らまし、「知りませんよ」と返した。アキヒトさんは困惑するように眉を下げ、後ろ頭を掻いた。やれやれと言わんばかりの様子だった。しかし救援を受けた身で、どうしてわたしはその時、そんな驕慢で偉そうな態度を恩人である人に対して取れたのだろう? 今その時を思い返すと、自分が不適当な振る舞い方をしていたことが明白で、わたしはほとほと遺憾に感じるし、反省したい気になりもする。だが、その時のわたしには、思春期の段階へと成長し、一定の知識と分別を持っていたとはいえ、幼稚な子ども特有の無自覚で無反省な、生意気な性分が残っていたのだ。加えて、アキヒトさんのお陰で失っていた元気を回復したことも、そんな態度を取ってしまった原因だったと思う。

 アキヒトさんに言われたように、きっとわがままだったに違いないわたしは、子どもじみた振る舞いをしたせいで、彼を困らせて、こう言わせてしまった。

「それじゃ、もう一度移動しますか?」

 そこでようやくわたしは、遅すぎた感じがあるが、意地をはることをやめ、慎ましくなろうと心掛け、恩人に対して配慮出来るようになれた。

 時間がもう遅く、夜で暗いので、彼が問うたようにするのは躊躇われた。もし出来れば自分の旅館へと帰りたいが、それを申し出るのは、たとえ親切心で問うてくれたとしても、彼にとってきっと迷惑に違いない。また、時間が遅いだけでなく、天候が悪くもあるので、それを考慮すれば、正しい旅館へと彼に改めて送ってもらうのは、やはり遠慮するべきことと思う。そういうわけでわたしは彼に、気遣いはしてくれなくてよいと言った。

 その後アキヒトさんが教えてくれたが、わたしが連れてきてもらったのは、彼が泊まっている宿らしかった。彼は以前別の島におり、最近この島を訪れ、そうしてまた近々別の島へと向かう予定だと教えてくれた。わたしは彼の根無し草のような生活を知ると同時に、わたしの意識を乱し落ち着かなくさせる一つの懸念を抱いた。わたしはひょっとして今夜、アキヒトさんの部屋で、彼と一緒に泊まることになるのではないか? 

 そう予測すると、わたしは自分の顔が熱く火照るのを、見てもいないのに確かに知った気がする。もし今鏡を目の前に置いて、自分の顔を映せば、鏡面では、間違いなく、リンゴのように真っ赤に色付いたわたしの顔が、燃えていることだろう。

 わたしが懸念していることは、ずいぶんまずい、危ぶまれるべきことであった。わたしは14歳であり、うぶであると自覚しているが、男と女の事情について、全くの無知というわけではない。若い男と女が、それもそれなりに親しい、打ち解けた関係にある二人が、一所で一晩過ごすことになった場合に、どういう成り行きを経るのか、見通せないくらいのねんねではない。ある程度は分かるつもりだ。わたしには、情事に詳しい好色の友達がいて、彼女がわたしに、色々と入れ知恵をしてくれる。その子は水の妖精(ウンディーネ)ではなく、わたしが好きでよく通うパン屋さんで働く、見習いのパン職人だ。彼女は筋金入りの噂好きで、パン作りに精進する傍ら、しょっちゅう井戸端会議をして新しい噂の聞き込みをする。パンの材料の買い出しに行く際には必ず寄り道をして、彼女の広大なネットワークを構成するたくさんの知り合いの内の誰かと話し込む。その子はそれゆえ、身の回りの人達の交際についての噂を豊富に知っていて、びっくり仰天するような、どんな表情で聞けばよいのか迷うような、色っぽく熱っぽい、スキャンダラスな出来事の秘話を、わたしや晃ちゃんに、こまごまと説いてくれる。

 その女の子の友達に、不倫だの駆け落ちだのといった噂話をよく吹き込まれたお陰で、わたしは、別に知らなくてもよいような大人びたことを知らされた。そのように、どこか被害者的な立場で言いはするものの、わたしはその話に無関心どころか、うんうんと熱心に相槌を打って秘話の先を促したり、大口を開けて驚いたりし、興味津々に聞き入ったものだ。それゆえ、今夜アキヒトさんとの間にあり得ることを、わたしは色々と予想出来る。今夜起き得ることは、わたしの好色の友達を驚かし、彼女の新しく面白い話の種になるようなことであると、はっきり推知出来る。すっかり無関係な他人の話として聞く時には、情事の内容がどれだけ修羅場的でも泥沼的でも結構だったが、自分がその主要人物になるかも知れないと思うと、どうにもそわそわとしてくる。

 わたしは清楚な水の妖精として、そのコンセプトに準じ、おのれの純潔性(ヴァージニティ)を死守しなければいけない。それが侵され破られるような危うい状況には、決して近付いてはいけない。とはいえ、ここまでその過程が進行してしまっては、最早わたしには引き返す手段など残っていないのではなかろうか。わたしは目下焦っているが、そうしたところで、今更どうにも出来ないのではなかろうか。

 そんなことをおろおろ考えていると、アキヒトさんは言った。

「大丈夫ですよ。余計に部屋を一つ借りますから」

 それを聞いて、わたしは安堵する前に、彼は一体何について大丈夫と言ったのか訝しく思った。ひょっとすると、わたしが描いていた変な、恥ずかしくて言葉に出来ないような想像は、わたしの表情に如実に現れてしまっていたのではないか? そんな気がしないでもない。わたしは先んじて自分があり得ると思った事の成り行きを脳内で経験して、狐につままれたような、ぽかんとした表情をしてしまっていたかも知れない。もし本当にそうだった場合を思うと、わたしは、早合点してしまった無分別な自分が、急に恥ずかしくなった。その後アキヒトさんの顔を直視出来なくなった。

 気詰まりなわたしは、歩き出した彼の後ろを、肩をすぼめ、意識して、あえて遅れて歩いていった。彼は受付で手続きをし、廊下を進んで、一つの部屋へとわたしを導いた。そこがわたしにあてがわれた部屋のようだった。アキヒトさんとわたしは、夜食のため少し後で会うことを約束すると、別れた。彼は自分の部屋と向かった。

 わたしは部屋の中に入ると、単身用のベッドに大の字に倒れこみ、ふかふか柔らかいそこでゆったりと休んで、身体を温め、孤独な彷徨や、好意を持っている人への気後れなどで、ずっと不安に苛まれていた心を、柔らかくほぐした。ぐったりと疲れ果てていたので、一人になったわたしは、それまでの緊張が解かれ、張り詰めていた意識がたゆみ、朦朧とした。意識がたゆんだその勢いで、わたしは目がとろんとし、思わず寝てしまいそうになったが、アキヒトさんとの約束があるので、頑張って意識を明瞭に保とうとし、つらつら考え事をした。今となっては、その時のわたしが何を考えていたのか、はっきりと覚えていない。明らかなのは、大きな安心感がわたしの身と心とを満たしていたということだ。平穏とか平和というものを、その時わたしは初めて確かに知れたような気がする。

 ふとわたしは、ある大事で緊要な用に気付き、はっと跳び起きた。グランマにまだ連絡をしていない。わたしは急ぎ部屋の電話を使い、彼女に繋いだ。彼女はいつまでも帰ってこないし連絡をよこしもしない後輩を怪訝に思って、大層心配しているだろう。物々しい事態を想定して、焦ったり、イライラしたりしているだろう。わたしも同じで、呼び出し音が鳴っている間、早く自分の無事息災を彼女に伝えなければいけないという使命感にじりじりした。やがてグランマは電話に出た。彼女の声はわたしが予想したような、心配する時のいたわるような声だった。グランマはわたしの容態と状況を尋ねた。わたしは苦笑し、自分はぴんぴんしていて問題は一つもなく、行程の途中で小舟がなくなったので、今夜は別の宿に泊まると伝えた。そうすると、グランマは納得してくれ、わたしは彼女と共に安堵した。

 その後わたしはアキヒトさんと再び行動を共にし、広いホールへと行って夜食を取った。一つのテーブルに座り、わたし達はおしゃべりをした。元気を回復したわたしは食欲をもよおしたので、旺盛に食べた。

 話の中でわたしはアキヒトさんに、彼が前日一緒にいた女の人について、いくぶん逡巡しつつ、問い質した。すると彼は、彼女は最近知り合った人であり、あの時は偶然出くわしたため軽く立ち話をしていたに過ぎないと言った。わたしはそれを聞いて、溜飲が下がる思いがし、自分のこれまでの不信が単なる取り越し苦労だったとようやく知ることが出来た。

 わたし達は食事中、和やかに話し合い、笑い合った。その時間は、どれだけ愛おしかったことだろう。わたしは自分が水の妖精であり、ネオ・ヴェネツィアとは別の島へと研修で来ていることを、すっかり忘れてしまっていた。羽目を外すという感じではないが、わたしはもう恋愛めいた時間の歓楽に、快く浸っていた。その時のわたしは、水の妖精ではなく、一人の人間であり、女性であり、アキヒトさんを相手に、かりそめに、恋人の感覚を試しに味わってみるという、稀有で貴重な体験の中に身を置いていた。

 気分を満ち足りたものにし、更にお腹を膨らしもしたわたしは、食事の後、アキヒトさんに就寝の挨拶を告げ、部屋に帰ると、シャワーを浴びて消灯し、ベッドに戻った。その夜は、島での滞在の日々の中で、最も充実した夜だった。そのせいでわたしは、疲れていたのに中々眠りに付けなかった。もし仮に、あの夜を今取り戻せるなら、わたしはどんな対価をも惜しまないだろう。しかし時間というものは、一回限りで尽きてしまう儚い消耗品であった。

 そういうことを当時のわたしは、未熟ながらもちゃんと理解していた。だからその夜は、眠りにくいことを利用して、すぐに寝ようとはせず、その日あったことを――不運な苦難の起こりから、救いまでの一連の記憶を、全部はっきりと思い起こし、心に刻めるようじっくり味わい尽くし、夢へと、明日へと、もし出来れば、永遠の未来へと、保存しようとしたのだ。そうしたのは、きっと正解だったと思う。なぜならわたしは、数年経った今でもなお、当時のことをきちんと、日記を書きもしなかったのに、詳しく思い出し、その時と同じ感覚で、その記憶が再現する現実を、追体験することが出来るのだから。


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