ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

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【6】

 そうしてとうとう夜になった。日の光は完全に失せ、真っ暗闇が辺りを覆った。

 わたしはまだ、待合所の椅子にしょんぼりと座っていた。それはしかし、わたしが雨宿りをし、アキヒトさんと会ったのとは違う、別の待合所であった。作りは同じ木造で、中の壁には朽ちかけた時刻表の紙が、画鋲で貼りつけられている。元は金属の色だっただろう画鋲は赤色っぽく錆びていた。小舟を失ったわたしは、無謀と知りつつも、湖の外周に沿って歩いて帰ろうとしたのだが、やはり湖が広大過ぎるため、あまりにも長い距離に疲れ、途中で足が棒になってしまった。歩くことと休むことを繰り返して進んでいる内に、時間は進み、夜が訪れた。また、湖には何本かの支流があり、それには橋がなく、外周に沿って行こうとするわたしの行く手を遮り、阻んだ。

 まるで洞窟か土の中の生き物が好むようなぞっとするような暗闇と、じめじめした空気の中に、今のわたしはいる。待合所に、照明などの気の利いたものはなかった。辛うじて、国道に沿って何本かの照明が立っていて、暗がりにあかりを投げていたが、それだけではまるで心許なかった。しかし、田舎なので仕方ないことだった。

 帰る手段をなくしたわたしには、更なる不運がのしかかって来た。再び雨が降り出したのである。アキヒトさんの予報は、妄言ではなく、ある程度信用の置けるものであり、当を得ていて、的中したわけである。わたしは雨がすっかり上がったと思い違いをしたのであり、実際雨は、一時的に止んだに過ぎなかったのだ。天気に関して述べた彼の意見は正しくて、一方でそれを頭ごなしに、強情に否定したわたしは、誤っていたのだ。そう考えると、何だか気持ちがくさくさしてくる。面白くなかった。

 わたしはぼんやりと、また、待合所の入り口に切り取られた景色を見ていた。ほとんどはっきりとは見えない、夜陰のせいで普通よりなお黒いコンクリートの面に、雨粒が踊るように跳ねており、砕けた水はガラスの小破片のように儚い輝きを放った。

 素直にアキヒトさんの予報を聞き入れて置けばよかったと、今更わたしは後悔する。聞き入れて、そうしていつ雨が止むのか尋ねて置けばよかった。そうすれば状況は、いくぶんかマシになったと思う。しかし後悔したところで、現況の何も改善されることはなく、それは時間を浪費するだけの、不毛な思い悩みに過ぎなかった。

 時に、アキヒトさんは、何をしている人なのだろう。あの口振りから推測すると、一所に留まって生活している人ではない気がする。彼は、色々な天気を見てきたと言っていて、オーロラまで見たと言っていた。ということは、彼は、ずいぶん遠くまで行ったことがあるわけだ。ひょっとして、旅人でもしているのだろうか? 放浪しているのだろうか?

 くたびれた身体を壁にぐったりと預けつつ、夜の暗闇に染められた、昏々とした心境で、妄想的に、そして非現実的にそんなことを考えていると、わたしは突然ぎょっとした。

 何かが、待合所の入り口に顔を出した。そんな気がした。しかしそれは、闇に溶け込んでしまっていて黒く、くっきりとは確認出来ず、何か分からなかった。シルエットは丸かった。わたしは人間の頭を想像した。そうして恐らくそれだろうと直感した。人間……わたしは誰かの来たらしいことに、にわかに怖気付くと、覚束ない身体を強いて起こし、待合所を勢いよく出た。そうして道路を覆う雨の膜を蹴破って、一散に、死ぬ気で駆け出した。衰えた身体に鞭打って駆けているので、わたしの恰好は無様だったに違いない。だが、四の五の言っていられる暇はない。人影の出現に驚倒して怯えたわたしが、待合所に傘を忘れてしまうのは無理もなかった。あるいはその人影は、わたしがくたびれ果てて、頭の回転が悪くなっていたので、それは大いにあり得ることだが、空目である可能性がある。あの黒いシルエットは、実際には人ではなく、別のものかも知れない。もしくは、わたしが目にしたと思っているものは、そもそも存在していないのかも知れない。しかし、わたしはもう冷静な判断を付けられるための十分な体力を失っていて、自分の思い過ごしに気付くことが出来なかった。その時の慌ただしくて怖がりで、また孤独で惨めなわたしにとって、安心出来ることは、唯一、走ることだけだった。脅威をひしひし感じていたわたしは、逃げること以外に取れる選択肢はなかった。

 駆け出して、かれこれ十分以上は走り続けたと思う。それ以上は、もう足が動かなかった。活力は尽きかけていた。わたしは、細い道路のわきに広がる木立に入ると、速度を落とし、止まり、膝に手を置き、ぜえぜえと息をした。身体と制服は、共々汗と雨とでぐっしょりと濡れ切っており、不快で仕方なかった。袖が、襟が、べったりと、ナメクジが壁にそうするように肌に張り付いた。靴は水がしみ込んで重く、またぬるくて同じく不快だった。早くなった心臓の音を胸に聞くわたしは、木のそばで制服の水気をぎゅっと絞ったが、そんなことでは不快さはなくならなかった。

 ところで、わたしは一体どこへ来たのだろう? 這う這うの体で、得体の知れない何かより逃げてきたわたしは、方角を定めず、危機感に従って、無闇に走ったので、どこに自分が移動したのか、皆目見当が付かなかった。とはいえ、歩き回ってわたしのいる地点が分かるしるしを探すのは、疲れと、あの人影への恐怖との遭遇とを恐れて、気重だった。何もかも、わたしは分からなかった。自分のいる場所も、今の時間も、心配しているだろうグランマの動向も、何もかも。体温が高いのか低いのかも、今の衰弱し切ったわたしには分からなかった。雨は冷たいが、汗をかく身体は燃えるように熱くて、何だか、お腹の中に大きな氷と熱湯とが混在しているような感じだった。

 迷ってしまったわけであるが、わたしはもう、どうにでもなれと思って、やけくその気分になっていた。グランマは、もしかするとわたしを心配し、捜索してくれているかも知れないが、この天候と時間帯では、うまく行きはしないだろう。救援は望めない。追いつめられた人間というのは、窮地を生き抜くためなのかどうしてか、失笑してしまうものだ。その傾向に即して、わたしは乾いた笑いをこぼした。笑える要素など一つとしてなかった。何も楽しくなかったし、面白くなかったし、嬉しくなかった。全ては逆であった。わたしは不愉快で、うんざりして、そして悲しかった。運命が誂えた罰と戒めは、どうやらこういう状況のようだ。段々と、雨がわたしの体温を奪って、身体を冷やしていき、その内わたしは、凍えと不安とで、笑うのを止めた。その後涙が出てきた気がするが、顔が雨で濡れていたので、実際どうだったのかは不明だ。

 ふと、強い光が、背後より差してきた。わたしは衝動的な恐怖に身をすくめると、そばの木に隠れた。光は、そばの細い道路を照らしている。何だかうるさい音が聞こえる気がする。その光は、どんどん近付いてき、強くなると、いつまでも震えているわたしのそばで止まった。

「あれ」、と怪訝そうに発する声が聞こえた。わたしは振り向いた。その時のわたしの目は、大層くぼんでいたと思う。

「猫でもいるのかと思って調べてみましたけど、あなただったとは、驚きましたよ」

 世の中には、妙な縁があるものだ。そばにいるのは、オートバイに乗ったアキヒトさんだった。彼はゴーグルを頭に上げ、そう言った。

「今宿へと帰るところなんですが、帰り道をショートカットしようと思ったんです。まさかアリシアさんと出くわすとは、思いも寄りませんでしたよ」

 アキヒトさんと、暗い雨の森で再会して、そうして、奇妙な偶然に牽引されて来た彼が、飄々として軽い、ジョークの口調で話す姿を見て、その時わたしは、どんな風に感じていただろう? その記憶は、ひどくおぼろげで、鮮明に思い返すことが出来ない。しかし、おぼろげであるのは、わたしの意識が疲労でかすんでいたせいでも、眠気が深刻だったせいでもなかった。

 彼の出現は、鮮烈だった。それは大げさに言ってしまえば、奇跡だった。奇跡というのは、実際に起こりはしたが、本来は起こり得ないはずのことであって、要するに、わたしは自分の状況が、自分の力のみでどうにかしなければいけない状況が、アキヒトさんの出現によって、すっかりひっくり返されてしまった気がしたのだ。それまで満ちていた重苦しく暗澹たるわたしの周囲の雰囲気は、その後光明が差して、いくぶんコミカルで滑稽なものに変わった。

 嬉しいとか、救われたとか、その時のわたしは色々としんみり感じたが、その時の感情を逐一挙げようとすれば、それはかなり手に余る厄介な作業になるだろう。であるから、その時のわたしは、どんな感情をも、明確なものとして感じなかったのだ。ゆえに記憶がおぼろげであるわけだ。しかしそれは、豊富な感情を一時に、ラッシュ的に、一緒くたに感じたということと同義である。たった一つの明らかな、言明し得る事実は、わたしが救われたということであった。

 アキヒトさんは怪訝そうに、まことに怪訝そうに、わたしが夜どうして奇異な場所にいるのか尋ねた。そんな様子になるのは当然だった。

「こんな天候と場所と時間帯で、よもや散歩しているわけではないでしょう? 傘をお持ちでないようですし」

 わたしは苦笑いを我慢出来なかった。それは自虐と、恥じらいと、反省とを込めた笑いだった。

 アキヒトさんは、グローブをはめた手を差し伸べてくれた。わたしはその手を取り、引いてもらい、オートバイの後部に乗せてもらった。小舟の二人乗りは、晃ちゃんとか他の水の妖精(ウンディーネ)の友達としたことがあっても、オートバイの二人乗りというのは、したことがなかった。わたしはヘルメットを借りて被り、少し堅いシートの端に座り、両手をアキヒトさんのお腹まで回し、おへその辺りで組んだ。

「手はしっかりと組んでくださいよ。知らない場所に落っこちて、また同じ羽目になります」

 わたしはこくりと頷いた。声は出さなかったが、その応答は、アキヒトさんに通じたらしい。

 わたしは自分が、安心の出来る、雨に降られない、暖かで乾いた場所へと、徐々に、だけれども確実に、回帰しようとしていることを確信した。その確信は、わたしに途方もなく大きな喜びを与え、また、わたしがついさっきまでそこにいて、困惑し切っていた窮境の救い主への信頼感を起こした。晃ちゃんへの電子メールをつづる時は、彼への好意を確認したが、今は、その好意が高まるのを感じた。寒かった身体は、今は温かく、いや、むしろ熱くなっていた。

 オートバイが走り出し、わたしは凄まじい勢いでそばを通り過ぎる風と、なお降り続ける冷たい雨を肌に感じて、未だ旅館に着いていないのに、もう無事に帰ってきたような、そんな錯覚を抱いていた。


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