ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

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【5】

 そんなもったいない言葉を、果たしてグランマはわたしなんかに、本当に言ってくれただろうか? よくよく考えると、分からなくなってくる。彼女の言った素敵な淑女というのは、確かにわたしの目指したい目標ではあるし、それに向かって努力しているけど、今の野暮ったくて、不器用で、ようやく操船が出来始めたばかりの、小奇麗なおてんばに過ぎないわたしとは、目指すことがおこがましく思えるくらい程遠い。そんな存在にわたしがなれると、グランマが予想し、嘱望してくれたというのは、やっぱり信じがたい。彼女の言葉は、思い上がったわたしの思い込みかも知れない。ひょっとするとでも、わたしの疑いは、仕方のないことなのかも知れない。グランマとの話し合いは、とても恵まれた時間で、その間わたしは、涙を流すような感情に染まっていて、感覚が色々と鈍っていたのだ。本当に、夢のような時間だった。そうしてその時間は終わった。

 朝になっていた。今日の天気は、一昨日と同じく曇りである。パソコンの受信ボックスを見てみたが、晃ちゃんからの返事はまだ来ていなかった。

 わたしは、洗顔と朝食を済ますと、寝間着を制服に着替え、部屋を出た。外では、風がすっかり凪いでいる。今日は曇りだが、前日よりも、辺りに漂う空気に、湿った、重たい感じがある。わたしは、もしかすると雨が降るかも知れないと考えながら、前と同じ岸へと小舟漕ぎの練習のために向かった。

「天気が崩れて来たら」、と岸にいるグランマは言った。「手頃な場所で雨宿りするんだよ? たぶん、雨が降るとしても、そんなに強くはならないだろうから、降り出したら、木の下にでも隠れて雨宿りしなさい」

 わたし達のやり取りは、いかにも主従関係を思わせる、師とその弟子のそれだった。昨夜のことは、わたし達は気にする素振りはなくて、二人共淡々とした態度で、相手に臨んでいた。

 わたしは同じ態度で「はい」と答えると、雨の時のために傘を積んだ小舟に乗り、気が進まなかったが、練習の中止は出来ないので、消極的に漕ぎ出した。水辺の湿った空気は、少し苦いにおいがして、オールで水を、掻き交ぜるように掻くと、それはますます強まった。

 出発より二時間くらい過ぎた頃、予想通り、雨が降り出した。ポツポツと水の粒を肌に受け、雨の降り始めを感じ、空を見上げたら、間もなく本降りになった。

 雲より落ちて来る雨粒を、目をしばたかせて見つめ、わたしは、やっぱり降って来たと呟くと、敏捷に小舟を近くの岸に漕ぎ付け、陸に降りた。そうしてわたしは傘を差し、舟に載せた、弁当などの荷物を手に持った。その後雨宿りをするため、岸辺に広がる木立に入ったのだが、あまりよい木陰が見当たらず、また、下草の辺りより、不快な靄がもわもわと立ち込めだして、しかも、油をかぶったように身体がテカテカとしていて、気持ち悪く、あまり好きでないカエルを見かけたので、逃げるように、国道へと木立を抜けた。

 遠くにそびえる山は、所々、白い霧に覆われ始めている。コンクリートの道路は濡れ、元々の黒色が今はすっかり濃くなっており、また、濡れているため、甲虫のような光沢を放っている。

 手頃な雨宿りの場所を探すわたしは、ちょうどそれに相応しい場所を、付近に見つけた。木で出来ているかなり陰気臭いそれは、物置の小屋のような形をしており、とても小さかった。そして古びていた。どうやらそれは、今はもう使われなくなった、廃れたバス停の待合所のようだった。老朽化し、隅に埃が溜まり、薄暗い闇を抱える待合所は、何だか得体の知れないものが出てきそうな雰囲気があるが、このまま雨下をぶらぶら散歩したくもなく、また、よそにそこより具合のよさそうな場所が見当たらないので、わたしは止むを得ず、そこで雨が上がるまでの時間を潰すことにし、傘を閉じて入った。高い板の椅子に腰を下ろしたわたしは、そばに張られている、暗くてほとんど見えない、黄ばんだ紙の時刻表を見てみた。時刻の隣に、停留所の名前が書かれているが、土着の人間でないわたしには、読めなかった。しかしその名前のことは、どうでもよかった。わたしは何気なく見ただけであり、それにここは、前は使われていたが、今は放って置かれた、用なしの、寂れた廃屋なのである。

 わたしはぼうっと、待合所の入り口に切り取られた、外の景色を眺めた。時々道路を車が通り、わたしの視界を横切って、コンクリートを流れる雨水をはねていく。車が通ることは、本当に稀だった。

 雨が降りしきる景色の遠くには、わたしの抜け出してきた木立があり、その全体は霧に包まれて、不明瞭である。一番高い木のてっぺんまで到ろうとするほど、霧は育っていた。そのため、奥の湖は、濁った白色の中に隠れてしまい、ほとんど見えなかった。

 雨脚は、グランマの言った通り、強くはなかった。ところが雨は地雨らしく、一定の強さで降り続け、中々止もうとする気配を見せなかった。群雲は少しも動かず、空にはびこっていた。雨が上がるまで、時間が掛かるのだろうか。もしもそうなれば、今日の行程は省略しなければならなくなるだろう。

 そんなことをいくぶん憂鬱に考えつつ、わたしは、段々と所在ない思いを覚えてきた。椅子に掛けた傘の先端に集中する水が、地面に流れて、小さなまるい水たまりを成している。

 ふと、目の前の道路を、一台のオートバイがエンジン音を立てて通った。わたしは、そのオートバイになぜか関心が向かい、妙に思った。誰か知っている人が、それに乗っている気がした。しかしそれは、いい加減な直感に過ぎなかった。その音は少し行った所で途絶え、その後、ある男の人が、ひょっこりと待合所に陽気な顔を覗かせた。屈託ない微笑みをたたえている彼は、アキヒトさんだった。驚きのため、わたしは「あっ」と発して目を見開いた。

 運転時に目に着けていた、黒い頑丈そうなゴーグルを首元に下ろしているアキヒトさんは、「どうも」と言って軽く会釈した。ゴーグルには、彼の着ているジャンパー同様雨粒がびっしりと付いていて、スパンコールのような光を放っている。

 アキヒトさんは自分を指差し、「僕のこと、覚えてます?」、と尋ねた。覚えているとわたしが肯定すると、彼は、「よかった」と、ほっとしたように答えて、また、前と同じように無遠慮に、隣にどっかと座った。わたしは、アキヒトさんと再会出来て嬉しいような心地になったが、前日彼が彼のパートナーと思しき女の人といる場面を思い出し、翻然と不愉快になり、むっつりとした。

 アキヒトさんはしかし、わたしの気分などにはお構いなしで、勝手にしゃべり出した。

「嫌ですね、雨。こんなにしっかりと降られちゃ、たまらないですよね」

 わたしは思った。ひょっとすると彼は、わたしの不機嫌そうな表情を見、気遣ってそうしゃべり出したのかも知れない。話せる機会をくれたのかも知れない。とすると、その気遣いは無駄だった。雨ではない別のもので機嫌を損ねているわたしは、背筋をぴんと伸ばし、座禅の時の、一個の石ころにでもなったような、極めて冷静で、不動で、静粛な気分で、「そうですね」、と、さらりと答えた。そうしても、アキヒトさんはわたしのそんな気分には無関心らしく、しゃべり続けた。

「またお会い出来るとは思いませんでしたよ。奇遇ですね。あ、もしかしてアリシアさん、この辺りに住んでるんですか?」

 事実を見抜いたつもりなのだろう、彼はまるで、妙案を閃いたかのように、自信満々に言った。

水の妖精(ウンディーネ)は」、とわたしは淡々と返した。「ネオ・ヴェネツィアにしかいません。前に言ったはずですよ。わたしは見習いの水の妖精で、研修のためにこの島に来たんです。ここの住人ではありません」

「あ、そうでしたね」、とアキヒトさんは苦笑して答えた。「それじゃ、あなたはその研修のために、旅館かホテルに、お泊りになっているわけですね」

 わたしはこくりと頷いた。不機嫌そうな態度でそうした。

 疑問があった。わたしはどうしてその時、そんな態度でアキヒトさんに接したのだろう? 理由は分かっていた。それはわたしが、彼にすでに恋人がいると思って、やきもちを焼いていたせいだ。しかしそれは、勘違いである可能性があり、そう断定するためには、確証を得なければならなかった。にも関わらずわたしは、不確かな情報を真実と思い込み、彼を邪慳にし、ぶっきらぼうに接していた。それはきっと、不当なことではなかろうか? その通り、不当なことだった。気遣ってくれたアキヒトさんの話に、そんな意地悪な態度で受け答えするのは、あまりにも不当なことであり、更に言えば、冷酷で、非道なことだった。だから、彼が気遣うのをやめ、わたしと同じような態度になることは、当然のことだったと言える。彼は、やや不機嫌そうになって尋ねた。

「何だか虫の居所が悪そうですね。一体どうしたんですか?」

「別に。雨のせいですよ」

 ――嘘だった。

「成るほど。では雨が止めば、あなたのご機嫌は治って、その眉間のしわはとけるんですか?」

 眉間のしわ――元々平らだったはずのわたしの眉間には、いつしかそれが出来ていた。優美で高雅でもある水の妖精に、甚だしく不似合いな、陰険な感じを持たせるそれが。ゴンドラに乗っていなくても、オールを携えていなくても、わたしは常に、水の妖精でいるべきだったのに、そんなものを眉間に作ってしまった。

 わたしは、彼が不機嫌になったと知ると、ますます強情っぱりになって、不機嫌の度を高めた。実際はしたくないはずなのに、そうしてしまった。どうしてそんな風に、喧嘩腰で、排他的な態度に、わたしはなってしまったのだろう? 分からなかった。とにかくわたしは、その時することの出来た接し方の内で、最もまずいものを選んでしまったのだ。

 彼の問いに、わたしはすげなく答えた。

「恐らくそうでしょうね。確言は出来ませんけど」

 するとアキヒトさんも、わたしに対抗するように、同じような態度で、「そうですか」と答えた。そうなると、もうわたし達が口論を始めるまで長く待つ必要はなかった。わたしとアキヒトさんは、険しい目付きで見つめ合い、そうして馬鹿馬鹿しい小競り合いを始めた。

「残念ですけど、雨は止みませんよ」

「そんなこと、簡単に分かることじゃないです。天気のことを熟知しているわけじゃないでしょう?」

「それはそうですけど、雲の様子を見れば、何となく分かりますよ」

「勝手なことを言うのはやめてください。あなたの予報が当たるなんて思えません。大体、あなたのは予報ではなくて、単なる勘に過ぎません」

「当たりますよ。僕は何遍も、色々な土地で天気を見て来ました。晴れと、曇りと、雨を見てきました。台風も雪もそうです。オーロラだって見たことがあります。そういうわけで、僕には豊富なデータがあります。そうしてそのデータは、とても信頼出来るものなんです」

 彼が言い終わると、わたしは目を逸らし、呆れて、鼻でフンと息を吐き出した。

 結局雨は上がった。その確信をしていそうな物言いのせいで、一瞬信じてみようかと思ったけど、アキヒトさんの言葉は、当てにしてはいけない妄言であった。天気の好転がそれをはっきり明かしてくれた。

 わたしは、勝利を得たような気分になり、すっと立ちあがると、アキヒトさんに別れを告げ、待合所を去った。背後より「気まぐれだな」という言葉が聞こえたが、それはきっと、天気に対してのものであって、理解しがたいわたしの不機嫌に対してのものではないだろう。

 わたしは雨上がりの、まだ雲がたくさん残っているが、すぐに消えていくだろう空のもと、木立を通り、池辺へと戻った。

 そうして水際に着き、愕然とした。小舟が、なくなっているのである。陸に上がる際、しっかりと近くの低木にロープで繋ぎ止めて置いたはずなのに、小舟はなかった。恐らく、雨で増えた水に、流されてしまったのだと思う。

 わたしはにわかに焦り出すと、辺りを走り回り、小舟を探したが、一向に見つからなかった。水面へ出てしっかり探そうとしても、近くに他の小舟がなく、出来なかった。

 小舟を失うなんて、それを操る水の妖精としては、決して犯してはならない過失だった。それゆえにわたしは、水の妖精として失格だった。わたしは、しかるべき罰と戒めを、甘んじて受けなければいけないわけだが、それは運命がわたしに誂えてくれているようだった。

 わたしはしょんぼり落胆し、旅館へ帰る方法を案じたが、何も思い付かなかった。さっきの待合所へと歩いて戻り、バス停を調べたが、そこはやはり、もう使われていないバス停であって、役に立つ見込みはまるでなかった。バス停のそばの道路には、バスはおろか、一般の車さえ通らなかった。待合所には、もうアキヒトさんはいなくなっていた。彼のものらしきオートバイもなかった。ただ、彼が落としたものであろう雨粒の跡はあった。

 わたしはもう一度、待合所の椅子に座り、ほとんど困惑の砂煙に満ちている、重い頭を、低く垂れた。

 日は暮れかけており、空は段々と暗くなろうとしている。

 わたしの頭の中では、どうしようという、焦りを帯びた問いが、答えを求めて何度もループしていた。その問いは、戻ってくる度に不幸で嫌なビジョンを見せ、現下、夜が夕方を逐っているように、わたしを徐々に、追い詰めていた。


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