「お試し期間って、つまり結局何をするんですか?」
「デートしたりいちゃついてみたり、恋人っぽいこと全般ね」
「……それって普通の恋人と何が違うんですか?」
「だからそれで本当の恋人になれるか試してみましょう! ってことよ。そうね、まずは一ヶ月でどうかしら」
どうかしら、と言われても――少年は困り果て、しかし少女は容赦なく顔を近づける。まるで、二人の間に隙間があるのを許さないかのように。
「それとも須賀くんは、私とじゃお試しでも嫌かしら?」
たった二つの年齢差。無論、下級生と上級生として明確な差があるのが高校生である。だが、それでも大差はない――そう思っていた。
けれども目の前に迫る先輩は、そんなもの軽く飛び越していて。
奇妙な関係を運命付けるその提案を、彼は受け入れるのだった。
◇
残念ながらと言うべきか、須賀京太郎の十六年足らずの人生において恋人ができたことはなかった。中学生のとき、何度か二人きりで出かけた女友達はいたが、それ以上の発展はなかった。それ以外で気の置けない仲と言えば咲や優希だが、当然彼女たちとも特別な間柄になったことはない。
故に。
お試し期間とは言え、竹井久と恋人関係となったことは彼にとって青天の霹靂だった。
この週末、彼は悶々としながら自室で過ごした。元々部長はその気があったのか、本当に恋人になってしまうのか、あるいはやはりからかわれただけなのか――悩みは解消されず、思考もまとまらない。もしかしたらどこかに遊びに誘われるのかと待機したが、久からの連絡は一切なかった。京太郎から久に連絡をとるのも、小さな矜持が許さなかった。
お陰様で、月曜日の朝から寝不足気味での登校となった。顔色も悪かったのか、廊下で会った和にも心配される始末。当たり前のように、授業は半分眠ったまま過ごした。
ようやく訪れたお昼休み。食い気よりも眠気が勝っていた京太郎は、この時点で久とのことは頭から抜け落ちていた。友人からの誘いにも生返事で、机に突っ伏すばかり。
「須賀くん」
「んー……」
そんな折、降ってきたのは女子の声。しかし京太郎は顔を上げない。上げる気力が湧かなかった。
「すーがーくーんー」
「んー、なんだよ、もう……寝かせといてくれよ」
「だめよ。お昼はしっかり食べなくちゃ」
肩を揺すられ、流石に無視するわけにもいかず、京太郎は顔を上げる。
そこにいたのは――予想外の人物。彼女がこの教室を訪れるなんて、初めてのことだった。
「ぶ、部長っ?」
そのにやにや笑いを見間違えるはずもない。先ほどまで自らの思考を支配していた、竹井久であった。
「ちょっと、私はもう部長じゃないわよ。いつまで寝惚けてるの」
「えっ、いやっ、ぶちょ、じゃなくて、た、竹井先輩っ?」
「うーむ。ひとまずはそれでいっか」
「な、なんで急に、こんなところにっ?」
京太郎の質問に、久はあっけらかんと答える。
「もちろん、お昼ご飯のお誘いよ。須賀くん、学食派よね?」
「そう、ですけど……」
「というわけで、お弁当のない須賀くんのために私が用意してきました」
彼女が掲げるのは、巾着に包まれた四角い箱。まだ状況に理解が追いつかない京太郎は、うまく言葉を紡げない。
「えーっと……なんですか、それ?」
「お弁当に決まってるじゃない。一緒に食べましょ」
「……俺が? 部長と?」
「だから、部長じゃないってば」
困惑から立ち直れない京太郎に業を煮やしたのか、久は彼の腕をとって強引に立ち上がらせる。京太郎は引き摺られる形で、連行されてしまう。背中に突き刺さるのは、クラスメイトたちの視線。彼らもまた、唐突な学生議会長の登場に驚いていた――久と京太郎が同じ麻雀部に所属していることは、周知の事実だが。
混乱の沈黙に包まれた教室を後にして、京太郎が連れて来られたのは麻雀部の部室だった。お昼休みに部室に入るのは珍しく、他の部員の姿もない。二人きりの、空間である。机を挟んで久の対面に座らされた京太郎は、なおも戸惑いを隠せない。そんな京太郎をよそに、久は包みから二人分のお弁当箱を取り出していた。
「早起きして腕によりをかけて作ったんだからね、味わって食べてよ?」
「そりゃまあ、ありがたいことですけど……でも、本当に良いんですか? 貰っちゃって」
「だから、須賀くんのために作ったんだってば。食べてもらわないと困るんだってば」
お弁当の中身は、オーソドックスながら食欲をそそられるものだった。一段目に詰められたのは、ふんわり黄色の卵焼き、白身魚のソテー、ポテトサラダにミニハンバーグ。二段目には梅干しを添えた白いご飯が敷き詰められていた。大小二組のお弁当の内、京太郎に渡されたのは大きいほう。
「いただきまーすっ」
「……いただきます」
久の明るい声に釣られて、京太郎は手を合わせていた。
「どうぞどうぞ、召し上がれ」
さらに促される形で、おかずに箸をつける。まずはハンバーグをぱくりと一口。
「どう?」
期待に満ちた瞳を向けられ、京太郎は、
「……美味しいです」
搾り出すように、そう答えた。
しかしながら、彼の表情は硬い。――美味しくないわけでは、ない。だが、美味しいかと問われると、回答は難しい。ただそれを正直に伝える勇気が、京太郎にはなかった。仮にも相手は先輩なのだ。
ただ、卓上で百戦錬磨の久を相手に、中途半端な取り繕いは通じなかった。
「……無理にお世辞を言わなくても良いわよ」
「お、お世辞ではなく…………ああ、いえ。すみません」
結局圧力に負け、京太郎は正直な感想を認めてしまう。怒られるかと危惧したが、久の反応は存外淡泊であった。
「やっぱり? むー。確かにコレ、微妙ね」
「あの、部長――」
「だから、部長じゃないってば」
「竹井先輩」
ようやく平静を取り戻した京太郎は、至極当然の疑問を口にする。
「なんですか、コレ?」
「コレって、なにが?」
「このお弁当っていうか、この状況ですよ!」
拉致されたかと思えば、女子の先輩が作ってきたお弁当を二人で突き合う。京太郎にとっては理解の範疇外の出来事――正直言って、清澄の全国制覇よりも現実味のないシチュエーションだ。しかし、目の前に座る久は幻でもなんでもない。小首を傾げて、
「嫌なの?」
「い、嫌というわけではないですけど」
「じゃあ嬉しい?」
「え……あ、その……」
その問いに、口ごもる京太郎。期待に満ちた瞳を向けてくる久は、子供のようにわくわくしている。
「いえ、そういう話をしてるんじゃないんです」
ひとまず、京太郎は話をはぐらかす。久の不満気な顔は無視した。
「急にどうしたんですか。その、お昼に誘われるのなんて今までなかったじゃないですか。しかも、ぶちょ……竹井先輩の手作り弁当なんて」
「須賀くんこそ何言ってるのよ」
唇を尖らせ、久は心外だと言わんばかりに主張する。
「お試しだけど、今の私たち恋人なのよ? 恋人っぽいことをするって言ったじゃない。イチャつくって言ったじゃない!」
「……あれ、マジだったんですか?」
「冗談だと思って返事をしたの? 酷いわね。オッケー出してくれたじゃない」
「い、いまいち信じられなかったんですよ。あれから一度も連絡ありませんでしたし、からかわれたって思うのも当然でしょう」
「……週末は色々あったのよ。とにかく、恋人っぽいことをするわよ!」
久は卵焼きを箸で掴むと、ごく自然な動作でそれを京太郎の口元に持っていく。何だその日本語は、と突っ込む暇もなかった。
「はい、あーん」
「…………あの」
「あーん」
無視することなど、許されなかった。「食べろ」という圧力に、勝てる要素は微塵もない。観念した京太郎は、ぱくりと齧り付いた。
「どう?」
「……微妙ですね」
「やっぱり修行不足かー。練習しないとダメね」
軽く放たれるその言葉は、しかし真剣味を帯びていた。一方の京太郎は、羞恥心で胸が一杯だった。二人きりでまだ助かった。こんなところ、誰かに見られていたらたまったものではない。
「……マジで恋人ごっこ、する気なんですね」
「ごっこじゃないわよ。お試しでも、本当の恋人なんだから」
「お試しで本当って矛盾してません?」
「良いから! とにかく今、須賀くんと私は恋人同士! 分かったっ?」
「分かった、分かった、分かりました! だからちょっと離れて下さい!」
身を乗り出してきた久から漂う香りに、どぎまぎしてしまう。――今までは、こんなことはなかった。竹井久という人間は、麻雀部の部長であり学生議会長であり先輩であった。失礼な話、その肩書きと姉御肌な性格のせいで、女子であることを失念していた。出会って半年近く経って、ようやく、本当にようやくその事実に気付いたのだ。あるいは、気付かされたと言うべきか。
「本当に分かったのかしら? また適当に返事してない?」
「大丈夫です、分かりました、了解しました!」
「じゃあ、今から私が言うことを復唱してね。『僕は竹井先輩のことが大好きです、喜んでお付き合いします』。はい、どうぞっ」
「言わねーよ!」
思わず敬語も吹っ飛んでいた。先輩に対してとるべき態度ではなかったが、このときばかりは別だった。
「えー。恋人よ恋人。須賀くんは恋人にそんな態度をとるの?」
「仮です! お試しです! まだ試用期間中です!」
「仮でもお試しでも使用期間中でも恋人よ」
「あんまり恋人恋人言うの止めてくれませんか。恥ずかしいんですけど」
「あら。須賀くんって意外と純情なのね。和の胸、あんなに見てたのに」
「ぐうっ?」
痛いところを突かれ、言葉に詰まる京太郎。というより、久にバレていると気付いていなかった。頬は朱に染まり、久の顔もまともに見られなくなる。
「男の子なんだから仕方ないわよ。あの子の胸には、私だって視線を引き寄せられるもの」
「いまさらフォローされても嬉しくないです……」
意気消沈する京太郎の肩を、久はばんばんと叩く。
「良いじゃない、今は彼女がいるんだし! あ、でもえっちなことはダメよ、私たちまだ高校生なんだから」
「初めから期待なんてしてませんよ!」
「ほんとに? ちょっとは期待してたんじゃないの?」
「……っ、してませんってばっ! なんですか、結局先輩は俺をからかいたいだけなんですか」
嫌疑から逃れつつ、京太郎は胸に溜まっていたものを吐き出す。「もちろん」と笑って返されるとさえ思っていたが、しかし。
久はすっと表情を消し、一転して落ち着いた声色で、
「須賀くん、目を閉じて」
「え? ど、どうしてですか」
「良いから、閉じて。お願い」
唐突で、理解不能の要求。しかし真摯な態度で先輩に頼まれると、京太郎は逆らえない。言われた通りに、目を閉じてしまう。
すると、あれだけやかましかった久がぱたりと黙り込んだ。静まり返った部室に、男女が二人きり。
――あれ、なんだ、なにこの雰囲気。
戸惑う京太郎の口元に、何かが近づく気配があった。久の吐息が、漏れ聞こえる。同時に、自分の心臓が高く跳ねるのを自覚した。まさか、そんな、いきなりおかしい――混乱が頂点に達したとき。
唇に、柔らかい感触が伝わってきた。
「っ!」
思わず、京太郎は目を開ける。
そこにあったのは――
「目は閉じてって言ったけど、口は開けて貰わないと」
お箸で摘まんだ卵焼きを、京太郎の唇に押し付ける久の姿だった。久は、実に満足気な笑顔を浮かべている。とても、嬉しそうだった。
京太郎は、それ以上何も言わなかった。久の箸を払いのけ、自分の弁当をがつがつと食べ、弁当箱を閉じてしまう。その勢いを、久も止められなかった。
「ご馳走様でした! お弁当箱は洗って明日お返しします!」
がたんと椅子を鳴らして立ち上がり、さっさとその場を退散しようとする。
「ちょっと待って」
だがその腕を、久が絡め取る。それも振り払いたい衝動に駆られる京太郎だったが、思いの外強い力で捕らわれていた。
「怒った?」
「……怒っては、いませんけど。やっぱりからかいたいだけなんですよね」
それは、偽らざる本音だった。どちらかと言えば、妙な期待をしてしまった自分が恥ずかしいだけだった。
――けれども。
けれども、久は。
「からかいたいだけ、というのは心外ね」
京太郎の腕を引き、彼を屈ませ。
自分は、爪先立ちになり。
――二人の唇を、重ねた。
時間にして、五秒にも満たなかっただろう。だがしかし、間違いなく、疑いようもなく、しっかりと、繋がっていた。
「ん」
ひょいと、久は京太郎から距離を取る。そして少しだけ恥ずかしそうに、
「ちゃんと、本気でもあるんだから」
と、微笑んだ。
京太郎は動かない。動けない。返事の一つも出来やしない。そんな彼をよそに、久は食べかけのお弁当箱を片付け、いそいそと部室から出て行く。
「それじゃ、午後の授業も頑張ってね」
そのエールが、京太郎の耳に届いたかどうかは、彼自身にしか分からない。