試用期間は打ち切りで   作:TTP

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10月16日 雨と黄昏

 いつの間にか、しとしとと雨が降り始めていた。麻雀椅子に深く腰掛け、京太郎はぼうっと窓の外を眺める。薄暮にはまだ早いが、雨霧のせいで外の様子は掴めない。しかし彼は構わず、そのままの体勢でいた。――今、この清澄高校麻雀部の部室には、彼一人きりだった。

 彼の手元にあるのは、麻雀の教本。高校に進学したこの春から麻雀を始めた京太郎は、夏を過ぎてようやく初心者を脱したところであった。とは言っても、学ばなければならないことはまだまだ多い。周囲のレベルも圧倒的に上だ。少しでも距離を縮めようと今日もこうして勉強しているのだが――雨に気を取られ、集中の糸が切れてしまった。

 

 休憩時間とも言えない、僅かな間。

ほんの少しの、虚ろな時。

 

「だーれだ?」

 

 その隙を突いて、彼女は京太郎の背後に忍び寄っていた。ひんやりとした手で視界を突然塞がれ、京太郎は一瞬肩を震わせる。だが、それ以上の動揺はなかった。微かに溜息を吐いてから、彼は呆れた声で返事をする。

 

「何か御用ですか、竹井先輩」

「むー。淡泊なリアクションね」

 

 目隠しを止めて、彼女は――竹井久は、ひょいと京太郎の前に回り込む。不満気に口を尖らせる彼女は少し幼げに見えるが、これでも京太郎の二つ年上の先輩である。そして、清澄高校麻雀部の前部長でもあった。

 

「もっとうろたえてもらわないと、悪戯のしがいがないじゃない」

「ご期待に添えなくて申し訳ないですけど、そういうことなら咲あたりにやって下さい。たぶん理想通りの反応を見せてくれますよ」

「咲にはもうやったわ」

 

 悪びれもせずにんまり笑う久を前に、京太郎は今一度溜息を吐いた。――この人は、出会ったときからずっとこの調子だ。

 大人なようで、けれども茶目っ気があって、それでいて捉え所のない先輩。どこかアウトローな雰囲気を振りまきながら、制服は折り目正しく着用し、学生議会長も務めていた。相反する要素を幾つも持ち合わせ、そして不思議なカリスマを発揮する――それが、京太郎にとっての竹井久という少女だった。

 彼女と向き合い、京太郎はもう一度訊ねる。

 

「で、何の用ですか」

「あら。用がなかったら、引退した先輩は部室に来ちゃだめなの?」

「用がなかったら受験勉強して下さい」

「たまの休みも必要なの。リフレッシュよ、リフレッシュ」

「そう言って一昨日も来たじゃないですか。先輩が部室に来る度、俺は心配――」

「嬉しい癖に」

 

 いつの間にか近寄って来ていた久が、京太郎の耳元で囁くように言った。それだけで、京太郎は顔を赤らめ黙り込んでしまった。やり込めたはずの久は、しかしそれに拘る様子ひとつ見せず、話題を転換する。

 

「まこたちはどうしたの? 須賀くん一人?」

「今日は染谷先輩のところでバイト兼練習です。人手が足りないらしくて」

「それで須賀くんはお留守番なの? 一緒に行けばいいじゃない」

「俺にメイド服着ろって言うんですか」

「案外似合うかも知れないわよ?」

「似合っても着ませんよ」

 

 それ以上の軽口には付き合わず、京太郎は教本を開く。久は気にする素振り一つ見せず、雀卓を挟んで京太郎の向かいに座った。

 

「二人打ちでもしない? 折角だから鍛えてあげるわよ」

「竹井先輩が来たら勉強の見張りをするようにと、染谷先輩から言い付かっています」

「む。何、須賀くんはまこの命令に従うって言うの?」

「部長命令ですから」

 

 教本に視線を落としながら、京太郎は詰め寄る久をはね除ける。つんとした彼の態度は、一見取り付く島もない。しかし久は、構わず雀卓へと身を乗り出した。突然間近に先輩の顔が迫り、流石にこれには京太郎も慌てふためく。

 

「わっ、な、なんですか急にっ。近い、近いですってっ」

「部長命令は聞くのに、前部長命令は聞けないんだ」

「いやそりゃあ部長命令優先でしょうっ。大体前部長命令ってなんですか、そんなものに拘束力があるとでもっ?」

「酷い、須賀くんは私よりまこをとるのね!」

「今そういう話してないですよねぇっ?」

「そういう話なのよ!」

 

 ずずい、と久がさらに顔を近づけてくる。京太郎は頬を染めて顔を背けながら、けれども椅子を引くことはなかった。

 

「でもまあ、板挟みになる須賀くんも可哀想よね」

「え……」

 

 しかしここで意外にも、久は椅子に腰を下ろした。このまま押し切られるかと思った京太郎は、困惑に眉を潜める。ただ、当然このままで彼女が引き下がるわけがなかった。

 

「半荘一回だけ打ちましょ。私が勝ったら須賀くんは私の言うことを聞く。須賀くんが勝ったらちゃんと勉強するわ」

「あんまり俺に得がないルールな気がしますけど」

「まこの言い付けは守れるじゃない」

「そうだとしても、俺が竹井先輩に勝てるわけないじゃないですか」

 

 あら、と久は心外と言わんばかりに肩を竦める。

 

「こっちは既に引退した身よ。須賀くんは現役で毎日練習してるじゃない。それにただ本読んでるよりも私と打ったほうが練習になるわよ。――それとも、こてんぱんにやられるのが怖いのかしら?」

 

 あからさまな挑発に、京太郎もむっとする。ここまで言われて引き下がれるほど、彼は大人ではなかった。教本を片付け、真剣な眼差しで久の瞳を射貫く。

 

「分かりました、分かりましたよ。打てば良いんでしょう」

「やったっ」

 

 その瞬間の彼女の笑顔は年齢よりも幼く見えて、京太郎はどきりとしてしまう。誤魔化すようにそっぽを向くが、それを久に悟られていたのは明白だった。

 

「……絶対勝って、勉強させますよ」

「そうこなくちゃ」

 

 京太郎に二人打ちの経験はほとんどなかったが、気合は充分だった。この一回だけでも勝ってみせると意気込み、難敵に挑む姿は勇ましい。

 ――しかしながら。

 

「はいツモー。私の勝ちー」

「ぐ……っ、ちくしょう……!」

 

 終始久が優勢を維持したまま、あっさりと決着は着いた。半ば分かっていた結果とは言え、悔しいものは悔しい。これで終わりと納得できない京太郎は、当然再戦を申し込む――

 

「もう一回勝負です!」

「え? だめよ、私勉強しなくちゃ」

 

 あっさりと断られてしまった。

 

「ちょ、何言ってるんですか! 先輩が勝ったらコレ続けるんでしょっ?」

「私、受験生だし。須賀くんの言うとおりちゃんと勉強しないとね。それにあくまで約束は『私が勝ったら須賀くんが私の言うことをなんでも聞く』だったし」

「なんでもとは言ってません!」

「細かいことは気にしない、気にしない」

 

 そう言って久は立ち上がると、席を移して本当に参考書を開いてしまう。ぐぬぬ、とイマイチ納得のいかない京太郎だったが、当初の目的通りにはなっているため深く突っ込めない。

 

「須賀くんもしっかり練習に励んでね」

「かき乱すだけかき乱しといてこの人は……」

 

 呆れを通り越して感心すらしてしまう。仕方なく京太郎は部のパソコンを立ち上げて、ネト麻を始める。

 しばらくの間、部室にはマウスのクリック音と、ノートの上をシャーペンが走る音、そして外の雨音だけが木霊していた。

 

 何気ない、いつもの日常。

 穏やかで、緩やかな時間。

 京太郎にとってそれは――とても、居心地が良かった。

 

 気が付いたときには、最終下校時刻がすくそこまで迫っていた。

 うーん、と伸びをする久は、一仕事終えた後のように清々しい。

 

「そろそろ帰ろっか」

「そうですね。キリもいいですし」

「んー、須賀くんに何お願いしようかな。グラウンドで裸踊りとか?」

「罰ゲームの方向はやめて下さい! というか社会的に死ぬ! あの半荘一回重すぎでしょう!」

「冗談よ、冗談」

 

 貴女が言うと冗談に聞こえないんです、とは言えなかった。怒らせたら本気でやらされそうだ――というのは過ぎた考えだろうか、と京太郎は自問する。

 

「あー」

 

 そんな彼をよそに、久が間延びした声をあげる。それはどこか、白々しい色が混じっていた。

 

「今日、傘忘れたんだった」

「朝は降ってませんでしたからね」

「そう! 寝坊して慌てて出てきたから、天気予報見てなくて。失敗しちゃった」

「それなら――」

「だから、お願い」

 

 京太郎の言葉を遮って、久は微笑む。

 

「須賀くんの傘――入れてくれる?」

 

 すぐに返事ができなかった理由を、彼は誰にも語れない。けれどもそれが、久には筒抜けだということは分かった。

 ――敵わない。

 初めて出会ったときから朧気に感じていた予感。――この人には、どうあがいても敵わない。わざとらしく顔を覗き込んでくる久を振り払いながら、それでも精一杯の抵抗を試みる。

 

「……でも、竹井先輩の家、俺ん家とは逆方向ですよね」

「送ってって!」

「…………」

「グラウンドで裸踊り」

「分かりました、分かりました! 鍵かけますから早く出てって下さい!」

「まだ帰る準備終わってないのに、慌てないでよ」

 

 今日一番の大きな溜息を吐いて、京太郎は部室の片付けを始める。平時より、自分の心拍音が大きく聞こえる気がしてならない。

 戸締まりをして、すっかり人気の少なくなった廊下を渡り、靴箱に辿り着く。傘立てから傘を抜き出し、久と肩を並べながら、京太郎は校舎を出た。

 

「あ」

「お」

 

 そこで、二人はぴたりと足を止めた。

 予想外の光景が、広がっていた。

 いつの間にか雨は止み、傾いた陽が空を赤く染め、虹の橋が架かっていた。その様はとても美しく、二人はしばらく呆けて眺めていた。

 

「止んでますね」

「止んでるわね」

 

 ようやく発せられた二人の声は、揃って間が抜けていた。たまらない、と言った様子で噴き出したのは、久だった。

 

「あははははっ」

「何がそんなにおかしいんですか」

「ん、だって須賀くん、残念なんじゃない? 私と相合い傘できなくなって」

「……別に残念でもなんでもないですよ」

「嘘ばっかり」

 

 嘘ばっかりなのはそっちでしょう、と京太郎は言いたかった。言えなかったのは――図星だと自覚していたから。

 これで、一緒に帰る理由はなくなった。なくなってしまった。肩透かしを食らった京太郎は、仕方なく、久に別れの挨拶をしようとする。

 しかし、それよりも早く、

 

「それじゃあ、お願いは変更ね」

「っ」

 

 きゅ、と。

 気が付いたときには、京太郎の右手は久の左手に握り取られていた。ふっくらとした柔らかな感触が、掌を通して伝わってくる。まるで隙間を埋めるように、指と指が絡められた。

 

「このままうちまで送っていってね」

 

 他に、生徒の姿が見えなくて良かったと京太郎は心の底から安堵した。今の自分の顔を、他の誰かに見られるのは断固として許されない。

 久に手を引かれる形で、京太郎は歩き出した。やっぱり、どうあってもこの人には敵わない。京太郎は改めて思い知らされる。平気でこんなことをしてくるのだから。自分の場合、恥ずかしくてとてもできやしない。

 

「ふふふっ、須賀くんは意外と純情よね」

「放っといて下さい」

 

 ――けれども。

 やはり、やられっぱなしというのは癪である。

 少しでも良いから、この人をやりこませたい。そんな願望が、ふつふつと湧いて出てくる。

 

「竹井先輩」

「ん? なあに?」

 

 繋げた手をぶんぶん振りながら、久は屈託なく笑う。

 

「さっき俺、一つ嘘吐きました」

「嘘? 何の?」

「実は、今日俺も染谷部長の家に呼ばれてたんです。手伝ってくれないかって」

「そうなの? なんで行かなかったの、そっちのほうが練習になるでしょ」

「竹井先輩が来るかも知れないと思ったから」

 

 二人の歩みは、急に止まった。正確には、久が固まってしまったのだ。

 

「……待つにしたって、もっと上手いやり方あると思うけど。連絡の一本も寄越せばいいじゃない。私がRoof-top行っていたかも知れないし、下手したらすれ違いよ」

「真似したんですよ」

「真似?」

 

 ええ、と京太郎はできるだけ平坦な声を作って頷く。

 

「先輩の、悪待ち」

 

 言ってから、後悔した。恥ずかしい。あまりにも恥ずかしすぎる。顔から火が出そうだ。手が汗ばむのが分かる。――気持ち悪いと思われていないだろうか。いや、さっきから何も返答がない。既に呆れられてしまったのだろうか。

 恐る恐る、京太郎は隣の久の様子を窺おうとした。しかし、

 

「っ、今こっち向かないで!」

「痛ぁっ?」

 

 思い切り手を握りしめられ、京太郎は悲鳴を上げた。油断していたのもあったが、存外久の握力は強かった。

 結局、京太郎がそのときの久の表情を見ることはできなかった。どれだけ訊ねても、答えは終ぞ返ってこなかった。

 それからの帰路、二人の間に会話は少なかった。気まずそうにぽつぽつ言葉を交わすだけで――しかし、傍から見ると仲睦まじげな男女のシルエットであったろう。きっと、誰しもがそう思っただろう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 竹井久と須賀京太郎。

 清澄高校麻雀部前部長と同麻雀部員。

 二人は、初々しい恋人同士――

 

 

 

 ではない。


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