いつの間にか、しとしとと雨が降り始めていた。麻雀椅子に深く腰掛け、京太郎はぼうっと窓の外を眺める。薄暮にはまだ早いが、雨霧のせいで外の様子は掴めない。しかし彼は構わず、そのままの体勢でいた。――今、この清澄高校麻雀部の部室には、彼一人きりだった。
彼の手元にあるのは、麻雀の教本。高校に進学したこの春から麻雀を始めた京太郎は、夏を過ぎてようやく初心者を脱したところであった。とは言っても、学ばなければならないことはまだまだ多い。周囲のレベルも圧倒的に上だ。少しでも距離を縮めようと今日もこうして勉強しているのだが――雨に気を取られ、集中の糸が切れてしまった。
休憩時間とも言えない、僅かな間。
ほんの少しの、虚ろな時。
「だーれだ?」
その隙を突いて、彼女は京太郎の背後に忍び寄っていた。ひんやりとした手で視界を突然塞がれ、京太郎は一瞬肩を震わせる。だが、それ以上の動揺はなかった。微かに溜息を吐いてから、彼は呆れた声で返事をする。
「何か御用ですか、竹井先輩」
「むー。淡泊なリアクションね」
目隠しを止めて、彼女は――竹井久は、ひょいと京太郎の前に回り込む。不満気に口を尖らせる彼女は少し幼げに見えるが、これでも京太郎の二つ年上の先輩である。そして、清澄高校麻雀部の前部長でもあった。
「もっとうろたえてもらわないと、悪戯のしがいがないじゃない」
「ご期待に添えなくて申し訳ないですけど、そういうことなら咲あたりにやって下さい。たぶん理想通りの反応を見せてくれますよ」
「咲にはもうやったわ」
悪びれもせずにんまり笑う久を前に、京太郎は今一度溜息を吐いた。――この人は、出会ったときからずっとこの調子だ。
大人なようで、けれども茶目っ気があって、それでいて捉え所のない先輩。どこかアウトローな雰囲気を振りまきながら、制服は折り目正しく着用し、学生議会長も務めていた。相反する要素を幾つも持ち合わせ、そして不思議なカリスマを発揮する――それが、京太郎にとっての竹井久という少女だった。
彼女と向き合い、京太郎はもう一度訊ねる。
「で、何の用ですか」
「あら。用がなかったら、引退した先輩は部室に来ちゃだめなの?」
「用がなかったら受験勉強して下さい」
「たまの休みも必要なの。リフレッシュよ、リフレッシュ」
「そう言って一昨日も来たじゃないですか。先輩が部室に来る度、俺は心配――」
「嬉しい癖に」
いつの間にか近寄って来ていた久が、京太郎の耳元で囁くように言った。それだけで、京太郎は顔を赤らめ黙り込んでしまった。やり込めたはずの久は、しかしそれに拘る様子ひとつ見せず、話題を転換する。
「まこたちはどうしたの? 須賀くん一人?」
「今日は染谷先輩のところでバイト兼練習です。人手が足りないらしくて」
「それで須賀くんはお留守番なの? 一緒に行けばいいじゃない」
「俺にメイド服着ろって言うんですか」
「案外似合うかも知れないわよ?」
「似合っても着ませんよ」
それ以上の軽口には付き合わず、京太郎は教本を開く。久は気にする素振り一つ見せず、雀卓を挟んで京太郎の向かいに座った。
「二人打ちでもしない? 折角だから鍛えてあげるわよ」
「竹井先輩が来たら勉強の見張りをするようにと、染谷先輩から言い付かっています」
「む。何、須賀くんはまこの命令に従うって言うの?」
「部長命令ですから」
教本に視線を落としながら、京太郎は詰め寄る久をはね除ける。つんとした彼の態度は、一見取り付く島もない。しかし久は、構わず雀卓へと身を乗り出した。突然間近に先輩の顔が迫り、流石にこれには京太郎も慌てふためく。
「わっ、な、なんですか急にっ。近い、近いですってっ」
「部長命令は聞くのに、前部長命令は聞けないんだ」
「いやそりゃあ部長命令優先でしょうっ。大体前部長命令ってなんですか、そんなものに拘束力があるとでもっ?」
「酷い、須賀くんは私よりまこをとるのね!」
「今そういう話してないですよねぇっ?」
「そういう話なのよ!」
ずずい、と久がさらに顔を近づけてくる。京太郎は頬を染めて顔を背けながら、けれども椅子を引くことはなかった。
「でもまあ、板挟みになる須賀くんも可哀想よね」
「え……」
しかしここで意外にも、久は椅子に腰を下ろした。このまま押し切られるかと思った京太郎は、困惑に眉を潜める。ただ、当然このままで彼女が引き下がるわけがなかった。
「半荘一回だけ打ちましょ。私が勝ったら須賀くんは私の言うことを聞く。須賀くんが勝ったらちゃんと勉強するわ」
「あんまり俺に得がないルールな気がしますけど」
「まこの言い付けは守れるじゃない」
「そうだとしても、俺が竹井先輩に勝てるわけないじゃないですか」
あら、と久は心外と言わんばかりに肩を竦める。
「こっちは既に引退した身よ。須賀くんは現役で毎日練習してるじゃない。それにただ本読んでるよりも私と打ったほうが練習になるわよ。――それとも、こてんぱんにやられるのが怖いのかしら?」
あからさまな挑発に、京太郎もむっとする。ここまで言われて引き下がれるほど、彼は大人ではなかった。教本を片付け、真剣な眼差しで久の瞳を射貫く。
「分かりました、分かりましたよ。打てば良いんでしょう」
「やったっ」
その瞬間の彼女の笑顔は年齢よりも幼く見えて、京太郎はどきりとしてしまう。誤魔化すようにそっぽを向くが、それを久に悟られていたのは明白だった。
「……絶対勝って、勉強させますよ」
「そうこなくちゃ」
京太郎に二人打ちの経験はほとんどなかったが、気合は充分だった。この一回だけでも勝ってみせると意気込み、難敵に挑む姿は勇ましい。
――しかしながら。
「はいツモー。私の勝ちー」
「ぐ……っ、ちくしょう……!」
終始久が優勢を維持したまま、あっさりと決着は着いた。半ば分かっていた結果とは言え、悔しいものは悔しい。これで終わりと納得できない京太郎は、当然再戦を申し込む――
「もう一回勝負です!」
「え? だめよ、私勉強しなくちゃ」
あっさりと断られてしまった。
「ちょ、何言ってるんですか! 先輩が勝ったらコレ続けるんでしょっ?」
「私、受験生だし。須賀くんの言うとおりちゃんと勉強しないとね。それにあくまで約束は『私が勝ったら須賀くんが私の言うことをなんでも聞く』だったし」
「なんでもとは言ってません!」
「細かいことは気にしない、気にしない」
そう言って久は立ち上がると、席を移して本当に参考書を開いてしまう。ぐぬぬ、とイマイチ納得のいかない京太郎だったが、当初の目的通りにはなっているため深く突っ込めない。
「須賀くんもしっかり練習に励んでね」
「かき乱すだけかき乱しといてこの人は……」
呆れを通り越して感心すらしてしまう。仕方なく京太郎は部のパソコンを立ち上げて、ネト麻を始める。
しばらくの間、部室にはマウスのクリック音と、ノートの上をシャーペンが走る音、そして外の雨音だけが木霊していた。
何気ない、いつもの日常。
穏やかで、緩やかな時間。
京太郎にとってそれは――とても、居心地が良かった。
気が付いたときには、最終下校時刻がすくそこまで迫っていた。
うーん、と伸びをする久は、一仕事終えた後のように清々しい。
「そろそろ帰ろっか」
「そうですね。キリもいいですし」
「んー、須賀くんに何お願いしようかな。グラウンドで裸踊りとか?」
「罰ゲームの方向はやめて下さい! というか社会的に死ぬ! あの半荘一回重すぎでしょう!」
「冗談よ、冗談」
貴女が言うと冗談に聞こえないんです、とは言えなかった。怒らせたら本気でやらされそうだ――というのは過ぎた考えだろうか、と京太郎は自問する。
「あー」
そんな彼をよそに、久が間延びした声をあげる。それはどこか、白々しい色が混じっていた。
「今日、傘忘れたんだった」
「朝は降ってませんでしたからね」
「そう! 寝坊して慌てて出てきたから、天気予報見てなくて。失敗しちゃった」
「それなら――」
「だから、お願い」
京太郎の言葉を遮って、久は微笑む。
「須賀くんの傘――入れてくれる?」
すぐに返事ができなかった理由を、彼は誰にも語れない。けれどもそれが、久には筒抜けだということは分かった。
――敵わない。
初めて出会ったときから朧気に感じていた予感。――この人には、どうあがいても敵わない。わざとらしく顔を覗き込んでくる久を振り払いながら、それでも精一杯の抵抗を試みる。
「……でも、竹井先輩の家、俺ん家とは逆方向ですよね」
「送ってって!」
「…………」
「グラウンドで裸踊り」
「分かりました、分かりました! 鍵かけますから早く出てって下さい!」
「まだ帰る準備終わってないのに、慌てないでよ」
今日一番の大きな溜息を吐いて、京太郎は部室の片付けを始める。平時より、自分の心拍音が大きく聞こえる気がしてならない。
戸締まりをして、すっかり人気の少なくなった廊下を渡り、靴箱に辿り着く。傘立てから傘を抜き出し、久と肩を並べながら、京太郎は校舎を出た。
「あ」
「お」
そこで、二人はぴたりと足を止めた。
予想外の光景が、広がっていた。
いつの間にか雨は止み、傾いた陽が空を赤く染め、虹の橋が架かっていた。その様はとても美しく、二人はしばらく呆けて眺めていた。
「止んでますね」
「止んでるわね」
ようやく発せられた二人の声は、揃って間が抜けていた。たまらない、と言った様子で噴き出したのは、久だった。
「あははははっ」
「何がそんなにおかしいんですか」
「ん、だって須賀くん、残念なんじゃない? 私と相合い傘できなくなって」
「……別に残念でもなんでもないですよ」
「嘘ばっかり」
嘘ばっかりなのはそっちでしょう、と京太郎は言いたかった。言えなかったのは――図星だと自覚していたから。
これで、一緒に帰る理由はなくなった。なくなってしまった。肩透かしを食らった京太郎は、仕方なく、久に別れの挨拶をしようとする。
しかし、それよりも早く、
「それじゃあ、お願いは変更ね」
「っ」
きゅ、と。
気が付いたときには、京太郎の右手は久の左手に握り取られていた。ふっくらとした柔らかな感触が、掌を通して伝わってくる。まるで隙間を埋めるように、指と指が絡められた。
「このままうちまで送っていってね」
他に、生徒の姿が見えなくて良かったと京太郎は心の底から安堵した。今の自分の顔を、他の誰かに見られるのは断固として許されない。
久に手を引かれる形で、京太郎は歩き出した。やっぱり、どうあってもこの人には敵わない。京太郎は改めて思い知らされる。平気でこんなことをしてくるのだから。自分の場合、恥ずかしくてとてもできやしない。
「ふふふっ、須賀くんは意外と純情よね」
「放っといて下さい」
――けれども。
やはり、やられっぱなしというのは癪である。
少しでも良いから、この人をやりこませたい。そんな願望が、ふつふつと湧いて出てくる。
「竹井先輩」
「ん? なあに?」
繋げた手をぶんぶん振りながら、久は屈託なく笑う。
「さっき俺、一つ嘘吐きました」
「嘘? 何の?」
「実は、今日俺も染谷部長の家に呼ばれてたんです。手伝ってくれないかって」
「そうなの? なんで行かなかったの、そっちのほうが練習になるでしょ」
「竹井先輩が来るかも知れないと思ったから」
二人の歩みは、急に止まった。正確には、久が固まってしまったのだ。
「……待つにしたって、もっと上手いやり方あると思うけど。連絡の一本も寄越せばいいじゃない。私がRoof-top行っていたかも知れないし、下手したらすれ違いよ」
「真似したんですよ」
「真似?」
ええ、と京太郎はできるだけ平坦な声を作って頷く。
「先輩の、悪待ち」
言ってから、後悔した。恥ずかしい。あまりにも恥ずかしすぎる。顔から火が出そうだ。手が汗ばむのが分かる。――気持ち悪いと思われていないだろうか。いや、さっきから何も返答がない。既に呆れられてしまったのだろうか。
恐る恐る、京太郎は隣の久の様子を窺おうとした。しかし、
「っ、今こっち向かないで!」
「痛ぁっ?」
思い切り手を握りしめられ、京太郎は悲鳴を上げた。油断していたのもあったが、存外久の握力は強かった。
結局、京太郎がそのときの久の表情を見ることはできなかった。どれだけ訊ねても、答えは終ぞ返ってこなかった。
それからの帰路、二人の間に会話は少なかった。気まずそうにぽつぽつ言葉を交わすだけで――しかし、傍から見ると仲睦まじげな男女のシルエットであったろう。きっと、誰しもがそう思っただろう。
◇
竹井久と須賀京太郎。
清澄高校麻雀部前部長と同麻雀部員。
二人は、初々しい恋人同士――
ではない。