二回表、一死一三塁のピンチを防いだ恋恋高校の攻撃は、五番鳴海からの打順。急いで準備を済ませた鳴海は、ネクストバッターズサークルから、猪狩が行っているイニング間の投球練習にタイミングを計っている。今、猪狩のピッチングを受けているのは、猪狩のひとつ下の弟――猪狩進。前のイニング、ネクストバッターだった二宮が守備の準備している間、兄守のピッチングを受ける。
「ナイスボール!」
キャッチャーミットは良い音を響かせているが、猪狩は納得いかないか、険しい表情でボールを手で転がしながら感触を確かめている。
「サンキュー、進」
「あ、はい。あと一球です」
「了解。来い、猪狩!」
「ああ......!」
正捕手の二宮が座り、最後の一球を投げ込んだ。そして球場中にアナウンスが流れ、二回表の攻撃が始まる。左のバッターボックスで構えた鳴海は、まっすぐ猪狩を見据える。
『さあ、猪狩の足が上がった。先頭バッターの鳴海に対して第一球を――投げた! ストライク! 指に掛かったストレート!』
「(これが、猪狩のストレート......ライジングショットか!)」
春の甲子園で惨敗した猪狩が、今大会に合わせて会得したストレート――ライジングショット。強力な縦回転をかけることで、バッターの手元で驚異的なノビとキレを両立した新しい武器。
「(あおいちゃんとも、瑠菜ちゃんとも違う、本当に浮いてくるみたいなボールだ。だけど――)」
『二球目もライジングショット! しかし、わずかに高めに外れました。ワンエンドワン平行カウント』
「オッケー、ナイスボール!」と、猪狩を鼓舞して腰を下ろした二宮は、鳴海に目を向ける。
「(手が出なかった? それとも見極められたのか......?)」
二宮の考察は半分正解。フォームに違いはあれども、あおいの高めのストレートの軌道を思い浮かべてボールになると判断して見送った。なぜなら鳴海も、浮き上がるような高めのストレートに手を出させて、カウントを稼ぐ攻めをすることがままあるためだ。そのため、もし仮にストライクでも仕方ないと割り切って見逃せた一球だった。
「(芽衣香ちゃんたちが言っていた通りだ。確かに噂通りのスゴいストレートだけど、打てないボールじゃない......)」
「(表情にも、構えにも変化はないな。もう一球いって対応をみるか)」
出されたストレートのサインに猪狩は、首を横に振った。
「(なんだよ、いやに慎重じゃねーか。つってもまあ、先頭バッターに初球をあんな形で持って行かれたから慎重になるのもしゃーねーか。左か、じゃあコイツで追い込むぞ)」
二度目のサインに頷いて、モーションを起こす。
三球目は、左殺し内角のボールゾーンから膝下へ入ってくるスライダー。だが、鳴海はまったく動じない。スライダーの軌道に合わせてバットを振った。
「うっそ!」
「――なっ!?」
『鳴海、打ったー! 背中からのスライダーを見事にセンターへ弾き返しましたーッ! 恋恋高校、初回のオープニングホームランに続いて、この回も先頭バッターを塁に出ました!』
鳴海は涼しい顔でプロテクターを外し、回収に来てくれた香月にお礼を言って預ける。
その様子をスタンドから見ていた高見は、「なるほど、そういうことか」と、昨夜東亜が言ったことを完全に理解した。
「おお~、あのスライダーを初見で打ったぞ!」
「ええ、普通あんな簡単に合わせられないわ」
「やるわね、猪狩対策してなかったのにっ」
「よう。お前ら、どうして左対左が投手が有利と言われているか分かるか?」
東亜の問いかけに、今のバッティングの話していた瑠菜たちは、少し考えてから自分なりの考えを述べる。
「やっぱりスライダーとかカーブを使えるからじゃないですか?」
「逃げるボールは、やっぱり手強いと思うっす」
「フッ、じゃあどうして右対右のスライダーやカーブは打てる?」
「えっ!? 言われてみれば......そんなの考えたこともなかったわね」
「おい、芽衣香」
「はい? って、わぁっ!?」
不思議そうに首を傾げていた芽衣香に向かって、東亜は持っていたボールを軽く放った。届かずに足下に転がったが、驚いて大袈裟に避けた芽衣香は、憤りをあらわにする。
「な、なにすんのよっ!」
「はっはっは、それが理由だ」
「へっ?」
「あんな緩く投げたのに、どうして大袈裟に避けた?」
「それは、当たると痛いから......」
「そう、硬球は当たると痛いことを身を持って知っている。だから、左対左は投手が有利なんだ」
日本人の約九割は右利きと言われている。そのため必然的に右投手との対戦が多くなる。そして、投手が一番最初に教わる変化球は大抵カーブ。球速に違いはあれども、スライダーと同じく利き腕とは逆方向へ変化すると言う類似点がある。
「反応の鈍化。要するに慣れだ。右対右は、ガキの頃から見慣れているから戸惑わずに対応が出来る。だが、左対左はそうはいかない。そもそもの対戦数が少ないし、猪狩ほどの高レベルなサウスポーと対戦出来る機会はそうはない。だから、体に向かって来るような軌道からのスライダーやカーブに過剰に反応してしまう」
そのためボールを見極めようと右肩の開きが早くなりやすく、外へ逃げる変化球には泳がされ、引っ張っても強い打球を打てなくなる。そして、オープンに開いて打った打球は、良い当たりであればあるほどファールになりやすくなる特徴がある。
「けど、いつ練習してたんっすか?」
「そうよね。同じ左の真田は、猪狩の対策の練習をしていたけど。鳴海は、してなかったのに」
「わざわざ対左に特化した練習をしなくても恐怖心を克服する方法はある。その答えが、そいつだ」
東亜の視線の先には、芽衣香に向かって放り投げたボール。瑠菜は、芽衣香の足下に転がっているボールを拾い上げた。そして、すぐに異変に気がついた。
「あ、これって、疑似ナックルボールですか?」
「ああ、阿畑対策に使っていた細工したボールだ。そもそも球速の遅いナックルが打ちにくい最大の理由は、揺れること」
投手によって多少の特徴はあるが、スライダーやカーブは利き腕と反対方向。シュートとシンカーは利き腕の方向へ曲がり。フォークは落ちるボールと。どんなに鋭く手元で大きく曲がる変化球であっても、二度は曲がらない。
しかしナックルは、何度も左右に変化をする変化球。ある程度予測がつく変化球とは違い、どう変化するか分からない特殊な球種。体に向かって来たり離れたりを連続して繰り返す。時には、そのまま体へ向かって来ることだってある。通常の100km/h前後のナックルでも対応が難しいのに阿畑は、そんな特殊な変化球を130km/h前後の球速で投げてきた。その恐怖心は、通常のナックルの比ではない。
「練習から、あのけったいな高速ナックルを何度も体感してきた。いくら背中から来ると言っても、所詮球速差で見極められる一度しか曲がらないスライダーなど、もう苦にならないのさ」
これこそが、猪狩対策をしてきた真田を差し置いてまで、鳴海を五番に据えた理由のひとつ。そして今、スライダーを捉えたことがのちのピッチングに大きな影響を与えることとなる。
* * *
「(おいおい、マジかよ......。背中からのスライダーを初見で打ち返しやがった。しかも、ぜんぜん腰を引かなかった。完璧に打たれたぞ......?)」
キャッチャーの二宮はチラッとベンチを見る。千石は、憮然とした表情で腕を組んだまま動かない。
「(まあ当然か、まだ二回だからな。さて次も、左バッターか)」
名前をコールされた真田は、球審に一礼して左のバッターボックスに立ち、ベンチからのサインを確認。東亜から空サインが出されている最中はるかから、さり気なく本命のサインが伝わる。
「(真田は本来一番バッターだ、当然足がある。警戒を怠るなよ)」
真田はバントの構えはしていないが、二宮の指示で内野陣はセーフティバントにも備える。
『さあ、ノーアウト一塁。猪狩、ファーストランナーを目で牽制して、ピッチングモーションに入る! 鳴海スタート、いや、止まった!』
「(――インコースの真っ直ぐ、打ち上げないように......!)」
手元で浮き上がるライジングショットを上から叩きつけるようにしてバットを合わせる。打球は決して良い当たりではなかったが、鳴海の偽盗により大きく開いた一・二塁間へ転がる。セカンドの四条が懸命に飛びつくも、グラブの数センチ先をかすめて外野へと抜けていった。
『破ったー! 恋恋高校、五番六番の連打でノーアウト二塁一塁と追加点のチャンスを作り出しました! そして次のバッターは、くせ者葛城です!』
二宮はタイムを要求して、マウンドへ走る。
「今抜けたのは、偶然だ。完全に打ち取ってた打球だぞ」
「......ああ、分かってる」
背を向けたまま、ロジンバックを弾ませる。
「とにかく、次のバッターさえ抑えれば楽になるからな」
「分かってる。それより早く戻れ、注意されるぞ?」
猪狩に指摘された二宮は小さく息を吐いて、球審がマウンドへ来る前にポジションへ戻り、試合再開。
『ファール! 葛城、粘ります! カウントツーエンドツーが続きます!』
「(......甘かった。主力が準決勝を欠場したのは全て、猪狩に照準を合わせるため。ある程度想定しちゃいたが、まさか、ここまでとは――仕方ねぇ......もう出し惜しみはなしだ!)」
この試合二宮から初めて出されたサインにうなずいた猪狩は、セットポジションから投球モーションに入る。
『ツーツーからの七球目を――投げた!』
「(――甘い! えっ!?)」
やや甘い外のボールに合わせにいったが、バットは空を切った。ストライクゾーンからボールゾーンへ落ちる完璧なフォークボール。
『空振り三振! この試合初めての三振は、葛城から奪いましたー! 伝家の宝刀フォークボール!』
この試合初めての三振を奪った猪狩は涼しい表情ながらも満足気に、二宮は安堵の表情を見せ。ベンチで険しい表情をしていた千石は、胸をなで下ろした。
しかしこの時、東亜は、追加点のチャンスでの三振にも関わらず不気味に笑みを浮かべていた。
「ナイス三振、よく引き出した。で、どうだ?」
「今まで見てきた中で一番のフォークです。本当に消えたかと思いました」
「ふーん」
戻ってきた葛城と入れ替わりでバッターボックスに向かった八番バッターの瑠菜は、しっかり足場をならして左打席で構える。
「あの、コーチ、サインの方は?」
「必要ねぇーよ。瑠菜は、分かってるさ。自分への初球は、100パーセント外角低めのスライダーだってことをな」
あかつきバッテリーのサイン交換は一回で決まった。猪狩は目で二人のランナーを牽制し、クイックで足を上げる。
「(よっしゃ、ナイスコース!)」
瑠菜への初球は、東亜の予想通り外角低めのスライダー。瑠菜は、踏み込んで合わせた。コースに逆らわず、逆方向へ流し打った。
「(迷わず踏み込みやがった......! まさか、狙われたのかよ!?)」
マスクを投げ捨て、大声で指示を飛ばす。
「サード! 五十嵐、取れーッ!」
「ぬうっ!?」
「フ、フェア!」
『五十嵐、目一杯の跳躍! だが、届かなーい! サードの頭上を越えてライン上に落ち、ファールゾーンを転々と転がるぅ! セカンドランナー鳴海、生還! そして今、七井が打球に追いついた!』
レフトの返球が中継に入ったの六本木に返る。しかし、どこへも投げられず。ホームのバックアップから戻って来た猪狩に、下手投げで渡した。
『十六夜瑠菜、タイムリーツーベースヒット! セカンドランナーの鳴海、そしてファーストランナーの真田も持ち前の俊足を飛ばしてホームへ生還。自からのバットで、リードを三点と広げましたーッ!』
ベンチへ戻って来た鳴海と真田を、ナインたちは盛大に出迎える。
「真田、ナイスラン!」
「おう、サンキュー! あのレフトは肩が弱いからな、向こうに飛んだら突っ込んでやるって決めてたんだ」
「やるわねっ! けど、本当に外角低めのスライダーだったわね」
「瑠菜ちゃんも、迷わず狙い打ったぞ」
「理由は、単純だ。この場をゲッツーで切り抜けたかったのさ」
バッテリーの狙いは、外のスライダーを引っかけさてショート・サードゴロを打たせ、セカンド経由のダブルプレーを狙った。 その理由は、打順の巡り合わせ。本来投手のあおいが九番に入っていることで、ベンチもバッテリーもアウトをひとつ計算出来ると考えていた。八番の瑠菜をダブルプレーに打ち取ることが出来れば次の回は、そのあおいから始まる打順に調整出来る。だから、是が非でもダブルプレーで切り抜けたかった。
そこで問題は、どう打ち取るか。
「ノビるストレートは、バットが下に入りやすく打ち上げる確率が高い。スライダーより遅いカーブは、逆にタイミングが合いかねない。フォークは、空振りを奪ってしまう。となれば、この場面で投げられるのは必然的にスライダー。そして、チームで一番守備が上手いショートへ打たせるには外角低めが最適だった訳さ。まあここからは、そう簡単に点は取れなくなるだろうがな」
東亜の言葉通り、この失点をきっかけに猪狩のピッチングは変貌を遂げた。あおいを三球三球に切って取り、ツーアウト。初回オープニングホームランを打たれた矢部に対してはストレートを中心に追い込むと、手元で大きく落ちるフォークで空振りを奪った。これでスリーアウト、恋恋高校の長い攻撃が終わった。
「ナイスバッティング、瑠菜ちゃん。いつでも行けるからね」
「はい、どうぞー」
「ええ、ありがと」
はるかから受け取ったスポーツドリンクで喉を潤す。
あかつきのベンチ前で監督の千石を中心に組まれていた円陣が散り、各々が鋭い視線を恋恋高校のベンチへ向けている。
「ここからが、本当の勝負ね」
「うん、そうだね。行こう......!」
「ええ!」
二人は気合いを入れて、グラウンドへ駆け出して行った。