月が切り替わった日の朝。
敷波はやや緊張の面持ちで寮のリビングに降りてきた。
「あら敷波、おはよう」
最初に気づいて声をかけてきたのはテーブルで食事中のローマだった。
向かいにいたイタリアもすぐに気づいて手を振ってくる。
……うーむ。
表面上はにこやかに手を振り返る敷波だったが、内心では二人の一挙一動を警戒していた。
なにせ今日は四月一日――即ちエイプリルフールだ。いつ誰が自分を騙そうとしてくるか分からない。
と、そこで敷波は妙な点に気づいた。イタリアたち席にあるのがコップではなく湯呑なのだ。
中身は緑茶らしい。
……これは、ツッコミ待ちからの嘘というパターンかな。
迂闊に「あれ、お茶好きでしたっけ」と声をかけようものなら「そうなの」と返されるかもしれない。
よく見ると二人とも若干そわそわとこちらの反応を待っているようにも見える。
……ふっふっふ、その手には乗らないよ。
内心で勝利の笑みを浮かべながら、敷波は湯呑には触れず、
「二人は今日は演習なんだっけ」
と、まったく別の話題を振った。
「ええ。最近入った子たちの教導艦ということで」
イタリアたちは二人とも所謂『指輪持ち』だ。既に十分な練度に達していると見て良い。そういった艦娘は他の艦娘の指導を務めることも多い。最近入った伊13・伊14・松風・藤波の担当は二人が務めていた。
「ところで敷波、あなたは何を食べるの?」
「んー、今日は残り物のサラダと目玉焼きでいいかな。この後少ししたら出かけないといけないし」
「そ、そう。飲み物なんかはどう?」
「飲み物? 特に決めてないけど」
イタリアの質問そのものに意味はない。ただ質問に合わせてローマがこれ見よがしにお茶をすすり始めた。興味を引きたいのかもしれない。
……悪いけど、あたしは馬鹿にはならないよ。
視線を二人から外して黙々と冷蔵庫を漁る。
「おっはよー。今日も良い朝だね~」
そこに陽気な声の時津風が顔を出した。初風と天津風も一緒だ。
ちなみに、かつて彼女たちと同じ駆逐隊を組んでいた雪風は泊地の切り札とされる第一艦隊所属で、寮が違う。
「おはよう皆、三人揃ってお出かけ?」
「はい。今日は非番なので、第一艦隊の島風と雪風を誘って五人でブイン基地に遊びに行くんです」
「ブインに?」
ブインはここから一番近い艦娘たちの拠点だ。距離だけで考えるならソロモン諸島の首都であるホニアラよりもずっと近い。
それだけに互いの交流は頻繁に行われている。向こうから遊びに来る子もいれば、その逆もまた然り。
……本当っぽい話だけど、無条件で信じると痛い目を見る。
天津風の証言に警戒しながら、敷波は朝食の準備を済ませてテーブルについた。
「でも第一艦隊ってしばらく忙しそうにしてなかったっけ。年度末だからってやること多いって吹雪がぼやいてたよ」
「一応一区切りつけることはできたみたいよ。まあ司令部付きの叢雲たちはまだ大変そうだけど」
初風が補足してくれた。これも嘘ではなさそうに思える。
「あれ、ローマさんお茶好きだったっけ?」
と、そこで時津風がローマの異変に気付いたらしい。
ローマの表情が若干嬉しそうに綻んだ。
「ええ、最近少し――」
「お茶はいいよねえ、心が癒されるよー。結構雲龍が凝っててさー」
ローマが言い切る前に時津風の早口が炸裂した。
「ときどき変な試作品作ってくるのが玉に瑕だけど基本美味しいからさ、今度一緒に飲みに行こうよ」
「えっ……そ、そうね」
「約束だよー。雲龍にも話しておくね」
あまり時間がないのか、三人はそのまま出かけていってしまった。
「……本当のところお茶得意なんですか?」
ぼそっと敷波が尋ねると、ローマは何とも言い難い表情を浮かべた。
「嫌いではないけど、そこまで好きでもないというか……」
「でも、今からじゃ嘘でしたって言い難いわね」
イタリアが困ったような表情を浮かべる。
「ま、まあでも少し付き合うくらいなら大丈夫よ」
強がるローマに内心ドンマイと声をかけつつ、敷波は朝食を進めた。
今日は少し用事があるのだ。
「お待たせー」
寮から出て向かった先は司令部棟だった。
そこには吹雪型・綾波型・暁型の面々が揃っている。
ただ、叢雲だけがいなかった。
「叢雲は?」
「休憩中。最近働き詰めだったから古鷹さんに連れ出してもらったところ」
吹雪が状況を説明する。予定通りということらしい。
「それじゃ早速着替えようか」
数分後、そこには叢雲と同じ制服姿のメンバーが揃っていた。
否、制服だけではない。全員カツラを装着して、見た目も叢雲そっくりになっている。背丈等々異なる部分も沢山あるが、さすがにそこはどうしようもない。
発案者の吹雪曰く「偽叢雲ちゃん大量発生で本物に休んでもらおう計画」らしい。ネーミングがそのまんま過ぎるが、発想自体は悪いものではなかった。
この泊地は何度か提督が変わっていることもあって、最古参かつ歴代提督の補佐役だった叢雲に頼る部分が非常に大きい。それだけに叢雲は年中忙しそうにしていた。
そんな妹を見かねた吹雪が企画したのがこの計画である。当然他の司令部メンバーには根回し済みだ。
「叢雲もビックリするだろうね。帰ってきたらこの状態だもん」
敷波がそう口にしたとき、ちょうど扉を開けて叢雲が部屋に帰って来た。
「……」
部屋に入ってこちらを眺めた叢雲は、不思議なものを見るような目で一同を見渡す。
計画が上手くいったと思った吹雪たちが笑みを浮かべて説明をしようとした、そのときだった。
「――皆さまは、どなたですか?」
「……え?」
普段の叢雲からは想像もつかない口調だった。
「あの、なぜ私と同じような恰好をされているのでしょう。もしかして私のことご存知なのでしょうか」
「む、叢雲……?」
思わぬ反応に全員が戸惑った。
そのとき、叢雲の後ろに古鷹が現れた。
「古鷹さん、叢雲がなんか変なんだけど……」
「実は、休憩に連れていこうとしたら途中で叢雲ちゃんが倒れて……。意識は戻ったんだけど、こんな調子に……」
「あの、すみません。なにか……ご迷惑をおかけしているみたいで……」
叢雲が申し訳なさそうに俯く。
「何も、覚えてないの……?」
「そうみたい。自分のことも、私のことも――」
古鷹が辛そうな表情で視線を僅かに逸らした。
「そんな……! 叢雲ちゃん、お姉ちゃんだよ! 私、吹雪だよ!」
「あ、あたしは妹……みたいなもんの敷波だよ! 割と付き合い古いんだぞ!」
吹雪と敷波が両サイドから叢雲の肩をがしっと掴んだ。
「そ、その……ごめんなさい。思い出せなくて」
「そんな……」
「嘘だろ……」
「――嘘よ」
と、そこで叢雲の声色と表情が百八十度変わった。
吹雪や敷波たちが「へ?」という声を上げるのと同時に、何人かが堪えきれずに笑い出した。
「安心しなさい、嘘だから」
「そんな、ひどい!」
「そうだそうだ!」
「ふっふっふ、私を出し抜こうとしてたみたいだから古鷹にも協力してもらってカウンターを仕掛けたのよ。何人かは気づいてたみたいだけどね」
見ると、白雪・磯波・綾波・電はちょっと申し訳なさそうに笑っていた。他はこちらと同様に驚いている者が大半である。初雪と響だけは何とも読み取りがたい表情だったが。
「そっか、見破られちゃってたか……」
がっくりとする吹雪に、叢雲はコホンと咳払いをした。
「偶々よ。なんか長門と古鷹がコソコソやってるなと思ったから。知らなかったら私も驚いてたかも」
「ごめんねー、私のせいだったみたい」
古鷹が頭を下げる。
「まあ正直ビックリはしたんだけどね。この企画力。……で、今日はこれで仕事手伝ってくれるんでしょ?」
「え、うん。そのつもりだったけど」
「これだけいるなら早めに片付けられるかもね。それ終わったら久々にどこか遊びにでも行きましょうか」
叢雲からの提案に、一同は笑って頷いた。
……ま、馬鹿を見るのも悪いもんじゃないのかな。
互いに笑い合う吹雪と叢雲を見て、そんなことを思う敷波なのだった。