ある裏路地から始まった物語   作:UN

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第四話

「暑いなぁ……」

 

額にうっすらと掻いた汗をハンカチで拭いながら愚痴を一つ零す。空を見上げば遥か高い位置に燦燦と照り輝く太陽が辺りを煌々と照らしていた。空は雲一つない青一色。バケツ一杯の水に青色の絵の具をこれでもかと溶かした後、巨大な真っ白のキャンパスにぶちまけた様な清々しい空模様が頭上を覆っていた。本日は晴天なり。

 

ゴールデンウイークも最終日、昨日までは雨か曇りでその姿を見せなかった太陽さんは最終日にこれ幸いと有り余る元気を発散させているようであり、気温の方も最高気温最低気温ともに二度以上は高い。俺として曇り位で過ごしやすい日を望んでいたのだが、その願いは辛くももかなわなかったようだ。まぁ、連休最終日位晴れた方が気持ちもすっきりするし、これはこれで良かったのかもしれない。

 

自炊用に買った食材の入ったビニール袋を手に提げたまま大きく一つ伸びをする。ミシミシと上半身の筋肉が伸びる感覚がする。ビニールの中に入っていたコーヒー缶同士がぶつかり綺麗な音色がなった。

 

――よしっ、今日も頑張りますかね。

 

そう気持ちを切り替えると一歩足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい」

 

木製の古ぼけた扉を開けると中から小さな声がした。もはや聞き慣れた大人しい声はあの出会いに相応しい春のあの日に、物語の始まりには相応しくないあの裏路地で出会った愛支のものだ。

 

「ただいま」

 

そう返事を返して靴を脱ぎ、食材を適当に今にも天寿を全うしそうな冷蔵庫に直す。そして、その足で居間に入れば部屋の片隅で小さく座りながら本を読んでる愛支がいた。ちなみにこの居間は今では俺の寝室兼自室も兼ねてある。前の寝室は今では愛支の部屋になっており、愛支本人の私物が数点運び込まれていた。まぁ、物欲のない愛支のため本当に暮らしていける最低限度のものしか置かれてなく、酷く殺風景な部屋になっているが……。

 

「ん? なんだ、また掃除してくれたのか?」

 

買い物に行く前に比べて整っている部屋に気付き確認がてらに聞いてみると愛支は言葉を返すことはせず、ただ首を縦に振って肯定した。

 

愛支と出会ってから、約一か月がたった。人間と喰種という謎の共同生活は今のところ思いのほか上手くいっていた。初めの方はすぐに食べられて親父やお袋と同じ末路を辿るのではないかと少しばかりは思っていたが不思議なことに俺の心臓は未だに元気に動いているし、首の傷も治り包帯も取れた。なんなら愛支に出会う前より健康状態はいいまでもある。

 

色々と派手にやらしてくれたクソジジイのお陰で親父とお袋が亡くなって以来、友達どころか学校にすら行っていない俺にとって他人と関わる機会なんてバイトの時にしかなかった。そのバイトですら人と話す機会は最低限度。そんな孤独な俺にとって誰かと暮らすという行為は数年ぶりの事で中々に新鮮味があった。どうやら俺は一人暮らしの中で自分では知らないうちに孤独を感じていたらしい。

 

――あの日の選択が本当に良かったのか……?

 

その疑問の答えは未だに出ない。出ないのだが、一つだけ分かったことがある。

 

――ヒトは中身が重要だ。その中の物をじっと見つめて判断しろ。ヒトとして正しいことを。

 

親父のあの言葉は正しかったと。

 

素直に思うのが愛支は確かに喰種だが、非常にいい子だということだ。出会って数日は警戒されていたのか話しかけてない限り絶対にこちらと会話をしようとしてくれなかったし目も合わせてくれなかったが、その警戒も徐々に解けていき、今では俺が出かける時には「いってらっしゃい」と、そして返って来た時には「おかえりなさい」と、そんな言葉を掛けてくれるようになった。一人暮らしを始めて以降「ただいま」や「おかえり」なんて言う機会はほとんどなかった。部屋に帰れば出迎えの言葉がある。中々に悪くない。

 

まだまだ口数は少なく、普段は部屋の隅で本を読んでいることが多いが、それでも時たま愛支の方から会話も振ってくれるようになったくれた。見た目からして、愛支の年齢は間違いなく俺よりも下だ。そんな俺からして見れば愛支との暮らしは妹がもう一人出来たようで純粋に楽しかった。

 

それに最近では、このように掃除をしてくれたりと俺の手伝いまでしてくれる。そんな愛支との暮らしを俺は今のところ気に入っていた。

 

「そっか、ありがとうな」

 

そう言ってくしゃりと愛支の頭を撫でる。少しだけ固い髪質は何だかこうして触っているだけでも癖になってしまいそうだ。

 

「……ん」

 

雑な俺の撫で方を気に入っているのか愛支は小さい口から息を吐くと目を細めてされるがままになっていた。こうして一緒に暮らしていると変化に乏しい愛支の表情からでも少しくらいは感情を読み取れるようになってくる。今の愛支はどうやらご機嫌がいいようだ。

 

何ならいつまでもこうしていたいのだが、髪は女の命ともいうし、ここいらで止めておく。

 

俺が手を離すと愛支は自らの横に置いてあったノートを取り出して開いた。何の特徴もないA4サイズのそれは俺が愛支にあげたものだ。そのノートには愛支が読んだ本の中で出てきた分からない言葉や慣用句なんかが書き殴られてある。

 

一緒に暮らしてきて気付いたが、彼女は非常に子供っぽい。いや、見た目通り子供は子供なんだが、そうではない。何というか……そう! 彼女は赤ん坊のようなのだ。この世界における常識がほとんどない。まるで生まれて初めて文明や社会というものを見たかのようにあらゆることに関しての知識がなかった。漢字なんて殆ど読めなかったし、俺の部屋に置いてある冷蔵庫や洗濯機なんかも初めて見たと言っていた。

 

――どういう環境で育ったのだろうか……?

 

そう考えたことがないと言えば嘘になる。でも、決して尋ねることはしない。

 

ルールがあってないような彼女と俺の暮らしの中で唯一絶対にしてはいけないこと――。

 

――相手の過去を探ること。

 

誰にだって知られたくない過去がある。誰にだって思い出したくないことがある。藪から出てくるのは棒だけではない。蛇が出るかもしれない、クマが出るかもしれない。いや、獣の類ならまだいいい。悪魔や化け物の可能性だってある。ならそっとしておいた方がいい。見て見ぬ振りをしていた方がいい。

 

踏むは大地と知るが故に割けてしまわないか心配になる。頭上を覆うのが大空と知るが故に稲妻が体を貫かぬかと焦ってしまう。他人と争わなねば一分が立たぬと浮世が催促するから火宅の苦は免れない。

 

よく、「知らなくていいことなんてない」、と言う奴がいるが、それはただの思い込みだ。知る権利があるのと同様に忘れる権利もある。そして何も語らない権利もあってしかりで、何も聞かない権利もないとおかしい。

 

「ねぇ、これってどういう意味?」

 

愛支はノートの中頃を開き、ある行を指さす。そこにはある物語の有名な一節が書かれてあった。

 

『The world is a fine place and worth the fighting for.』

 

「英語……?」

 

思いがけない文章に思わず首を傾げた。確かに我が家には英語の本もいくかある。それに愛支は本をよく読む。何もない時は一日中本に齧りついている。

 

これも一緒に暮らしていて気づいたことだが、愛支は滅茶苦茶頭がいい。漢字の読み方なんて一度教えれば二度は間違えないし、慣用句の意味でも同じで一回で確実に暗記する。さらに本好きな愛支だ。その知識は湧き出る湯水ように現在進行形で増えて行っている。このままいけば俺を抜くのも時間の問題だろう。

 

しかし、だ。いくら愛支が頭がいいとはいえ、俺は愛支に英語を教えたことはない。それに愛支自身が英語を読めるとも聞いたことがない。流石の愛支とはいえ、誰からも習わずに英語をマスターしたなんてことはないだろう。

 

「これ、どうしたんだ?」

 

気になって聞いてみれば、

 

「本棚に入ってたんだけど、読めない文字ばかりで……ただ、この文章だけ線が引いてあって気になったの」

 

愛支は抑揚の少ない声でそう言うと部屋の隅にある本棚を指さした。木製の本棚の一番下の右端。古ぼけた表紙のその本は俺の家にある本の中でも一番古い本だろう。日焼けにより、色の落ちたその本は、忘れたくても忘れられない思い出の一冊だった。

 

「そうか……」

 

「それで、どういう意味なの?」

 

「それは――――」

 

――『あっはっはっは! おい、小僧覚えておけ!――』

 

その本を見るたびに思い出すあのしわがれた声。錆び付いた俺の海馬映す鈍色の映像。白紙のキャンパスの前で筆を持った――の姿。

 

豪快に笑った後にソイツは言った。

 

「――――世界は素晴らしい。戦う価値がある」

 

「世界は素晴らしい……戦う価値がある……」

 

愛支は呟くように、しかし噛みしめるように口を動かした後、しばらく黙り込んだ。それは何かを考えているようで何かを理解しようとしているように感じられた。

 

暫くの沈黙の後、愛支は再び口を開いた。

 

「ねぇ、貴方はどう思う? ――世界は素晴らしい。戦う価値がある、そう思う?」

 

そう言って彼女は俺の目を覗き込んだ。

 

 


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