天地燃ゆ   作:越路遼介

76 / 176
変わらぬ朝

「安土を攻める! 続けえッッ!!」

 秀次の軍勢は秀長の西へ後退の指示を無視して安土城に攻めるため突撃を開始した。

「バカな秀次!」

 馬上で愕然とする秀長。今まで安土城を攻めなかったのは何だったのか。五倍十倍の兵力で攻めても落とせないと分かっていたからではなかったのか。だが羽柴秀次はもう頭に血が上り、そんな事はどこかへ飛んでしまった。もう水沢勢は安土へと引き返しを終えており、城門は閉じられている。

「愚かな秀次…!」

「秀長殿!」

「長政殿、もはや後退の機は逸した。鉄砲隊を援軍部隊に向けよ」

「はっ!」

「蝉丸」

「ははっ!」

「孫平次に秀次の軍勢を後退させるように伝えよ」

「…殿、申し訳ございませぬ。美濃の体たらくを盲信するとは…!」

「ワシはそれを聞き、美濃の策を察した。しかしさすがは美濃よ、それでワシに『策に溺れた』と悟らせよった。二重仕掛けだったとはな…。ワシより美濃の方が一枚も二枚も上であったわ。これ以上はグチ、もう申すまい。さあ急ぎ伝令を孫平次に伝えよ」

「はは!」

 

 援軍部隊の大軍勢が押し寄せる音はもう間近。羽柴陣は陣の周囲に防柵を築いてある。鉄砲隊が備えて待つ。織田信長の三段射撃の構えである。しかし、あの時の戦いと違い、いくら何でも三千挺はない。八百挺である。三百、三百、二百と三列に並び備えた。

 だが敵勢とて、その同じ長篠の合戦における信長の戦術は知っているのである。あの時の武田勢と同じように、ただ突撃してくるはずがない。援軍部隊の進軍は、その馬防柵の手前で止まった。鉄砲の射程外である。

「敵襲―ッ! 敵襲―ッ!」

「良いか! 敵勢が突撃してきたら撃つのだ!」

「「ハハッ!」」

 鉄砲隊長は援軍部隊を睨む。やはり万を越える軍勢である。

(来てみろ…蜂の巣にしてやるわ)

 九鬼嘉隆の采配が振られると、三十人ほどの兵が部隊の前に出た。

「海の戦いのスゴさ、教えてやれ」

「「ハッ!」」

 三十人は横に広範囲に広がった。そして綱をつけた丸い物体。その綱を持ちブンブンと丸い物体を振り回す。そして一斉に羽柴勢に放った。焙烙玉である。それは羽柴勢で爆発炸裂。すさまじい威力。水軍戦の多人数殺傷用の強力な武器である。九鬼軍は水軍である。それを陸の合戦に使ったのだ。

 あの石山合戦における木津川口海戦。織田軍の敵である毛利水軍と村上水軍が使用した焙烙玉。九鬼水軍は二度目では鉄甲船で勝利したものの、初戦で惨敗した後に敵の水軍が使った武器を調べて、自軍の武器ともしていたのである。

「どんどん放て!」

 二波三波と焙烙玉が襲いかかる。たまらず羽柴鉄砲隊は離散、防柵もすでに用を成していない。そして蒲生氏郷の采配が振り下ろされた。

「かかれええッッ!!」

 蒲生、九鬼、筒井の連合軍が一斉に羽柴勢に襲い掛かった。

 

 一方、安土城。羽柴秀次隊が真正面から攻める。一箇所しかない入り口。その入り口に照準を合わせる二つの出丸。そこにもう鉄砲隊が配備されているのは明白である。

「秀次様、お引きを! この城にチカラ攻めは無理にございます!」

「不落城など存在するものか! いいか皆よく聞け!」

 秀次は自軍の兵、そして一氏の兵にも叫んだ。

「美濃はこの城の築城をするためにこの地に入った! 美濃自身の妻子、そして部下の妻子もすべてこの中にいる! つまり女がたくさんいるのだ! 小金もしこたま貯めていると云う武士のくせして商売上手の美濃! 黄金も山ほどあるぞ! 鉄砲も軍馬も! 奪え! 犯せ!」

 確かに婦女子は山といるが黄金は何の根拠もない。だが秀次のこの激に秀次と一氏の部隊に補充されていた新兵たちは乗せられてしまった。

 今回の秀吉の挙兵に伴い、播磨を出陣する時には五万近い大軍であった羽柴軍。織田信孝を皮切りに、柴田勝家と水沢隆広を討つために徴兵された兵。

 しかし悲しいかな、所詮は寄集めなのである。元々秀次や一氏に忠義をもっていたワケではない。秀次の激で元からの直属兵は動かなかったが、その寄集め兵たちは一斉に安土城に攻め込みだした。

「ようし行け行け!」

「秀次様…!」

「孫平次…オレには安土を落とすしか生き残る事はできないんだ! それに…こうまでコケにされて黙っていられるか!」

 忌々しそうに口内に溜まった血を吐き出す秀次。

 

「来たか…」

 出丸から敵兵が押し寄せるのを見る隆広。なぜ彼が放っておいても西へ後退する羽柴勢に対して挑発と云える攻撃を仕掛けて城に攻め入らせたか。

 城の防備と立てた戦術に絶対の自信があったから、城を包囲されて黙って帰しては水沢の沽券に関わるから、と歴史家は述べるが実はもっと切実な考えがあった。無傷の状態で西へ返しては、山城や摂津、もしくは本拠の播磨で体制を整えて再びやってくる。越前の情勢によっては、毛利や宇喜多の兵も加わっている事さえありうる。つまり隆広が安土を動けない事に変わりはないのである。

 だから、ここで安土城包囲軍が二度と立ち直れないほどに叩き潰しておく必要があった。後顧の憂いを無くして北上するために隆広は鬼となったのだ。

 

 話は少しさかのぼる。隆広から水沢将兵にいよいよ今宵、安土包囲軍と戦う事が告げられた。そして隆広は

「長い夜になる。各々交代で睡眠をとっておくように」

 と命じ、隆広は城内の奥へと行った。

「監物、八重!」

 家令の監物と侍女頭の八重を呼んだ。八重が答える。

「はい殿!」

「今日の夜に戦闘開始だ。だがこの城ならば六倍以上の兵にも持ちこたえられるし、蒲生氏郷殿、九鬼嘉隆殿、筒井順慶殿が援軍として来てくれる。心配いらん」

「今日の夜に?」

「長期戦にはならんから監物と八重はかねて申し渡していた通り、戦闘中は当家の子供たちを城内に集めて守り、そして不安がらせないように務めよ。銃声が幾度も響くので眠っているわけにもいかんだろうが、けして城の外に出すな」

「承知つかまったですじゃ! 殿様もご武運を!」

「ああ! ところでさえとすずは?」

「この奥に」

「分かった」

 

「さえ様、お味方兵の甲冑の音が激しくなってまいりました。いよいよ今宵に戦闘が始まるかと」

 すずの言葉にゴクリとツバを飲むさえ。安土城の奥の部屋、ここに隆広の正室さえと側室すず、子の竜之介、鈴之介、福、鏡がいた。

「すず…私、怖い…」

「出来る事をすれば良いのです。今回の戦において私たち女がする事は、戦闘中における給仕。いったん戦端が開けば落ち着いて食事も水も取れません。また防戦で気が立つ男たちを後方で励ませば落ち着き、腰の据わった戦いができましょう」

「給仕と…殿たちへの励まし…」

「はい、殿方は信じて待っていてくれる女がいると踏ん張れるものです」

 さすがは側室になる前は隆広と共に戦場を駆けていたすず。心得たものだった。

「それに…たとえ敵兵雪崩れ込んできても、私がさえ様に指一本触れさせません」

「ありがとう、すず」

「竜之介が母上とすず、んで姉上と鈴之介と鏡を守りましゅ!」

 三歳の竜之介、状況は分かっていないだろうがここに男は自分だけと感じたか。鈴之介と鏡は外の喧騒など知らぬようにカゴの中でスヤスヤ眠っている。

「ありがとう若様、頼りにしていますよ」

「うん!」

 落城を経験した事のある福は少し震えていた。

「福、怖い事を我慢する事ないのよ、こっちにいらっしゃい」

「母上…」

 福はさえの傍らにいき座ると、さえはそれを抱き寄せた。

「信じましょう、きっと父上は勝つから」

「母上…」

(かあさまと同じ匂い…)

「やーい姉上の甘えんぼ」

「んベーだ!」

 弟の竜之介の言葉に顔を赤くしながらアッカンベをする福。隆広は何か部屋に入るに入れず、外でそれを見ていた。すずはそれに気付いていたが何も言わなかった。

 

「姫様たちとは…?」

「会わなかったよ八重。考えてみれば戦闘前のこの時、いかに同じ城中にいようと家臣たちは妻子に会うゆとりもないはず。大将のオレだけ会うわけいかんよな」

「殿様…」

「勝ったら、さえもすずも、竜之介も福も鏡も鈴之介も! 思いっきり抱きしめてやるんだ。だから今は会わない。あとは頼むぞ監物、八重!」

「「はっ」」

 奥から隆広は去っていった。

「大したものじゃ。あれがこれから六倍強の兵に対する大将か」

「そうね。さ、お前さま、私たちは私たちの仕事をしましょう!」

「そうじゃな!」

 

 開戦が近くなると竜之介と福も他の水沢家の子らと共に監物と八重の指示に従い、城郭や奥から城内に集められた。敵の押し寄せる声が聞こえても、銃声が轟いてもけして外に出ない事を諭す監物。年長の子供らは家中の幼い子供たちの兄と姉ともなり、面倒を見るよう八重に指示された。

 

 そしてさえ、すずも鉢巻を締めて水沢家の女衆総動員で働き、兵糧と水を出丸、城門、城壁に運ぶ。

 水沢隆広の家臣団は主君の内政主命に伴い、すべて現地に赴く体制を執っている。そのせいか、兵たちが妻にしたのは現地において深い仲になってしまった農民の娘ばかりである。その妻たちも今回に隆広が与えられた主命である安土築城に夫と共についてきている。

 松山矩久や小野田幸猛の妻たちは夫の上司の妻、さえを主君として給仕の準備に励んだ。こういう時は野良仕事で培った体力がモノを云う。

 小山田の月姫も明智の英姫も前掛けをつけてハチマキを締め、さえの指示で動いて給仕の準備を務めた。

 

 水沢軍は羽柴秀次への突撃から帰城すると、すぐに申し合わせていた持ち場へと着いた。

 羽柴陣に向かい合う出丸二つ。隆広は東の出丸の指揮を執り、西の出丸は奥村助右衛門が指揮を執った。東の出丸には松山矩久、小野田幸猛、高橋紀茂と隆広子飼いの大将たち。西の出丸には高崎次郎、星野鉄介と云った養父隆家の旧臣の子弟たち。藤林忍軍も均等に出丸に配置した。二つの出丸は甲州流と美濃流の良い箇所ばかり抽出した、いわば隆広流とも云うべき工夫を凝らしたもので、攻めるに固く守るに易い出丸。しかも各出丸に十分な鉄砲と弾薬、食糧も水も配備されている。

 城門には前田慶次、城壁には佐久間甚九郎と堀辺半助が配置しそれぞれ弓隊を指揮、安土山の木々には投石部隊が潜んだ。安土城を普請した人足たち八百と辰五郎たち工兵隊は城壁を受け持ち、弓を構える。

 出丸、城門、城壁の後方では城内の女たちが給仕と男たちへの鼓舞を担う。隆広の妻のさえとすずとて、東の出丸の奥で腕をまくりハチマキをしめて戦闘に備えた。

 水沢軍は大将隆広がまだ二十二歳の若者ゆえ、兵も若者が多い。新婚もたくさんいる。何より愛しい妻たちからの声援が嬉しいものである。イイトコ見せようと張り切る。士気は落ちない。これも隆広の計算にあった女房衆の鼓舞作戦だった。この安土城攻防戦で水沢軍で前線に出なかったのは子供だけだと云われている。まさに水沢家一丸となって二万の羽柴勢に立ち向かう気概である。

 

 そして羽柴の兵たちが安土城に突撃を開始した。

「撃てーッ!!」

 

 ダダダダーンッッ!!

 

 城の二つの出丸から容赦ない銃撃が発射される。しかも夜間、城門に続く道の両端にはかがり火が焚かれ、高所に配置されている出丸からは羽柴兵が一目瞭然。だが羽柴勢からは、ほとんど狙撃手は確認できない。城守備側は出丸と云う要塞からの狙撃なので羽柴の鉄砲はまったく当たらない。

 隆広は安土築城のため、この地に入ると同時に武器も多量に運び込んでいた。そして整備も怠っていない。出丸の様式は隆広の工夫が仕込まれ守るに易く落とすに難い。外周は幾重の柵と、琵琶湖と云う天然の堀で防備されている。羽柴秀長が安土城包囲軍として着陣し、隆広の改修した安土城を一目見て絶対にチカラ攻めでは落とせない城と判断したほどである。羽柴秀吉、黒田官兵衛も通過の際に隆広の改修した安土城を見て『落とせない』と悟り、秀長に交戦に及ばず、岐阜と近江のいくさの結果を待ち、安土城は包囲に留めよ、と下命した。

 だが結果は羽柴軍が隆広の術中に陥り、大失策を招いた。羽柴勢に鉄砲が容赦なく火を噴いた。

 

「退くな! 鉄砲の弾込めには時間がかかる!」

 なおも秀次は兵を叱咤する。しかし城門の二階と三階には前田慶次率いる弓隊が控えていた。慶次自らが使う大弓は海戦用の弓で本来数名がかりで引く弓。しかし慶次は一人で軽々と引く。そして放たれた弓矢は海を裂かんばかりの剛槍。一度に何人もの敵兵を葬る。城壁からも雨のように矢が降りかかり、安土山の木々には投石部隊が潜み、容赦なく投石してくる。

 そして何より中村一氏が唖然としたのは、出丸からの驚異的な鉄砲連射である。

「考えられぬ…! なんだあの連射は!?」

 

 ダダダダーンッ! ダダダダーンッッ!

 

 後方から聞こえる凄まじいまでの鉄砲の間断なき轟音。秀長は安土の東西の出丸から驚異的な連射で羽柴勢を駆逐する鉄砲の技を見た。

「どういう事だ!? 水沢勢は我らが見た事もないような新しい鉄砲でも持っていると!?」

 水沢勢が持っている鉄砲も羽柴勢と変わらぬ火縄銃である。しかし隆広が考案した鉄砲術は欲に目がくらんだ羽柴の雇われ兵をアッと云う間に粉砕した。

 味方である蒲生氏郷、九鬼嘉隆、筒井順慶さえも出丸から発砲される鉄砲の連射に驚いていた。

 出丸の銃眼(鉄砲狭間)から間断なく弾丸が出る。二つの出丸から鉄砲がほぼ連続で発射されているのである。何より安土へ入る道は一箇所しかない。信長の築城当時は五箇所あったが、隆広は一箇所だけにしてあとは全部破却してしまっている。琵琶湖と云う天然の堀の前に、羽柴勢はその入り口への道を使うしかない。その道に各出丸は照準を合わせられている。二箇所の出丸から百挺の鉄砲が常に銃身を突き出し火を吹く。

 一斉に、しかも神がかりのような連射。正面からは前田慶次率いる弓隊。城壁からは弓矢、安土山からは稲妻のような石礫。羽柴勢もひとたまりも無い。

 出丸からの連射を魔術でも見ているかのように蒲生氏郷は驚く。

「何たる連射だ…!」

「いかなる仕組みでかような連射を…」

 同じく唖然とする蒲生郷成。

「げにも敵に回したくない男だ美濃殿は…」

 水沢軍の鉄砲連射は織田信長が武田勝頼を撃ち破った長篠の合戦の三段射撃をはるかに凌駕する速度であった。しかも命中精度は比較にならないほどに正確である。呆然とする秀次。

「なぜ…なぜあんな事ができるのだ! 水沢隆広は神か魔か!」

 神でも魔でもない。隆広の一つの工夫である。隆広はこの戦いで織田信長の鉄砲術さえ凌駕する連射攻撃を考案していたのである。今まで籠城の中で、隆広は将兵たちにその訓練に当たらせていた。世に言う『水沢の鉄砲車輪』である。

 

 火薬や硫黄と云う鉄砲に必要なものは堺や京から手に入れるのが畿内では一般である。そしてすでに羽柴は摂津、和泉、河内と押さえ、京も押さえていた。秀吉の占拠後はその地からの入手は不可能であるが、すでに隆広は安土の城普請着手と同時にそれを北ノ庄から持って来ていた。無論、火薬も硫黄も不備怠りない。数は全部で八百挺である。羽柴軍と同数だったと云うのは奇妙な偶然と云えるだろう。だが城塞に篭り、精妙に作られた出丸からの射撃、そして隆広の考案した『鉄砲車輪』。同じ数でも破壊力はケタ違いであった。

 

 隆広は鉄砲隊を四人一組に分けた。射手はたった一人である。射撃の達者があたり、銃眼に接して立つ。他の弾込め役が三名。射手の左横、真後ろ、右横に背中合わせで円陣を作って立つ。

 左横の者は銃口から盒薬を込めるだけ、真後ろの者は火皿に口薬を盛り火蓋をふさぐだけ、右横の者は点火した火縄をつけるだけ、受け取った射手は火蓋を開き引き金を落とすだけ。四挺の鉄砲が左に左にと休む事なく移動するだけで四人は動かないため疲労もせず、一発の弾込めと発射の所要時間は四秒。驚異的な早さである。

 織田信長の三段射撃の欠点、それは弾丸の装填時間が長くかかり、敵前で動揺して装填順序を誤りやすく、移動による疲労も甚だしく、命中精度が極端に低下し、不発銃が生じた場合の危険は計り知れない。

 普通の弾込めは十五秒から二十秒かかり、以上の三段射撃の欠点を隆広は取り除いたのである。正確で疲れず安全、しかも装填時間を四分、五分の一に縮めた鉄砲術。分業三人組み弾込め法である。

 上杉謙信の車懸りの陣にも似た、この回転式の鉄砲術は『水沢の鉄砲車輪』として今日にも残る。呆然としてそれを見る九鬼嘉隆と守隆の親子。

「父上、どんな方法を使えばあんな連射を…」

「見当もつかぬ…。大殿の三段射撃をも凌駕する連射じゃ…」

「父上、こたびの援軍の功に、あの鉄砲術を伝授していただきましょう! 我らは水軍、あれを習得すれば敵なしにございますぞ!」

「そうじゃな」

「しかし…やはり九鬼は柴田について正解でございました。それがし美濃殿だけは敵に回したくないと思いまする」

 

 筒井勢の島左近率いる部隊の働きは目覚しかった。左近の声は戦場でもよく通り、兵の肺腑に響いたと言われる。彼の『かかれ』の声は兵と味方将兵の士気を上げる。鬼左近と呼ばれる所以である。

「かかれえーッ!」

 左近と部隊を共にしていた六郎も腹に響く左近の咆哮に勇気と闘志が湧いてくる。その六郎の働きを見た左近は

「やっぱり剛の者よな。どうだ、美濃殿の忍びを辞めてオレの家臣にならんか六郎!」

「あっははは! 島様ご冗談を!」

「…いや冗談ではないのだが」

 苦笑する左近。剛勇の二人、戦場のただなかでも豪快なものであった。それにしても筒井勢は援軍の中でもっとも多くの兵数を持っていたからでもあっただろうが、今まで日和見と揶揄されていた事をいっぺんに蹴散らすほどの活躍だった。浅野長政の軍勢を見事に撃ち破った。

 南には蒲生、九鬼、筒井の連合軍、北には神がかりのような鉄砲術を使う水沢軍が篭る安土城。寄集めは不利となったら一斉に離散する。逃げ遅れた者は容赦なく討たれた。羽柴陣に来ていた商人、芸人、遊び女も蒲生勢に救出されている。彼らは氏郷が雇った者たちだったのだ。

 羽柴勢は同士討ちも多く発生した。蒲生、九鬼、筒井は敵味方の判別を笠印と合言葉などで徹底していた。羽柴勢にも同様な判別があったが、大混乱に陥ったため用を成さなかった。

 羽柴勢は総崩れとなり、羽柴秀長は戦場を離脱、浅野長政、中村一氏、羽柴秀次も何とか離脱した。続いていた兵は三百にも満たなかったと云う。

「見よ右近、羽柴が逃げていくわ」

 傍らにいる側近の松蔵右近に述べる順慶。

「はっ、追撃なさいますか」

「無論じゃ、厳勝にあたらせよ。筑前(秀吉)の舎弟を播磨に帰すな」

「ははっ!」

 

 安土夜戦はこうして水沢軍の圧勝で終わった。安土包囲軍は完膚なき叩きのめされた。勝敗が決してほどなく夜が明けた。両軍にとって長い夜であった。眩いほどの朝日がのぼる。

「勝ったぞお!」

 隆広は両の腕を上げて吼えた。

「「やったあーッ!」」

「「勝った勝った!」」

 安土城が沸いた。

「「殿、お見事にございました!」」

 東の出丸の将兵たちが隆広を讃えた。普段あまり隆広に世辞を言わない松山矩久もこの時は

「この鉄砲車輪、自分たちで使っておいて驚くほどの攻撃力。殿は戦術の鬼才にございます!」

 と、手放しで褒め称えた。

「あっははは! 追い込まれると人間色々と智慧が出てくるもので、そんな大した事じゃない。そなたらの日々の研鑽の結果ゆえだ。机上のオレの作戦を実現してくれるそなたらあればこそ羽柴を倒せたのだ。礼を申すぞ!」

「「ハハッ!」」

「殿、羽柴の追撃はどうなさいますか?」

 と、小野田幸猛。

「飛騨(氏郷)殿らに任せよう。今は休め」

「「ハハッ!」」

 

 隆広は女たちのいるところへ歩んだ。

「殿! おめでとうございます!」

「「おめでとうございます!」」

 さえが言うと、女たちは揃えて勝利を祝福した。

「そなたらも鼓舞と兵糧と水の給仕、よく務めてくれた。礼を言うぞ!」

「「はい!」」

「さ、亭主を労ってやるがいい」

「「はい!」」

「月姫」

「は、はい!」

「小山田投石部隊、見事だ! さすが甲斐国中で随一の勇将小山田信茂の精鋭たちよ!」

「あ、あ、ありがとうございます!」

 涙が出るほどに嬉しかった隆広の言葉。“甲斐国中で随一の勇将小山田信茂”とは武田信玄から直接に小山田信茂が賜った言葉である。隆広はそれをちゃんと知っていたのである。この方の愛を受けたい…! 隆広に平伏しながら月姫は心からそう思った。

「英殿」

「はい!」

「少数だが強い…。さすがは明智、助かり申した」

「あ、ありがとうございまする! 父の日向もその言葉を冥府で聞きどんなに喜んでいるか…!」

 感涙する英だった。

 

「さえ…」

「殿…」

 衆目の中で、隆広はさえを抱きしめて口づけした。それに満足するとすずとは頬をつけあった。

「二人ともありがとう。後ろにそなたたちがいるから踏ん張れた!」

「勝利を信じておりましたから、ね、すず」

「はい!」

 

 東から照らす光が西に敗走する秀長一行の背中を照らす。彼らは羽柴の領地となっている山城の地へ懸命に駆けた。

「お許し下され兄者…! 小一郎は敗れ申した…」

「秀長殿、そう馬を駆っては兵が追いつきませぬ。ここまで来れば」

「いやならん長政殿、もう少しもすれば京。そこで休息し、それから摂津の芥川城に入り体制を整え、宇喜多に援軍を請えば再び東進は可能だ。あのまま美濃が蒲生、九鬼、筒井を率い北上すれば兄者はやられる。美濃を北上させてはならぬのだ。今は駆けよ!」

「はっ!」

 長政に下命した時に後ろを向いた秀長。のぼる朝日を見て苦笑を浮かべた。

「ふ…。負けても勝っても…朝日は変わらんな…」

「叔父上…申し訳ございませぬ…」

 叔父秀長に何度も謝る秀次。

「敗北の責任は総大将にある…。何も申すな」

 

「エイ、エイ、オウーッ!」

「「エイ、エイ、オウーッ!」」

 水沢隆広が城門の上から勝どきをあげた。水沢軍、安土援軍部隊がそれに応える。城の中では女たちが大勝利に歓喜の声を上げる。もし敵勢が雪崩れ込んできたら陵辱の憂き目を見る女たちは気丈に振舞ってはいても不安だった。それが見事に大勝利である。

「ああ、なんて素晴しい朝なんでしょう。負けたら見る事はできなかった朝日…」

 城から朝日を見るさえ。そして夫の後ろ姿を見る。

「殿…見事に私たちをお守り下さいましたね…。素敵ですよ! 大好き!」

 

 隆広は援軍諸将に礼を述べた。

「飛騨(氏郷)殿、大隅(嘉隆)殿、順慶殿! 美濃感謝にたえませぬ! かたじけのうございます!」

「いやいや、我らは勝つ方に味方しただけにございまする」

 と、氏郷。

「あの大音響作戦、感服仕りました。上から見ていましたがあの音でだいぶ羽柴兵は逃げていったようで」

「恐れ入りまする」

「大隅殿も、あの焙烙玉。九鬼は陸でも強うございますな!」

「これは恐縮にございまする」

「順慶殿ありがとう! さすが寡兵で松永弾正殿を倒した戦上手にございます!」

「いえいえ」

 体いっぱいで感謝を示す隆広に微笑む三将。

「お疲れと存じます。暖かい飯と味噌汁を用意させておりますので城へどうぞ」

「その前に美濃殿にお願いがあり申す」

「何でござろう大隅殿」

「あの鉄砲術を当家にも伝授願いたい」

「おう! 蒲生家もそう願おうと思っており申した」

「筒井家にもお願いしたい。あれを会得すれば当家のチカラがどれだけ上がるか!」

「お安い御用です。でも今はあまり時間がございませぬので…」

「何の、これからの陣中でお教え願えれば」

「一緒に来て下さるのですか飛騨殿!」

「当然でござろう。この夜襲、我ら前哨戦程度としか思っておりませんぞ」

「ありがたい!」

「筒井家も参りますぞ」

「順慶殿!」

「九鬼家もお供仕る。主殺しの秀吉、生かしてはおけん!」

「助かり申す! 明朝には出陣したいと存ずる。今日は合戦の疲れを癒し、腹いっぱい食べて下さいませ!」

「「承知した」」

 

 この水沢隆広、蒲生氏郷、九鬼嘉隆、筒井順慶の電撃的な夜襲は、彼らの戦歴に燦然と輝くのだった。隆広が六郎を蒲生氏郷の元に派遣した時、木簡での書状の他、口頭で述べた依頼事があった。六郎が蒲生家に持ってきた銭二千貫。それの使用用途についてである。たった一言だった。六郎は氏郷にこう伝えた。

「河越城」

 氏郷はそれを聞いてすべて理解し

「相分かった」

 と答えた。九鬼嘉隆、筒井順慶もまた『河越城』と云う言葉だけですべて理解したと云う。

『河越城』の意味、これは北条氏康が八千で八万の山内上杉・扇谷上杉連合軍を破った武蔵(埼玉)の国の『河越夜戦』を意味している。

 北条一族の勇将、北条綱茂の篭る河越城に八万の山内上杉・扇谷上杉連合軍が押し寄せた。氏康の持つ兵もそんなに多くない。綱茂の持つ兵と合わせても八千がやっとだった。氏康は策を講じた。それは商人、遊び女、芸人を多く集めて両上杉家の陣に送り込んだ。

 北条綱成の粘りもあって、両上杉陣は長対陣に及び、睨み合いが続いていた。そこに商人、遊び女、芸人を送り込み、厭戦気分の構築を図った。そしてそれは功を奏した。すっかり油断したところに河越城の北条綱成と援軍の氏康が夜襲をかけて、山内上杉の総大将も討ち取るほどの大勝利をしたのである。

 つまり隆広は、この故事にならったのである。氏郷に頼んだ事は二千貫を使い、商人、遊び女、芸人を集めて羽柴陣に派遣してもらう事だった。商人の身分手形など氏郷の忍びが容易に精巧なニセモノを作ったのだった。『河越城』だけで隆広の意図すべて読み取った蒲生氏郷、九鬼嘉隆、筒井順慶もさすがと云えよう。

 結果、泥酔状態で寝入っているところを襲撃と云う目論みは頓挫したが、城と援軍の挟撃は成った。大成功である。

 合戦後、すぐに隆広は援軍三将に褒賞を渡した。それぞれに安土備蓄の米から五千石ずつ、築城のための資金として金蔵にあった二万貫のうち三千貫ずつを三将に贈ったのだった。それに加えて、自ら考案した鉄砲術の伝授を約束した隆広。三将がますます隆広に味方する気持ちを強めたのは言うまでもない。

 

 また隆広は近隣の領民を大量に雇い、羽柴勢の死者の荼毘に付す事を指示した。武人の情けとも言えるが、城の前に死体がゴロゴロしていては死臭が漂い、伝染病の原因ともなる。破格の賃金と米で領民を雇い、迅速に羽柴勢の死体を焼いて埋葬する事を命じたのだった。現在もそれは安土の地に『羽柴塚』として残る。

 そして戦場で生き残っていた羽柴兵には手当てをしたと云う。『抵抗できない者はもはや敵にあらず』と同じく近隣領民に命じた。

 それからやっと隆広は風呂に入り、眠りについた。愛妻さえと熱烈で激しい一仕事してからだったらしいが、ようやく睡魔を満足させ、起きて家族と食事を取っていた。そして大野貫一郎が来た。

「殿、伝令が来ました」

「うん」

「羽柴勢を追撃しておりました柳生厳勝殿より伝令、羽柴秀長殿、討ち取りましてございます」

「…そうか」

 飯をクチに運ぶ箸をピタと止め、隆広は短くそう答えた。敵将を討ったのに隆広の顔に笑みはない。

 

 筒井家の柳生厳勝が順慶の指示で逃走する羽柴勢の追撃に出た。朝になって空が明るくなったのが秀長にとって不運だったと云えるだろう。芥川城に入り宇喜多勢を待ち再び東進を画策していた秀長であったが近江と山城の国境付近の川で喉の渇きを癒していたところを厳勝の部隊に捕捉された。柳生の軍団は剣客集団である。矢尽き刀折れた羽柴勢にはどうする事もできなかった。ここで浅野長政、中村一氏、羽柴秀次は討ち取られた。秀長の忍び蝉丸は命をも捨てて厳勝率いる柳生勢と戦ったが、厳勝に一刀両断された。

「筒井家母衣衆筆頭、柳生厳勝と申す。羽柴秀長殿と推察いたす」

「…いかにも」

「もはやどうする事もできますまい。腹を召されるなら介錯いたす」

「かたじけない…」

 秀長は河原に座り、切腹の姿勢を執った。

「何か言い残す事はございませぬか」

「…美濃守殿にお伝えあれ…」

「はっ」

「『一度…酒を酌み交わしたかった』と…」

「お伝えいたす」

 そして羽柴秀長は腹を切り、柳生厳勝が介錯した。辞世はなかった。包囲軍四将の首はすぐに隆広の元へ届けられ水沢家幹部と援軍三将立ち会いで首実検が行われた。隆広はジッと秀長の首を見つめていた。

『一度…酒を酌み交わしたかった』

 かつてこの安土の城で隆広と秀長は『飲もう』と云う約束を交わしていた。しかしそれはかなわず、面と向かっての再会、それは秀長が首となった時だった。

「それがしも同じ思いにございます…秀長殿…」

「殿…」

「助右衛門、彼らの首をさらす必要はない。各々の家族に返してやってくれ」

「承知しました」

「あと…しばらく秀長殿と二人にしてくれ」

「ははっ」

 水沢家臣は長政、一氏、秀次の首を丁重に持ち去り、援軍三将も評定の間から出ていった。隆広は酒を持ち、秀長の首に対した。杯を秀長の前に置き、酒を注ぐ。そして隆広はグイッと酒を飲んだ。

「…同情はいたしませぬ秀長殿、一歩間違えれば我らの立場は逆だった…」

 それ以上の言葉は発さず、しばらく秀長と向かい会う隆広だったが、そこへ

「殿…。お人払いの時に申し訳ございませぬが…」

 高橋紀茂が来た。

「かまわん、何だ?」

「賤ヶ岳で大殿様(勝家)の陣にいる柴舟殿より文が」

「見せよ。それと紀茂」

「はっ」

「秀長殿の首、姫路にいるお藤(秀長正室。史実の智雲院)殿に届くよう差配いたせ」

「承知しました」

「丁重にだぞ」

「はっ」

 紀茂は柴舟の文を隆広に渡し、そして秀長の首を丁重に持ち去った。柴舟の文には最近の賤ヶ岳の戦況報告が記してあった。一通り読む隆広。そして

「誰かある」

「はっ」

 大野貫一郎が来た。

「軍儀を開くと諸将に伝えよ」

「はっ!」

 水沢隆広はゆっくりと立ち、北を見据えた。戦場となる賤ヶ岳を。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。